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<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


占有の籠


SCENE-[0] 君が呉れた物語の始まり


 かごめ かごめ

 かごのなかのとりは いついつでやる


「碇さん」
 ソファに深く腰掛けた本日の来訪者に、淹れたてのコーヒーを差し出し乍ら、雲切千駿は口の端からふっと苦笑を洩らした。苦笑の理由は、このところ三日にあげず特別室に顔を覗かせる月刊アトラス編集長、碇麗香が千駿に向かって構えたデジタルカメラにある。
「写真は苦手だと伝えるのは……これで何度目になりますか」
「五度目かしら」
 応えて、麗香はファインダー越しに白衣の青年医師をみつめた。『病院内の一室に幽閉された院長の息子、その真相や如何に』――――被写体としては悪くないが、その院長の息子が客にコーヒーをサーブしている姿など撮影しても、記事と併せてアトラスの売上を伸ばせるだけのインパクトはない。
「……碇さん」
 もう一度名を呼び、千駿は麗香の手からすっとカメラを奪った。
 麗香は千駿がカメラの中からメモリースティックを抜き取ろうとしないのを確認してから、自分のために用意されたコーヒーに口を付けた。
 麗香がここ特別室に足を運ぶのは、何も千駿の顔を見たいからではない。先日雲切病院で起きた事件――――病院長、雲切千冬がギルフォードなる男に誘拐された一件について取材したその内容を、記事としてまとめ、アトラスに掲載する許可を得ようと思ってのことだ。
 だが、それについては、
「そちらの編集部でアルバイトをしている桂君も誘拐に加担した旨、公になっても構わないのですか? 場合によっては、貴誌の売上を伸ばすために組織ぐるみで計画した事件だとも受け取られかねないと思いますが」
 という千駿の冷静な一言でやむなく断念した。
 何となく、ではあるが、この医者、公私に亘りあまり敵にまわしたくないタイプのような気がする。こうして同じ空間にいて神経の緊張を覚える威圧感らしきものは皆無なのだが、院内で道理に外れた取材を敢行して周囲に迷惑をかけようものなら、その人当たりの良い微笑の裡にあっさりと切り棄てられてしまいそうだ。
 (まあ……結局、鉢植え生まれの女の子の特集は組ませてもらったし。不可思議現象の一つとして取り上げたつもりが、『雲切病院に愛らしいクリニクラウン誕生』なんて微笑ましい方面で人気を博してしまったけど。売れ行きが良かったから結果オーライよ。……ま、何事もある程度ギブアンドテイクでいくのが賢いわね)
 胸中そう納得した麗香は、改めて薄い眼鏡の奥から千駿を見遣った。
「……雲切さん。この前も少し言いかけたんだけど」
「はい」
 千駿は軽く頸を傾げ、麗香の次の言葉を待った。
「貴方、この部屋を出られなくなって四年だそうね。外へ出ようとすると呼吸困難に陥って、すぐに処置してもらわないとそのまま」
 そこまで言いかけて、さすがに麗香も一度口を噤んだ。が、当の千駿は特に気に留めた風もなく、ええ、と肯いた。
「……、四年前というと、二四歳の頃からここに? 雲切さん、確か私と同い年よね」
「そうです。……医師免許を取得して、ようやくこれからこの病院で医者としての経験を積むことができる、というちょうどそのときでしたから」
 千駿はどこか懐かしそうに眼を細め、淡く溜息を吐いた。
 麗香はバッグから取材手帳を取り出すと、
「特別室から出た途端に発作が起きる原因は不明ということらしいけど」
 軽く端を折ったページを開き、そこに書き並べてあるメモを読み上げ始めた。
「……貴方の実母である雲切夕佳さんが病歿されてから十年。院長は、現夫人とは三年前に再婚。二人の間には十になる女の子がいるそうね、見事に計算が合わないけど。……十と言うと、あれくらいかしら?」
 麗香が、宙で一心に蔦を組み合わせ、編み籠を作っている双葉を指さした。
 千駿は双葉に一度眼を向けてから、視線を麗香に降ろした。
「そうでしょうね。僕はその子の話を父から聞いたのも最近なら、実際に逢ったこともありませんから、よくは分かりませんが」
 話している内容に釣り合わぬ、穏やかな声だった。
「最近? ……そうね、再婚は雲切さんがここに軟禁された後の出来事だし、院長も娘のことはまだ正式には院内告知していないようだし。それに貴方、大学時代も一人暮らしをしていたらしいわね? それなら、院長が自ら言い出さない限り、その子のことを知る機会がなかったのも無理ないわね」
 麗香に言われて、そうですね、と呟いた千駿は、ふとどこか諦念の色を帯びた微笑を口許に滲ませた。
「編集長が情報蒐集に長けているのは当然のことなんでしょうね。とりあえず間違った情報はありませんし。……でも、そんなことを調べて碇さんは一体何がしたいんです?」
「あれよ、問題は」
 麗香は、右の人差し指で迷いなく壁際の本棚を示した。その中段右端に、真白い表紙の日記帳が置かれている。過日、桂の特殊能力で以て空間にこじ開けた穴の向こうへ、ギルフォードの手によって抛り込まれた院長の行き着いた先――――特別室床下の冥い収納庫。そこから偶然発見された日記帳である。表紙下部に「雲切夕佳」の名が記されている。
「……母の日記帳が何か?」
「随分興味深い代物だと聞いてるわ。……日付が幾つか明記されているだけで、日記の中身が書かれていないって本当?」
 最早、このアトラス編集長には、どこの誰からそんな話を聞いたのか、などという詰問はするだけ無駄のようだった。
「……それについて僕が答える義務は」
「協力するから」
 義務はありません、と言いかけた千駿の語尾を遮って、麗香がきっぱりと言い切った。
「……、協力? 何の……」
「決まってるじゃない、貴方がこの部屋から出るための協力よ。いい機会だと思わない? もちろん今までも手は尽くして来たんでしょうけど、いい加減急いだ方がいいと思うわ」
 千駿にも、麗香の言いたいことは分かった。
 白昼堂々院長が誘拐され、協力者の力添えによって無事発見が叶ったとは言え、ギルフォードに誘拐を依頼した人間の意図については未だ謎のままである。今度いつ、同じような事態が起こらないとも限らない。そして、次回のターゲットがもし院長の息子に据えられた場合。雲切千駿は、どこか遠くへ連れ去られずとも、銃で心臓を撃ち抜かれずとも、この部屋から一歩外へ連れ出されただけで息を喪う羽目になるのだ。
 いつまでも千駿がそんな状態のままでいては、何かと組織的な接触を受けやすい私立病院としては、狂的な犯罪者――――たとえばギルフォードのように――――を雇うような某かを相手取るにあたって立場的に弱い。
「どう? 建設的な意見だと思わない?」
 麗香が指先でトントンと眼前のテーブルを叩いた。千駿の決断を急かすように。
 千駿は暫し伏し眼がちに思索に耽り、やがて、小さく肯いた。
「……分かりました。……僕自身、その誘拐の件云々の他に、この部屋を出たい明確な理由もありますから」
 そう言って、麗香に眼線を向けた千駿は、静かに口を開いた。
「協力をお願いしたいと思います。代わりに、訊かれたことには答えます。但し、病院側の人間として、医者として、患者さんのプライバシーに関わることはすべて伏せます。それから、最終的に何かを記事にまとめるとして……あからさまな事実捏造や病院経営上明らかに営業妨害になり得るような表現は却下させていただきます」
 口調こそ柔らかかったが、言っている内容は少しも控えめではなかった。
「……雲切さん。飽くまでも『協力態勢』よ。今回は私も互いの利益を尊重するわ。だから、取材陣を敵視せずに事を進めてもらえると有り難いんだけど」
「分かっています」
 麗香の言葉に、千駿が微笑で応じた。
 じゃあ、とりあえず――――と、麗香はソファからおもむろに立ち上がった。
「貴方がこの部屋に囚われている原因を調査、解決してくれそうな人材集めから始めましょうか」


 ……うしろのしょうめん だーあれ


SCENE-[1] 甘い時間。


「わあ、美味しそうな匂いっ」
 特別室に足を踏み入れるや、向坂愁が歓声を上げた。
 それもその筈――――キッチンでは、香坂蓮が今し方焼き上がったばかりのアップルパイをオーブンから取り出すところだった。
 蓮はリンゴの焼き色を確かめるようにパイを見乍ら、あまりにタイミングよく部屋に現れた愁に、半ば呆れ顔で小さく笑った。
「……兄さんには菓子センサーでも搭載されているのか?」
「うん、搭載されてる、搭載されてる。他にも、ユリセンサーとか蓮センサーとかね」
 そう応じて、愁は明るくあははと笑った。
「姉さんはともかく、俺のことまでそんなに感知してくれなくていい」
 愁に向かってきっぱり言ってから、蓮はくるりと背後を振り返った。その視線の先に、愁の来訪にも反応を示さず、液晶画面と書類に黙々と眼を走らせている人、雲切千駿の姿がある。
 愁は、千駿をじっとみつめたまま、声をかけたいのかそっとしておきたいのか分からない蓮の態度に痺れを切らせ、たたたっと千駿に向かって小走りに駆け出した。
「え? ……兄さ――――」
 訝しげに自分を呼び止めようとする可愛い弟の声も、とりあえずは聞こえない振り。
「ちーちゃんっ」
 愁は千駿の背から体をぶつけるように近寄ると、彼が真剣な顔付きで何か書き付けているのにも構わず、その頬をおもむろに指でぐにっと抓んで引っ張った。愁の襲撃に千駿の手はぴたりと止まり、同時に蓮の両拳が固く握りしめられた。
 つかつかと愁に近付いた蓮は、千駿の頬から手を放させると、引きずるようにし乍ら愁をソファに坐らせた。
「……来た途端に部屋から抛り出されたいか?」
「やだなあ、蓮、そんな真顔で」
「仕事中の千駿にちょっかいを出すような人間に、冗談を言ったつもりはないが」
「やだなあ、蓮、……その笑顔なんだか怖いよ?」
 愁は蓮を宥めるようにポンポンと胸許を掌で叩いて、肩を竦めた。
「僕が来たのに『いらっしゃい』の一言も笑顔もなしに机に向かってるちーちゃんなんて、いつものちーちゃんらしくないでしょ。仕事が忙しいにしても……、それだけじゃないだろうし、今日は」
「……それは……」
 返答を躊躇った蓮の髪に、不意に指先が触れた。
「あ……」
 蓮が頸を回すと、ようやく椅子から立って来たらしい千駿の微笑がそこにあった。
「ごめんごめん、……いらっしゃい、お兄ちゃん」
 蓮の髪を指で梳くように撫で乍ら微笑う千駿に、愁は「それでよろしい」とばかり大きく肯き、
「ちーちゃん、僕、いつものセカンドフラッシュね!」
 そう言ってソファの上で体を跳ねさせた。
「かしこまりました、王子様」
 愁の言葉に笑い、キッチンへ向かおうとする千駿を見た蓮は、
「いつものって……、王子様って……、……何なんだ一体」
 眉を寄せて呟きつつ、千駿の背を追った。
「千駿、いい、紅茶淹れるなら俺が」
「紅茶くらい僕が淹れるよ。蓮は……焼いてくれたアップルパイ、切り分けてもらえる?」
「え……、ああ、それは勿論……」
「もうすぐユリ君がくるから、彼女の分も」
「分かった」
 キッチンに立った千駿と蓮のそんな遣り取りを、愁はソファから身を乗り出して暫くの間眺め、やがてどこか満足そうな笑みを口許に浮かべて眼を細めた。
 (……碇さんの協力を仰いで部屋を出る方法を探そうと思う、なんてちーちゃんから聞いたときは、さすがに心配にもなったけど……、ま、こんな感じなら大丈夫、かな)
 愁が千駿本人からその話を聞いたのは、一昨日の夜のことである。
 かかってきた電話を受けた風呂上がりの妻から受話器を渡されて、いつものように軽口を叩きつつ一五分ほど千駿と話した頃だった。少しだけ声のトーンを落として、部屋を出ようと思うんだ、と言われた。
 実際には、たとえ千駿が出ようと思ったところで、出る方法が分からない限りどうにもならないことではあるのだが――――まあつまり、そろそろ頃合だと判断したということだろう。
 その判断材料は、愁にも思い当たらないことはなかった。
 このところ、雲切病院内はどこかそわそわと落ち着かない気がする。それは、先日の院長誘拐事件に端を発し、関わった者達の間に淡い謎を投げかけたまま、中途半端に投げ出された状態になっている「あること」のせいだろう。その「あること」はきっと、千駿本人にも何かしら影響を及ぼす可能性を孕み、千駿に影響するというからには当然蓮にも波及するのであって、千駿の立場からすればそれを放置しておくわけにはいかない。
 自分を取り巻く何もかもが自分一人の問題ではなくなってから、千駿の中でたくさんの意識の変化があっただろう。今回のことも、その一つなのかもしれない。
 (ちーちゃんの様子を見てる限り、そう焦ってる風でもないけど……)
 何かが起こる前に、切り拓いておきたい道がある。
 そういうことだろうか。
 (……何にせよ、そうすると決めたからには、うまく行くといいよね)
 愁がソファの背に軽く腕を載せた姿勢でぼうっとそんなことを思ったとき、
「……じゃ、お父さんのところ、行ってくる」
 蓮がパイを片手にそう言い置いて、特別室を出て行った。
 いってらっしゃい、と笑顔で言った千駿は、ドアがきちんと閉まるまで蓮を見送り、それから愁の待つテーブルへアップルパイと紅茶を運んで来た。
「んー、美味しそう! ありがと、ちーちゃん!」
「ああ。お礼なら、僕より蓮にね」
 では早速、とばかり焼きたてのパイに手を伸ばした愁に、千駿が笑いかけた。
 愁はフォークに刺したパイを口へ運び、ちらと千駿を見遣った。
「蓮、ちーちゃんのパパのところに行ったの?」
「そうだよ。この前逢ったときに、ケーキの一つも手土産に持って行けなかったって気にしていたから……、今日はパイを持って行けて嬉しいんじゃないかな」
「あの子、ほんっとにパパに懐いてるよねえ」
 愁がリンゴの甘みに頬を緩ませ乍ら笑った。
「まあ、ちーちゃんのパパのことは、僕も好きだけど」
 そう言った愁の胸の裡に、ふと、「但しあの点に関しては別」という声が湧いた。
 (……今更、本人を眼の前に言うようなことでもないとは思うけど。きっと、パパも自分のしたことはよく分かってるだろうし……)
 紅茶を一口飲んで、愁は、ふう、とゆっくり息を吐いた。
 千駿から雲切の家庭の事情について初めて聞かされたのは、いつのことだったろう。
 忙しさのあまり家庭を顧みない父の働いた不貞、母との死別、千駿が特別室に軟禁された後の父の再婚。逢ったこともない、年の離れた腹違いの妹の存在。
 かつて、母に淋しくつらい思いばかりをさせて、ヴァイオリニストとしての名声と伴に好き勝手に諸国を飛び回っていた――――実際、その認識は愁の思い込みによる部分も大きかったのだが――――父に憎悪に近い念を抱いていた愁には、千駿の父に対する複雑な心情も理解できる。だからといって関係修復を試みる必要がないとは言わないが、自分の素直な感情を抑圧してまで父を受け容れることが正しいとも思わない。ただ、蓮がこうまで千冬を慕い、千冬自身も蓮を息子のように可愛がっている現在、千駿としては、一歩先へ進まなくてはいけないような気持ちになっているのかもしれない。
「……、お兄ちゃん? どうかした?」
「えっ?」
 千駿に声をかけられて、愁は自分が彼をみつめていたことに気が付いた。
 何でもない何でもない、と笑い、紅茶を喉に流し込んで、愁は壁掛け時計に眼を遣った。
「ねえ、ちーちゃん。ユリ、そろそろ来るかなあ?」
「ああ、もうすぐ……かな」
 千駿がユリの分のパイ皿をテーブルにことりと置いたとき、インターホンが鳴った。
 反射的に愁が腰を上げ、そそくさとドアを開けに向かった。
 ドア向こうには、果たして、愁の愛妻の姿があった。
「待ってたよ、ユリ。お仕事お疲れさま」
「待っていてくれてありがとう、愁」
 白衣姿のユリは、出迎えてくれた夫に、少し頸を傾げて微笑んだ。
 みんなで楽しくお茶の時間を過ごしたら、今日はこれから他の協力者の面々と顔を合わせて、暫し試練の時となる。
 だからもう少しだけ、大切な人達と一緒に、パイと紅茶の甘い香りに包まれたまま――――。


SCENE-[2] 特別室。


 壁に大きく刳り貫かれた窓。
 風と光に揺れる、白いカーテン。
 窓外の景色は室内の者に四季の遷り変わりを見せ、確かに時は流れているのだと教えてくれる。
 過ぎた春を、逝く夏を、また来る秋を、臨む冬を。
 静かな部屋の中にいても、それと伝えてくれる。
 繰り返し、繰り返し、眼の前で挿げ替えられるだけの、一枚絵のような――――外側の、世界。


 雲切病院内、外来棟一階、特別室。

「……直したんだね、ここ」
 特別室の片隅で、鳴沢弓雫が、足許を確かめるようにきゅっきゅっと左右交互、床に蹠を押し付け乍ら言った。
 彼が立っているのは、ひと月ほど前に拐かされた院長の収められていた冥冥の匱、地下収納庫の真上である。
 部屋の防音建材の下敷きとなることで隠蔽状態にあった庫内から、院長を救出するため、強引に剥がし荒らした床。そこをそのあと皆で元どおり直した憶えはなかったが、今見るに、床はすっかり平らに整えられている。それもそうだろう、現実的に考えて、この特別室で日常を営む者にとって穴の開いた床など不便極まりない。
「……あまり見ていたくなかったから、また今までのように収納庫は床下に収まってもらった」
 弓雫の言を受けて、香坂蓮がぽつりと言った。蓮がこの特別室の住人となって半年ほどが経つ。
「まあ、気持ちは分からなくもないけど」
 向坂愁はポンと蓮の肩を軽く叩いてから、壁際の本棚に眼を遣った。
 分厚い医学書や種々の書類が整然と並ぶ棚の隅に、一冊、真白い表紙の本が差し込まれている。先日収納庫内から回収された、雲切夕佳の名が記された日記帳である。床が元どおり修復されたことで、院長と、院長の亡妻の日記とを吐き出して、冥い匱は再び口を閉ざしたことになる。
「……以後、何か変わったことはありませんでしたか」
 セレスティ・カーニンガムに問われて、特別室の主である雲切千駿は、いいえ何も、と頸を横に振った。

 鳴沢弓雫、香坂蓮、向坂愁、セレスティ・カーニンガム。

 この四人は、千駿と、そして碇麗香から各々依頼を請けて、今日この場に集合した。
 依頼内容は、現在特別室に軟禁状態の千駿が、ここから解放されるための方途を探ること。
 そう一言で言ってしまうと、室内幽閉など案外するりと外れそうな枷にも思えるが、以前院長誘拐事件に深く関わった当事者である四人には、この一事に多くの事象が絡んでいることが何となく分かっていた。分かっていて、依頼を請けたのである。
 解きたい謎。
 解きたい枷。
 解きたい蟠り。
 人間一人を、病院内の一室に閉じ込め続けるその理由とは、何なのだろう?
「……とりあえず、レコーダーはまわさせてもらうわ。何か有益な情報が録音できるかもしれないし」
 ドア脇に立っていた碇麗香はそう断ってから、携帯して来たボイスバーのスイッチを入れた。
 今この部屋には、協力者である四人の他に、千駿、ユリ、麗香、そして院長室からセレスティと蓮に伴われて来た雲切千冬の四人を加えた計八名が、それぞれ身を落ち着けていた。これで一応、役者は揃った恰好である。
「では……、よろしくお願いします」
 千駿が皆に向かって一礼したのを皮切りに、室内に細い糸を張ったような繊細な緊張感が生まれた。
「……部屋から出られるといいな、千駿」
 蓮が、口許に静かな笑みを添えて、言った。


SCENE-[3] 遺志。


「最初に確かめておくけど、医学的にはもう色々と調べたんだよね?」
 室内を見渡せる場処にいたいのか、窓際に身を寄せている千駿を見遣って、愁が訊いた。
「ああ。……それはこの部屋の外へ出られないと分かった当初から、色々と」
 答えて、千駿はソファに坐っている千冬へ視線を向けた。
 セレスティは車椅子をソファに寄せ、千冬に声をかけた。
「院長が直接、彼の診察を?」
 千冬はセレスティに向かって肯き、当時のことを思い返すように、眼を眇めて特別室のドアをみつめた。今は閉め切られているそのドアに、いつかの光景を映し見てでもいるのだろうか。
「あのときは……さすがに私も動揺した。ただの喘息の発作かと思っていたら、この部屋を出ると呼吸できなくなるとは――――不思議にも程がある。……今思い返すと、一時は半ば狂的なまでに千駿の身体を検査し尽くした気がするな。……検査痕、まだ身体に残ってるんじゃないのか」
 千冬の投げた言葉に、千駿が「ええ、多少は」と応じた。
「……痛かった?」
 収納庫の床上で小刻みに足を動かし続け乍らそう問いかけた弓雫に、千駿は返答に詰まったのか数秒間を置き、言葉を返す代わりに苦笑して見せた。その様子を見ていた蓮は、千駿に歩み寄り、何を言うわけでもなく白衣の袖先を軽く手に握った。
「そっか。……基本的に、ちーちゃんの体に何か特殊な病巣があるわけじゃないなら」
 愁はテーブルを挟んで千冬の真向かいのソファにぽすんと腰を下ろし、
「あとはやっぱり、心理的な何かが引き金になってるか、その他の外的要因……、いわゆる呪いとか、霊障とか。そのあたりに原因があるのかな」
 そう言って、室内をぐるりと見回した。
 呪い。
 霊障。
 その単語に敏感に反応したのは、弓雫だった。
 それまで床をリズミカルに踏みしめていた足の動きを止め、じっと愁をみつめる。
「……うん。……それなんだけど」
「え?」
 視線を感じた愁が、弓雫へ顔を向けた。
「……ここに来る前に、咒術とかに詳しい人に、訊いてみたんだけど……、そういう、部屋にずっと一人閉じ込めておくだけとか、……そんな中途半端な咒はあんまり聞かないって」
「呪いではないとしたら、霊障、の方かしら」
 麗香の隣で彼女のすること為すこと注視していたユリが、弓雫の説明を聞いて頸を傾げた。
「……霊障にしても……」
 愁は胸の前で腕を組んだ。
「はっきりと霊的な存在がこの部屋に張り付いてるんだったら、僕にも感じ取れそうなものなんだけど」
「……感じない?」
 弓雫はきょろきょろと宙に視線を彷徨わせ、壁伝いに特別室を半周した。
「ええ。……何となく、ぼうっと朧な気配があると言えばある気がするんですけど……具体的に像を結ばないっていうか。鳴沢さんは何か感じます?」
「……何も」
 頭を左右に振った弓雫は、歩みを停め、愁と眼を見交わして「うーん」と小さく唸った。
「霊、と言えば」
 セレスティが、ふと容佳い唇に人差し指を添えて顔を上げた。
「月下美人氏に憑いていたという霊魂と、何か関係はあるのでしょうか」
 月下美人。
 それは、ギルフォードに院長誘拐を依頼したとされる入院患者の名である。
 事件のあった日、院長救出後にセレスティ達が接触を試みてみたのだが、年の頃二八の比較的生真面目そうなその男性は、誘拐教唆など記憶にないと言い切った。その言葉を鵜呑みにしたわけではないが、月下美人から淡い霊の気配が感じ取れたことから、某かの霊魂介在の可能性が浮上したのである。
「……月下氏に憑いた霊……」
 蓮は千駿の白衣を片手に握ったまま吐息交じりにそう言うと、何となく斜めに視線を落とし、眸を揺らせた。
「蓮? ……どうかした?」
「あ……、いや」
 千駿に顔を覗き込まれ、曖昧に頸を振った蓮は、自分の頭の中を整理しようとするように、再び黙した。
「……でも、霊障とか何とか言うけど、ちーちゃん、最近元気だよね?」
 愁に言われて、千駿は「ああ」と肯定した。
「それって、浄化の作用もある蓮のヴァイオリンの調べを毎日聴いてるせいかなあ? あ、それとも蓮と一緒にいて幸せだから体調も良好?」
「に……兄さん」
 明るく言い放つ愁に、皆の手前、蓮が僅かに動揺した声を上げた。
「それも大切な要因かと思って」
 愁は軽く肩を竦めて、笑った。

 いま一つ謎解きのきっかけが掴めない雰囲気を割って、唐突に、弓雫が「はい」と片手を高く挙手した。
「鳴沢君」
 挙手に反射的に反応したか、千駿が弓雫を指名した。
 指名されて手を下ろした弓雫は、「ちーちゃんに訊きたいことが」と前置きした上で、ゆっくり口を開いた。
「……ちーちゃんが特別室で暮らし始めることになったときの状況、なんだけど……。……よく分からない。……この部屋に閉じ込められたのは、初めて発作を起こしたときに偶然ここにいたからなのか、とか……、四年前の、事の始まりが詳しく知りたい」
「ああ、それは」
 千駿は弓雫に肯いて、記憶を辿りつつ、当時ここで起きた出来事を言葉に換えた。
「あれは、四年前の春……この病院で働き始める最初の日だったんだ。働くと言っても、先ずは実地研修からになるわけだけど、いずれにしても一応は医者と名告れる立場に立った初めての日。……朝、病院に来て、院長室に挨拶に行こうとして、外来棟のこの部屋の前を通りかかったとき、いきなり呼吸困難に陥って――――何が何だか分からなかった。それまで特に呼吸器系統に持病を抱えていたわけでもなかったから、何事かと思った。……急激に気管が狭まったような息苦しさがあって、巧く息を吸えなくて……喘鳴音だけがやたらと耳についたのをよく憶えてる。……多分、僕はそのまま気を失ったんだろうと思う。気が付いたら、この部屋のベッドに寝かされていた」
「……じゃあ、最初に発作が起こったときは、部屋の外にいたんだ……?」
 弓雫がどこか感慨深そうに言った。
「そういうことになるね。……だから、パニックになったのはその後。とりあえず処置してもらって呼吸が正常に戻ったから、部屋から出ようとしたら」
「また同じ発作が起こった、というわけか。以来、ここから……出られなくなったんだな」
 蓮が千駿の言葉を継いだ。千駿は、そう、と肯首し、「そんな感じかな」と弓雫に微かな笑みを向けた。
 千駿の説明に耳を傾けていたセレスティは、千冬に話の矛先を向けた。
「院長の方から補足はありませんか。突然の発作に見舞われた彼を診て、何か気付いたことがあった、など……何でも構いませんが」
「……いや、特には」
 千冬は短く答え、新たな情報がその口から語られることはなかった。
 弓雫の問いと千駿の答えを暫し胸中反芻していた愁は、
「鳴沢さん、いい着眼点ですよね、それ」
 感心したように言って、手を拍った。
「特別室前を通りかかったときに激しい発作が起きたら、当然、処置は一番近くて治療設備も整ってる特別室内で行われることになる。実際そうなって、結果として謀ったようにちーちゃんはこの部屋に閉じ込められた。そう考えると、……特別室前で発作が起こったのって、偶然、のわけはないよねえ?」
「偶然でないなら何だ? 誰かの意思が一枚噛んでいると言いたいのか?」
 蓮は思わず愁に訊き返した。
 愁の言うことが分からないから訊いたのではない。分かったから訊いたのだ。その思考の先にあるのは、きっと――――。
「誰かの『いし』って、……こう書くのが正しいかな」
 愁はテーブル上に置かれたメモ用紙とペンをおもむろに執ると、そこに、
 『遺志』
 と書き記して見せた。
「……確か向坂君はイタリア育ちではありませんでしたか? 漢字にも随分と精通しているのですね」
 セレスティがメモに手を触れて言った。
 蓮は、愁の書いた文字をみつめ、一度軽く唇を噛んでから、千駿の顔を真っ直ぐに見た。
「千駿。……お母さん、病気で亡くなったと聞いているが、……亡くなるまで入院されていた病室って、……ここか?」
 蓮の視線を受けて、千駿は静かに唇を動かした。

「そうだよ」


SCENE-[4] 裏切り。


 雲切夕佳の日記帳が、特別室地下の収納庫から発見されたその事実から、誰もが「もしかしたら」と心のどこかに覚えていた予感。
 院長の妻であり千駿の母親である夕佳が「病歿」したというのなら、彼女はここ雲切病院で闘病生活を送っていただろう。そして、その生活の場は恐らく、院内でも特別待遇の者のみが入室を許される病室に違いない。
 「特別室」に、違いない。

「……まあ、だから……そういうことだよね」
 愁が溜息交じりに言った。
「……つまり」
 千駿は、テーブル上に置かれた『遺志』の文字を眺め乍ら、愁に歩み寄った。
「僕がこの部屋の前で発作を起こしたのも、この部屋から出られなくなったのも、皆――――母のせいだと言いたい?」
「せいっていうか、……ママが生前この部屋で暮らしてたって言うなら、そのことが今のちーちゃんの状態に関係ないわけがないと思うよ」
「……でも、霊的な存在はこの部屋の中に感じられないんだろう?」
「今のところはね」
「だったら」
「ちーちゃんだって本当はもう分かってる筈なんだから、眼を逸らしてもダメだよ」
 言下に揺るぎない語調で言った愁に、千駿がもう一言何か返そうと口を開きかけたところへ、
「千駿」
「向坂君」
 蓮とセレスティの諫止の声が飛んで来た。
 千駿はそのまま口を閉ざし、愁は千冬にちらりと眼を向けてから、小声で呟いた。
「……ちーちゃんが、ママに思い入れる気持ちは分かるよ」
 その声は千冬の耳にも届いたか、彼は僅かに肯いたように見えた。
 弓雫は、愁と千駿が気を落ち着けるのを待って、
「……僕も、そんな気がする」
 と、一瞬何に対する同意か分からない物言いをした。
「そんな気がって……?」
 頸を傾げた蓮に体ごと向き直った弓雫は、
「ちーちゃんのお母さん、……ちーちゃんにそばにいてもらいたかったのかな……」
 そう言って、じっと蓮の双眸をみつめた。
 蓮は数度眼を瞬かせると、口許に手を添えて眼差しを下げた。そして、躊躇いがちに――――けれど言葉を迷うでもなく弓雫の言い分に応じた。
「……そうかもしれない。……初めて発作が起きたのが、千駿が医者としてこの病院に足を踏み入れた初日で、しかも院長室に向かう途中だったことから考えても……、何となく、千駿とお父さんが近付こうとするのを引き止める力が働いたように見えるし……。その後、千駿がここから出られなくなったことも、お母さんが自分の息子だけは手許に、と思って千駿を繋ぎとめているせいだと考えると、辻褄は合う。……逆に、無意識の裡に息子が母親の亡くなった場処に閉じ込められることを望んだ、とも考えられるが」
「……ちーちゃんが無意識に望んだ? ……どうして?」
「それは」
 蓮はそこでいったん言葉を切り、眉を寄せて、言いにくそうに唇の間から低く抑えた声を滑り出させた。
「……多分、父に……裏切られた母を、一人置き去りにすることはできないと、思って……」
 父に裏切られた母。
 それは、麗香の事前調査で明るみに抽き出された、雲切千冬の家族の変遷について思い起こせば、一同すんなりと理解できる話だ。
 夕佳の逝去した年に、千冬がすでに現在の院長夫人との間に一子を設けていた事実。幾年にわたり二人の間にそういった関係が継続していたのかまでは、麗香も知り得なかったのかもしれないが、千冬のしたことが亡妻への裏切りと呼ぶに相応しい行為であるのは、先ず間違いない。
「……でも、編集長の話によると」
 相変わらずドア脇に陣取り、カメラを手にしている麗香を見遣って、弓雫が言った。
「ちーちゃんがその……そういうことを詳しく知ったのは最近のことみたいだって……。……この部屋に閉じ込められた四年前には知らなかったのに、無意識に母親のそばにいたいとか思ったりはしない……んじゃないかな」
「……院長のそういった行為が、その一件だけならば、君の推論で正しいのでしょうが」
 セレスティが見透かしたような発言をした。
 過去、他にも夕佳や千駿を裏切るような行為をしていたのではないかと暗に指摘され、千冬は否定することもなく黙していた。その沈黙こそが答えとも言える。
「もし、もっと千駿氏が幼い頃にも似たような出来事があり、それを母子ともに知っていたとしたらどうです? ……病院長という役職柄、忙しい日々を送る中で、さらに家庭の外で過ごす時間をも確保していたとすると、家族の時間というものも殆ど取れなかったのではないかと思いますし。その場合、千駿氏が母親を見捨てておけない心情になるのも、無理はないでしょうね」
 セレスティの流暢な話しぶりとその想像力に、千駿は思わず口の端に苦笑を滲ませた。
「……我が家の事情は、結構分かり易い質のものだったんですね」
「認めるの?」
 すかさず麗香が口を挟んだ。
「碇女史」
 セレスティは、穏やかに麗香の追及の手を抑制した。
「……千駿氏に、あれこれと感情を掻き乱すようなことについて深追いするのは憚られます。私達の明らかにしようとする真相に近いところで彼が大きく心を揺らすことが、何らかの事象と感応し、発作を誘発しないとも限りませんので」
 セレスティの言う「発作を誘発する」という件に、蓮はぴくんと肩を揺らし、千駿を見た。蓮の視線に気付いた千駿は、大丈夫だよ、と宥めるように微笑んで見せた。
 そんな蓮と千駿を視界の隅に捉えた千冬は、膝の上で両手を組み合わせると、咳払いを一つし、口を開いた。
「……認めます」
 先の麗香の問いに応じるかたちとなったその一言に、蓮が「お父さん……」と殆ど声帯を震わすことなく吐息だけで呟いた。
「それはやっぱり、ちーちゃんのママが一人息子にだけは味方でいてほしいと思ったり、ちーちゃんがママに心囚われたりするだけの原因にはなるよね、十分」
 愁は乾いた声で言い、千駿に顔を向けると、
「……まあ、だからって、囚われてるのがいいってわけじゃないんだけど。子は親の許を巣立つものだし、巣立って行くことと置いて行くこととは違うし、ね?」
 感傷を振り切ったように笑って見せた。
 そのとき、
 バタンッ
 と、空気を孕んだ落下音を曳いて、本棚から何かが落ちた。
「……あ……」
 近くにいた弓雫が、拾おうと腰を屈めて手を伸ばした先にあったのは――――白い、日記帳だった。


SCENE-[5] 回帰。


 弓雫から日記帳を受け取ったセレスティは、それを膝の上に丁寧に置き、表紙を撫でた。
「……母を看取った室内に身を囚われているとは、まるで母の胎内にいることで外の世界を拒絶しているような……そんな風にも見えますね。意識無意識にかかわらず、それだけ心に傷を受けているということなのかもしれません。千駿氏も、……母上も」
 セレスティの言葉に、千駿は何も言わなかった。否定することも肯定することも諦めたかのように、表情を変えることなく日記に静かな眼差しを注いでいた。
 蓮は千駿に声をかけようとして上手く言葉が選べず、左手でぎゅっと自分の胸許を掴み乍ら、日記に意識を移した。
 弓雫もまた白い日記帳をみつめ、
「……その日記……、日付が書かれてるだけだって聞いてるけど……」
 そう言って、それとなく千駿の反応を窺った。
 セレスティはパラパラと日記をめくり、「日記のことは、日記に訊いてみましょう」と指先を紙の上に滑らせた。
「日記のことは日記にって……、どうやって?」
 蓮に訝しげに問われ、セレスティは日記から顔を上げた。
「私には、情報の記載された書物などに手を触れることで、その内容を読みとることができますから」
「……なら、日記に記されている日付の当日に何があったかも、直接日記から読み取れる、ということか?」
「ええ、そういうことです」
「でも、読み取れるって言いますけど、『書かれていない内容』についても分かるものなんですか?」
 愁が頸を傾げた。
 夕佳の日記帳に残されているのは日付だけであり、その他には何も記されていないという。それは彼女が日付以外書かなかったからなのか、それとも一度は書いた内容が何らかの理由により喪失してしまったせいなのか。いずれにしても、そこにないものまで、正確に読み取ることは可能なのだろうか?
「さあ……どこまで読み取れるかは、やってみないことには分かりません。この日記が何をどこまで記憶しているか――――それ次第でしょうね」
 セレスティの言葉を聞いていた弓雫が、背後から愁の肩を指でとんとんと突いた。
 愁は肩越しに振り返り、「はい?」と弓雫の金眸を見た。
「……ちょっと、思い付いた」
「思い付いた? 何を?」
「……ちーちゃんをこの部屋に繋ぎとめてるのは、多分お母さん……、でも、霊の気配はない」
「そうですね、今のところあまりそれらしい気配は感じませんけど」
「……気配はない。日記にも、日付以外は何もない。……無いけど、本当はきっと在る」
「無いけど在る、在るけど無い、……あ」
 弓雫に言われ、愁ははたと何かに思い当たったかのように、眼を瞬かせた。
 以前、これと似たようなことがあった。
 思い起こすのは、八剱嶺の幻肢暴走の一件である。
 あのとき嶺の右肩には、確かにギルフォードの右腕が憑依していたのだったが、その憑依肢は「暴走」という現象を伴って初めて、形ある霊として認識される質のものだった。
 今回もそれと同じようなことだと考えたらどうだろう。
 夕佳の遺志はこの部屋に存在するものの、いま現在彼女自身を霊として認識することは出来ない。
 それは、何かが足りないからだ。
 霊の顕在化に必要なのは、幻肢にとっては「暴走」だった。
 では、夕佳にとっては何だろう?
 曖昧に漂うだけの「遺志」が一つの霊体となるために必要なものは何だ?
「……ねえ、蓮?」
 愁が、考え込み乍ら弟の名を呼んだ。
「え?」
 蓮が日記に下ろしていた視線を上げ、愁を見る。
「こう、バラバラに宛てなく漂ってるようなものを、一つにするにはどうしたらいいと思う?」
「は? ……それは……、欠片を集めて組み合わせればいいんじゃないのか? ジグソーパズルのようなものだと思うが。ピースを所定の場処に当て嵌めて、一枚絵を完成させる」
 一体何について訊かれているのか分からぬままに、蓮が応じた。
「欠片を集めて……ジグソーパズルを完成させる?」
 愁が蓮の言葉を繰り返し、そうか、と破顔した。
「蓮、偉い! ママの存在が何となく感じ取れても霊体が特定できないのは、時が経ってママの想いがバラバラに解けちゃってるからだよね、きっと。だったら、それを集めて一つにまとめたら、何か分かるかも」
「想いが解けてるから? ……解けてるって……、もしかしたら、その『想い』、日記から抜け出たもの、とか?」
 蓮は思考を整理するように虚空をみつめ、ただの思い付きを確信に変えるために、大切に言葉を紡いだ。
「……日記に何も書かれていないのは、そこに書かれていた筈の想いが抜け出てしまったから。時の経過と伴に白く風化するように――――想いの欠片が雲散してしまったから。……だとしたら、もう一度その日記に想いを回帰させればいい」
「……回帰って、どうやって……? できるのかな、そんなこと」
 弓雫の疑問に、セレスティが答えた。
「可能だと思います。……私が日記の記憶を読み取ろうとすることで、この日記の意識は開かれた状態となります。そこに、効果的な契機さえ与えたなら、『想い』は再びもと在った場処へと吸い寄せられるでしょう。結果として、香坂君の言う『ジグソーパズルの完成』というわけですね」

 ジグソーパズルの完成。
 つまりは、雲切夕佳の霊魂の統一、である。


SCENE-[6] 記憶。


 弓雫が、頭上に右手を翳した。
 その小指に、守護霊「朔」を封じた指輪が嵌っている。
「……朔。我が声に応え、諸念、逃さず封じ守れ」
 弓雫の一声は虚を昇って指輪に絡み、その裡より和装の麗人を喚び出した。
 長い黒髪が、宙に流れ舞う。
 意思の存在を感じさせぬ紫の静かな眸の奥には、弓雫の発した御言のみが息衝き、その一挙手一投足を支配する。
 だが、もとより朔の姿を目視できるのは弓雫その人だけであり、周囲の人間はただ弓雫の言葉から「朔」がその場に出現したことを悟った。
 弓雫は、
「……ちーちゃんのお母さんの念が、日記への干渉で、どこかへ弾け飛んだりしないように……一応、見張っておく」
 そう言って、己の守護霊でもって夕佳の残留思念の位置を確かめ、保護を行うことを明かした。
「では、始めましょう」
 セレスティが宣言し、瞼を下ろして日記に掌を添えた。
 一同が固唾を呑んで見守る中、セレスティの長い睫の先が微かに震え、やがてその口から日記の記憶が少しずつ語られた。
「……6月11日……、千駿氏の誕生日ですね。柔らかな喜びの気配があります。……10月16日……ああ、結婚記念日なのですね。院長と一緒には過ごされなかったようですね……、日記に涙が滲んでいます。……1月9日は院長の誕生日でしょうか。……それから……前後しますが、10月1日……」
「10月1日?」
 千冬が突然、鸚鵡返しに訊いた。
 セレスティは緩やかに瞼を押し上げ、千冬に顔を向けた。
「何か?」
「……いや、……10月1日、何か日記が記憶していることは」
 問われて、セレスティは頸を横に振った。
「いいえ、感じ取れません」
「……そうでしょうね。その日は……母の命日ですから」
 千冬の代わりに、千駿が応えた。
「お母さんの命日?」
 蓮が、驚いたように千駿を見た。
「ああ。……命日が母の日記に記されているなんて、不思議だけど。……その日、臨終間際にあった母にはペンを手に執るような気力はなかった筈だし……、だから日記が何も記憶していないのは、それはそうだろうと思う」
「……他にも、日付以外に何も感じ取れないページはあります」
 セレスティは千駿に肯きつつ再び眼を瞑ると、
「……12月21日、22日、25日、……5月12日、……8月26日」
 幾つか日付を読み上げて、いったん日記から手を離した。
「日記が何も知らないと言うことは、これらの日付は生者の手によって書かれたのではなく、死後に何らかの力によって……母親の遺霊の影響力によって付加されたものなのかもしれません」
「……死後に……。だから、命日も書いてあるんだね」
 弓雫が、合点がいったようにセレスティに向かってうんうんと肯いた。
 そのそばで、愁と蓮、それから千駿は互いの顔を見交わし合い、麗香に付き添っているユリにも視線を送った。
 愁は片眼を細めて笑い、ポンと千駿の背を叩いた。
「なんて言うか、ある意味とっても分かり易い日付だよね。ちーちゃんのママが、いま何を想ってるのか、その日付が教えてくれてる気がする」
「……そうだね」
 千駿は蓮を見遣り、穏やかに微笑った。
 蓮はどんな顔をしていいか分からないのか、深く俯き、きゅっと唇を結んだ。眼許を隠す前髪の向こうで、眸の青が揺れていた。
「……香坂君に関係のある日付なのですか?」
 セレスティが興味深そうに訊ね、それなら、と蓮に向かって日記を差し出した。
「日記に触れてみてください。……先程の話にあった、想いを吸い寄せる『効果的な契機』――――君がそれになり得るかもしれません」
 言われて、躊躇いがちに左手を伸ばした蓮は、一度深く息を吸い込み、ゆっくり吐き出してから、指を開かれた日記帳に落とした。
 刹那。
「え……っ?」
 日記の一ページに触れたと見えた蓮の手指は、ページ上に留まらず、第一関節までをその裡に沈ませた。紙の白に融けるように、指先が日記に埋まったのだ。
 それだけではない。
 蓮の指を含んだ日記は、間を措かず、その色を白から青へと変えた。透明な青が日記帳を染め、まるで何かの宝石のように煌めいている。
 突然の出来事に半ば硬直している蓮の隣で、セレスティは小さく口を開いた。
「……『信頼、清廉、幸福、不可侵、永遠。そんな意味を持つブルーダイヤモンドの変わらぬ青を、いつかあなたに本当に大切な人ができたら贈ってあげてほしい』……」
 蓮が日記に触れたことで、そこに吸い寄せられた夕佳の意識を、セレスティが読み上げたのだった。ここにある『あなた』とは、おそらく千駿を指しているのだろう。
 弓雫は、日記に埋まったままの蓮の指を凝視し、
「……ブルーダイヤモンドって……、指輪の、その石?」
 そう言って、ちょん、と指先を蓮の指輪に触れた。途端、日記は白に還り、蓮の指は日記から解放された。
「……あ……、……ああ、そうだ。……この石は……、千駿のお母さんの形見で……」
 蓮は、日記から抜けた左手を右手でぎゅっと握り乍ら、弓雫に言った。
「形見……」
 呟いた弓雫は、蓮から千冬にすっと視線を移した。
「院長センセイも、日記に触ってみたらどうかな……。何か、起こりそう」
「……確かに、何か起こりそうな気はしますね」
 セレスティも同意を示し、日記帳を千冬に呈示した。
 千冬はちらと千駿を一瞥してから、素直に掌を日記に触れた。
 千冬の掌が僅かに紙の裡に沈み込んだ瞬間、同時に二つの現象が起こった。
 一つは、蓮が触れたときには青に染まった日記が、今度は真紅に変化した。
 そして、もう一つは。
「……ッ、千駿っ!」
 蓮の声に、皆が一斉に千駿を見遣ったとき、彼の右眼からは涙が――――血の涙が流れていた。
 狼狽えている蓮の肩に手を置いた千駿は、もう片方の手で眼を押さえ、
「大丈夫、痛いわけじゃない。……大丈夫だから、本当に」
 顔を背け乍ら言うと、愁が医療棚から取り出して来たガーゼを受け取って血涙を拭った。
 血は流れ続けるということはなく、きれいに拭い取られたところで、千冬の手は日記から遊離した。
「……『ごめんなさい。……あの子の右眼が見えていたら。私があの子の他にも子を成せていたら。……あの人は、もしかしたら』……強い罪悪感の存在を感じます」
 セレスティは日記から新たに読み取れた夕佳の意識を口にし、ふっと息を吐いた。
「あの人はもしかしたら、って……」
 弓雫が腕を組むのを見て、千駿がセレスティの読み取った内容に解説を加えた。
「……『千駿の右眼が見えていたら。私が千駿の他にも子を成せていたら。千冬さんは、もしかしたら……他の誰かを選ばなかったかもしれないのに』。……そんなところだよ、多分。母の父に対する罪悪感の正体は、自分が障害を持った息子を産んでしまったことと、そのあと続発性不妊症に罹って妊娠できない体になったせいで、この病院の後継者候補を産めなくなったことだったと思うから」
「……母上のことを、よく理解されているのですね」
 セレスティに言われ、千駿は困ったように眼を伏せ、ほんの少しだけ笑って見せた。
「幼い頃は、静かな家の中でずっと二人きりでしたから」
「それなら、やはり息子である君も触れてみるべきでしょうね。……何が起こるか、不安がないと言えば嘘になりますが」
 セレスティは、今また白色に色を戻した日記を千駿に向かって掲げた。
 千駿は何も言わず、促されるまま日記に指先を沈めた。

 ――――日記の色は、白から変じることはなかった。

 変わらぬ白の上に、ふわりと文字が浮き上がる。
 『千駿……』
 指を通してその文字に意識を引き抜かれるように、千駿は床にかくんと膝を突き、両眼を閉じてその場に倒れ込んだ。と同時、
「あっ!」
 愁が鋭く叫んだ。
 特別室の窓際に突如として擡頭した気配。
 それは、誰の眼にも明らかに、一人の女性の姿として映った。
「……夕佳」
 千冬が大きく眼を見開き、懐かしいその名を呼んだ。


SCENE-[7] 覚醒。


 予定どおり、解けた想いが日記に吸い寄せられたことで、母の霊魂は統括されたようだった。彼女は、うっすらと透けた華奢な体躯を顕在化させ、その頬に淡い微笑を浮かべていた。
 皆の眼が夕佳に集中する中、蓮は、日記に指を埋めたまま眠るように両瞼を下ろした千駿の体を支え、震える唇から一言だけを必死に押し出した。
「……返してください」
 それは、夕佳に向けられた言葉だった。

 返してください。
 千駿を。

「……蓮」
 愁は、夕佳の霊体を横眼に蓮に歩み寄ると、その腕に手を添えた。
「ママに頼まなくても、還ってくると思うよ、ちーちゃん」
「え……?」
「日記から手を抜いたら、きっと意識回復するでしょ? ほら、蓮が引っ張ってあげなよ」
「……でも」
「この期に及んで何怖がってるの」
 蓮の左手頸を掴んだ愁は、その手を日記に囚われた千駿の手に触れさせた。
 蓮は自分の薬指に嵌った指輪を見、それに勇気づけられたか、甲から重ねた千駿の手をぎゅっと握ると、そのまま静かに引き上げた。
 紙上に波紋が刻まれ、千駿の爪の先が抜け出た瞬間、日記は端からさらさらと光の粒子に姿を変え、やがて消滅した。
「……意識が纏め上げられ、霊体が完成したことで、日記は課された役目を終えたのですね」
 セレスティが、日記の載っていた両手を眼前に翳して言った。
 日記から解放された千駿は、ややあって、ゆるゆると瞼を押し上げた。
「あ……、ちは……千駿」
「……ん……」
 まだどこかぼうっと焦点の定まらぬ鳶色の眸を間近に見た蓮は、まるでそれまで呼吸を止めていたかのように、胸に手を当てて思い切り深く息を吸い上げた。


SCENE-[8] 対話。


「……ちーちゃんのお母さんの意識は一つになった、筈、だよね?」
 弓雫が、夕佳を何となく眺め乍ら、大きく頸を傾げた。
「何か引っ掛かることでも?」
 愁が訊くのへ、弓雫は肯き、部屋のドアを見遣った。
「……朔が……、部屋の外へ出たがってるみたいだから。……さっき、お母さんの念を逃すな、とか命じたから、……もしかしたら他にもまだ、想いの欠片がどこかにあるのかと思って……」
「サクって、……ああ、守護霊さんですよね。でも、まだ他に欠片がって……どこに?」
「……ちょっと待ってて。転移させて……気配を追ってみる」
 そう言った弓雫に、蓮が声をかけた。
「守護霊を部屋の外に出すのか? だったら、ちょうどいい。……皆で外へ出よう」
「え? 皆……?」
 訊き返した弓雫に肯首した蓮は、夕佳と千冬、そして千駿を順にみつめ、
「話をした方が良いと思う。お父さんとお母さんと千駿の、三人だけで。今は、きっと他の人間は必要ない」
 きっぱりと言い切ってから、千冬に向き合った。
「……お父さん。……お母さんに、語りかけてあげてください。……家族への想いとか……、俺には何をどう言えばいいかよく分からないけど、でも」
「分かった」
 千冬は軽く掌を蓮の頭に載せ、了承の意を伝えた。
 愁は千駿の白衣をつんつんと引くと、
「ちーちゃんも、ママに語っておきなよ、蓮への想いとか」
 耳許に口を寄せて言った。
「色々あっても、子供の幸せを願わない親なんていないと思うし。今のちーちゃんにとっての幸せが何なのか、ちゃんと自分の口から言っておかないとね。……それに、ほら、ママの想いは、形見の石……蓮の指輪の石にこもってるんだよね? だったら、蓮が指輪を嵌めてる限り、ママの想いも一緒に生きてるってことだし……、ちーちゃんをこの部屋に繋ぎとめておかなくても、気持ちが寄り添うことはできるんだって教えてあげたら、ママも分かってくれないかな」
 その言葉を黙って聞いていた千駿は、一度蓮に視線を向け、それから愁に微笑んで見せた。
「……ああ。そうだね。ちゃんと伝えておくよ。……ありがとう」
「お礼なんていいよ。じゃ、僕達は外に出てるから。しっかりね」
 愁は千駿に手を振り、蓮を伴ってドアへ向かった。
 セレスティ、弓雫も後に続き、麗香もユリに腕を引かれて渋々部屋の外へ出た。


SCENE-[9] 欠片。


 夕佳、千冬、千駿を特別室の中に残し、廊下に居場処を移した六名は、ドアがしっかり閉ざされたのを確認するや、各々小さく溜息吐いた。
「霊との話し合いというのが、無事済めば良いのですが……」
「大丈夫ですよ、きっと。邪悪な気を纏った霊でもありませんでしたし」
 愁がセレスティに笑顔を向けた。
 弓雫は、そういえば、と先刻の日記読み取り時の様子を脳裡に甦らせ、不思議そうな顔をした。
「……ちーちゃんのお母さんの霊。今までの経緯からすると、かなり……院長センセイを恨んでてもおかしくない感じなのに、……日記からは憎悪とか、そういう悪感情、出てこなかったね」
「それもそうですね」
 セレスティが相槌を打った。
 日記から感じられたのは、他へ向けられる憎悪ではなく、自己へ向けられる罪悪感と、息子への穏やかな愛惜の情、それから、哀しみ。
 それが夕佳の性格だと言われれば肯くしかないのかもしれないが、いま一つ釈然としない。
 まだ、何かが抜け落ちている気がする。
 突然の発作というきっかけを用意して千駿を特別室内に喚び込み、千冬の手に渡すことを拒むように彼を身近に留め置いた事実を鑑みるに、夕佳が千冬への執着と厭悪の念を抱いていないとは考えにくい。
 だが、夕佳の心の片隅に憎しみの感情が巣くっていたとして――――それは、一体どこへいったのだろう?
「……欠片」
 ぽつりと、蓮が呟いた。
「え? 欠片?」
 訊き返した愁に眼を向け、蓮は背を特別室のドアに預けた。
「鳴沢の守護霊が部屋の外にも感じたという、想いの欠片の気配。……多分、それが……お母さんの心から分離したままの、……憎しみとか、そういう感情の欠片じゃないかと思う」
 蓮に言われて、弓雫は朔を何気なく見遣った。
「……成る程……」
「さっき、気配を追って守護霊を転移させてみるとか言っていたが、その必要はない。……時間もあることだし、直接行ってみた方がいい気がする」
「行くって、どこへ?」
 蓮の思考が読めず、愁が頸を傾げた。
「……月下氏の病室へ」
「香坂君、それは」
 セレスティが、蓮の言わんとしていることを察したか、横合いから口を挟んだ。
「それはもしや、院長誘拐の件で月下氏に憑依した霊というのが、母親の心の欠片の一つだと……?」
「……考えたくはないが、そんな気がする。符合する点が多すぎて、否定したくてもできない。……月下美人は、自家不和合の花。交配できず、結実しない。それは、続発性不妊症で子を成せなくなった母の姿を彷彿とさせる。それに、月下氏の年齢は二八だと聞いた。千駿と同じ年だな」
「そうですね。あとは……花言葉、でしょうか。月下美人の花言葉の一つに、『ただ一度だけの恋』というものがあります。……母上の、夫に対する想いもそのようなものだったのかもしれません」
 蓮とセレスティが納得し合うのを見た愁は、月下美人の入院している第一病棟へと続く廊下の先を眼で追った。
「月下さん、名前のせいで、ちーちゃんのママの心を引き寄せちゃったのか」
「……名前は、重要だから。その人を、体現するようなものだし」
 弓雫が然もありなんと肯いた。
「心というか……心の、想いの欠片、だから」
 蓮が、愁を窘めるように言った。
「月下氏に憑いたのが、お母さんの本心だとは思わない。バラバラに解けた想いの中の一欠片が、……普通なら心の奥底に沈黙している筈の小さな欠片が、偶々、月下氏の意識に迷い込んだだけだ」

 ――――きっと、それだけだ。


SCENE-[10] 回収。


 朔が反応した「欠片」は、月下美人の病室に蹲っていた。
 もともとが想いの一片に過ぎないだけに、誘拐教唆の大任を果たした後は、力なくその場に落ち転がるしかなかったのだろう。前にこの部屋を訪れたとき、愁と弓雫が淡い霊の気配を覚えたのも、力を喪った欠片がそこに在ったせいだと考えれば不思議はない。
 霊魂として認識するには薄弱すぎる存在感。
 しかし、守護霊である朔には、その欠片を拾い上げることも可能だった。
「……回収」
 弓雫の言に従い、朔は夕佳の欠片を掌中に収めた。
 ベッドに上半身を起こした月下美人は、一体眼の前で何が行われているのか分からぬまま、落ち着きなく来訪者達を眺めていた。
「これで、院長誘拐事件についても幕を引けますね」
 セレスティが言った。
 月下の病室までついてきた麗香は、
「雲切夕佳さんの霊の欠片が憑依していたせいであの事件が起こったというなら、当面この病院を標的に同じような行為が繰り返される危険はないわね」
 そう結論づけて蓮を一瞥し、よかったわね、と独り言のように告げた。
 愁は、そろそろ傾きかけてきた秋の陽を病室の窓外に見遣り、
「じゃあ、あとは……家族の話し合いがうまくいって、ちーちゃんが特別室から無事出られるかどうか、だよね」
 呟いて、弟の手を取った。


SCENE-[11] 訣別。


 六人が特別室前に戻ったとき、その扉は開放されていた。
 室内には、並んで窓の外を眺めている夕佳と千駿、そしてソファに腰掛けてそんな二人をみつめている千冬の姿があった。
 蓮の提案で、三人を残して部屋を出たため、彼らの間でどんな話し合いが持たれたのかは分からなかった。だが、多分、蓮の言うとおり、それは分からなくても良いことなのだ。
 千冬は己の過去を謝罪したのかもしれないし、千駿は今の自分の想いを伝えたのかもしれない。そして、夕佳は千冬を許したのかもしれないし、千駿の幸福を願ったのかもしれない。もしかしたらその逆も有り得たかもしれないが――――そのとき特別室にあった家族の風景は、ただ穏やかな雰囲気に包まれており、見る者に悪意の存在など僅かも感じさせなかった。

 静かに射し入る、夕陽の中で。

 ふと背後に人の気配を感じたか、千駿が部屋の入口を振り返った。
 それを機に、皆は室内に足を踏み入れ、この後の展開に少しだけ表情を緊張させた。
「……それで、どうなったの?」
 愁が千駿に訊いた。
 千駿は直接その問いには応えず、代わりにソファに置かれていたヴァイオリンケースの蓋を開け、蓮を呼んだ。
「……お願いできる?」
「え……、あ、……けど、本当に? 本当に……、浄化するのか……?」
 蓮は千駿が自分に何を望んでいるのかを悟り、口許に手を当てて愛器G・A・ロッカに視線を落とした。
 ヴァイオリンで鎮魂歌を奏でることで、霊や妖を浄化する。それが、蓮の身に備わっている特殊能力である。
「……浄化……」
 弓雫がその一語を繰り返し、朔を見た。夕佳の霊を浄化するというのなら、回収してきた想いの欠片も彼女に返さなくてはならない。
「浄化しなければ、千駿氏がこの部屋から解放されることは叶わない、と……?」
 セレスティの言葉に、千駿は「ええ」と肯き、蓮に向かってもう一度、
「お願いします」
 と言った。
 蓮は、窓辺でどこか楽しそうに夕焼け空を見上げている夕佳を見てから、
「……はい」
 千駿の求めにはっきり応じると、ケースの中からヴァイオリンを取り上げた。
 弓雫は、蓮がヴァイオリンを演奏する準備をしている間に、朔を夕佳に接触させ、最後の欠片を在るべき場処に戻した。
「……母さん」
 千駿に呼ばれて、外を眺めていた夕佳は滑るように部屋中央に移動し、眼の前でヴァイオリンを構える黒髪の青年を真っ直ぐにみつめた。そして、眼許に柔らかな微笑を浮かべると、そっと片手を伸ばし、その髪を優しく撫でた。
『……よろしくお願いします』
 千冬と千駿以外の六人が聞いた夕佳の言葉は、この一言が最初で最後となった。

 開け放った部屋の窓と扉の間を、秋風が吹き抜く。
 夕暮れ時のしずやかな空気の中、響き流るのは鎮魂歌。
 息子を閉じ込め続けた籠の裡に、自分の想いをも閉じ込めて、いまようやくヴァイオリンの音色によって解放されゆく一つの心。
 白い日記帳が光の粒子に還ったように。
 母は、清らかな旋律に導かれ、やがてゆるやかに夕陽に融けた。

「ありがとう」
 ヴァイオリンの音が止んだとき、千駿は礼を述べ、迷うことなく境界を踏み割った。
 特別室を一歩、外へ歩み出て、深呼吸をする。
 そうして、室内を振り返ると、
「……ありがとうございました」
 皆の顔を見渡し、深く、頭を下げた。


SCENE-[12] 花火。


「花火、やろうよ」
 いきなりそんな提案をしたのは、愁だった。
「本当は、夏にみんなでやろうと思って用意してたんだけど、何だか色々あって出来ず終いで」
 そう言って、愁は紙袋いっぱいの花火を自慢げに差し出して見せるや、皆を特別室の裏庭へと誘導した。

 秋の日はつるべ落とし、次第次第に闇の色を深める庭で、色さまざまな花火がはじけた。
 セレスティと蓮は線香花火を選ぼうとし、弓雫に「先ずはこっちから」と、六種の火花が九回変色するという派手な吹出し花火を手渡された。当の弓雫は、すでにロケット花火を数発打ち上げ、今度は手張り大玉入り打上花火に手を付けようかというところだった。愁はユリに笑われ乍らネズミ花火に追いかけられ、千冬は金魚のデザインが愛らしいススキ花火に火を点けた。
 楽しげな笑声が上がる中、麗香は一人眉間に皺を寄せると、夜空を見上げる千駿の肩を叩いた。
「……ちょっと、これ聞いてみてくれるかしら」
「え?」
 麗香に促され、手渡されたボイスバーを再生させた千駿は、
「何も聞こえませんが」
 と頸を傾げた。
 その返答に肯いた麗香は、苛立ちをぶつけるようにパンプスの踵で地を蹴った。
「確かに録音していた筈なのに音は入ってないし……。デジタルカメラのメモリも確認したけど、何枚も撮った筈が何も写ってないし。どうなってるのかしら、一体」
「……そうですか。僕としては、有り難いような気もしますけど」
 千駿は少し笑って、花火の煙が風に流れるさまに眼を細めた。
 麗香は諦めたように肩を落とし、
「夕佳さんのせいかしらね」
 溜息交じりに言い置いて、千駿のそばを離れていった。

 ――――ドンッ

 鈍い音を曳いて単発花火が打ち上がり、空の闇に銀の花を咲かせた。
「鳴沢さん、次、これにしましょう! えーっと……『月夜浪漫・昇竜の宴』?」
「……何となく、渋い」
 愁と弓雫は、打上花火選びで意気投合し、次々と在庫を消費していた。
 そんな二人を遠巻きに見乍ら、セレスティと蓮は、今度こそ誰にも阻止されることなく線香花火を手に取った。
「彼は、この先、父親の現在の家族と逢うことはあるでしょうか」
 セレスティが、千駿に視線を投げて言った。
 蓮は、線香花火の繊細な火花の向こうに千駿の横顔を眺め遣り、
「……多分」
 答えて、涼風に乱れる髪を手で軽く押さえた。

 ――――ドン、ドンッ

 今日の日を散り染める花火の彩りが、逝く人の面影を明るく飾った。


[ 占有の籠 /了 ]


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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+ PC名 [整理番号|性別|年齢|職業]

+ 香坂・蓮
 [1532|男|24歳|元ヴァイオリニスト]
+ 鳴沢・弓雫
  [2019|男|20歳|占師見習い]
+ セレスティ・カーニンガム
 [1883|男|725歳|財閥総帥・占い師・水霊使い]
+ 向坂・愁
 [2193|男|24歳|ヴァイオリニスト]

※ 上記、受注順に掲載いたしました。

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■         ライター通信          ■
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こんにちは、ライターの杳野と申します。
この度は異界依頼「占有の籠」にご協力いただき、ありがとうございました。
当依頼は本当に、本当にいろいろと込み入った内容になりまして、オープニングも情報だけ投げ出したような形になり、分かりづらかったのではないかと思います。が、皆様の的確な思考、行動により、雲切千駿は本日を以て無事特別室から解放されました。ありがとうございました!

オープニング公開時に追記した「一定条件下にて陥る状態」の件ですが、以下に当初の条件設定を載せておきます。実はこのような感じでした。

(1)特別室の前の住人に言及しない。
(2)千駿の能力を使用しない。
(3)外に出ようとする目的で、窓やドアから千駿の身体の一部を差し出させてみる。
(4)夕佳の意思を無視した状態で、無理に(能力行使などで)千駿を外へ出そうとする。

(3)は何だかややこしいですが、要するに「室内に何かを引き入れる目的で窓などから手を出す分には問題ないが、逆に部屋から出ようという意識でそういうことをすると発作が起こる」ということです。
結果的に(2)の条件のみ引っ掛かったので、千駿が右眼から血の涙を流すことになりました。

今回ご参加くださった四名様とも、前回依頼、それからさらに遡って「Phantom Limb Pain」の依頼にも足を運んでくださった方々でしたので、本当にあちこちから情報を引っ張ってきての執筆となりました。
ある程度過去の共通理解があるものとして表現した部分もありますので、もしその点分かり難いということなどありましたら、申し訳ありません。

いきなり雲切病院の裏舞台を覗いていただいてしまったような依頼となりましたが、最後までおつき合いくださり、ありがとうございました。NPC共々、心より感謝しております。

【向坂 愁さま】
いつもお世話になっております。
ユリは元気にやっておりますでしょうか(笑)。
今回は、随所で向坂さんのいいお兄ちゃんっぷりを発揮していただいたような気がします。ありがとうございます。
プレイングの現院長夫人陰謀説、ストーリー反映できずにすみませんでした。私が「おお、成る程、そういう可能性も……!」と、こっそり目から鱗が落ちたような体験をさせていただきました(笑)。
これからも、ユリと、向坂さんの双子の弟君大好きな千駿をどうぞよろしくお願いいたします。