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<東京怪談ノベル(シングル)>


夢心 母性
「ええっと…お腹はいっぱいの筈だし、さっきおむつも取り替えたし…後は何かしら?」
 顔を真赤にして泣き喚いている我が子が、どうしてむずがっているのか良く分からず、茜が首を傾げながら身体のあちこちを点検していく。
「…あら。ここかな?」
 首の所にあったネームタグが硬かったらしい。そこの部分が真赤になっており、慌ててタグを切り離して首筋を静かに撫でてやる。
「よしよし、もう大丈夫よ…ほおら、もう痛くない」
 撫でていた指をそっと離すと――そこにはもう、つやつやとした健康的な肌の色しか残っていなかった。
 あむあむ、とベビータオルを無心に噛んでいる息子の、細く柔らかな髪をそっと撫でながら、微笑を浮かべ…そして、あふぅ、と小さな欠伸を浮かべた。

*****

 ――何もかもが新鮮で、赤ん坊の一挙手一投足に振り回されつつ、それでも笑みを絶やさずに居られるのは、時折母を求めてしがみ付いてくる我が子の、無心の笑顔を見ることが出来るから。
 男が此処へ帰って来た時に、どんな事を言うのかが楽しみで。
「ねえ、龍真ちゃん。あなたのお父さんはねぇ…」
 ベビーベッドへ寝かせた赤ん坊へ柔らかな声で語りかけると、そのつぶらな瞳をまっすぐ茜へ向けて、茜の言葉に聴き入るような姿を見せる。きっと意味も何も分かっていないのだろうと思いながらも、そんな仕草が可愛らしくてたまらなかった。
 茜は1人で子供の名を考え、そしてその名で子供を呼んでいた。…名はすぐに決まった。子供の父の事をいつでも思い出せるようにと、愛しい男の名にちなんで付けたのだから。
 その黄金色の目を見、その名を呼び、そしてあふれんばかりの愛情を注ぎ。
 …そんな茜は、自分でも気付かないうちに少しずつ変化して行っていた。
 服の好みが変わってきた事に気付いたのは、季節が変わったある日。クローゼットの中にある古くなったり、サイズが変わって着れなくなった服のデザインよりも、今の服が遥かに露出度が高くなっていたのだ。スカートの丈はそう変化が無かったのだが、上半身…胸を特に強調する服が増えて来ている。
 ただ、それも単に寂しいからとか人目を引きたいからとか、そういう理由ではなく。
 母乳のせいか、やたらと乳が張るようになってしまったのだ。日によっては破裂しそうな痛みで目覚めた事もある。寝る前に、張り過ぎた母乳を搾り取って冷凍庫に保存しているのだが…通常出る量だけでも赤ん坊が満足するのですぐに溜まって行ってしまう。
 おまけに、ただでさえ大きな胸がそれのせいで更に大きくなったような気さえする。いや、服のサイズが明らかに変わっている事から、大きくなったのは間違いではないだろう。…おまけに、母乳用パッドも当てているのだから…。
 外へ出る度に茜を見る視線が多くなっていくのも、致し方ない事だったのかもしれない。
 それでも、茜の姿態はあくまで『母』の雰囲気であったので、その事は魅力的に茜を磨きこそすれ、周囲の者の目を顰めさせるような事はまず起きなかった。その服の変化にしても寛容に受け入れられた事も、良い証明になっただろう。
 全く問題が無いわけではなかったが。
 時折、そんな彼女を追う不審な者の姿もあった。…不思議な事に、そういった男は不審者の噂が立って少しすると、申し合わせたように居なくなるのが常だったのだが。お陰で茜だけでなく、その周辺に住まう者達までもが安心して暮らせる地域になっていた事は、茜を始めとして誰1人気付かずにいた。
「困っちゃうわね。話に聞いてたけど、こんなに沢山出るなんて知らなかったわ」
 今日も、毎日欠かさず行っている胸のマッサージを浴槽の中で行いながら、くす、と小さく苦笑いを浮かべる茜。気付けば、今日も浴槽が乳白色に染まっている。お陰で肌がいつでもすべすべなのは良い事だけど。
「………」
 湯気で曇る視界から、天井を見通しながらふと考え込む。――時折、酷く子供っぽい所を見せた彼は、こんな時「飲みたい?」と聞けば、少し照れくさそうにしながらも頷いたかもしれない。
 とぷん…
 鼻先まで湯の中に沈めつつ、そんな事を考えながら、茜はうっとりと目を閉じた。

*****

「はいはい、ごはんの時間よ。いっぱい飲んで大きくなってね」
 待ちかねたように寄せた乳房へ吸い付きながら、夢中でんくんく喉を鳴らす息子の頭をゆっくり、ゆっくり撫でてやると、実にうっとりとした表情を見せ…その顔を見せたもう1人の男性と思わず重ね合わせてどきりとする。
 そういう時は茜は母でありながら、もう1つの『女』としての顔も見せるのだが…それは、つぶらな瞳を母へと向ける息子しか、今は見る者が居なかった。
 外では母としての顔しか見せなくなっていたから。
 そしてまたそれが、茜の持つ魅力を最大限にまで高めていること…ああなりたいと周囲の者に思わせはしても、妬み混じりの視線に至る事はほとんど無かったのが、茜本人でさえも不思議に思う事だった。
 余談ではあるが。
 この年の出生率は、茜の住む周辺のみが、研究者の首を捻らせるほど上がったらしい。

*****

 そして――

 運命の日…龍真の1歳になる誕生日が、刻々と近づいていた――


To be continued...