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<東京怪談ノベル(シングル)>


夢心 接吻
 あの日以来、増えた物。
 たくさんのタオル、小さな身体を包むための産着、外出用の可愛らしい帽子、おしゃぶり…ぬいぐるみ。
 手に握ってぶんぶん振り回すのが気に入ったらしい鈴の付いた輪も、よだれかけも、全て、この子のために。
 気付けば自分の物よりも、子供のための物が増えている。
 親ばかかしらね、私も。
 ピンク色の健康そうな頬を撫で、くすぐったそうに笑う我が子を眺めながら、くすくすと笑いかける。
「ねえ、分かってる?明日はね、龍真ちゃんがママの所に来てくれてからちょうど1年になる日なのよ。龍真ちゃんのお誕生日なの」
 母の笑顔が何よりも好きらしい赤ん坊が、あうあうと言葉にならない声を上げて一所懸命柔らかい腕を持ち上げる。これは、もっと近くに来いという意思表示のようだった。それに応えて顔をずいっと近づけ、そっと頬擦りする。
「あなたが言葉を話せるようになったら、私のこと、何て呼ぶのかしらね。ママ?おかあさん?…その頃までに、あの人も来てくれるといいんだけど」
 そうしたら、父親をしっかりと彼に見せて自慢してあげるのに。こんなに立派に育ったのよ、って。
「ねー?」
 目と目が合う。
 青い瞳と、金の瞳が、互いに柔らかな光を持って絡みつき、そしてぺちぺち、と小さな手が茜の頬に触れて更にぐいいっ、と手元へ引張ってきた。
「こおら。ほっぺたとか耳とかつまんじゃ駄目でしょ。痛いでしょ」
 自分の額をぐりぐりと息子の額へ押し当て、遊びながら平熱である事を確認する。きゃあきゃあと高い笑い声を上げる赤ん坊を抱き上げ、そしてもう一度自分の目線まで持ち上げ。
「ママの子供になってくれて、ありがとう。大好きよ――」
 ちゅぅー、とその頬に音を立てながらキスをした。くすぐったいらしく、笑いながらご機嫌な赤ん坊が、母の頬にまたむちむちした手を当てて、今度は母の真似なのか自分から頬を擦りつける。うっとりと茜が目を細めると、
 ちゅー
 今度は唇にちいちゃくて柔らかな感触が。目を開けて見ると、にこにこ顔の息子が大きな口を開けてぎゅっと抱きついて来た。
「あらまあ。いいの?ファーストキスの相手になっちゃったわ」
 茜からもぎゅーっと抱きつきながら、答えを求めない問いを送り。
「あの人に何て言おうかしらねー。ふふ。強力なライバル登場、かしらね」
 ちょっと重みが増したと思ったら、いつの間にか茜の胸を枕にすやすやと寝入っている赤ん坊に目を落とし、もう一度にこりと笑いかけると、お昼寝用の布団へと赤ん坊を運んで静かに寝かせた。
 これから、夜までに飾り付けをしなければいけない。
 誕生日は明日――日が昇る前なのだから。
 きっとその時間は熟睡しているだろう。だから、自分はその寝顔を見つめていよう。
 朝、目が覚めたら一番近い場所にいてやろう。笑顔で「おはよう」と言おう。…一緒に用意したケーキを食べて、天気が良ければお散歩に行こう。
 昔を思い出しながら、折り紙の鎖と息子の頭に合わせた王冠を厚紙と金紙で作って行く。
 その笑顔は、穏やかで極普通のものだったけれど…それでも、その場に誰か人がいたならば、はっとして振り返らずにはおれないような、不思議な魅力に満ちた笑みだった。

*****

 思った通り、赤ん坊は布団の中ですやすやと寝入っている。つい30分前にぱちりと目を覚ましておっぱいをねだった事など嘘のように、満腹した先からこてんと枕に顔を付けて寝てしまったのだ。
 いつもなら添い寝して、次のミルクの時間まで一緒に眠るのだが、今日は特別。
 …本当に1年経ったと言う実感が欲しかったのかもしれない。
 あの日。あの、運命の日。
『男の子ですよ』
 出合ったあの時の、小さなしわしわの生き物は、すっかり白くぷりぷりした肌になって、無心に寝入っている。
 その日から、慣れない育児に夢中になってやって来た。本当なら相談する筈の両親には何も言わず、時折検診時に顔を合わせる女医に、子供の心配事を語り、励まされたり注意を受けたりしながら、こうして1年経った。
 幸い風邪のような小さな病気から、入院しなければいけないような大きな病気、怪我…それら全てする事無く今に至っている。
 ――あと少し。
 寝入った息子の顔を見ているだけで随分時間が過ぎた。ちら、と時計を見ると午前3時50分。
 生まれた瞬間まで、あと10分足らず。
 まるで朝日に祝福を受けるためにこの時間を選んだように、この子は生まれて来た。
 そう思えば愛しさもひとしおで、そーっと、起こさないように、額にかかった前髪を撫で上げる。

 それが。
 その手触りが、最後だった。

*****

 ――3時58分。
 時計の針を見るまでもなく、その時間が来た事は分かっていた。針に目を置いたのは、確認を取るための行為でしかない。
 お誕生日、おめでとう――
 笑顔で息子の顔へと目を落とし、そのままひと息に謳い上げるつもりの言葉は、しかし。
 予定外の光に遮られた。

 ――それは、朝日では無く…消し忘れた電灯でも無い
 何故なら、発光しているのは眠り続けている我が子だったのだから。
 チッ、チッ、という秒を刻む音が耳障りに耳朶を擽って行く度、子供を包み込む光は輝きを増していく。そこから目を離せないでいる茜の手は、伸ばそうとしたまま止まっている。

 光は、ますます強く――それに反応するように、赤ん坊の姿が溶けて薄れて行く。

 ――だめ――

 悲鳴さえ、喉に張り付いて出てこない。
 …そして。
 光が消えた後の部屋には…その、小さな姿…ついたった今まで天使の寝顔を見せていた息子の姿が消え失せていた。

 これで。
 茜には、何も無くなった。
 突然部屋へ来る事が無くなった男も。

 その男との間に生まれた、かけがえのない宝物も。

「―――――」
 何か言おうと、唇を動かそうと、無意識のうちにしているものの、身体がまるで意思に逆らっているように何の動きをする事も無く。
 ただ一筋の涙だけが――その室内で動くものの全てだった。


To be continued...