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<東京怪談ノベル(シングル)>


陸に上がったマーメイド
 
 
 フルートの音が聴こえてくる。
 どこで誰が吹いているのかはわかっているから、あたしは音の鳴るほうへ急いだ。校庭の脇に建てられてある、全天候型の屋内プール。そのプールサイドに彼女はいる。
「ゆ〜な?」
 気配を察したのか、あたしが声をかける前に彼女は演奏をやめ、こちらを振りむいた。
「今日もきたの?」
「うん」
 心配だから、という言葉は胸の中だけにしまっておく。
 誰もいないプール。そこに彼女ひとりにしておきたくはなかったし、あたしが同じ立場だったら、きっと誰か隣にいてほしいと願ったはず。
「続き、吹かないの?」
 さっきまで吹いていたのは、クラシックでも歌謡曲でもなくて、彼女のオリジナル。それまで何曲か聴かせてもらったけれど、今のは初めて耳にするものだった。
「続き、聴きたい?」
「うん」
「まだ、できてないの」
「そっか。残念」
 言うと、彼女はフルートをベンチの上に置いて、ゆっくりと立ちあがった。視線はプールに向いたまま、ぽつりと一言。
「神さまっていじわるだよね」
「……うん」
 さっきから、「うん」と頷いてばかり。けど、今の「うん」が一番重たかった。
 プールの主であるはずの水泳部は、今、夏の大会で出払っている。本当なら、彼女もそこにいるはずだった。優勝間違いなし、と言われていた。怪我をするまでは。
 交通事故だった。命に別状はなかったけど、選手生命を奪うような大きな怪我を負った。脚に。五輪の候補にまでなって神聖都学園の星なんて言われていたのに、今は学園のプールでひとり、星は光を失ってしまった。
 彼女はあたしの憧れだった。
 この春、神聖都学園に編入してきて、全国でもそれなりに有名な学園の水泳部でいきなりエースになり、なのにそれを自慢するわけでもなく逆に恥ずかしがって。背が高くてスタイルもよくて、まわりの男の子に告白とかもされるのに、そんなの無視しちゃって、なぜか友達の少ないあたしのそばにいて……。
「ねえ、ゆ〜な。あした、ひま?」
「うん。夏休みだし」
「あした、デートしよっか?」
「いいけど、どうしたの急に?」
 訊くと、それまでじっとプールをみつめていた視線をあたしに向けて、困ったような、泣きそうな、そんな表情をして、
「最後、なんだ」
 その続きを聞いて、あたしは愕然とした。確かに、神さまはいじわるだ。
 
 
 デートと言っても場所は学園のプール。
 待ち合わせは更衣室で、あたしが水着に着替えようとしたら「だめだめ、せっかくのデートなのにスクール水着なんて許せない」と止められてしまった。かわりに彼女が用意してくれたものに着替えると、満足そうに笑って、
「うん、やっぱゆ〜なは白が似合うよ」
 フリルのついた白のワンピース。子供っぽいかなという気もするけれど、大人っぽいのも似合わないので、このくらいでちょうどいいのかも。
「これ、わざわざ買ってくれたの?」
「うんにゃ。あたしが小学校のときに着てたやつ」
 ……小学生のころのサイズに、今のあたしがぴったしというのは、少し複雑な気持ち。
 彼女の水着はというと、ベビーブルーのビキニ。無地で、胸元がリボンになってるほかはシンプルなデザイン。競泳水着の彼女ばかりみてきたけど、たまに普通の水着姿をみるのも新鮮な感じがする。……と言っても今日で最後なんだけど。
「行こっ」
 あたしの手を引いて彼女は軽く駆けだした。脚を引きずって。
 怪我をしていると言っても、日常生活を送るくらいには回復している。リハビリでプールを使うとも聞いた。激しい運動ができないだけで。
 プールサイドで準備運動をはじめると、途中で背中を押されてしまった。踏んばれなくて水の中に落ちてしまう。「もうっ」と頬を膨らませて抗議すると、彼女はカラカラと笑い、続いて水に飛びこんだ。
 仕返しをしようと彼女の姿を追おうとしたら、どこにもいなかった。見失ってしまった。
「──捕まえた」
 声がして、逆に背中から抱きしめられてしまった。水を含んだ彼女の髪が、あたしの顔にかかる。頬が触れ合う。水着越しに心臓の音が伝わってくる。
「ねえ、あたしらが最初に会ったときのこと憶えてる?」
「うん。春休みのときだよね?」
 はじめて彼女と会ったのは、まだ桜の季節。図書館からの帰り道、プールの入り口に立っている彼女と偶然会ったのが最初のこと。編入してきたとは言え、実際まだ通いはじめる前で勝手がわからず、彼女は中に入れなかったのだ。あたしが職員室で鍵を借りてきて、まだ水が冷たいプールで一緒に泳いだりなんかもした。
「ぶー、はずれ。実はもっと前があるんだな」
「うそ?」
「ほんと」
 憶えていなかった。いつのことだろう。ちょっと焦ってしまう。
「編入試験より前にね、下見にきたんだ。去年の冬休みにさ。そしたらこんな馬鹿でかい敷地で、ちょっと探検してやれって軽い気持ちでうろついてたら、案の定、道に迷っちゃって。そんとき、偶然ゆ〜なが通りかかって、いろいろ案内してもらったんだ。憶えてない?」
「ごめん」
「あたしは憶えてる。すっごく小さくて、お人形みたいにかわいくて、ゆ〜なの隣にいて、こんなふうに生まれたかったなって何回も思ったもん」
「あたしもおんなじこと思ってたよ。今も、たぶんそのときも」
「ないものねだりなのかもね。おたがいに」
 そうかもしれない。
「教室でゆ〜なと再会したときは驚いたな。運命感じたし、絶対友達になってやるんだ、なんて思ったりもしたし……」
 背中から抱きしめている彼女の腕は細かく震えていた。腕をほどいて振り返る。彼女は目に涙をためていた。
「今度は、あたしのこと忘れないでよ」
「うん」
 頷くと、彼女はその場で泣き崩れてしまった。あたしの小さな胸で受け止めると、大きいと思っていた彼女の身体がとても小さく感じられた。
 ──最後、なんだ。
 昨日の言葉を思いだす。これで、本当に最後なんだ……。
 彼女のことを、もっといろいろ知りたかった。泳いでいるところやフルートを吹いている、あたしの憧れの部分だけじゃなくて、泣きそうな顔や、抱えている悲しみや迷いとかも知りたかった。もっと一緒の時間がほしかった。
 神さまはいじわるだ。どうして、あたしから彼女を奪うんだろう。どうして、彼女からあたしを奪うようなことをするんだろう。
「忘れないよ、絶対に」
 あたしは言った。気がついたら、あたしも泣いていた。
 
 
「最後、なんだ」
 意味がわからなくて首をかしげると、困ったような、泣きそうな表情のまま彼女は続けた。
「あたしのおじさんがさ、コンマスやってるって話ってしたっけ?」
「うん」
 有名な交響楽団でコンサートマスターをしているという話は聞いたことがある。彼女の音楽センスは生まれついたものなんだろうな、なんてふうに思ったこともある。
「そのおじさんがさ、うちに来ないかって言ってるんだよね。今からでも遅くないから、徹底的に鍛えてやるって」
「……どういう、こと?」
 もう一度、首をかしげた。彼女のおじさんと「最後」という言葉がうまく結びつかない。
「おじさんの家って東京じゃないんだ。だから引っ越すことになる」
 あたしは目を伏せた。いつ? とは訊けなかった。「最後」という言葉が答えのはずだから。
「神さまっていじわるだよね。ひとつの夢が駄目になりそうなとき、もうひとつの選択肢がそこにあるんだもん。そんなのがなければ水泳にしがみついていられるのに、前みたく泳げなくても続けられるのに、あきらめられちゃうんだもん」
「……簡単にあきらめたわけじゃないでしょ?」
 訊くと、さみしそうに微笑んだ。答えがイエスなのかノーなのかは、ちょっとわからなかった。
 
 
「……ノー、だよ」
 あたしの胸で泣き続けていた彼女が不意に言った。
「昨日の返事。簡単に水泳をあきらめたんじゃないよ」
「当たり前でしょ?」
 そんな簡単に夢をあきらめてしまうひとに、あたしは憧れたりしない。
「でもね、一番迷ったのはゆ〜なのこと」
「あたし?」
「うん。ゆ〜なと離ればなれになるのが一番つらいから」
 彼女は上目遣いであたしを見上げている。涙で濡れた瞳の中に、あたしが映っている。胸がきゅんと鳴った。締めつけられるように心臓が痛い。
 人魚が陸に上がったとき脚を得るために声を失ったけど、どうして何かを得るためには何かを失わなければいけないんだろう。それは、とても理不尽のように思える。
 あたしは彼女が好き。彼女もきっと同じ気持ちのはず。それが恋なのかどうかはわからないけれど、離ればなれになるのは、あたしだってつらい。
 行っちゃ嫌だよ、という言葉がつい口にでそうになって、あわてて言葉を呑みこんだ。ここであたしが引き止めたら、彼女は考えをあらためてくれるだろうか。そんなことが脳裏をよぎる。
 一度、目を閉じて深呼吸をした。彼女にかける言葉は、昨夜から決めていた。気持ちは揺らぐけど、でも言わなくちゃいけない。目を開けて、彼女の耳元で、
「……離れてても、あたしはずっと応援してるよ」
「ありがと」
 
 
 そして、季節はすぎて秋になった。
 新学期がはじまってしばらくして、彼女から手紙が届いた。一枚のMDも同封されていた。あのとき聴けなかった、彼女のオリジナルの曲。ラジカセなんて持っていないから、わざわざ寮生から借りて聴いている。
 優しくて、けれど愁いを帯びた旋律。
 目をつむると、あのプールでのことを思いだす。目を開けると、壁に飾ってあるそれが目に入り、やっぱり彼女のことを思いだした。白いワンピースの水着。記念にと、彼女がくれたものだ。
 手紙を読むと、彼女は新しい環境に戸惑いながらも元気にやっているらしい。陸に上がった人魚は、最後は泡になって消えてしまったけど、彼女はそうならないといいな、と切に願う。
 あたしは机に向かった。ペンと便箋を用意して、なんて返事しようかなと考えながら。