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流れる時間 時の砂
幻であれと何度祈っただろう。
夢であれと何度目を擦っただろう。
けれど、現実は覆らない。真実は常に人の心を苛み、いつかと願う心に冷たい雨が降り染んでいく。
胸に抱いた未来図。それは確かにふたりの上に描かれるはずだったのに――。
「ほ、本当ですか……そんな、彼が…彼があたしを忘れちゃったなんて」
足元が崩れていく。冷たい病室の床に膝をついた。涙が伝った。傍にいた彼の母が申し訳なさそうに俯いている。酷な告白を終わらせたばかりの医師は、苦言を言い終えた安堵の色をわずかに見せながら息を吐いた。
烈しい耳鳴りがした。周囲の人や空気、すべてが医師の言葉を肯定してしまったから。永遠とも思える時間。嘘であって欲しい。その叫びだけが、鳴り続ける雑音を消した。
「残念ですが、記憶障害とはこうして一部分だけに現われることも多いのです…自然に回復するのを待っているしか方法はありません」
「…………どうし…して、あたしの記憶だけ…」
ベッドの上の寝顔を思い出す。あたしを夜中抱きしめてくれた時と同じ寝顔なのに、どうして今は違うというのだろう。理解したくとも感情がままならない。彼は事件に巻き込まれ記憶を失った。あたしという存在に関する記憶だけを。見舞ったあたしを思い出そうとする度に、彼の頭はひどく痛んだ。だから、思い出してと言えるはずもなくて。
不憫そうな表情を浮かべ、医師が付け加えた。
「往々にして、失われるのは患者が一番大切にしている記憶なのですよ……」
「!! うぅ――い、嫌ぁ…ああ……あぅぅ…あぁぁ……ぁぁ」
自分の声なのか分からなくなるほどに泣き叫んだ。泣血するあたしの背を彼の母がずっと擦ってくれた。嗚咽を飲み込むまで、きっと長い時間掛かったはずだと思う。どう自宅に帰ったのか記憶にない。玄関の冷たい大理石の上で、座ったまま眠っていた。
フラフラと立ち上がり、鏡に向かう。枯れ果てた涙の跡が「どうしようもない現実なんだよ」と言うかの如く光っていた。
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どこから手を出せばいいのか、室内に入った姿勢で固まっていた。彼の寮。彼の部屋。こっそり遊びにきたこともある、思い出ばかりが詰め込まれた部屋。言い出したのはあたしだった。けど、いざとなると動けなくなる。悲しみが胸の中で澱んでいた。
「……あたしを覚えてないのに、あたしの写真があったら……彼が、困る…。だから、だから処分しなきゃ」
理由を言葉にして無理やり体を従わせる。
ひとつひとつ片付けていく。二人で撮った写真。嬉しそうに、こんな時がくるとは思わず彼に向かって微笑んでいるあたしの笑顔。涙が零れそうになるのを必死で堪えた。泣いても何も変わらない。だったら、彼のためにできることをひとつでもしたい。
唇を噛み締める。
――震えるこの唇に彼は何度キスしてくれたのかな…。
包み込まれる暖かさを失って、あたしはちゃんと生きていけるの?
少し埃っぽい棚の上から、一緒に取ったUFOキャッチャーのぬいぐるみを降ろした。視界にヒラヒラと舞い落ちる何かが入り込んだ。兎のぬいぐるみを抱えて、床に落ちたそれを拾い上げた。
刹那。あたしの目に涙が溢れた。
「……これ、あの時のリボン…………あぁーー!!」
泣かないと。彼のために泣かないと決めていたのに、崩れ去る決心。鮮明に思い出されるあの日のこと。このリボンを確かに覚えている。バレンタインにあげたチョコを包んだリボンだったから。その日、あたしは彼のものになったのに。
涙が止めど無く落ちる。握り締めたリボンが水分を吸い込んで、変色していく。悲哀の色。どうすることもできない慟哭。
あたしは両手を広げた。
「来て。ここに来て。あたしを抱きしめて…ずっと離さないで……ううん、二度と忘れないで」
何も無い空間に光が溢れる。あたしじゃないあたしが、分子を勝手に変質固定していく。手元に落ちてきたのは、あの日彼に渡したのと寸分違わぬプレゼント。リボンもカードもあたしの心からの想いも。全部含んだ愛しい記憶。
彼が忘れてもあたしは覚えているから。
だから、帰ってきて。
信じてる。
信じてる。
信じてるから……。
だから。
神様、お願い。今までわがままな子だったけど、良い子になるから。
だから、彼を帰して。
あたしの元に。
泡のように、手のひらにあった想い出は消失した。あたしの頬を伝う涙だけが、そこに愛しいものがあったことを教えている。色づいた太陽の光が差し込んで、部屋を全部染めていく。
あたしは立ち上がった。
涙を拭った。入れかけの段ボールを引き寄せて、リボンを丁寧に仕舞った。今は離れなければならないかもしれない。けれど、あたしが忘れない限り、彼との絆は失われることはないはずだから。
窓際に寄ると、ガラスを開いた。風が舞い込んでくる。髪を撫ぜる柔らかな感覚が、まるで彼の手のようで少し涙が零れた。沈んでいく夕日を見つめて彼に誓った。
「あたし、信じてるよ。帰ってきてくれるって」
呟きを胸に収め、あたしは片付けの続きに取りかかった。彼が訝しがらないように丁寧に整えながら。洗面台にあった歯ブラシを箱に詰めるのは辛かったけど頑張れた。
後ろ手に玄関を閉めた。
背をドアに預け、歩き出す決心ができるまで目を閉じていた。
あたしの笑い声。彼がおどけた顔で「ちー」と呼ぶ声。時が巡ればきっと叶うから。
通り過ぎる幻影に手を振って、あたしは足を前に進めた。立ち止まらないために。彼と生きるために。彼が好きだったあたしでいるために。
「だって、それがあたしだもの…ね」
□END□
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こんにちは。ライターの杜野天音です♪
初めて書かせて頂きました千里さんです。が、本編中に名前を入れてませんでした。ストーリー的に入れられなかったのです。すみません。
さて、悲しみ中ということで切なさ爆発のものを書かせてもらいました。ラストを悲しんだままでいる方がいいのか、それとも哀しいけど、元気を取り戻す方がいいのか最後まで悩みました。
けど、キャッチフレーズに「信じてる。帰ってくるって」とあったので、きっと千里さんは前向きに受けとめて頑張ろうとしてるんだなぁと感じ、ラストは元気になってもらいました。如何でしたでしょうか?
初めてなので、イメージに合っているといいんですが。
それでは、人生の転機を書かせて下さってありがとうございました。
私もきっと再び幸せな時がくると信じております(*^-^*)
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