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<東京怪談ノベル(シングル)>


流水と閃光の舞台で



「みなもちゃん、行けるわね?」
 確認のような催促のような、不思議な響きを持つ声だった。
はい、と答えようとし、彼女は言葉に詰まる。
もし、失敗してしまったら?
もし、間違えてしまったら?
もし、お客様に気に入って貰えなかったら?
もし……もし……
突然、のしかかる重圧。あまりの事に息ができず彼女は青い髪を微かに乱して、あえいだ。
「If」ばかりが頭の中に浮かんで、また、ずん、と何かが覆い被さる。
膝が、がくがくと震え、立っていられなくなった。
世界が激しく揺れ、それを自覚した瞬間、あ、と思う。
「これが……」
震えた声が、口内でわだかまる。後は言葉にもならなかった。
これが、緊張。
これが、恐怖。
越えていかなければ、ならないのだから。
本当に越えていけるだろうか。
怖かった。
自分の失敗は、劇の失敗にイコールで繋がってしまうのだ。それを知覚し、自覚した瞬間、世界は彼女に牙をむく。
怖かった。
自分の一挙手一挙動が、関わった人たちの全ての結果をきめる。
怖い。
両手で震える体を抱いて、それでも、にじんだ視界を先へ伸ばした。
そこは水の舞台。
流水と閃光が交錯する、彼女を待つ場所。
ここに至る為の全ての記憶が雷鳴のように脳裏に閃いた―――……








 中学生にも関わらず、様々なバイトに忙殺される、という生活を送っている彼女―――海原みなもは、学校の部活動に参加している暇は無く。
 けれど、水泳部と演劇部に幽霊部員として所属していた。
 その二つの部活の部長から、全部員が呼び出されたのはお昼休みの事で。これなら全員に話しができると踏んだのだろう。
 実際、普段は部活動に参加しない、もしくは出来ない、という生徒たちも集まり、人数は意外と多かった。
 そして、話というのが、
「ミュージカル、ですか?」
 という事らしい。
「そうよ、今年の文化祭は、水泳部と演劇部で合同して、ミュージカル風に行う事にしたわ。舞台は学校の温水プール。これなら他の部活と舞台を取り合わなくてすむしね」
 みなもの学校では、体育祭が行われない代わりに、文化祭が執り行われる。
 一般的には体育祭が運動部の最後の花で、文化祭が文化部の有終の美を飾る場所だが、この学校では、文化祭のみが行われるわけで。当然、運動部も力が入るわけである。
 インターハイも終了し、夏休みを終えて、部活動も無くなった三年生。企画には不参加な彼らを、後輩たちがその実力を見せることで、安心させる、という影の目的もある。
 と、そのような背景は今のみなもには関係ない。
「演目は何をやるんですか?」
 一人の一年生が挙手で尋ねた。みなもも、それが知りたかったところである。水の中でする演目といえば、幾つも思いつかない。
「よく聞いてくれたわね。当然、『人魚姫』。これ以外考えられないでしょう?」
 どこか勝ち誇った表情で、先輩はそう告げた。
 まぁ、確かに、とあちこちで同意の声が上る。
 『シンデレラ』、『白雪姫』に並んで、もっともポピュラーな童話の一つと言えるだろう。現日本で、知らない人間を探すほうが難しい。
 そして、『シンデレラ』『白雪姫』とは違い、悲恋でのアン・ハッピーエンドである事も周知の事実だ。
 人間の王子に恋をした人魚の王の末娘は、彼を恋しく思うあまり人の姿をとって王子の直ぐ傍に仕えるようになる。けれど、そのために美しい声を犠牲にしなければならなかった。やがて、隣国の姫と結婚が決まった王子。王子と結ばれなければ死を待つだけだという彼女のために、姉姫たちは美しい髪と引き換えに、ナイフを彼女に届ける。それで王子を殺せば、人魚姫は元の生活に戻れるというのだ。けれど、姫はそれが出来ずに、一人で泡となって消えてしまう―――
 切なくも美しい、純恋愛の骨頂。
 当然人魚であるみなもは、人の姿を取るのに妖しげな魔術師の力を借りる必要がない事を知っているし、声もなくならないと知っている。しかし、そこはみなも。白けてしまうどころか、きっと昔は人魚も大変だったのだ、と深く感動してしまうのである。
「でも、そのままやるような野暮な事はしないわ。シナリオは当然ハッピーエンドにダイジェストする事にしているの」
 もう脚本は出来ているのよ、と演劇部部長が言うと、水泳部の部長も一緒に頷いて、その手に持った、手書きだと思われる脚本を示した。
 それを合図に、よく部活動に参加しているのであろう一年生たちが、素早く台本のコピーを全員に回す。
 みなもの手元にもそれは回ってきた。
 開こうとして、また、演劇部の部長が注目を集める仕種をしている事に気がつく。
「いい事? これはお遊びじゃないわ。だから、真剣に取り組めると断言できる人だけ、中を呼んで頂戴。もし、やる気がないなら、今すぐ出て行ってもらって結構よ」
「どこから『あの人たち』にもれるか、解ったものじゃないからね」
 そこで、どうして先輩たちがそんなに真剣―――を通り越して必死―――になっているのかを、一年生たちは理解した。
 水泳部と陸上部は、犬猿の中である。別に激しい勢力争いが行われるわけではないが、部長同士は何かと衝突し、部員たちも微かな確執を抱いている。
 そして、今回の演劇部と水泳部の部長は、珍しく二人とも女生徒で、しかも親友同士。二人は団結して、打倒陸上部に燃えている、というわけだ。
 みなもは一瞬躊躇したが、それでも台本を開いた。バイトはいつでも出来るが、中学一年生の文化祭は一生に今回一度きり。
 どちらを選ぶかは、明白だった。
 そして、地獄の特訓が始まる―――




 午前五時、みなもは起床し、朝食を取らずに登校する。激しい運動をする為に、吐いてしまう可能性を考慮した結果だ。
 特に水中では胃が圧迫される。そんなわけで、文化祭に向けての朝練は皆が空腹に耐えて始まる。
「そこ! 足がつま先まで伸びてないわよっ!!」
「はいっ!!」
「そんな蚊の鳴くような声で、台詞が聞こえるわけないでしょ!? マイクなんてないのよっ!!」
「はいっ!!」
「ライトっ! どこを照らしてるの!? 人魚姫はここよっ!!」
「はいっ!!」
 先輩たちの気合の入りようは一種神がかり的なものがある、と一年生たちを怯えさせたが、台本を開いてしまった手前、誰もが必死で練習に取り組んだ。
 みなもの役は、『人魚姫の姉B』である。主役級は先輩たちがやる、と決まっていたけれど、どの先輩も裏方の方に行ってしまい、一年生が殆んどの役をやる事になってしまっていた。
 人魚姫と王子は二年生だが、それ以外は全て一年生、という状況になっている。
 中でもみなもは、両方に所属している、という事で演劇部の裏方と、劇の役を任されてしまい、練習量も半端ではない。
 一番最初の人魚姫の登場シーンと、一人ひっそりと城を出て行く人魚姫を見送るシーンが終れば、プールサイドの舞台の設営とメイク直しに借り出され、また、髪を切り落とすシーンになったら舞台に舞い戻る。
 他の役者たちは出番がなければ体を休めていられるが、みなもはそうはいかない。
 始終パタパタとあちこちを走り回り、忙殺されていた。家に帰れば、くたくたであった。
 そうこうしながら、文化祭までのカウントダウンが始まったある日。
「あれ?」
 昼休みに食事を取っていたみなもは、ふと窓の外を眺めて首を傾げた。昼休みにも稽古はあるが、短い時間で水に入るわけにも行かない為、台詞回しだけである。当然急いで食べる事が要求されるので、のんびりと外を眺めている暇はないのだが。
「どうなさったのでしょう?」
 思わず呟いてしまった。みなもの教室からは中庭が良く見える。その中庭に、演劇部と水泳部の部長たち、そして、人魚姫役の先輩が項垂れているのが見えたからだ。
 思わず、みなもは少しだけ窓を開けてその様子を観察した。
 声は聞こえなかったが、人魚姫役の先輩が、必死で同学年に頭を下げ、なにやら懇願している様子だ。興味を引かれるな、というのは無理な話である。
 二人の部長はニ、三言険しい表情でいい置き、去っていった。残された先輩は、酷く落胆した表情で近くのベンチに、倒れこむように座る。
 何か起こったのは明白だった。
 少しだけ逡巡してから、みなもは食べかけのお弁当に蓋をして、中庭に降りる事にした。あの先輩とは特別親しく言葉を交わしたことはなかったが、一緒に練習するようになって、その真面目さに一目置いていたのだ。放っておく気にはならなかった。
「あの?」
 声のかけづらい雰囲気だったが、何とか声を絞り出してみなもは尋ねた。
 なにか、あったのかと。
「本当は、こんな事言っちゃ駄目なんだろうケド……」
 先輩は少しだけ茶化して笑いながら、自分が座っているベンチの隣をぽんぽんと叩いた。つまり、ここに座れ、という意味だろう。
 そう解釈したみなもが隣に座った事を確認すると、先輩は小さく肩を竦める。
「丁度誰かに聞いてもらいたくて、うずうずした所。ちょっと付き合って」
「はい」
 自分からやってきたみなもに異存があるはずも無く。
「私、駄目みたいなんだ……」
 先輩はとつとつと話し出した。
 最近、母親が体調を崩しがちな事。それが心配で練習に身が入っていなかった事。それを見かねた部長たちが、手厳しい叱咤をしてくれた事、などを。
「解ってたからね。なんにも言い返せなかったんだ、私。頑張ろうって、思ってたんだけど」
「先輩はとても真面目に練習していらっしゃるじゃないですか」
 思わず、みなもはそういった。
「真面目にやっても、成果がついてくるとは限らないんだよ」
 少し淋しそうに笑った横顔。みなもは何だかやりきれなくなった。
「だって、先輩は何も悪くないじゃないですか」
 もし自分の家族が体調を崩したら、今までどおり練習できるか、と彼女は考え、首を振った。出来るわけがない。
「ご家族が心配で当たり前じゃないですか。それを部長方には……」
「言ってないよ。なんだか、いい訳みたいで恰好悪いじゃない」
「そんな問題ですか?」
「そう。ちっぽけだけどね。これでも矜持があったりするわけよ。折角主役を貰ったのに、この程度で駄目になるなんて思いたくないってね」
 相変わらず、先輩は空を見上げたままだった。
「駄目って言うわけじゃないんじゃないですか? だって、勉強も部活も、家族あってのものですし、それをちゃんと言えば、部長方も解ってくださると思います」
 真面目な顔で言うみなもに、先輩は一瞬だけ目を向け、そして笑み崩れた。
「海原さんって、ホントにイイコだね。私なんかとは全然違う。そうだね。あなたなら……もっと違う答えが出せたのかもしれないわね」
 私、と何か言いよどんだ先輩。みなもは嫌な予感がした。
「役を下ろしてもらう事にしたの」
「どうしてですか!? 折角主役がもらえたって……」
「だから、これ以上無様になりたくなかったの。折角のいい役だから、綺麗な引き際を残したかったの」
 どこか清々しく、けれど、未練の残った笑み。
 みなもは、ごく珍しく、悲しみを通り越して怒りに似た感情を抱いた。
 ずっと一緒に練習してきたからこそ、解るのに。
 この先輩が、どれ程必死だったかを。どれほど、この役をやりたかったかを。
 見かけるたびに、通学中でも移動教室の間も、いつも片手に台本を持っていた。
 放課後も、皆帰ってから一人で居残って練習をしていた。
 朝練だって、いつも一人だけ一時間早く登校していた。
 それは、並大抵の努力ではないはずだ。
 しようと思って、誰にでもできることではない。
 その努力をしてきた人が、どうして駄目だなんて簡単に口にしてしまうのか。
 それだけ必死になれる人が、どうしてそうもあっさり引いてしまうのか。
「私、そんなの納得いきません」
 断言する、強い口調。
 青い瞳に、熾烈な光が煌めいた。
「今更先輩が止めてしまったら、誰が変わりに人魚姫をするんですか?」
 うーん、と考えてから、先輩は茶化した表情で、
「あなたなんか適任じゃない?」
 といった。
「馬鹿にしないでください」
 鋭い口調で、みなもはその提案を一刀両断する。
「そんな風に、幽霊部員の私に譲れる役じゃないんでしょう? どうして、もっと素直にならないんですか? やりたいんでしょう?」
 また、彼女は横顔を見せる。
 先ほどと違うのは、その瞳に浮かんだ涙。それを落とすまいと、必死なのが解った。
 そんな事に必死になるくらいなら、どうしてもっと役に執着しないのか。ますますみなもは憮然となる。
「ご家族が心配なら、心配だって部長方に言えばいいじゃないですか。ちょっとくらいなら、練習量を減らしてくださるかもしれません。励まして、くださるかもしれない。でも、先輩が何も仰らないから、部長方は何にも出来なくて………」
 声に詰まりそうになりながら、それでも必死でみなもは言葉を紡ぐ。
「そんなに簡単に役を下ろしてくれ、なんていわれたら、今まで信じていたもの全部が崩れてしまうじゃないですか。だってきっと、部長方は、先輩のこと信じているから……だから、人魚姫をやって欲しくて……先輩ならきっと出来るって思ってるから……厳しい事も言えて……どうして、その思いを簡単に踏みにじったり出来るんですか? 私だって…ずっと先輩が凄いと思ってました。人一倍練習してるのにそれを見せなくて、私たちが失敗しても笑って許してくれて……そんな人が辞めるなんて……それってあんまりです」
 何とかいいきった声は、途中から涙で潤んでしまったけれど。
 先輩は何も言わずにみなもを抱き寄せた。
 そんな事をしている間に昼休みはあっという間に終ってしまって、二人は別れの挨拶もそこそこに各自の教室に戻ったのだった。
 そして放課後、どうやって昼休みの練習をサボった事を謝ろうかと考えながらプールに行くと、そこには、いつもと同じ笑顔で練習している人魚姫の姿。
 そういえば今日は、衣装が出来上がってくるからと、それを身にまとっての通し練習だった。みなもは今更ながらに思い出す。
 目の前で、金の豊かな髪をかきあげた人魚姫。その耳は魚のエラで覆われていた。プールサイドにゆっくりと立ち上がった瞬間、あちこちから感嘆の溜息が漏れる。
 ラメの入った全身タイツの水着。それはとても恥ずかしいものに思えるはずだが、着ている人が堂々としているので、堂の入った姿だった。
 足の部分には紺碧の鱗が縫い付けてあり、背中から腰にかけてと、腰骨の両横、二の腕にヒレがついていて、水を滴らせている。
 美しい人魚姫は、ぼんやりと見とれているみなもに穏やかに笑いかけた。
「ありがとう、海原さん、あなたのお陰で、私、吹っ切る事が出来たみたい。この通り、役も続けてさせてもらうわ」
 先輩の言葉が脳内で解凍され、やがて理解が広がった瞬間。
「はい、これからもよろしくお願いしますっ!」
 満面の笑みが咲いて、みなもは頭を下げたのだった。










 劇開幕、一時間前。
「母が……倒れた?」
 ぼんやりと、彼女は呟いた。それはずっと恐れていた事体だったけれど、確かな声で告げられれば、ショックを感じずにはいられない。
「そ、それで!? 容態は!?」
 伝えにきた教師に掴みかかるように、尋ねる。その教師は慌てた様子も無く、そっと彼女の肩に手を添えた。
「緊急の手術が行われるそうよ。命に関わる、ものらしいわ」
 ざわ、と楽屋が揺れる。頭の中には、もう母への心配しかなかった。こんな状況で、この難しい劇をやる事はできないだろう。
「先輩……」
 何時の間に傍に来ていたのか、彼女の後輩が心配そうな表情で立っていた。まだ、衣装には着替えていないようだ。
 一瞬で、心は決まった。
 あの時のように、自暴自棄ではなく、それは揺るぎない決意。
「これを、あなたに頼むわ」
 手に持っていた人魚姫の衣装を、ぼんやりとしている後輩の手に押し付けた。
「いいでしょう?」
 振り返って部長の二人に聞けば、二人は迷い無く頷く。
「え? ちょ、ちょっと待ってください」
「聞いて、海原さん。私はもうこの役が出来ないの。母が心配で居ても立ってもいられないもの。劇はまた出来るかもしれない。けど、母の死に目に会えるのは、一生に一度きりよ。だから、あなたに託すわ。ずっと一緒に練習してきたもの。あなたなら出来る。そう信じているから、それを託すの。人の気持ちを踏みにじるなと私に言った、あなたなら解るわよね?」
 その後輩は、逡巡しなかった。
 言葉を聞いて、そしてはっきりと頷いてみせる。日本人離れしたその青い瞳が、強い光を湛えて煌めく。
「お任せください」
 その言葉が聞ければ、あとはもう、何の心配も要らない。
「お願いね、みなもちゃん!」
 幽霊部員だったけれど、練習は人一倍やっていたのを知っているから。だから、彼女に託すのだから。
 背を向けて走り出した。











 まだ想い出になりきらない記憶たちが、みなもの心を決めさせた。
 この舞台を目前にして、断念せざるを得なかった先輩。それを許してくれた部長たち。そして、ぶっつけ本番のみなものサポートを快く引き受けてくれた同級生と先輩たち。
 どの気持ちも、踏みにじるわけには行かないのだから。
「みなもちゃん、いけるわよね?」
 もう一度尋ねられた。
 今度は、震えない。
「はい、行きます」
 はっきり頷いた。
 滲んでいた世界は、いつの間にかクリアになって。
 エラだけになってしまったウィッグは、最後の最後に演劇部の部長が、あなたなら地毛の方が似合うから、と金の髪を外してしまったものだった。
 キラキラと光を反射する紺碧の鱗。水中で水を切り裂く背中と二の腕と腰のヒレ。
 自分が人魚姫だと言い聞かせて。
 先輩、私に力を貸してください。
 そう、願って。
 電気の落とされた温水プールに、みなもは音も無く飛び込んだのだった。






 嵐で海に投げ出された王子様。
 その王子様を助けたのは、彼を見詰めていた一人の人魚姫。彼女は人魚の王の末娘で、誰よりも美しい声を持つといわれていた。
 そんな彼女と、王子は一目で恋に落ちる。
 人魚と知って、それでも彼女を望んだ王子様。
 人とは相容れぬと知って、それでも王子様に恋した人魚姫。
 やがて、人魚姫は一人で決めてしまう。城の奥深くに住まう魔術師に、人になる秘薬を頼んだのだ。代償は、彼女の美しい声と、人魚としての生。
 二度と戻れぬと知っていても、人魚姫は一度も城を振り返らずに地上へと。
 王子様を助け、二人して恋に落ちた砂浜で、人魚姫は喉が焼けるような薬を、一息で飲み干すのだった。
 気がつけば彼女は、王子様の腕の中だった。しかし、事情を聞きたがる王子様に、人魚姫は何もいえない。
 それでも二人は暫くは共に過ごすが、それを見かねた王様が、王子様の結婚を勝手に決めてしまう。相手は隣国の、美しさと気立てのよさで評判のお姫様。
 王子様はそれを人魚姫に相談し、共に逃げてくれと頼み込む。
 だが、人魚姫はそれには頷けなかった。声を失い、人として生活するには彼女は無知だった。そして、王子様も。
 二人きりではきっと、生きていけない。
 そう思った人魚姫は姿を消す。
 何も言わずに、何も書きおかずに姿を消してしまった人魚姫を、王子様は探す事をしなかった。探し出しても、彼女の決意は変わらないと思ったから。自分の元を去ってしまったのだと誤解したのだ。想いが冷めてしまったのだと。
 そして、王子様は王様の決めてしまった結婚の日を迎える。嵐の日に乗っていた豪華な船で、各国の要人が集う華美な結婚式。
 現れたお姫様は、確かに美しかった。笑顔の何と優しげなことだろう。
 それでも、王子様が胸を焦がす相手は人魚姫ただ一人。
 そんな頃、人魚姫はたった一人で船の甲板に立っていた。王子様と結ばれる事ができない彼女は、泡となって消える運命。それを救うために、姉姫たちがその美しい髪を断ち切って、王子様の心臓を貫くナイフを届けてくれる。
 そのナイフで王子様を殺せば、声も、人魚としての生も、人魚姫は取り戻せるのだ。
 けれど、心優しく、そして王子様に恋をしたままの人魚姫には、それは出来なかった。
 一人きりで、海に身を投げ出そうとしたその時―――


「姫っ! 人魚姫!」
「―――っ!?」
 二の腕をつかまれ、彼女は無理矢理甲板に引きずりあげられた。
「よかった……間に合いましたね。貴女の姉姫が、私に真実を告げてくれました。何も知らず、貴女を追わなかった愚かな私を許してください」
 しっかりと人魚姫を抱すくめた王子様。彼の声が震えている事に、人魚姫は気がついた。
「そして、もう一度いいます。私と結婚してください。声が無くとも、例え貴女が目が見えなくとも、貴女であれば、それでいいのです。私の愛した貴女であれば。そして、私を愛してくれた貴女であれば」
 人魚姫を抱きしめる手に、力が篭った。国の要人たちが、王子様を追いかけて集まってくる。けれど、彼はそんな事には頓着しない。
「国は弟が継ぐでしょう。こんな愚かな男が国政をになうことは出来ません。ですから、安心して私の元へきてください。畑を耕し、牛や羊を飼い、子を育て、やがて老いて死に逝くまで」
 人魚姫は、もう何も言えずに、その体を抱き返す。
 そこへ、隣国のお姫様が現れた。
「王様と、私の父にお伝えください。私は、ここの王子様とは結婚いたしません。こんなにも深く他の女性を愛している方と、どうして望まぬ結婚をさせる事が出来ましょう」
 お幸せに、といい置いて、彼女は去っていく。
「―――っ………まっ………王子……様ぁ……」



 その瞬間、彼女にかけられていた呪が解けた。
 声が返り、そして、人魚姫は気付かなかったけれど姉姫たちの、美しい髪も元に戻って。
 呪をかけた魔術師が現れて言った。
 真実そこに愛があるなら、すべての柵と障害を越えていけたなら、やがてお前は人魚と人間の間を繋ぐ、架け橋になることだろう、と。
 何年も後、人魚姫とその子供たちは海と陸を好きに移動できるようになって。
 王子様は、また、王の下で働くようになって。
 二人は、何時までも幸せに暮らしましたとさ。
 
 めでたし、めでたし。













 アナウンスがそう告げて、一瞬の沈黙の後、爆発的な完成が全員を包んだ。
 ハンカチを握り締めている女生徒。
 目元を拭う仕種をした厳しいことで有名な数学教師。
 あぁ、と思った。
 感動してくれたんだ、と感動した。
 やがて照明が一つ二つと落とされて、それでも歓声は途切れなくて。
 最後に全員が礼をして、また、拍手が送られた。
 舞台挨拶が終わった後の楽屋には、元人魚姫役の先輩が来ていて。
「いい演技だったよ。私がやってもあれほど出来たかどうか……」
 いいながら、先輩はみなもの目元に浮かんだ涙を拭った。
「感情移入してしまって……」
「いい事だね。そうそう、母の容態は、盲腸だったの。最近具合が悪そうだったのはそのためで、緊急手術っていうのは、我慢しすぎてて破裂寸前だったからだったわ。心配かけたわね」
 そして、先輩は笑って付け足した。
「その衣装はみなもちゃんに上げるわ。その代わり、着替え終わったら一緒に文化祭を回りましょう? そのくらいの我がままには付き合ってくれるわよね?」
 夏の終わり。
 秋の始まり。
 学校の一つの行事を乗り切って、生徒たちはまた一つ、大人への階段を上った。
 団結の意味と、努力の素晴しさ。
 そして何より、友情を育む必要性を知って。
 文化祭は閉幕を迎える。




END