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<東京怪談ノベル(シングル)>


果てと為りて

 鼓動が響く。
 自らの鼓動だ。全身を駆け抜け、響き渡っていくようだ。リズム良く、ドッドッと何度も体を打ち付ける。耳に聞こえるものはその鼓動だけであり、頭を支配しているのは真っ白な空間だけだ。
 鼓動が響く。
 地響きのような鼓動だ。いつしかそれによって打ちのめされてしまうようだ。そのような事は全く望んでいないというのに。否、望む以前にそう思うような余裕は全く無い。ただあるのは、目の前に広がった光景だけだ。
(護る為に、あの人は赴いたのに)
 風上・地華(かざかみ ちか)は、長い黒髪がさらりと落ちてくるのも構わず、頭を垂れた。
(高名な退魔師だった。私の相棒だった)
 地華の青の目に、心の中の炎が宿る。怒り、絶望、悲しみ、苦しみ……。ネガティブな感情だけが支配し、打ち寄せる並みの如く地華を苛める。
(何があった。どういう理由があった)
 本当は、その答えなど必要なかった。大事なのは有るか無いかだけであり、無くさせたもの全てが、ただただネガティブを引き起こさせているだけだ。
(ああ、ああ……!また繰り返すというの……?)
 地華は目の前に繰り広げられている光景から、思わず目を逸らそうとした。だが、それは出来なかった。否、許されなかったのだ。
(知っているわ……知っているのよ……!)
 眼前に広がる光景は、過去の出来事だ。今、現実に起こったことではない。過去に起こったことなのだ。何度も何度も繰り返し見てきた。そのたびに何度も何度も打ちのめされてきた。
(まだ、足りないというの?)
 何度も苛められ、何度もネガティブな感情を喚起され、何度も心を砕かされ……何度も、何度も……!
 まるでメビウスの輪のようだった。終わらぬ輪。繰り返される業。助けを呼ぼうとも声が出ぬ。逃げ出したくても足が動かぬ。
(ああ……)
 地華は両手で顔を覆う。少しでも、逃れられるかもしれぬという微かな希望を抱きつつ。だが、例え手で覆っても、絶望は絶望でしかなかった。逃れる事も出来ぬ。逃れる事すら許されぬのだ……!
「ああ……あああ!」
 地華は叫び、がばっと起き上がった。はあはあと肩で息をし、暫くの間は目を見開いたままだった。暫くしてようやく呼吸が落ち着いてくると、全身が酷く汗をかいているのに気付く。震える手で髪をかきあげ、傍に置いてある時計にそっと手を伸ばした。午前4時。まだ日も昇らぬ時間だ。
「……また、夢……」
 地華はそう呟き、ぐっと唇を噛み締めた。夢であったが、現実に無かった訳ではない。もう何度となく見てしまっている、現実にあった出来事だ。
「だから……」
 地華はそう呟きかけ、大きく溜息をつく。
(だから、睡眠は嫌いなのよ)
 そう思い、再び布団に寝転がる。もう眠気は全く無かった。全身の汗も、半ば渇きかけている。
(……眠りは、嫌い)
 地華はぐっと奥歯を噛み締めた。目を開けても閉じても、暗闇が追いかけてきた。
(嫌いだわ)
 外からうっすらと光が差してきた。夜明けだ。地華はそっと起き上がり、カーテンを開いて目を細める。ゆっくりと明るくなっていく空の端の光は、地華の心にまで差し込む事はなかった。


 地華は中に土の入った小瓶をぎゅっと握り締めながら、川辺にあるベンチに座っていた。
「……このままじゃ、いけないわ」
 ぽつりと呟き、さらに強く小瓶を握り締める。夕日がゆっくりと沈んでいこうとしている。
 誰が呼んだか、逢魔が時。
「今日は、本を読んだわ」
 ぽつり、と地華は呟く。今話題の、ファンタジーの本。分厚いハードカバーの本は、活字と共に地華をファンタジーの世界に誘おうとしてくれた。突如現れる魔物や、心躍るような楽しい出来事、色とりどりのお菓子。どれも地華が浸るのには充分な内容だった。
(でも、駄目だったわ)
 完全に地華を誘う事も、浸らせる事も本にはできなかった。
「買い物もしたわ。冷凍食品が安かったし」
 ぽつり、と再び地華は呟く。デパートに行けば、一番上から一番下までじっくり見て回るだけで、楽しくなる筈だった。服を見て値段と財布とを見比べたりだとか、可愛らしい小物を見て回ったりだとか、本屋で立ち読みをしてみたりだとか。地下に下りれば、試食をしながら安いものを見て回ったりだとか。
(だけど……駄目なのよ)
 地華の心に巣食う思いは、決して消えることは無かった。地華は小瓶の表面を指でなぞる。つるりとした感触が、何となく落ち着きをもたらすのではないかという、小さな希望を抱いて。
(忘れられないわ。一時だって、頭から離れないのよ)
 どうしてこのような事になったのだろうかと、地華は思う。例え何をしたとしても、地華の心は亡くしてしまった人への思いに捕らわれてしまっている。逃げ出したいと思わなかったことも無い。だが、逃げ出したいと思う以上に、捕らわれている事自体が大きすぎるような気がしてならないのだ。逃げ出したいという思い以上にある、捕らわれているという事実。
(愛していたわ。大事に思っていたわ。これ以上に無いくらいに、傍にいたいと思っていたのよ)
 そしてそれは、今も変わらず地華の心を占めている。
(でも……それは絶対に叶わないのよ……!)
 小瓶を強く握り締める。渇望しても渇望しても、それは絶対に与えられる事の無い願いだった。地華がどれだけ願ったとしても、地華がどれだけ苦しい思いをしているとしても。
 渇望が満たされる事は、決してないのだ……!
(歩き出せないわ。歩き出さないといけないのに、足が動かない)
 地華はぐっと奥歯を噛み締める。そうしないと、涙が溢れてきそうで。暫くし、そっと息を吐き出す。自らを落ち着けるかのように。
(私が昔に還れるのは……)
 ふと地華は思い起こす。
(そう、近所の子ども達と触れ合う時。そして……)
 地華はベンチからそっと立ち上がる。いつの間にか、辺りに人気は無くなっていた。落ち行こうとする夕日は、既に空を赤く染め上げているだけだ。
「……出てきなさい」
 地華は小瓶の蓋をそっと開ける。辺りを支配する空気が、心なしか冷たい。
(出てこない気かしら?)
 小瓶の中に入っている土を、掌に出す。地華がその土に気を送ると、土は地華の思い描く剣となる。
(悪を、断たないと)
 地華の頭を支配するのは、その事だけだった。この瞬間だけは、地華を捕らえていた思いよりも悪を断つという妙な使命感の方が勝ったのだ。
「出てきなさい」
 再び地華がそう言うと、空気が一瞬躍動し、集結して黒い人型となった。地華はぎゅっと土の剣を握り締める。
「あしきものは……滅ぼすわ」
 最近、子ども達が口々に言っていた。川辺の方で遊ぶと、必ず怪我をする子が出てくるのだと。地華はそれを「あしきもの」がやっているのだと判断し、赴いたのだ。
(悪は……全て滅するわ)
 地華は剣を振り上げ、思う。悪を全て消滅させる事が不可能である事は、重々承知している。だが、それでも剣を振るわずにはいられなかった。
(知っている。……これは、偽善)
 全ての悪を消滅させる事は、決して叶わぬことだ。不可能である事をしようとしている自分は、結局の所は偽善者だ。
(知っている。……本当の悪は……本当の悪は……!)
 地華は剣を振り下ろす。剣は的確に黒い人型となった「あしきもの」を捉えた。声にならぬ叫びを発し、「あしきもの」は空気に消えていく。冷たかった空気が、徐々に戻っていくのを感じさせながら。
「……知っているのよ」
 完全に消え失せてしまった後、地華はぽつりと呟いた。既に夕日は空から消え失せてしまい、辺りは闇が支配してしまっていた。ただただ、月の光だけが地華を照らす。
「救えなかった……」
(私、が……)
 地華はぐっと唇を噛み締め、再び土の剣を下の土に戻し、小瓶に戻した。土は、月の光を柔らかく受けながら、さらさらと小瓶の中へと収まっていくのだった。

<思いは果てと為りても収まる事なく・了>