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<東京怪談ノベル(シングル)>


蝉、死んだ


 氷屋が行った。
 汗を吸ったシャツ一枚のその背を見送って、鬼童はひょいと氷塊を抱え上げる。やあ、鬼童が力持ちで助かった、と主人がうれしそうな声を上げた。彼は先日、少し腰を痛めてしまっていたのだ。
 それだけが取り得なもので、と鬼童はうっすら笑ってみせた。
 おにぃ、ちからもち、ちからもち――鬼童の足元で、ぴょいぴょいと跳ねながら、主人の息子が歓声を上げていた。

 地名もよく知らないし、どこが南かもよくわからない、生来の方向音痴である彼が、この小さな町に流れ着いたのは、春のことだった。
 すでに歳を数えるのも億劫になっていて、世間の動きにも大して興味を持たない彼であったから、年号が『昭和』に変わっているということを、その民宿で初めて知ったのだ。古びた民宿に鬼童がふらりと立ち寄ったことには、特に理由も宿命もなかった。
 持ち合わせもねぐらも持たぬ鬼童は、いつからかその古い民宿で働いていた。おかみが作る新鮮な山菜の天ぷらや、芋の煮付けは旨かった。主人とおかみはと言えば、餓鬼のような鬼童の食べっぷりが可笑しかったか、嬉しかったのだろう。それに主人はよく腰を痛めるたちで、細身にそぐわぬ金剛力の鬼童は、使い勝手がよかったのだ。夫妻の跡取りはいるのだが、今年でようやく3つになったばかり、手ぬぐいを洗うことも出来はしない。
 その、3つになったばかりのぼうずは、すぐに鬼童になついた。
 気がつけば、鬼童は雇い主の息子から、「おにぃ」と呼ばれるようになっていた。

 おにぃ、いっしょにおてだま、しいせんかぁ。
 おにぃ――おにぃ。

「おにぃ、おにぃ、せみぃ、せみぃ」
「ああ、そうか。蝉な。網をかせ、獲ってやる」
「あだぁ! あだぁあ!」
「……わかったわかった、自分で獲りたいんだな。なら、おにぃは――俺は、手伝うだけだ。それでいいな?」
「あぁい!」
 ふたりで振りかぶった網に、ぴっと小便をひっかけて、クヌギにとまっていた蝉が逃げていった。

 ひゃあ、おにぃ、おにぃ! せみ、しんどる!
 なあ、おにぃ、せみて、すぅぐしんでまうんなぁ。
 おにぃ、おにぃ、せみでおてだましぃせんかぁ。

 いつの時代も、子供は蝉が好きなのだ。
 鬼童には蝉の思い出がいくつもある。おにぃと呼ばれた思い出も、いくつも、というほど多くはないが――確かにあった。
 肩の高さで、ぱっきりと漆黒の髪を切りそろえた、紅い着物の禿。
 どれほど、前のことだったろう。年号が昭和でも大正でも明治でもなかったのは、確かだ。
 部屋を掃除していて、鬼童は名も知らぬ大きな虫の死骸をみつけた。死骸をつまみあげて、鬼童はゆっくりと溜息をつく。
 ――ここに居ついてはならん。俺は業を背負い、禍を呼ぶ。いとしいものであればこそ、俺は付かずに離れねばならん。何度悲しめば気がすむのだ――。
 ぐるる、と腹の虫が泣いた。
 腑が締めつけられるほどの飢えが、またやってきた。
「――ごめんください」
 客だ。
 はっと、鬼童は虫のくずかごに捨てた。

 すらりとした体躯の少年は、美貌で、異人かと思えるほどに色が白かった。絵描きを目指し、片田舎の風景を描きながら旅をしているのだという。この町の風景に心動かされたから、しばらくこの町に居座りたいとも語った。
 鬼童が応対していると、買出しに出かけていた夫妻が帰ってきた。
 美貌の少年は鬼童にした話と同じようなことを主人に話した。宿泊代はとりあえず10日分前払いするとも、言った。
 そうそう客も多くはない民宿であったから、前払いの少年は歓迎された。
 ただ――鬼童は、あまり気乗りがしなかった。すぅっ、と目を細めて敷居をまたいだ少年は、確かに血の香りを帯び、鬼童に流し目をくれたのだ。

「おにぃ、こおり、こおりあずき」
「ああ、いいな。今日は暑いからな」
 そうして氷あずきを食べたのが、生きていたぼうずとの最後の思い出だ。
「おにぃの、こおりあずき、うめぇ、うめぇ」
 すぅっ、と鬼童は目を細めて、ぼうずに流し目をくれた。


 夫妻が、泊まりがけで隣町に用事を足しに行っていた。
 留守と夫妻の息子は、すっかり信頼を置かれるようになっていた鬼童が預かることになった。今のところ、客は例の絵描きを目指す少年ひとり。しかもその客は食が細く、朝早くから日が暮れるまで良い風景を探しに出かけてしまうため、手がかからなかった。むしろ、息子の世話のほうが、難儀であった。
 朝になって、その子の姿がないことに、鬼童は気がついた。
 昨晩は久し振りに涼しかったから、ぐっすり眠ってしまったのだ。その間に、何が起きたのか――。
 血だ、
 血が薫る。
 ぞわりと総毛だった。鬼童は血の芳しい香りを追って、民宿を飛び出し、町外れに向かっていた。

 血だ、
 血はそこにあり、かすかに酒の匂いまでする。
 にちゃにちゃ、ごきゅり、みちゃみちゃ、んぐぅ、
 咀嚼と嚥下の音までするではないか。もう夜は明け、逢魔ヶ刻は過ぎたというに、この傾いた物置の中には、魔がいるのだ。誰のものとも知れぬ木造の物置の中は、むっとする臭気に満ちていた。
 呆然としている鬼童の前で、手と口をせわしなく動かす少年がいる。少年のそばには、小さな新しい骸があった。すでに柔らかく美味い部分は喰われてしまって、骨と肉が残るばかりになっている。しかし、頭はほとんど手付かずだった。人喰う魔物の癖のひとつだ。はらわた、肉、骨の髄と食べていって、首は最後まで残し、酒の肴にするのだ。
 首には、痛みと恐怖が張りついていた。
「貴様――」
 牙を剥いて唸り声を上げた鬼童に、ようやく気がついたらしい。少年が振り向いた。
 美貌は、血と肉片を浴びてなお美しい。そして、あどけなくもある。
 鬼ではない。おにわらしだ。
「貴様!」
 かかか、と乾いた笑いが少年の口から漏れ始めた。
 乾いた笑いは、すぐにげらげらという耳障りな哄笑になった。
「その牙……目……匂い。はらからに会うのは、もう20年ぶりだ。どうした、何を驚く?」
 にちゃり、
 少年は――物の怪は、舌なめずりをした。血で汚れた舌で拭っても、。血で汚れた唇はきれいにならぬ。
 牙を剥いた鬼童の喉の奥から、紅蓮の怒りが、唸り声となって漏れだした。
 物の怪は、まだ短い腸を引き出すと、ぐちり、と食い千切った。
「やめろ」
 二度ほど咀嚼し、ごきゅりと嚥下。
「やめろ!」
「なんだ、おれは、おまえの獲物を横取りしてしまったのか? そうか、それで怒っているのだな――まだ首は残っているのだ。ともに酒でもやらんか。それでおまえの腹の虫もおさま」
 哄笑が、唐突に止んだ。
 鬼童の拳が、物の怪の頭を叩き潰したのだ。
 鬼童の細い腕には、びしびしと醜い血管が浮き上がり、ヒトならざるものの力がみなぎっていた。首を失った物の怪の身体が、子供の小さな骸の横に、どうと倒れた。

 物の怪の血と脳漿で汚れた手をみつめ、開け広げられた子供の遺骸に目を移す。
 弔うのだ。
 葬ってやらなければ。
 あの夫妻に、何と言おう――。
 やっと出来た子供だと、あんなに嬉しそうに話していた――。
 そこに酒がある。
 そして、肴が。
 目をいっぱいに見開いて、おにぃ、たすけて、と叫ぶ首が。
 あッ、と叫んで、鬼童はその場にうずくまった。眼窩の痛みは、彼をたちまち打ちのめす。

 みろ。みるがいい。おまえがまたしても呼び起こした禍だ。おまえの業なのだ。
 とくと味わうがいい。痛みと恐怖と絶望を。

 流れ落ちる涙は、きっと痛みのためのものなのだと、鬼童は自分に言い聞かせた。
 言い聞かせ続けた。
 ひぐらしが鳴いていた。




<了>