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<東京怪談・PCゲームノベル>


Need Your Help! -Autumn Blue Skies-


    01 prologue

 女心と秋の空が何とやら。
 街はすっかり秋の気配に染まっている。
 街路樹は仄かに色づき始め、吹き抜ける風は凛と身を引き締める冷たさだ。クリアな青色の空に、白い雲が悠々と泳いでいる。けれど一旦機嫌が悪くなると土砂降りの雨だったりして。
 気まぐれな季節だ。主に空と夏樹さんが。
 ――と、ぼんやりした顔つきでべったべたの恋愛小説なぞを読んでいる橘夏樹を見て、寺沢辰彦は思った。
 東京某所、ジャズバー『Escher』。
 午後五時という時間のせいか辰彦の他に客はなく、アルバイト店員の橘夏樹は、こうして仕事をサボって恋愛小説なぞを耽読しているわけだが。
 その本のタイトルが、これまたセピア調の映画みたいに甘ったるい。表紙では美男美女が遠慮がちに絡み合っている。えーと、あれだよあれ。カナダの某所に本社を構える、恋愛小説中心の出版社のさ……。
「夏樹さんが似合わないもの読んでる……」
「来るなりその言い草は何よ」
 橘夏樹は文庫本から顔を上げ、こちらを睨んできた。
「だって恋愛小説なんて、夏樹さんに似合わないものベスト3に余裕でランクインしますよ?」
「失礼ね! 客があんたみたいな見慣れた顔触ればっかりでときめきが足りないのよ、ときめきが! わかる!?」
「はぁ、ときめきですか……」
 生憎女心を持ち合わせていない辰彦は、いまいち夏樹の主張を理解しかねた。もっとも昔は、『女心と秋の空』ではなく『男心と秋の空』と言ったらしいが。
「要するに」夏樹の顔と文庫本の表紙を見比べる。「なんとなく切ない季節が巡ってきて、恋人のいない夏樹さんは、寂しさのあまりロマンスで自分を慰めているわけですね?」
「あんた、私に喧嘩売ってるでしょ……?」
「小説に出てくるような恋愛なんて、夢想するだけ無駄っていうか、馬鹿馬鹿しいと思いません? 地に足をつけて生きましょうよ。ていうかいい男なら目の前にいるじゃん。夏樹さん贅沢だなー」
「誰よ」
「僕」
「あんたじゃ駄目。もっとこう、なんていうのかしら、目を見張るような美形っていうか?」
「生粋の日本人にそれを求めないで下さい」
「だからあんたには求めてな――」
 いつもの不毛な議論(?)が始まりかけたところで。
 静かに扉が開き、新たな客が入ってきた。
「あ、いらっしゃいま――」
 営業用スマイルを浮かべて客を迎えようとした夏樹は、終わりまで言わずに凍りついてしまった。
 無理もなかろう。そこにステッキをついて立っていた男は、男女問わず魅了してしまうような絶世の美の持ち主だったのだから。
 ――ささやかなロマンスの、到来であった。少なくとも夏樹にとっては。
「Escherというのはこちらですね」
 あまりに綺麗な顔立ちのせいで年齢不詳の青年は、穏やかな、耳に心地良い声で言った。流暢な日本語だ。
 背中の中ほどまで緩やかに伸びた髪は銀色、瞳は秋空のように透き通った青。肌は白く、どこかヨーロッパの血が流れているのではないかと思わせる。仕立ての良いスーツを纏っており、杖をついているものの、その姿勢は良かった。
 ――くらくらと眩暈を起こしてしまいそうな、まさに美形、である。
 青年は僅かに首を傾けた。長い髪がさらりと揺れる。
「紅茶をいただけますか?」
「あっ、はい! おかけになって下さい、どこでも好きなところに!」
 青年は洒落た細工が施してあるステッキを軽くついて歩いてくると、アップライトピアノの前の席に腰を降ろした。足が悪いらしい。
「あ、あの……紅茶の種類は何に致します?」
 夏樹さん、どもってるぞ。と心の中で突っ込む辰彦。自分の存在が既にアウトオブ眼中であることなど百も承知なので、大人しく新たな客の動向を見守っていることにした。
 というか、同性の辰彦ですら目を奪われずにはおれない容姿の持ち主である。いっそ人間離れしているといっても良いくらいだ。
「何かお勧めのものがあればそれをいただきます」
「じゃあ、えっと、秋摘みのダージリンはいかがですか? 香りは弱いですけど、味は良いですよ」
「オータムナルですか。良いですね、それをいただきましょう」
 青年はテーブルの上で細い指を組んだ。うわー、こんな場末のジャズバーには似つかわしくない優雅さだよ。
「あの……」夏樹は紅茶の準備をしながら、青年の顔を上目遣いで伺った。「うちの場所、どなたかにお聞きになったんですか? お世辞にも流行ってる店とは言えませんし」
「ジャズ愛好家の間では有名ですよ。良い演奏を聴かせてくれると」
「うちはアマチュアプレイヤーしか来ませんよ」
「若い方々に演奏の場所を提供するのは大事なことでしょう。是非アマチュアの方の演奏も聴かせていただきたいものですね。私はどちらかというとクラシックを聴くことが多いので、ジャズはさほど詳しくありませんが――」青年はふと目を上げた。「パーセルの……『ディドとエネアス』ですね。ディドの嘆きですか」
「あ」夏樹は、しまったという顔をした。
 ジャズバーというだけあって普段のBGMはジャズなのだが、今はごく控えめな音量でオペラ・アリアが流れていた。ヘンリー・パーセルのオペラ、『ディドとエネアス』の終わりのほうで、ヒロインのディドによって歌われる曲だ。
“Remember me...私を覚えていて、ああ、けれど残酷な運命は忘れて”。
 要は悲劇である。
「これ、課題曲なんです」夏樹はぺろりと舌を出した。「曲を変えますね」
「このままで構いませんよ。――課題曲とおっしゃいましたか?」
「一応音大の声楽専攻なんですよ、これでも」
 彼女は照れくさそうに肩を竦めた。
「それは良かった」青年は口元に笑みを形作った。「音楽にお詳しい店員さんがいるのではないかと思いましてね。誰か良い演奏をする方に心当たりがあれば教えていただきたいのですが」
「良い演奏、ですか」
 夏樹は青年の前にアンティーク調のカップを置き、そうね……、と首を捻る。
「僕ヴァイオリン弾けますよ」
 辰彦は一応挙手してみた。
「却下。辰彦はセンスないのよ、楽器のセンスが」
「自分でもわかってることを改めて言われるとちょっとショックー……」
「何でしたら、お嬢さんのディドを聴かせていただけませんか?」
 青年が何やらとんでもないことを口にした。辰彦はぶんぶんと顔を横に振った。
「それ勘弁。夏樹さんのソプラノ、音響破壊兵器なんだから! 窓ガラス割れちゃいますよ!? おにーさん細くてなんか危なっかしいですよ……!」
「お兄さんという年ではありませんよ、辰彦君」
 夏樹が辰彦の名前を一度だけ呼んだのをしっかり聞いていたらしい。おかしそうに言って、くすくすと笑い声を漏らす。
「――申し遅れました。私はセレスティ・カーニンガムと言います。どうぞお好きなように呼んで下さい」
「じゃあセレスさんでいいですか?」
「ええ、もちろん構いませんよ」
 年齢不詳の青年、ことセレスティは快く同意した。
「じゃあ、セレスさん」と辰彦。「僕の後輩にピアノ上手い奴がいるから、呼びましょうか?」
「わざわざ申し訳ないですよ」
「どうせ夏樹さんにも会わせるつもりだったし」
 辰彦は制服のポケットから携帯電話を取り出すと、手早く目的の番号を呼び出した。
「もしもし、幸弘? 寺沢だけど。今から暇?」
 通話口の向こうにいる後輩と、二、三言交わす。ピアノを聴かせてほしいと言うと渋ったが、なんとか了承を得ることができた。辰彦は人差し指と親指でわっかを作って、セレスティにウインクしてみせた。
「三十分くらいで着くと思います。クラシック好きなら、度肝を抜かれると思いますよ?」
 それは楽しみですね、とセレスティは微笑んだ。


    02 a second Chopin

 寺沢辰彦の予告通り、彼の後輩はきっかり三十分後にやって来た。
 セレスティに負けず劣らず色素が薄く、一目で健康体ではないと知れる、やや内気な感のある少年だった。
「僕の後輩。遠野幸弘です」
 セレスティはその場で固まっている少年に右手を差し出した。
「無理を言ってすみませんね、幸弘君。セレスティ・カーニンガムと申します」
「あ、どうも、はじめまして――」
 遠野幸弘は、消え入りそうな声で言ってセレスティの手を取った。
 しばし不自然な間が開く。
「え?」少年はぎょっとして目を見開いた。「セ、……セレスティ・カーニンガム、……さん?」
 フルネームをたったの一度で正確に呼ばれることはあまりなかったので、セレスティはおやと思った。どうやら私のことをご存知のようですね。
「幸弘、セレスさんのこと知ってんの?」
「あ、いえその」幸弘はもごもごと口ごもる。握ったままだった手を慌てて離し、ぺこんとお辞儀をした。「あ、あの、とてもお聞かせできるような演奏じゃないですけど、何か好きな曲があれば……」
「幸弘君の得意な曲を弾いて下さい」
「じゃあ、……ショパンは、お好きですか?」
「ええ」
 セレスティは頷く。
 ショパン。言うまでもなくロマン派のピアノ奏者にして作曲家である。クラシック好きでなくとも彼の曲を耳にしたことがある者は多いだろう。
「こいつショパニストなんですよー、セレスさん」
 辰彦がにやにやしながら後輩を小突いた。
「べ、別にそんなんじゃないですよ、先輩。ただ、あの、ショパンの音楽ってエモーショナルっていうか、そういうところが好きで」
「同感ですね。あれほど豊かにピアノで感情表現をする作曲家は、私の知る限りでも多くありませんよ」
 セレスティの言葉を聞き、幸弘はそうですよね、と顔を綻ばせた。
「じゃあ、えーと、何にしようかな……」
 鍵盤の前で幸弘は思案する。
「『革命』弾いてよ。じゃなかったら英雄ポロネーズとか、その辺り」
「先輩の好みってわかりやすいですねぇ。激しいのか派手なのが好きでしょう……」
「うん。ノクターンとか嫌い」
 にこにこしながらきっぱり言い切る辰彦。セレスティと幸弘は、なんとなく目を合わせて苦笑した。
「じゃあ『革命』弾きますね」
 幸弘は宣言すると、鍵盤に手を載せて、深呼吸をした。
 目を閉じ、空気の振動を聞き取ろうとでもするようにじっと息を詰めている。
 セレスティは一瞬我が目を疑った――とはいえ、彼の視力は極めて弱いものだったが――前に彼の演奏を聴いたことがあると、最初の一音が響き渡る前に感じたのだ。
 そしてそれは、すぐに確信に変わった。華奢な白い手の下から紡ぎ出されるとは思えない音の洪水を聴いて。――彼は。
 ピアノの詩人と呼ばれた、あの……
 セレスティは茫然と彼の演奏に聞き入る。
『革命』が進行する。力強い音で。ポーランドに生まれた青年の、慟哭そのものであるかのように。
 アップライトには荷の重すぎる迫力だった。調律が狂ってしまうのではないかと、余計な心配をするほどに。最後に重々しい余韻を残し、『革命』は幕を閉じた。
 セレスティはしばし声を発することができない。何も言葉を失っているのは彼だけでなく、辰彦や夏樹もぽかんと口を開けていたのだが。
「――驚きましたね」
 十数秒ほど経って、ようやく口にすることができた言葉がそれだった。
 幸弘はきょとんとした表情でセレスティを見返す。
「あの、すみません……退屈な演奏だったでしょう?」
「とんでもない」セレスティは首を振った。「ショパン本人の演奏を聴いたかと思いましたよ、幸弘君」
「はあ、あの、恐縮です……」
 幸弘は顔を赤くして縮こまる。
 遠野幸弘。その名前で、ふと思い当たった。
「幸弘君……もしかして君は、ショパンの――」
「そ、そんなんじゃないです! 人違いです!」幸弘は首と手を同時に振った。言い終える前に否定したせいで墓穴を掘ってしまったことに、本人は気づいていない。「も、もっと上手く弾けたらいいんですけど、あ、ラプソディ・イン・ブルーとか弾きましょうか! ジャズっぽいのそれくらいしか弾けなくて――」
「もう一曲ショパンを聴かせていただけませんか?」
「ああ、うう」頼まれたら断れない性格のようだ。幸弘は困ったなぁという顔をしつつも、「それじゃあ、先輩のリクエストは無視してノクターンの2番弾きますね。革命みたいなのばかりじゃ疲れちゃいますよね」
 再び鍵盤に向き直ると、先ほどとの激しさとは打って変わった穏やかな音色で、夜想曲を弾き始めた。
 視力がゼロに等しいからこそ、己の耳に自信を持つことができる。確信は深まるばかり。
 彼は、『ショパンの再来』と誉れ高い少年に違いなかった。


    03 afternoon marshmallow milk tea

 翌日もセレスティ・カーニンガムはEscherへ赴いた。
 昨日演奏を聴かせてくれた少年に礼を言いにいくのが主な目的だったのだが――
「こんにちは、夏樹さん。何かお困りのご様子ですね」
『CLOSED』の札がかかっているのを承知で店の扉を開けると、橘夏樹が、片手に楽譜、片手に箒といった有り様で暗譜と掃除を同時にこなしていた。こなしていたとは言いがたいかもしれない。てんてこ舞いだった。
「あ、セレスティさん!」
 夏樹は飛び上がった。その拍子に楽譜がばらばらと落ちる。
「驚かせてしまいましたか?」
 セレスティは腰を屈めて楽譜を拾い上げる。
「いいですいいです、私やりますから! ごめんなさい、まだ開店までちょっとあるんで、お席のほうで待っててもらえます?」
「お気になさらないで下さい。お店の外で待っているつもりだったのですが、ちょっと覗いてみたら夏樹さんが大変そうでしたので。何かお手伝い致しましょうか?」
「けけけ結構です! あ、何か飲みたければヘルプユアセルフで! 勝手にお好きなもの飲んで下さい。すみません、お相手できなくて――」
「こちらこそ、逆に気を遣わせてしまったようですね。ではお言葉に甘えて紅茶をいただきますね」
「どうぞどうぞ。あ、セレスティさん甘いものは大丈夫ですか? 最近マシュマロミルクティーにはまってるんですけど、私――きゃあっ」
 余所見をしていた夏樹は、椅子に足を引っかけて前のめりに転倒した。再び楽譜が床に散乱する。
「大丈夫ですか、夏樹さん?」
 セレスティは夏樹に手を差し出した。
「ああもう、恥ずかしい……。私、極端に忙しいと駄目なんですよね」
「お怪我はありませんか?」
「なんとか……」
 セレスティの手に縋って立ち上がった夏樹は、ぱんぱんとエプロンの前を叩いた。
「少し休憩しませんか、夏樹さん。マシュマロミルクティーでお茶をしましょう」
「そうですね……落ち着かなきゃ」
 夏樹は自分の額をこんこんと拳で小突く。拾い上げた楽譜をカウンタの上に置き、紅茶を淹れに一旦奥へ引っ込んだ。
「それにしても、どうなさったんですか? 随分とお忙しそうですが」
「それがですね」夏樹はしばらくして、二人分の紅茶とクッキーの缶を手に戻ってきた。セレスティの横に腰かけると、長々溜息をつく。「昨日ショパンを弾いてた男の子、幸弘君って言ったかしら? ――彼のお父さんが、私の恩師なんです」
「やはりそうでしたか。遠野幸久氏ですね」
「あら、知ってたんですか?」
「存じておりますよ。幸弘君の名前を聞いてもしかしたらとは思いましたが。――世界的に有名な指揮者ではありませんか」
 夏樹は、それぞれのカップにマシュマロを二つずつ入れた。熱でマシュマロが溶けて、甘い匂いが香り立つ。
 夏樹は憂鬱そうに口を開いた。
「ええ、その遠野先生にですね――一度学生のリサイタルでご一緒しただけなんで、恩師というのもおこがましいんですけど――、今日学校で会って、ぽろりと幸弘君に会ったなんて口にしたもんだから、私がここでバイトしてることがバレちゃって……」
「何か問題があるのですか?」
「大有り。嬉々として、『それでは明日、君のジャズを聴きにいくから楽しみに待っていてくれたまえ、橘君』なんて言いやが――あ、いえ、おっしゃられまして」
「なるほど」セレスティは夏樹の境遇を理解して、苦笑を零した。「それで慌てて暗譜をなさっている、と」
 夏樹は楽譜を取り上げ、目をすがめて譜面を睨む。
「まだ曲が仕上がってないんですよね。セレスティさんがおっしゃったように、曲がりなりにも著名で忙しい方だから半端なパフォーマンスはできなくって。ああもう、辰彦に店のことやらせちゃおうかしら」
「ふむ。そういうことでしたら、明日は私が夏樹さんに代わって働かせていただきましょうか。表に短期アルバイト募集の貼り紙も出されているようですし」
「それは助かりま――って、ええっ!?」
 あまりにもセレスティが『アルバイト』などという俗っぽい単語に無縁なせいか、夏樹は素っ頓狂な声を上げた。
「力仕事ではお役に立てませんが、お客様に給仕する程度なら私にもできますよ。遠野幸久氏をお迎えしようではありませんか」
「そんな、セレスティさんに仕事させるなんて恐れ多いっていうか!」
「そうかしこまることもありませんよ。遠野氏のご子息に演奏を聴かせていただいたことですしね。私の個人的な要望だと思って下さい」
「でも――」
「まあまあ。今日もお手伝いしますから、夏樹さんは暗譜に専念して下さい。それ全部、覚えなければならないのでしょう?」
 山積みになった楽譜を指差すと、夏樹はぐっと詰まった。諦めたような溜息を一つ。
「……そうですね。お願いします、セレスティさん」
 そういうことになった。


    04 the pianist on the edge

「何セレスさんに恐れ多いことさせてんの、夏樹さん!?」
 問題の日。
 カウンタの奥でバーテンダーの服装に身を包んでいるセレスティを目にし、開口一番、辰彦がそんな風に叫んだ。
「似合いませんか?」
 セレスティは蝶ネクタイをぴんと引っ張ってみる。
「いやいやいや、ありえないくらい似合ってますけどね!? お客さんに手伝わせちゃ駄目でしょ……!? ましてやセレスさんだよ!」
「私も悪いとは思ったんだけど」
 夏樹は楽譜片手に、居心地悪そうな顔をする。
「一度バーで働いてみたかったんですよ」
 セレスティの表情は涼しいものだ。
 辰彦の後ろから、遠野幸弘がぴょこんと顔を覗かせる。「あ、こんにちは……セレスティさん」
「こんにちは、幸弘君。先日は素晴らしい演奏をどうもありがとうございました」
「こちらこそ拙い演奏聴いていただいちゃって、ありがとうございます。あ、あの、今日うちの父が……」
 幸弘はセレスティの前まで歩いてくると、小さく耳打ちした。
「今日はたっぷり日頃のお礼をさせていただきますよ」
「いつもお世話になってるのは父のほうなのに……」
 セレスティは自身の唇に人差し指を当てると、幸弘に向かって片目を瞑ってみせた。幸弘は黙る。
「しばらく内緒にしておきましょう」
「……わかりました」
「何? 二人で内緒話してんの?」
 辰彦が身を乗り出すと、
「あんたはこっち! セッティングと掃除!」
 夏樹に首根っこをつかまれた。
「人使い荒いですよ、夏樹さん! 日給一万で手を打ってもらいましょうか!」
「温室育ちのぼんぼんに払う金なんてないわよ! いいからきりきり働いて、ほら!」
 うわぁ、辰彦先輩がこき使われてる、と幸弘はつぶやいた。よほど珍しい光景なのだろうか。
「僕もセレスティさんと給仕のほう手伝おうかな……」
「幸弘君も今日はお客さんですよ。何かお出ししましょうか」
「な、なんか緊張しちゃうなぁ……」
 ともかくも、幸弘はちょこんとスツールに腰かけた。若きピアニストに、セレスティはソフトドリンクのメニューを渡す。
「今日は何か弾いて下さらないのですか、幸弘君?」
 優しい声で言うと、幸弘はうつむいてしまった。
「……人の前で弾くのは好きじゃないんです。ましてや父の前で、なんて」
「この間私が言ったことはお世辞ではありませんよ、幸弘君。『ショパンの再来』に相応しい演奏でした。恥じることはありません」
「ショパン再来なんて、尚更、悪いです」
 幸弘はうつむいたまま小さな声で答える。何かわけありの様子だった。
「甘いものは好きですか? 夏樹さんお勧めのマシュマロミルクティーをお作りしましょう」
「あ、大好きです……ありがとうございます」
 夏樹は暗譜と発声練習に、辰彦少年は掃除にと慌しい店内の中で、セレスティと幸弘の周りだけが別の世界のように静かだ。セレスティの持つ雰囲気のせいかもしれなかった。
 幸弘はやがて、思い詰めた表情で口を開いた。
「実は、僕――」意を決したようにセレスティの顔を見る。「ピアニストになんか、なるつもりはないんです。まったく」
 セレスティは黙ってつづきを促す。
「僕程度の腕でなれるかどうかはわからないですけど――、とにかく、周りは僕をプロにしたいらしくて……ショパンの再来だなんて大袈裟なこと言われるし、どうすればいいのかわかんなくって……だから、人前では極力弾かないようにしてるんです。ピアノを弾くのは好きだから、その、セレスティさんのような方が演奏を聴いてくれて、凄く嬉しかったんですけど……」
「何か他にやりたいことがあるのですね?」
 幸弘は小さく頷いた。
「……小さい頃は純粋に楽しんで弾けてたのに、最近はプレッシャーに押し潰されそうで、なんだかなぁって。……音楽って、何なんでしょう。セレスティさんにとっては、どんなものですか? ――抽象的な質問ですけど」
「そうですね……」
 改めて問われると難しい。
 音楽――気づけば彼の日常に溶け込んでいたもの。
 長い年月を生きる中で、彼は多くの音楽家達が己の魂をその演奏や作品に託して、生き、死んでいくのを見た。
 作曲者が死んでも、曲は残る。譜面には故人の意志が刻まれており、後世の音楽家達がそこに新たな解釈を加えていくことで、ピースが生まれ変わる。
 正解も不正解もなく、表現の幅には限りがない。
 時に歓喜し、時に絶望するその姿は、まるで――、
「……恋人のようなもの、ですか」
 上手い喩えを思いついた。セレスティは満足して回答を口にした。
「恋人?」
 幸弘は目を丸くする。
「あるいは秋の空です。女性の心のように気まぐれで、ころころ泣いたり笑ったりを繰り返す――愛すべきものですね」
「恋人、かぁ……」幸弘はうんうんと首を縦に振った。「セレスティさんは、本当に音楽がお好きなんですね」
「好きですよ。ですから音楽を愛する人も好きです。もちろん幸弘君も」
 幸弘は赤くなる。その様子を見て、セレスティは温かい気持ちになった。
「幸弘君だって、好きなのでしょう? プロになるもならないも関係なく」
「――はい」
「では難しく考えることはありません。時々私にピアノを聴かせて下さい」
 幸弘ははにかむような笑顔を浮かべた。それが答えだった。


    05 epilogue

 セレスティの手伝いの甲斐あってか、夏樹の臨時ミニライヴは滞りなく終了した。
 遠野幸久は一頻り演奏と酒を楽しんだ後、セレスティに礼を言って帰っていった。後にはぐったりした夏樹に辰彦、幸弘にセレスティが残される。
「し……死ぬかと思った……」
 夏樹はハイヒールを脱ぎ捨て、コンサート用のドレス姿のまま床に沈没した。
「お疲れ様でした、夏樹さん。やはりこちらへ伺って正解でしたよ。こんな短期間の間に二人もの素晴らしい音楽家にお会いできるとは」
「ああもう、何が何だか……どこでミスしたかもろくに覚えてないです。上手くいってたんなら良いですけど……でも、うん。セレスティさんのおかげでなんとかなったかな……」
「お疲れでしょう? 後片づけは私どもでやりますから、夏樹さんはお休みになっていて下さい」
「ほんとすいません……」
 夏樹は壁にぐったり寄りかかった。
 男三人衆は、グラスの片づけや店内の掃除を分担して行うことにする。
「ところでセレスさん。幸弘のお父さんとも知り合いみたいでしたね?」
 椅子をテーブルに上げる傍ら、辰彦がセレスティに訊ねた。
「彼が指揮する楽団の演奏は良く拝聴しておりますのでね」
「はー、クラシック繋がりかー」
 さっさと自分の仕事を終わらせて、セレスティの食器洗いを引き受ける辰彦。体力的に限界を感じ始めていたセレスティは、辰彦の好意に甘えることにした。
 ピアノの蓋が開いたままになっていたので、ふと思い立って軽く鍵盤を叩いてみることにした。アップライトは、重厚ではないけれども澄んだ音を奏でた。セレスティの人柄に反応したかのようだ。
「あ、ラフマニノフですね」
 幸弘が目を輝かせた。セレスティはちょいちょいと手招きをする。
「連弾のお相手を願えませんか、幸弘君」
「喜んで!」
 幸弘はセレスティの横に椅子を運んでくると、途中から演奏に加わった。
「うわ、なんか豪華だね。セレスさんと幸弘の連弾って」
 辰彦は水道を止めて、二人の演奏に聴き入る。
 夏樹も、うつらうつらしながら二人の奏でる旋律を聴いている。
 軽やかに鍵盤の上を跳ねる音は、美しく優雅。
 時に激しく、時に静的。気まぐれな秋の空のようにその姿を変える。
 どんな言葉よりも雄弁に、絶望や怒りや喜びを、語る。

 ――ジャズバーEscherに、珍しくクラシックが流れた秋の一日であった。

    *

 セレスティ・カーニンガムが去った数日後の、ある日。
「はぁ、それにしても素敵だったなぁ、セレスティさん……」
 本日も橘夏樹は仕事をサボって、うっとりと目にハートを浮かべている。
「ロマンスには発展しませんでしたねー」
「やかましいわね」
 夏樹は辰彦をきっと睨み返した。こっちの表情のほうが、彼女らしいといえば彼女らしい。
「どっちかっていうと幸弘のほうがセレスさんと仲良くしてたような――もともと知り合いだったわけ?」
 先日の件で幸弘はすっかり常連になっている。ピアノを弾きながら、幸弘は肩越しに辰彦を振り返った。
「やっぱり二人ともご存知なかったんですね」
「何を?」
「僕の父が良く公演をやってる音楽ホール、知ってます?」
「あの大きいとこでしょ。凄いパイプオルガンがある」
「はい。――セレスティ・カーニンガムさんって、あのホールの所持者ですよ」
 辰彦と夏樹は、あんぐりと口を開けた。
「…………………………え?」
 二人揃って真っ白になる。
「――なんて」
 沈黙、きっかり五秒。
「なんて恐れ多いことをーーーーーッ!!!!」
 悲鳴にも似た二人の声と、軽快なピアノの音色が、秋の青い空に吸い込まれていった。


fin.



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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■セレスティ・カーニンガム
 整理番号:1883 性別:男 年齢:725歳 職業:財閥総帥・占い師・水霊使い


【NPC】

■橘 夏樹
 性別:女 年齢:21歳 職業:音大生

■寺沢 辰彦
 性別:男 年齢:18歳 職業:高校生

■遠野 幸弘
 性別:男 年齢:18歳 職業:高校生

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■         ライター通信          ■
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 いつもお世話になっております、ライターの雨宮祐貴です。
 今回は音楽好きのセレスティさんご参加ということで、存分に趣味を発揮させていただきました。クラシックベースでいってみましたが、いかがでしたでしょうか。
 ゲームノベルは毎回少しずつ長くなりがちに……。NPCが出張っているせいかもしれません。やかましいNPC達で申し訳ございません。
 またどこかでお会いできたらよろしくお願いします。