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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


最終地獄・醜悪(後編)


「すべて終わった」
 白い病室の只中に立ち尽くし、彼は無感動にそうつぶやいた。
 終わったのだ。何もかも。
 依然として世界は廻りつづけ、時は流れゆくのだとしても。
 少なくとも彼の中で絶対的な何かが失われ、今まで築いてきたすべてのものが無に帰したのは確かだった。
 代わりに、途方もない時間を手に入れた。生あるものは決して手にし得ないはずの時間を。永劫に生きつづけるなど、拷問に等しい。
 記憶どころか不死の略奪さえも可能にしてしまった忌々しい己の手を、彼はじっと見下ろしていた。
 あまりにも大きな代償を払ってしまった。
 この虚無感はどうだろう?
 何も感じていない。
 何も感じることができない。
 元より存在しない人間であった彼を定義づけるものは、何もない。無関係な人々の死に怒り、悲しみ、事件の真相へと駆り立てたその感情だけが拠り所だった――それを失ってしまったのだろう。おそらく。それから……片時も“幻”の傍を離れないでいてくれた人も。
 やるべきことを見出そうとしていた。
 偽善でも構わない、そこに救いがあるのならば。
 自分に成せることを成そうと思っていた。
 ――すべて、こんな結末へ向かうためだったのか?

    *

「すべて……終わりました」
 幻は――否、幻と彼女が呼んでいた人物は――ぽつりと、そんな風につぶやいた。諦観も絶望もない、無感動な声だった。
 自分の手をじっと見下ろすその横顔からはどのような感情も読み取れない。長く伸びた前髪が顔を覆い、無表情が胸の内を隠していた。
「幻殿……」
 致命的な結末へ向かっている、と陽炎は直感する。
 引き止めなければならない。彼を行かせてはならない。
 どこへ?
 ――どこへも、だ。
「幻――」
「『幻』ではありません」
 言いかけた言葉を、彼はぴしゃりと遮った。陽炎は押し黙った。
「僕には……おそらくどこにも『道』はない」
 乾いた声が白い部屋に響く。
 カーテンは裂け、窓ガラスは粉々に砕け、病室内は嵐が過ぎ去った後のような様相を呈していた。冷たい風が吹き込み、みすぼらしいカーテンを揺らしている。
 風に誘われるように窓の外へ目を向けると、青い空が美しかった。雲の流れが速い。時が止まってしまったような空間で、雲と、風に揺れるカーテンのみが唯一動的だ。
 荒れ果てた室内は、それでもまだかつて『幻』だった少年の存在に比べれば日常的だった。印象派の絵画に紛れ込んだシュールレアリスムとでもいった具合に、彼だけが滑稽なほど浮いている。日常から爪弾きにされてしまった彼だけが。
 太陽を覆っていた雲が晴れ、病室内にさっと光が射し込んだ。
 足の踏み場もなく散乱した医療器具が歪な影を落とす。その一つに紛れ込んだ彼の影が、一瞬――、何か異形の怪物のように映った。
 影が形を変えた。
 幻は踵を返し、出口へ向かって歩き出した。
「幻殿!」
 陽炎はその後を追おうとした。が、身体がいうことをきかない。
 恐怖がそうさせるのか、それとも手遅れだとわかっているためか。
 彼の永劫にも等しい時間はゆっくりと流れ始めており、彼女の時間は未だに静止したままである。
「貴方に優しくしてもらっていた、あの『幻』はもういない」
 出口で足を止め、振り返らずに、幻は低く言った。
「え……」
 幻は――唇の端をほんの少し持ち上げて、笑ったように見えた。
「僕は……誰なんですか?」
 ぞっとするほど冷たい声だった。
 陽炎は絶句してその場に凍りつく。
 幻は陽炎を無視して、病室から出ていった。後には彼女のみが残される。
 風が吹き込み、カーテンが揺れる。
 未だに彼女の時間は正常な流れを取り戻せないでいる。
 それは致命的な結末。
 彼女はもはや、『幻』と共にあることはできない。彼は文字通りの幻となってしまった。

    *

 風が吹いている。
 無人の、この世から賑やかさや温かみといったものを取り除いたような廃墟に、風が吹いている。
 いかなる生命の営みからも隔絶された場所に一人、少年は酷く冷たい風を頬に受けて、何をするでもなく座りつづけていた。
 人々が呼吸をし、泣き、笑い合う――そんな日常は遥か遠く、人類という種はとうの昔に滅びてしまったのではないかと思わせる。人間がここに生きていたという証さえも既に朽ち果て、建物は形骸のみを留めていた。
 どれだけの時間が経てばここまで荒廃してしまえるのだろう。
 知りたいとは思わなかった。
 どうせこの先何回も、何十回も、一つの共同体が生まれ朽ちていくのを見せられるに違いなかったから。望まなくとも知ることができる。この星が年老いるまで半永久的につづく輪廻に、彼はもう組み込まれていない。
 伽藍の堂を風が吹き抜ける。甲高い悲鳴のような残響が長く尾を引く。
 彼は、風の行方を追うように目を上げた。その先に目指す場所でもあるような気持ちで。が、ガラスのない窓から覗くのは空虚な青い空だけだった。美しくもあり、物悲しくもある。そんな青色だ。
 彼は長い髪の隙間から青い空をじっと見つめている。
 目どころか顔のほとんどが髪に隠れており、表情は不明だ。さほど高くない身長のせいもあって、顔つきはおろか性別さえ判然としない。
 背には毒々しい水牛の刺青。見様によっては悪魔のようでもある。
 救世主が人々の罪を負ったように、彼は気が狂いそうなほどの時間をその背に負った。
 何年で完全に気が狂うだろう。彼の大事な人が全員この世から消え去って、それからどれだけ経てば? ――検討もつかない。
 やがて彼は目を逸らす。
 無言のまま、何時間も彼はそこにそうしていた。時間の経過などどうということはなかった。余りあるものが失われていくのを、嘆く必要はない。
 ひたすら時が流れていく中、ふと思いついたように、乾いたつぶやきを「それ」は――もはや人とは呼べない何かは――漏らした。
「僕は……誰?」
 風が吹き抜け、半壊したドアが軋み、彼の声をかき消す。
「幻? 貴炎? ……それとも……」
 背中の悪魔が、それを嘲笑うかのように蠢いていた。
 己の行方を知らぬ風が、道を指し示すことはない。