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<東京怪談ノベル(シングル)>


あしききおく


 地球は生きているのだ。
 彼女の力は、それを操っているだけにすぎない。彼女はけして、土に命を与えているわけではない。彼女は、神ではない。
 おまえなど人間ではない、
 さりとて神でもない――。
 物言わぬ土たちは、地華の指の間からすり抜けていく。

「ちかちゃん、なにしてるの? みんなでね、あっちでね、こおりおにやるの」
「いい」
「ねえ、ちかちゃん、いっつもひとりでなにしてるの?」
「……あそんでるの」
「ひとりであそんでるの?」
「ううん。みんなとあそんでる」
 さわ、さわ、さわ、さわ――
 地華の手元を見た同じ組の女の子は、悲鳴を上げて逃げていった。地華の小さな手のひらで、小さな土のトカゲが呑気に歩いていた。
 トカゲだけではない、
 ぽとりぽとりと地華の指の間から落ちていくのは、小さなウサギ、小さなスズメ、小さなイヌ――どれも、乾いた土でできていた。
 幼稚園児でも、土が動くはずはないことは理解できる。
 その日から、地華を遊びに誘う子はひとりもいなくなった。それでも、地華は寂しくなどなかった。遊び相手はそこら中にいるから。


 それが当たり前ではなく、本当に特別なことなのだと気がついた頃、地華はすっかり孤独になっていた。


 人嫌いであっても、地華は至極真面目なたちで、勉強にはそれなりに真剣に取り組み、それなりの高校に入ることができた。どの生徒もあまりあかぬけず、さほども他人と合わせることに神経質ではないという、新学校にはよくあるタイプの高校だ。独りを好む生徒は、そう珍しくもなかった。そして周囲は、そういった生徒に干渉しなかった。
 地華は、そんな無味乾燥とした学生生活が有り難かった。
 土たちのささやき、息吹、脈拍は、思春期を迎えた地華にも、幼い頃と変わらず届き続けていた。地華も、けして拒むことはなかった。この地球がある限り、地華は孤独とはいえないのだ。たとえ人間が自分ひとりを残してすべて死に絶えたとしても、けして泣くことも(かと言って、喜ぶことも)ないだろうと――地華は踏んでいた。
 だが。
 あるとき、見られてしまったらしい。
 或いは、幼い頃から目をつけられていたのか。
 地華が呼吸のように駆る力を欲する者が、不意に彼女の前に現れたのだ。
 高校に進学し、何ヶ月か経った頃のことだろうか――どこぞの建築会社の重役がやってきて、地華に頭を下げたのだ。妖怪か何かが、テーマパークの建設を妨害していると。
 それが地華の、初めての仕事だった。
 これが『退魔』なのだと、地華は知った。

 しかし、わからない。
 土とともにあれば、自分はけして孤独を感じることはなかった。
 クラスメイトの笑い声や視線が気になったことなど、ない。
 自分はひとりではない。
 ひとりであったとしても、寂しくなど――
「ごめん、悪いんだけど」
 また、彼だ。
「数Aの教科書、あったら貸してくれないかな」
 隣のクラスのその男子生徒は、たびたびそう頼んでは、地華からノートや教科書を借りていくのだった。忘れ物をしない真面目な生徒は、地華のほかにもたくさんいるというのに――彼は、きまって地華を選ぶのだ。
 教科書を渡したあと、「ども!」と言って走り去っていくその後姿をしばらく見つめ、地華は溜息をついた。溜息をついて、窓の外にあるグラウンドを眺めた。彼女はまた、そうして、土とともに物思いにふける。
 ひとりではない……。
 けして、ひとりでは……。


 月日が、風のようにはやく流れていく。
 地華も、高校生活の裏側で、人には理解できない役目を、人のために負っていた。金は問題ではなかった。ただ、何故か、
『ありがとう』
『ああ、助かった……』
 仕事を片付けて、もう何も心配は要らないということを報告すると、依頼主はきまって大きく胸を撫で下ろし、地華に握手を求めてきた。
 礼を言いながら、地華の蒼い目を見つめながら、彼らは微笑んでいた。目に涙を浮かべているときさえあった。
 自分はひとりではない。
 けして、ひとりではない。
 ひとりであることは何でもないはずなのに、地華は笑顔に向かい合うたびそう思った。
 笑顔とともにありたかった。
 地華はいつしか、高校二年に進級していた。

 学校にほど近い木陰に、傾いた廃屋がある。地華の通学路にはかすりもしていなかったために、彼女はその廃屋を見る機会はあまりなかった。木造の掘っ立て小屋じみた廃屋は、ぼうぼうと茂る雑草に覆い隠され、ひっそりと建っていた。
 この近くでかくれんぼをしていて、この廃屋に隠れた子が、血みどろになって帰宅したという噂が、地華が通う学校でまことしやかに流れていた。なんでも、その大怪我をした子というのは、地華の同級生の、妹か弟なのだという話だ。
 ――都市伝説の、いい例よ。
 噂は噂だ。
 だが、噂は何もないところから発生するわけではない。原因があって結果がある。噂もその真理に抗うことはできない。
 授業が終わり、地華はしばらく図書室で静かな時間を過ごしたあと、木陰の廃屋に向かった。土はそこら中で囁いていた。ここは危険だ、ここには来るな、きみも血にまみれてしまうから――。
 どこからどこまでが尾ひれで、胴体で、腑であったか。
 噂は、地華が小耳に挟んだ通りの姿で襲いかかってきた。牙を持ち、血と膿にまみれた毛皮の、それは悪霊であった。或いは、犬神とでも呼ぶべきだったか。
 地華が小瓶の土を手に取る間もなく、霊は凄まじい怒りと力で地華を突き飛ばした。小瓶が地華の手から離れ、いずこかに転がっていった。放置されていた古い農機具が、倒れた地華の上にずしりと圧し掛かる。彼女はもがいたが、錆びついた鉄と湿った木の塊はびくともしなかった。
 ぅるるるるる、
 勝ち誇ったかのように、地華の背後で怨霊が唸る。
 荒い息、滴る唾液、ひんやりとした熱い気配、
 近づいてくる。
 ――誰の笑顔が見たかったというの。
 地華は、ぎゅっと目を閉じた。

 その日は快晴で、風ひとつない、朗らかな一日だったはずだ。
 しかし、出し抜けに突風が吹いてきて、木造の廃屋ががたがたとやかましく揺れたのは事実。風はけして止むことがなかった。あっと言う間に、古い廃屋は風によって解体された。
「頭を下げるんだ!」
 聞き覚えのある声が、地華を射抜いた。
 地華は素直にそれに従った。吹き荒ぶ風は、地華を傷つけることなく、農機具だけを荒々しく吹き飛ばす。
 牙を持つ悪霊が、叫び声を上げた。咆哮をも、風はたちまち引き裂く。
 風は、時のように早く流れていった。
 地華は、自分がようやく身体のあちこちに軽傷を負っていることに気がつき、しばらく地に伏したまま、痛みに耐えていた。むき出しの土たちは、彼女を気遣い、囁き、よく頑張ったね、と誉めもした。
「大丈夫……じゃ、なさそうだな」
 近づいてくる声は、生きている人間のもので、少年のもの。地華は何とか半身を起こして、振り向いた。
「あ、あなたは――」
「ほら、つかまって」
 やさしい笑みを浮かべて、彼は手を差し伸べてくる。
 ああ、笑顔だ。
「世界史の教科書……借りっぱなしだったよ。返さなくちゃ、って思ってさ――」
 思わず微笑む地華の手が伸び、
 そのとき、土以外のものを握り締めた。
 土のように温かく、やさしいものを。


 無常にも朝はやってきて、風上地華の夢は終わった。
 もう、10年以上前の記憶だ。
 ――過去を夢に見るなんて、映画じゃないんだから……。
 ごろん、と彼女は寝返りを打つ。
 彼女の左側に、夫はもう寝ていない。
 ベッドの空白に手を伸ばしてみても、もう二度と、あの温もりを握り締めることはできない。
「……」
 風上地華は、枕に顔をうずめた。




<了>