|
魔女の条件
持っているのは魔法の杖ではなく羽ばたきだったけれど、黒いローブをひらひらと揺らすティレイラは物語に登場する魔女の気分で呪文もどきの言葉を呟いていた。
「痛いの痛いの飛んでいけ。元気を早く運んでおいで」
杖代わりのはたきを一振りしてから、棚に整列している小瓶の埃を落としていく。
大魔法使い気分を楽しみならが営業の終わった魔法薬屋の掃除をしているティレイラの姿に、シリューナは微笑んだ。
「その服、気に入ってもらえたみたいで嬉しいわ」
「お、お姉さま。いつから、そこにいたんですか」
「可愛い魔女さんが呪文を唱える所から」
見られていたと知って頬を赤らめるティレイラを見て、ますます楽しげな笑みを浮かべてシリューナは言った。
「ティレ。お茶を入れるから、掃除はお仕舞いにしなさい」
魔法の師匠でもあるシリューナの魔法薬屋を手伝いに来たティレイラが一番最初に頼まれたことが、この世界で魔女衣装と呼ばれる服や小物を見につけることだった。手渡されたのは絵本で見た魔女の姿とも、シリューナの服装とも違ったけれども。それが今時の若い魔女らしい格好なのよと満面の笑顔で薦められたので、彼女は何の疑いもなく着替えてしまった。初めはレースたっぷりの可愛らしい魔女衣装に照れがあったのだが、客やシリューナから一日「可愛い魔女さん」と呼ばれていると、その気になってくるもので衣装を脱ぐのが少し勿体無い気分になっていた。
だから温かい紅茶を入れてくれたシリューナに思い切って尋ねてみることにした。
「この可愛いお洋服はお店番をする方の制服なんですか?」
そうだったら、店番を手伝う度に着ることができる。もしシリューナの趣味で着せられたのだとしたら上手く頼めば貰うことができるかもしれない。あれこれ他にも着て欲しいと言われるかもしれないが、石像に変えられて好き勝手に着せ替えをされるよりは良いだろう。
「その服はティレの為に仕立ててもらったの。お店番の為の制服なんて、わざわざ作ったりしないわ」
「あの、それじゃあ」
手を合わせてお願いをしようとしたティレイラだったが腕の動きに違和感を感じて言葉を止めた。
「お姉さま。まさか……」
シリューナはカップをテーブルに置くと、大きなガラスの扉を開いてバルコニーに出た。
そして、うっとりとした眼差しでティレイラを眺めた。夕焼けよりも深い紅い瞳で。
「晴れて良かったわ。人工的な明かりよりも、月明かりで眺めるティレの方が素敵でしょうから」
大量の魔法薬に囲まれて接客していたのだ。ティレイラが発動前の微弱な魔力に気づかなかったのは無理のないことである。それでもシリューナの性格を良く知っていながら、差し出された服に魔法がかかっていないかの確認を怠った自分の不注意をティレイラは呪わずにはいられなかった。
同時に、どうしても納得できなくて、こうしている間にも石化が進んでいくことを承知でシリューナに詰め寄った。
「今日は何も失敗していませんよ。なのに、どうしてこんなことをするんですか!」
「だって、これはお仕置きじゃなくて悪戯だから」
心の底から楽しくて仕方がないという表情をしたシリューナの返事にティレイラの闘志は燃え上がった。
「今日は負けませんから。絶対、絶対、石像にはなりませんからね!」
バルコニーの中央に陣取り、ティレイラは肌に纏わりついている魔力に意識を集中する。
まるで膜を張るように洋服や帽子の上に広がり続けていた石化が止まり。ゆっくりとたが元の色を取り戻していく。
「ふふ、さすがティレ。頑張ってくれなきゃ、楽しくないもの」
「広範囲からの石化に抵抗するのは初めてなのに、なかなか頑張るじゃない」
シリューナは閉じたガラスの扉にもたれかかり、必死で石化に抵抗しているティレイラの様子を楽しげに眺めている。
「と、当然です」
辛うじて返事を返すが、既にブーツの中にある足首から下の部分、手袋の中の手を動かすことは出来なくなっていた。石化の魔力は日が沈むにつれて強くなり、もはやティレイラに石化を押し戻す力はなく、広がる石化の進行を遅らせることが精一杯である。
「ご褒美に良いことを教えてあげるわ。それはまだ開発中の魔法で、石化中の相手に触れた布も全て石化してしまうという欠陥があるの。」
シリューナは試すような視線をティレイラに向けてから、ガラス越しに部屋の中を覗き込んだ。
「つまり、あなたが部屋の中に入って体にカーテンを巻きつけてしまったら。ティレとカーテンを分離できなくなって、私は目的を達成できなくなるの。さあ、どうする?」
今はどうにか持ちこたえているが、これ以上に石化の魔力が強まれば朝まで絶え続けることなどできない。
このまま石像になるくらいなら……ティレイラは覚悟を決めて意識を切り替え、空間を飛んだ。
「残念、今日はあなたの勝ちね」
ガラス扉の向こうで、シリューナが無念極まりないという顔で深々とため息をつく姿が見えた。いつもと違い重い体を引きずるような感覚があったものの、瞬間移動に成功したようだ。つまり、今日はシリューナの鑑賞物にはならずにすむのだ。
ほんのささやかな勝利だとしても、師匠から得ることのできた貴重な勝利なのだから嬉しくて当然だ。動けるなら翼を生やして飛び回っただろうが、今の彼女にできたのは満足げに鮮やかな笑顔を浮かべることだけ。全神経を空間移動に集中させた為に石化の進行が一気に進み、ティレイラは笑顔を浮かべた所で完全に黒曜石の彫像になってしいまった。
すると、シリューナは手を叩いた。するとカーテンは石化などしておらず戻るべき場所へ戻り、可愛い魔女の衣装を着たティレイラの彫像がシリューナの前に現れた。今までの呪いにかかった哀れな犠牲者と呼ぶべき嘆きや悲しみは欠片もなく、どんな魔法もかける必要ない愛らしい笑顔を浮かべた彫像が。
「そう、これよ。これが欲しかったの」
シリューナは恍惚とした眼差しでティレイラを見つめている。
触れている布が全て石化するという話はティレイラを笑顔のまま石化させる為についた嘘だ。人の表情というものは繊細で、ポーズと違い石像になってから魔法で変えるのはシリューナほどの魔法使いであっても中々面倒なのである。だからティレイラを誘導した。おかげで石化の進行も一気に進んで予想以上の結果が手に入った。
「さあ、楽しい夜の始まりね」
|
|
|