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想い花の簪
【壱】
平素のように咥え煙草で、興味があるのかないのかも判然としない態度で草間武彦が差し出したのは小さな桐の箱だった。蓋が開かれると懐かしい雰囲気をまとう帯留めが一つ。武彦が綴る説明する言葉はあまりに少なく、事の詳細を把握するには足りなすぎる。言葉を重ねて問うてみても曖昧な言葉が返ってくるばかりだ。手に触れなくとも精巧な細工を施されたものだというのがわかる。きっと高価なものなのだろう。
しかしどうしてこんなものがここにあるのかがわからない。草間にこのようなものを蒐集する趣味はない。そして同時にこのような高価なものを購入できる資金を草間が持っていることがないことも半ば家事手伝いのような格好でこの草間興信所に通うシュライン・エマには十分わかっていた。日頃着物を着るような趣味のないシュラインへのプレゼントだというわけでもないだろう。給料代わりであるわけもない。明るい可能性が瞬く間に消え去っていく先にあるのはいつもの現実。仕事絡みのものなのだ。それも日常の枠には収まりきらないものだろう。
「それで依頼者はこれをどうしろと?」
問うと盛大な勢いで煙を溜息と共に吐き出して武彦が云う。
「それの作者と同じ奴の簪を探してほしいんだそうだ」
「何か手がかりは?」
「あったら苦労しない」
云ってシュラインに背を向ける武彦の背は、どこかで現実を拒絶しているような気配がした。
「第一依頼者が人間かどうかもわからないのに、そんなもんだけ置いてかれてどうしろって云うんだ」
武彦の声は苛立っているというよりも、判然としない現実に困惑しているようである。
「人間かどうかもわからないってどういうこと?」
とうとう人間でもない者まで仕事を持ち込むようになったのかと思いながら訊ねると、惰性のように煙草の煙を吐き出しながら武彦が言葉を綴る。
いつものようにデスクに突っ伏して居眠りをしていたのだそうだ。目を覚ますと目の前に女が立っていたのだという。漆黒の髪を一つに纏め上げ、上品な刺繍が施された緋褪色の着物を纏った女だったという。着物の色彩が華やかさを漂わせていたというのが、それはどこか昼の明るさには馴染まないもので、だからといって夜の闇が似合うのかといったらそうでもない。現代の女性には失われてしまったような奥ゆかしさを漂わせた品の良い女が、桐の箱を手に目の前に立っていたというのである。寝惚けただけではないかと問えば、自分もそうだと思ったと武彦が答える。しかし桐の箱に収められた帯留めは確かに残されて、触れたからといって消えるものでもなくここにある。そうした現実に、疑う理由はなくなってしまったのだと途方に暮れたように武彦は締め括った。
「昨日来て、七日後に取りに来ると云って帰っていった」
残された日数は六日。
無意識のうちに数えてシュラインは桐の箱に収められた帯留めに視線を落とす。無意識のうちに笑みが漏れる。面白そうだと思った時点で負けなのだと云ったのは誰だったろうか。シュラインは緩慢な仕草で腕を組んで、背を向けたままこちらを見ようともしない武彦に云った。
「私が探すわ」
すると仰け反るような格好で武彦がシュラインを見る。しかしそれは一瞬で、勝手にしろとでもいうように指先に煙草を挟んだ片手を挙げた。
「これを借りる……わけにはいかないわよね。触るのはOK?」
問う声に気の無い返事。シュラインはそれを了承の意にとらえ、散らかり放題のデスクの上からそっと桐の箱を持ち上げると、応接セットのローテーブルの上に運び、蓋の裏側に作者の名前が記されていないかと確かめる。掠れた文字が墨で記されている。箱のほうは特別細工が施されているわけでもないただの箱。帯留めには羽毛の一つ一つまで丁寧に掘り込まれた細工が施され、長き年月を経た今でも美しさを欠くことなくそこにあった。しかし特別作者が誰かを特定させるようなものはどこにも見阿多奈良に。けれど趣味とするものにはたまらない品なのかもしれないと思いながら、探してほしという簪がどんなものであるのかを武彦に訊ねると新たな煙草を咥えて向き直った武彦がまるで科白を棒読みするような平坦な口調で答える。金の花弁。銀細工の葉。花の中央には珊瑚があしらわれ、紅の一文字が刻まれた硝子珠が果実のようについているものだという。
その言葉にシュラインはふと果実の実る樹をイメージする。決して大ぶりな樹ではない。ひっそりと慎ましやかな、冬の雪が良く似合う南天のようなものだ。持ち込んだ女性がどんな女性なのかはわからない。けれど武彦の語った言葉から推測するに、シュラインが想像する簪が良く似合う女性なのではないかと思った。昨今の女性で和服を上手に着こなす者は少ない。日本古来の美しさの象徴でもあるものが勿体無いと思いはすれど、時間の流れや文化の変化の前では致し方ないことなのだろう。
帯留めの繊細な細工。大量に作られたものではないことは確かだ。香る懐かしさ。そして物悲しさがただの物ではないことを伝えているような気がする。それも依頼者は人か妖かとも知れぬ者。結末に何が待っていようとも、つまらないことではないだろう。思ってシュラインは誰へともなく云った。
「この仕事、本当に引き受けたわよ」
【弐】
戯れにドアが潜った草間興信所の応接セットのローテーブルに置かれたものにセレスティ・カーニンガムは思わずこれは何かと訊ねていた。興信所の主である武彦が、依頼者が置いていったものだとデスクに頬杖をついて答える。咥えられた煙草からは相変わらず紫煙が立ち昇り、視界を悪くしている。
「今うちの事務員が調査中のものだ」
「触れても宜しいですか?」
セレスティが問うと依頼者からの預かり物であることになど全く頓着していないように軽く構わないという返事。
「お掛けになって下さい。今お茶をお出ししますからごゆっくり」
いつものように掃除をしていた零が押し付けがましくない丁寧さで言葉を残し姿を消す。セレスティは零の言葉のままにソファーに腰を落ち着け、桐の箱に収められた帯留めに手を触れた。精巧な細工が施されている。決して安価なものではないだろう。どこかで目にしたもののような気がして銘を確かめると、見覚えのあるものだ。滅多にオークションにも出回らない、知るひとぞ知るといった作者だが残された作品は愛好家の間で高値で取り引きされている。一度手に入れた者は余程のことがない限り手放すことがないせいもあって、市場に出回れば瞬く間に姿を消すことで有名だ。
「こんな高価なものをお持ちになって、何を依頼されたのでしょう?」
滅多なことではお目にかかれない品物を前にセレスティが問うと、同じ作者の簪を探してほしいのだとの答え。それを聞き調査中の事務員という者は余程苦労しているのではないだろうかと思った。
「金の花に銀細工の葉の花の中央には珊瑚があしらわれた簪らしいですよ。紅の一文字が刻まれた硝子珠が果実のようについているともおっしゃってました」
優雅に湯気を立ち昇らせるティーカップをローテーブルの上に置いて零が云う。
「ありがとうございます。―――その簪はきっととても美しいものでしょうね」
セレスティが微笑と共に零に答えると小さく頭を下げてそれ以上のことは云わずに自分の仕事に戻っていく。
「厄介というのもおかしいかもしれませんが、そう簡単に見つかるものではないと思いますが調査中のその方はそれを承知されているのでしょうか?」
調査が開始されていることで既に自分の手を離れたとでも思っているのか、気楽に構えている武彦に云うと唇から煙草を離して、そうなのか、とどこか驚きを滲ませた声が響く。
「えぇ。少なくともこの作者の品は滅多なことがなければ素人が入手することは困難でしょう。どなたかが所持しているのであったとしても古美術についてなんの知識も持たない人間に貸し出すようなことはないと思います」
言葉を綴りながらセレスティは自分自身がひどく興味を引かれていることに気付く。自身の蒐集の対象とは外れているものだとしても、滅多に見ることのできないものを目にすることができるというのならその機会を逃すのは勿体ないような気がしたからだ。
「それでは探しても無駄だということになるのか?」
表情を曇らせた武彦が云う。
「無駄だということはないでしょう。しかし困難であることは確かです」
セレスティの言葉に武彦が溜息を漏らす。それを遠くに聞きながら、目の前の帯留めに視線を落としセレスティは本当に優雅な品だと思った。帯留めは鳥。簪は花。まるで互いに求め合うような組み合わせだ。そしてふと思いついたことを訊ねてみる。
「依頼者は女性ですか?」
その問いにはたと我に返った武彦は再び頭を抱えるようにして思い口調で答える。
「女性……だろうな、姿は。しかしそれが人間なのかははっきりしない。昨日来て、七日後にまた来ると云っていた。それだけだ」
「また不可思議な依頼ですね」
茶化すでもなく呟いて、ますます興味を惹かれていく自分を知る。
精巧な細工を施された美しい帯留め。
作者の名前。
そしてまだ目にしていない簪。
どれもこれもが魅力的だ。
「私にも調査に参加させて頂けないでしょうか?幸いそちらの方面に無知であるというわけでもありませんし、何かお役にたてることもあるかと思いますが」
思わず口をついて出た言葉に、武彦が間を置かずに頷く。
「機嫌もあるし……お願いしたい。調査中の事務員にはこちらから連絡を入れておく。場所を指定するからそこで落ち合うといい」
そう云うと武彦は古めかしいダイヤル式の黒電話に手を伸ばして諳んじているのであろう番号を回した。
【参】
とりあえず情報収集が大切だろうと思い出版関係や古美術品を蒐集する趣味のある知人に連絡を取ってみたが、作者の名前に反応をします者はいても肝心の簪についての情報は皆無だった。目ぼしい情報が見つかったらすぐに連絡をするように伝えはしたが忙しい業界の人間ばかりだ。当てになるかわかったものではない。デジタルカメラで撮影した帯留めや桐の箱の写真をプリントアウトしたものを手に、シュラインはとにかく専門家の所へ訊きに行くのが一番だろうと思い知人の古美術商に連絡を取った。しかし生憎今は時間を取れないとの答え。都合がついたら連絡するとのことだったが、そんなものを待っていたらいつになるかわからない。そう思いながら携帯電話を片手にアドレス帳を捲り、駅のホームで次の行き先を思案していると不意に着信を知らせる文字がディスプレイに映し出された。草間興信所からのものである。
「はい」
アドレス帳を捲る指を止めずに携帯電話を耳に運ぶと、武彦の声が響く。内容は手伝ってくれる人間が見つかったとのことであった。そして今自分が調査しているものがどれだけ希少価値なものであるのかも言葉少なに伝えられる。指定された場所で落ち合うように指示され、相手の外見の特徴を聞いた。
「期限もある。上手くやってくれ」
そう云うのなら自分が調査すればいいものを。思いながら電話を切って、シュラインは腰を落ち着けていたベンチから立ち上がり、待ち合わせの場所に向かうべく駅を出た。
人込みを掻き分けるように指定された場所に向かう道すがら、電話で聞いた相手の外見を想像してみる。白い肌に細身。銀色の長い髪に青色の瞳となれば、どんな雑踏でも一目を引くことだろう。ステッキを手にしているとのことだったが、きっとそんなものよりも外見のほうが十分に目印になる。そしてシュラインの知る限りそんな外見をしている者は一人しかしなかった。
幸い待ち合わせの場所はシュラインがいた場所に近い場所だった。通りに面した洒落たオープンカフェだ。そして予想通りその人物はひどく一目を引く外見を無防備にさらして、洒落た雰囲気にしっくりと馴染んでティーカップを手にして傍らにステッキを置いていた。小走りに駆け寄ると、やっぱりといったような微笑で迎えられた。が紡ぎ出される、
「今更初めまして、でもないわね。今回はよろしく」
「こちらこそよろしくお願いします。事務員と伺っていたのでもしかしたらと思いましたが、本当あなただったとは」
座るよう差し伸べられる指先には優雅で、醸される雰囲気は一般人とは思えない高貴さが漂う。
「まぁ、あそこはいろんな人が来るからね。でもボランティアみたいな事務員として働いているのは私くらいだと思うけど?」
注文を取りに来たウェイターに同じものを、と答えて早速仕事の話しをするべく口を開こうとする先に言葉を持っていかれた。
「進んでいないのでしょう?」
「どうしてわかるの?」
「あの作者は私でも本物を見たことはありませんから、そう簡単に見つかるものではないと思って」
「それで、何か心当たりでもあったりするの?そうだと助かるんだけど」
シュラインの言葉にセレスティが微笑む。ティーカップはソーサに戻され、テーブルの上で長い指が組み合わされている。シュラインは頬杖をついて、セレスティの言葉を待つと注文の品が届くのを合図に言葉が響いた。
「簪についてのことはわかりません。しかし作者と依頼者である女性についてなら、噂程度の情報ですが耳にしたことがあります」
「それが役に立つの?」
「わかりません。しかし師弟関係であったということ。作者自身妻帯者であったこと。そうしたことは何がしかの手がかりになると思いますが……。それにどちらもお亡くなりになったと聞いています」
セレスティの言葉にシュラインは盛大な溜息を零す。
「とうとうあそこは幽霊の依頼まで引き受けるようになっちゃったのね。―――でも、まっ、仕方ないわ。幽霊でもなんでも依頼者には変わりないし、とりあえず探すしかないでしょ」
シュラインが諦め半分に笑って云うと不意に携帯電話が鳴る。発信者は先ほど電話した古美術商をしている人間だ。こんなにもすぐに都合がついたのだろうかと思いつつ、アドレス帳を広げペンを片手にセレスティに一言断りを入れて電話に出ると、聞いたこともない質屋の名前を告げられた。そこにあるかもしれないとのことである。一般人が持ち込んだものであるから期待しないでほしいとの言葉と共に電話は切られる。溜息混じりに計帯電話をたたむと、質屋の住所と名前をメモしたアドレス帳をセレスティの前に差し出す。
「知ってる?」
「いいえ。でも住所がわかるなら行ってみる価値もあるでしょう」
伝票を手に滑らかな仕草で会計を済ませるセレスティについていくと、持ち主なみに目立つ車が停まっている場所に辿り着いた。黒塗りのベンツ。運転手付き。さすがだと思いながら後部座席に乗り込むと、住所を訊ねられる。云われるがままに答えると、運転手が滑らかに車を発進させた。
「住所だけで本当にわかるの?こんな住所聞いたこともないんだけど」
「大丈夫でしょう。わからなければわからないと云うでしょうから」
セレスティの涼しげな答えに返す言葉を失い、シュラインは革張りのシートに躰を預ける。躰を包み込む柔らかさは睡魔を呼ぶほどに心地良い。
特別会話を交わすこともなく暫く車に揺られていると、細い路地の前で停車した。
「この奥で御座います」
運転手が先に車を降りて、ドアを開けると丁寧な口調で云う。
「ありがとう」
それが日常なのだろう。セレスティは自然な動作で車を降りて、シュラインは一般人には理解できないと半ば呆れるような気持ちで後に続く。そして細い、ビルとビルの間を突き抜けるように伸びる細い路地を真っ直ぐに行くと趣味なのか商売なのかわからない一軒の質屋が商い中の看板を出して佇んでいた。
「あの運転手、徒者じゃないわね」
「優秀なんです」
云ってセレスティは滑らかな足取りで質屋の軋む硝子戸を開けた。
【肆】
「誰にも譲るなと云われてるから譲れねぇよ」
時代錯誤な丸眼鏡をかけた癇性な雰囲気の老人が云う。簪を見せてくれと云っただけで誰も譲れとは云っていないと思っている様子のシュラインを他所に、丁寧な口調でセレスティが云う。
「少しの間だけ貸して頂ければいいのです。必ずお返しします」
帳場で胡座をかいた老人の前に設えられた文机の上には確かに女性が云っていたものと同じ形をした簪がある。金の花に銀細工の葉。花の中央には珊瑚。紅の一文字が刻まれた硝子珠が果実のようについている。収められた細長い桐の箱に記された銘も同じ作者のものだ。
「そう云う客が一番信用できねぇのさ。そう云って持ち出して、返さねぇ気でいるんだろう?」
そう云われてもセレスティは引き下がるつもりはないようだ。勿論シュラインもそのつもりである。いざとなれば力ずくでも借り出すつもりでいる。
「数日とは云いません。数時間ならお許し頂けるでしょうか?」
「あんたたちもしつこいねぇ。こちとら商売でやってんだ。そう簡単に貸し出せるもんか」
どれだけ無意味な応酬を続けただろう。セレスティは穏やかな様子を崩さず、我慢強く老人とやり取りを続け、シュラインはその傍らでこの爺いい加減にしろと苛立ちを滲ませつつも黙って二人のやり取りを見守っていた。
結局はセレスティの勝ちである。穏やかな物腰と明らかに裕福な暮らしをしているのがわかる外見のせいか、数時間だけという約束で簪を貸してもらえることになった。犠牲になったものは貴重な時間だけ。それだけで済んだのは幸いなのかもしれないが、さんざん老人の口汚い言葉を聞かされ続けたシュラインは苛立ちを通り越しで、呆れかえり疲れ果てていた。
「よくあんな爺にキレもしないで付き合えるね」
店を出て開口一番に云うシュラインにセレスティは苦笑する。
「我慢比べのようなものですよ。とりあえず今日一日で解決したことを良しとしましょう。私もこんなに早く見つかるとは思ってもいませんでしたからね。お送りしますが、どちらまで?」
「草間興信所。とりあえず見つかったことだけでも報告しないといけないしね」
シュラインの言葉にわかりましたと答えたセレスティは車に戻ると、草間興信所までと運転手に告げると車が走り出すと同時にぽつりと云った。
「余計なことなのかもしれませんが、作者と依頼者である女性の間を奥様が疎ましく思っていらしたそうです。噂ですけれどね」
腕組をしてシートに躰を預けていたシュラインはよくあることではないかと思いつつ答える。
「当然のことでしょ。弟子といえども自分の旦那が他の女と仲良くするのを快く思う女なんでいないよ」
「そうですね」
「それに弟子といったら旦那と同じ世界を知る人間。関係がなくとも嫉妬するのがふつうだと思うけどね」
「えぇ。分かち合える一つの世界を共有すれば、疎外されているように思っても無理もありません」
切れ切れに言葉を交わしている間に車は草間興信所の前に辿り着く。主人でなくとも運転手の対応は変わらず、外側から開かれたドアから車を降りてシュラインは車内のセレスティに云った。
「簪はあんたが取りに行ってもらったほうがいいと思うんだけど」
「お引き受けしましょう」
迷惑な素振りも見せず引き受けてくれたセレスティと次に会う日取りを約束して、シュラインは武彦に報告すべく草間興信所のドアを開けた。濃い煙が流れ出て、その向こうにはデスクに突っ伏して惰眠を貪る武彦の姿。思わず溜息が漏れた。
「簪は見つかりましたけど、あんたが寝てる間にっ!」
つかつかとデスクに歩み寄りわざと耳元で大きな声で云ってやると、滅多に目にすることのできない俊敏さで武彦が面を上げる。
「優秀な人材派遣ありがとう」
笑って云ったつもりだったが、口端が苛立ちで僅かに引きつっていたかもしれないとシュラインは思った。
【伍】
「作者っていうのは本当にいい仕事をする奴だったんだな」
自分は何の苦労もしていない気楽さも手伝ってか武彦が純粋な感嘆の声を漏らす。
「武彦さんには一生買えないものなんで、無駄に触って壊したりしないように」
シュラインは棘のある口調で云う。セレスティがそんな二人のやりとりを微笑と共に見ている。
三人は帯留めと簪を並べた応接セットのローテーブルを囲むようにソファーに腰を下ろし、七日後に訪れると云った依頼者の女性を待っていた。零は買い物に行くといってつい先ほど出て行った。セレスティが簪を手に草間興信所を訪れてから既に数時間が過ぎている。お茶請けに出された菓子の類は暇を持て余す武彦の腹に収まり、先ほどシュラインにたしなめられたばかりだ。
「本当に三角関係の縺れが絡んでるなら、曰くつきもいいところだな」
先ほど話題になった弟子と作者、そしてその妻の関係を云っているのだろう。
「縺れたとは誰も云ってないと思うけど」
シュラインが云う。
「似たようなもんだろう」
武彦が云うと同時にドアが開いた。
ひんやりとした空気が流れ込んでくる。
三人が同時に顔を向けると、息を呑むような美しい女性が立っていた。
「簪は見つかりましたか?」
淋しげな眼差しで女性が問う。漆黒の髪に飾り者は無い。武彦が云っていたように緋褪色の着物姿。上品な刺繍が施されている。
「立ち話もなんですから、こちらにお掛けになって下さい」
シュラインがすかさず席を立って女性に座るよう促す。小さく頭を下げて空いていたセレスティの隣に腰を下ろすと、ローテーブルの上の簪を目に留めて武彦の顔を見た。
「探したのはこっちだ」
云って武彦が隣に戻ってきたシュラインを指差すと、女性はその指の動きを追いかけるようにしてシュラインに向き直り深々と頭を下げてありがとうございますと云った。
「いいえ。お礼を云われるほどのことではありません。これはお借りしたもので、お返ししなければならないんです」
申し訳なさそうにシュラインが云うと、女性は顔を俯けたまま、かまいませんと呟く。
「私は持って帰ることができませんから、それでかまわないのです。ただ一目、見ておきたかっただけなのです」
「もし宜しかったらお話しを聞かせて頂けませんか?」
セレスティが云うと、女性が隣へと視線を向ける。
「申し遅れました。セレスティ・カーニンガムと申します。私も探すのをお手伝いさせて頂いたのですが、持ち帰ることができないものをどうして探そうとなさったのでしょうか?」
「師の形見だからで御座います。金銭により取り引きされるために作られたものではなく、私が独り立ちするその時に純粋な祝の意味をこめて頂いたものでした。帯留めは仕上げの鳥の最後の一彫りを私がさせて頂いたもの、簪は師が私の習作に仕上げの手を入れて下さった。これらは二つで一つなのでございます。簪がなくなったのは師が亡くなる間際のことでした。奥様が私と師の仲を疑っていたせいでしょう。恨みは御座いません。しかし奥様がとった行動を許せるかといったらそうではありません。愛や恋などといった感情を抜きにしましても、私にとってこの二つの品はとても大切なものなのです。ですからずっと探し続けて参りました。肉体が滅びた後にも、この帯留めと共に長き年月のなか簪が何処に消えたのかと彷徨い続けていたのです」
言葉を切り女性が微笑む。
「今漸く二つが揃う姿を目にすることができて私は十分で御座います。本当にありがとうございました」
女性はそう云い再度深く頭を下げると、
「帯留めは私の感謝の気持ちと思ってお納め頂ければと思います」
と云った。
「そんな大切なものを……」
シュラインの言葉に女性は笑む。
「肉体を失った私にはもう形あるもの総てが触れられぬものなのです。帯留めと共に長い時間を過ごすことができた。そして簪の行方もわかった。それだけで幸福ですもの、これ以上望むことは我儘で御座いましょう。―――この度は本当にありがとうございました」
花が散る光景を見たような気がした。
女性の微笑みが空気に溶けるように消える。
髪の一筋までも緩やかに溶けていく。
慎ましやかな恋だったのだと三人は思った。
創作という一つの世界を分かち合い、そのなかでしか触れ合うことのできない愛情を確かめあいながら、たとえ誰も二人の関係を認めようとせずとも、少なくとも女性はそれだけで幸せだったのだ。長い年月のなかでただ一つを真摯に捜し求めることができるほどに作者を愛し、それ以上に二人で作り上げたものを愛し続けたというそれが証。
この世に二つとない二人の合作。
きっとそれに確かな値をつけられるものはいないだろう。
「物に想いが宿るというのは本当なんだな」
「あまりに切ない想いですけれど……」
武彦の呟きに答えるセレスティの声もまたどこか切なくあたりに響く。
シュラインは残された帯留めと簪を見つめ、いつかそれほどまでに一人の人を想う日は来るだろうかと思った。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【1883/セレスティ・カーニンガム/男性/725/財閥総帥・占い師・水霊使い】
【0086/シュライン・エマ/女性/26/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
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■ ライター通信 ■
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ご参加ありがとうございます。沓澤佳純です。
お二方の関係がご友人だと知り、このような描き方をさせて頂いたのですがいかがでしょうか?
少しでもお気に召して頂ければ幸いです。
この度のご参加、本当にありがとうございました。
また機会がありましたら、どうぞよろしくお願い致します。
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