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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


【secret】





「おい」
 液晶の大画面テレビに向かい膝を抱えて座る、華奢な背中を足先でつついた。
「なによ」
 彼が顔も向けずに素っ気無く返答する。
 液晶画面の中では若手漫才コンビというやつが、上品ではない冗談を飛ばし、観客を沸かせていた。
 こんなものがそんなに面白いのだろうか。
 ケーナズ・ルクセンブルクは首を傾げたくなった。
 けれど変わりに下唇を突き出して、もう一度その背中をつついてやった。
 白いソファの肘つきに肘を預けた格好で、足先でチョイチョイと。
 やられたことはないが、きっとそれは苛立つ行為なのだろうと思う。
「だから」
 集中力を削がれた彼は、やっと顔をケーナズに向けた。
「なに?」
 眉を寄せた顔。
 何だか少し、腹が立った。
「テレビがそんなに面白いか」
「なんで? 面白くない?」
「面白くないから聞いている」
「それは」彼は抱えた膝を持ち上げた。「価値観の相違だね」
「テレビは人の脳を腐らせるんだぞ」
「だったらどうしろって言うのさ」
 彼がわざとらしく唇を突き出した。アヒルのような顔でケーナズの膝に懐いてくる。
「何か楽しいことしてくれんの?」
「お前がやればいい。ペットなんだから飼い主を楽しませてみろ」
 ふっくらとした頬を両手で挟んでぎゅっと寄せる。彼の変テコリな顔に、ケーナズは思わず顔を緩ませた。
 彼がこの家に来て、二ヶ月。
 当初はこの男とこんな、穏やかなやり取りをすることになるなんて、夢にも思っていなかった。元々彼は、ケーナズが製薬会社で勤務していることを知り、情報を盗むために近づいてきたスパイだ。
 更にインチキ宗教の教祖であり、元ホストでもある。
 それが何処をどう間違えたのか、彼はマンションの一室で毎日大人しく主人の帰りを待つペットとなり、自分はそれを黙認している。
「人の顔を見ながら考え事するの、やめてよ」
 彼が顔を潰されたまま、ふがふがと言った。それからケーナズの手を振り払う。
「何考えてたの?」
「秋晴れのこんな日に、テレビを見ているお前が不健全極まりないとかそういうことだ」
 ベランダに続く大きな窓に視線を向けた。
 水色のレースカーテンを通り抜け、秋の明るい陽射しがフローリングに差し込んでいる。見ているだけで気持ちがふっと晴れるような、清々しい光りだった。
「なによ、それ」
 顔を戻すと彼が肩を竦めている。
「いいじゃんテレビ。面白いって。悪くないよ」
「ふん、そうか」
 ケーナズは小刻みに頷いた。
「だったらお前は一生そうしてるんだな」膝に乗っかっていた彼の顎を振り落としてやった。「私は出かけるぞ」



 部屋の中は藍色の影に包まれている。それは中学生の頃、授業で強制的に連れて行かれたプラネタリウムの室内を、僕の脳裏に連想させた。
 この天井に星を散らしたら、さぞやキレイな眺めになるだろう。
「夜空みたいですね」
 求められてもいない感想を口に出した。
 彼は小さく笑い「夜空ですか、なるほど。そういう風にも見えるのかも知れませんね」と言う。
「違うんですか?」
「違わないも違うもないですよ。あなたがそう感じたのならそれでいい。人それぞれですからね」
 彼はそう言いながら部屋の奥まった場所にある紫檀のデスクに向かった。ステッキを使いながらのゆったりとした歩行である。
 生まれてからずっと普通人であった僕には想像も出来ないが、彼は元々海の中の生き物だったという。
 そう言われると水族館の中に居る生き物を思い浮かべてしまうのだが、それは違うらしい。人魚だったと彼は言う。
 人魚なんてアニメの中でしかお目にかかったことはない。
 けれどそういうものも現実に存在しうるのだと、僕はここ数ヶ月間で身に染みて分かっていた。
「じゃ。じゃあ。この部屋がセレス様にはどう見えてらっしゃるんですか」
 自分の雇い主、主人であるセレスティ・カーニンガムは、革張りの立派な椅子に腰掛けふっと息を付くと、透き通った水のような声で言った。
「そうですねえ。私には深海に見えます」
「深海」
「ええ。人間界は嫌いではありませんがね。故郷が懐かしくなることもあるでしょう。そういう時、この部屋に居ると落ち着くのですよ」
「なるほど」
 そう言われると淡い潮の香りがふっと鼻腔を突くような、そんな気がしてしまう。現金だな、と苦笑した。
「じゃあ。何かあったら呼んで下さいね」
「ええ、ありがとう」
 頷いたセレスティが、紫檀のデスクに置かれてあったデスクトップパソコンの電源を入れた。無音の部屋に響く、パソコンのカチカチという細かな機械音。
 深海に、近代的なパソコン。そう想像すると何だか妙だった。
 僕は小さく礼をして、部屋の入り口の前に戻った。
 ポツンと置かれた木の椅子に腰掛けて、何をするでもなくぼんやりとする。
 本来、彼の側近とも言うべきこのような仕事は、他にやるべき人間が居る。しかしその人物が今日は出張の為留守なので、一日だけ、変わりに僕が主人の傍につくことになっていた。
 僕は普段、彼の屋敷で使用人と同じような仕事をしている。時に、今日は出張に出かけている人物の補佐をしたり、普通ではない仕事。例えば、以前の僕なら到底信じられなかったような怪奇現象や、常識では対処しきれない問題が発生した時にそれらを解決する仕事の補助をしたりしている。
 セレスティは名だたる財閥の、総帥という顔を持っていた。その傘下に居る会社は、以前の僕でも名前くらいは聞いたことがある、有名で大きな普通の会社ばかりだ。
 しかし裏には、そういう怪奇現象や常識では対処しきれない問題がたくさんあった。地球という、日本という小さな世界しか知らない僕は、日々いろいろと衝撃を受けている。
 そしてそんな仕事を、僕に与えてくれたのはセレスティ様だった。
 以前の僕はといえば、ただのフリーターだ。若干は親の脛をかじりながら、特に何の目的もなく生きているような人間。
 それがどこをどう転んだのか、いつの間にかリンスター財閥総帥宅の使用人である。
 運命とは分からないものだ、と何だか妙にそんなことを考えてしまう。
 僕は薄暗い部屋の空を見上げた。何処から光りが差し込むのかは分からないが、時折細い光りの筋がそこに走る。幻想的だった。
 セレスティの叩くパソコンのキーボードの音だけが、妙に現実感に溢れていた。



 B1のボタンを押したら、横から彼が1のボタンを押した。
 ケーナズは思わずその顔を見やってしまう。彼は素知らぬ顔で明後日を向いた。
 エレベーターがゆっくりと下降を始める。
「なんなんだ、全く」
 小さく呟いて、ケーナズはやはりB1のボタンを押した。
 すると隣からすかさず言われる。
「今日は車使わないんだよ」
「なんだ。車を使わず、何処に行く」
「いいんだよ。とにかく使わないの」
「ああ、そうか」降りていく数字を見上げる。「なるほどな。飲酒運転の心配なら要らない。ジムに行くだけだ」
「ふうんだ」
 顔を突き出して、また彼は明後日を向く。
 心地の良い沈黙にエレベーターの中が包まれて、それからチンと甲高い音がした。
 エレベーターが一階につく。
 そこで強引に手を引かれた。はじき出されるようにエントランスへ出る。
「何をするんだ」
 口調だけ怒ってみせた。
 彼は素知らぬ顔でホテルのロビーとも見えるエントランスを抜け、舗道に出た。
「それで? これからどうするんだ?」
 彼は暫くキョロキョロと舗道に視線を走らせていた。そして突然、ケーナズに向き直った。
「あ。脇のところ、何かほつれてる」
「ん?」
 ケーナズは反射的に自分の脇腹を見た。
「なんだ。なんともなってないじゃな」
 目の前に、一台のタクシーが止まる。
「ん?」
「手を上げるからだよ」
 彼が笑顔で言った。
「それはお前がほつれてるなんて言うから、私はただ見るためにだな」
「じゃあ。要らないって言う?」
 目の前のタクシーのドアが開き、運転手がこちらを伺っていた。
「あのさ。折角止まったんだからさ。乗っちゃおうよ?」
 笑顔で言われ、手を引かれた。車に乗り込むとユウが言った。
「今の。テレビで仕入れたネタなんだよねえ。偶然を起こす力が必要なんだって? ねえ。テレビも役に立つんだよ」
 得意げな顔に呆れてしまう。
「全く。ロクなことを吹き込まないあたりがやっぱりテレビだ」
 憮然とした顔を作り、言ってやる。



「ちょっと」
 遠くから脳を刺激されるような声で呼ばれ、僕はハッと我に返った。
 我に返ってしまえば今まで自分が何処に居たかもわからなくなるような、そんな場所から舞い戻る。
 そうだった。ここはセレスティの執務室だった。
「すみませんが」
 もう一度呼ばれ僕は「はい」と顔を向けた。
 セレスティは何時の間にかパソコンから顔を上げており、腹の辺りで手を組み合わせ椅子をユラユラと動かしている。
 慌てて視線の焦点を合わせた。セレスティの銀髪が、深海に差し込む光りのように輝いていた。瞬間、とても美しいと思う。
「何か。飲み物を頂けませんでしょうかね」
 それは今日、やっと授かった仕事だった。
「あ。はい、分かりました」
 僕は力強く頷いて部屋を出た。意識せずとも何故か小走りになっていた。少しでも早く届けなければ。それは責任感だ。長い廊下を渡りきり、そこにある分厚い扉を抜けた。
 サロンに直行し、使用人の一人を捕まえる。何か飲み物を用意して欲しいと伝えた。彼らが飲み物を用意する間も何故か足を止めることが出来ず、ウロウロし、バタバタし、鬱陶しがられた。
 やっとティーセットを載せたワゴンを用意すると、今度は走るわけにもいかないので出来るだけ早歩きで部屋へと戻る。
「お待たせしました」
 ノックの後、そう言って部屋に入った。
「早いですね」
「そうですか?」
 そう返事を返しながらも、少し嬉しい。
 紅茶をカップに注いだ。
「そうそうそれでね」
「はい」
 カップを紫檀のデスクに置くと小さく会釈し「ありがとう」と言ったセレスティが続ける。
「実は。この万年筆ですがね」
 パソコンの隣に置かれたペンをヒョイと持ち上げた。
「インクが切れて。デスクの中にもないんですよ。倉庫に予備があるはずですから。持って来ては貰えませんかねえ」
「あぁ、そうでしたか」
 何となく、自分で言っておいて微妙な返事だな、と思った。
 たぶん、何となく違和感を感じたからだろう。こんな屋敷のこんな人が、こんな急にインクの話をするなんて、というところだろうか。
 とにもかくにも「はい」と頷き、僕はまた部屋を出た。
 二つ目の扉を潜り、廊下を渡る。セレスティの執務室が屋敷の右端にあるのだとしたら、その倉庫は屋敷の左端にあった。長い廊下を走って渡り、資料庫とも倉庫とも呼べる部屋に入る。
 何度か入ったことがあったので、内部のことは知っている。
 事務用品があるとしたら、奥の棚だろうと目星をつけた。棚に置かれたダンボール箱をかき混ぜる。インクインク。
 それはとても小さな長方形の箱だった。
 これを取りにこの広い屋敷を渡ってきたのか、と思うと少し、脱力する。
 だって僕は。ワープなんか出来ないもんなあ。
 胸の中で呟いて、インクを持ちまた長い廊下を渡った。
 部屋に戻ってインクを差し出すと、セレスティ様は僕を見上げて小さく微笑んだ。
「息が切れています」
「あ、ああ。走ったので」
「それはご苦労様でした。ありがとうございます」
 恭しく両手でインクを受け取り、紫檀のデスクの引き出しにポイと放り入れる。
「それでね」
「はい」
 椅子に戻ろうとしたところで、僕は振り返った。
 今度は何を言いつけられるのだろう、と少し身構える。
 セレスティ様が洒落た仕草で肩を竦めた。
「考えたんですが。もう、言うことが思いつきません」
「え?」
 思わず、呆気に取られた。
「ど。どういう意味ですか?」
「いえ。キミが余りにも暇そうにしているもので。何かしら言いつけた方がいいのかと思ったんですが。うーん。仕事を捏造するのも、中々容易くありませんねえ」
 暢気に小首をかしげられ、浅海は「ええええ」と声を上げるしかない。
「か」
 暫くしてやっと言った。
「からかったんですか!」
「まさか」心底驚いたという風に、彼は目を見張らせた。それからまたいつもの優しい笑みを浮かべ。
「悪気はありませんよ」
 シラリと言い放つ。
 ああ。
 ただからかわれているんだとして。
 その眩しい笑顔には、不覚にもときめかずにはいられない。



「カニってさ」
 彼がテーブルの上に並んだ料理の中で、サラダの透明な器をフォークで差した。
「フォークで物を差すなよ。行儀が悪い」
 ケーナズが眉を寄せてやると、彼は肩を竦めた。
「はいはい、ゴメンなさい」
「それで。カニがどうしたんだ」言いながら、ワインを口に運んだ。
 パイナップルやパパイヤのような、熟した果実の香りが口腔と鼻腔に広がる。
 この店に来た時にはいつも注文する、白ワインだ。
「うん。カニってね。茹でた後、冷たい空気に晒しちゃうと身が駄目になっちゃうんだってさ」
「ほう」
 他に言いようがないので、いい加減な返事を返した。
 それが不服だったのか、彼が「反応薄ッ!」と唇を突き出す。
「他になんと言えばいいんだ? 私は別にカニに興味はないぞ」
 ケーナズも肩を真似して唇を尖らせて見せた。
「あーあ」溜め息と共に吐き出して、彼はソーセージを噛み千切る。「何かさあ。ムードぶち壊しだよ」
 租借しながら言った。
「なんのムードがあるというんだ」
「なんなのこのロマンの欠片もない、アップテンポな音楽はさあ」
 彼が店内奥にあるステージに目を向ける。そこでは店お抱えの生バンドが、ドイツ民謡であるポルカを演奏している。
「いいじゃないか。楽しいだろう?」
「まあ。楽しくなくはないけど」
 彼は微妙な返事をした。
「お前が飯を食いたいと言ったんだ」
「もっとお洒落なバーとかで語りたかったんだもん」
「カニの話をか」思わず、吹き出してしまう。
「続きがあるんだよ」
「ふうん」眉を上げたやった。「聞こうじゃないか」
 スモークサーモンを口に運ぶ。
 中々自分の舌に適う、ドイツ料理店というのも少ないのだが、ここはそんなケーナズの舌に適う料理を出す貴重な一軒だった。ユウと二人タクシーに乗り込み、何か飲んで食べれる場所とリクエストされたので、時折顔を出すこの店を行き先に決めたのだ。
 元々、ケーナズは余り外食を好まない。
 自分で作ることだって出来るし、友人の家くらいなら出向こうとも思うが、見ず知らずの人間が沢山居る場所でわざわざ物を食うこともあるまい、と思うのだ。
 だからこれは、ごく稀なことだ。
「なんかさ。それ、テレビで見たんだけどさ」
「またテレビか」
「いいじゃん。聞いてよ」
「聞いている」
「その何か。茹でた後冷たい空気に触れると駄目になるカニってさ。ちょっと分かる気しない? 僕、凄くわかるんだよね」
「分かるという意味がわからん。何に例えて分かると言っているんだ」
「恋愛さ」
「恋愛?」
「茹でた後、冷たい空気に触れると駄目になるカニはさ。つまり、アナタ。ケーナズのことなんだよね」
「はあ?」思わず、間抜けな声が出てしまう。「ますますわけがわからんな」
「それに僕でもある。いや、人間なんてだいたい、恋をするとそういうカニになるんだよ。燃え上がった後の冷たい空気は、人の心も、カニの身も駄目にするんだ」
「ふん」
「なに、それ。今、鼻で笑ったの!」
「他にいいようがあるか」
「名文句じゃないか! だって!」
「別に私は冷たい空気に晒されたことも、燃え上がったこともないんでね。その意見には賛成しかねるよ」
 飄々といい、フライドポテトを口に運んだ。
「うそつきい」
 それは、聞かなかったことにした。



 腹の辺りに片手を置いて、僕の腿に頭を預け、ケーナズ・ルクセンブルクは柔らかい寝息を立てている。
 液晶の大画面には、ドイツ料理店の帰りに寄って借りたレンタルビデオの洋画の映像が流れていたが、僕はそれもそっちのけでケーナズの顔を見つめながらその髪を撫でていた。
 店から帰ってくるなりまた缶ビールを開けながら、一緒にビデオを見ていたケーナズだったが序盤も序盤でとっとと彼は眠りについた。
 アルコールの力が全くないとは言い切れないかも知れないが、理由はそれだけではないだろう。余りにビデオの内容が退屈だったのかも知れないし、いろいろと疲れが溜まっていたのかも知れないし、そういえば最近、仕事の帰りも遅かった。
 僕は彼を起こしてしまわないよう極めて優しく、その美しい金髪を指ですいた。しっとりとした感触が指に伝わり、頬が思わず緩んでしまう。
 幼い頃から美しいものが好きだった。美しいと感じるものをたくさん見てきたつもりだった。
 けれど今まで見てきたものの中で一番、彼は美しかった。
 髪をすいていた手を移動させ、触れるか触れないかのやさしいタッチで今度は通った鼻筋をなぞる。尖った鼻先をツンとつついて、彼が目を覚まさないことを確認する。
 赤い唇に、触れた。
 小さな温度が伝わってきて、指先が妙に熱くなる。鼓動が痛いくらい耳を突いた。
 そっと顔を落とし、その唇に触れる。
 柔らかい唇を乱暴に吸ってしまいたい衝動を懸命に抑え、顔を上げた。
 僕はまた、そっと金色の髪に指を這わせる。
 本当は。いつも触れたい。
 けれどそんなことをして鬱陶しがられると悲しくなるから。そして、悲しい自分が鬱陶しくなってしまうから。
 僕はいつだって、ケーナズが眠っている時にこんなことをしてしまう。

×

「全く」
 ケーナズは苦笑を浮かべて溜め息を吐き出した。
「寝込みを襲うとは姑息にも程がある」
 呟いて、ソファの下で丸くなり眠る彼の額を指で突いた。
 暫くその暢気な寝顔をぼんやり眺めて、ケーナズは自分もソファから降り床へ胡坐をかいた。悪戯書きでもしてやろうかと思うほど、安らかな寝顔だった。
 ここへ来て少し、太ったのかも知れない。
 ぷっくりとした頬は柔らかそうで、思わず噛み千切ってやりたいような衝動に駆られる。
「こんな顔して、酷い奴だ」
 眠っている間にキスを奪われたのは、これが始めてでは、ない。
「この野郎。私は知っているんだぞ」
 今度はその鼻を摘み、ケーナズは小さく笑った。
 鬱陶しそうに眉を潜めた彼に、鼻の手を払われる。
「本当は知っているんだ」
 ケーナズはその場で横になり、その寝顔を見つめる。ツンと頬を突いた。
「だけど」
 寝ているフリも、知っていることも。
「まだ黙っておいていてやるよ」



「嫌いな人を傍に置いたりしはしませんよ」
「そうだ。その通りだ」
 電話の向こうで、やけに上機嫌でケーナズが言った。
 デスクから少し離れたところに置かれた木の椅子に座る青年に目をやって、セレスティはふふふと笑う。
「しかし中々、気持ちは上手くは伝わらないようです」
「冷えたカニだからな」
「カニ? なんですか、それ」
「まあ。いいじゃないか」
 軽く流されたので、セレスティは肩を竦めた。
「まあ、いいですが」
 椅子に座る青年は、カクンと首を落とし眠りこけていた。
「とにかく。気に入っているからなんですよ。だから、相手が自分の為を思いしてくれる全てのことに。うっとりとしてしまうんです」
「そうだなあ。しかし、それが分かるような出来た人間でもないだろうしな。からかったんですか! なんて、今時小学校三年生でも口にしないセリフだぞ、きっと」
「だからですよ。そこがいいんですよ、きっと」
「いいのかな」
「馬鹿な子ほど可愛いというでしょう?」
 電話に向かい言って、ああ。そうか。とセレスティはふとあることを思いつく。
 彼の思い人である彼も、もしかしたら同じ気持ちで彼を無視し続けるのではないか、と。
「なんだ。突然笑って」
「いいえ、別に」
 セレスティは見えてもいないのに首を微かに振る。
「それで。草間興信所の依頼ですがね」
 強引に話を戻した。
「ああ。そうだった。それで電話してたんだったな。キミの執事の話で終わるところだったよ」
「それでは困ります」
 ちらりと上目に、今度は顔を仰向けにし口をぱっかりと開ける青年を見た。
 彼の思い人である彼も、もしかしたら同じ気持ちで彼を無視し続けるのではないか。
 けれどそれはまだ。
 教えてやらないことにした。








END