|
うつろう久遠の音
なつかしい音のかけらが闇夜に響いているのを聞いたのは、北風のささやく晩秋のことであった。
その日、仕事をしている時も一人で休んでいるときも、荒祇天禪はなにか、心に引っ掛かるものを覚えていた。何かを忘れているような、大事なものを置き去りにしてきたような、そんな―――――何とも居心地の悪い気分。ひょっとして大事な取引でも忘れているのだろうかと思い秘書に聞いてみたが、そのような予定は入っておりませんと機械的に答えが返ってきただけだった。はて、何を忘れているのだろう―――――
「―――――長。…会長、」
「?」
運転をする秘書の呼ぶ声で我に返った。後部座席から見えるのは秘書の左肩と首筋、それにかかる後れ毛だけであったが、天禪はなぜか彼女に振り返ってじっと見詰められているような感覚を覚えた。
「あぁ、……何だ、」
「ご覧下さい、新月で御座いますよ。」
アナウンサァのように明晰な、そしてどこか楽しげな声が車内に響く。天禪がドアの下についているボードを操作しようとする前に、わずかな機械音をさせて窓が下がった。秘書が運転席のボードを操作したのだろう。
外には、底の見えぬほどの暗い暗い夜空がカーテンのように下がっていた。遠くに小さく、天狼星が煌めいている。黒に近い紺で一面を塗り潰し、その上から気紛れのようにぽつぽつと星を散らしただけの、愛想の無い空―――――
東京から見える空は、何と味気の無いものなのだろうと天禪は思った。
「何か、有ったのか?俺に空を見せるなど、今までしなかっただろう。」
「えぇ、けれど、会長はいつも空をご覧になっていらっしゃいますわ―――――」
くすりと、笑う声。どこか妖艶さを孕んだその声に、天禪の頭を過ぎる者が居て―――――それと同時に、開け放した窓の向こうから、聞き覚えのある音楽が掠れながら流れ込んできた。
清流を流れる花のひとひらのように、か弱い音のかけら。埃を被っていた懐かしさが目を覚まし、天禪の耳の奥ではじける。
「……そう、言えば。」
「はい?」
「いや、」
忘れていたとは、何と無礼な。
天禪は己の呆け振りに思わず苦笑し、もう一度新月の夜を見遣る。
「済まんが、行き先を変えて貰えるか。―――――伽藍堂という、骨董品屋だ。」
「は……けれど、この時間で開いているのですか?」
「知り合いの店だ、開かぬ事は無かろうさ。急いでくれ、今日が大切な記念の日だということを、すっかり忘れていた。」
「畏まりました、」
流れ込みつづける音楽はポロネーズのように、軽やかで繊細な響きで以って、この明かりの無い夜を通り抜けてゆく。それを追うように駆ける、闇に溶ける黒い車。
あら、御覧なさいな、せせこましいこと――――…
今は姿を隠している月に、笑われたような気が天禪にはした。
+ + + +
「おや。誰かと思えば、」
伽藍堂の扉を開けて出てきたのはいつもの使い魔ではなく、月の無い夜でも煌めく紅の瞳を持つ、ここの主人―――――紅蘇蘭、その人であった。
「どうしたんだい?こんな夜半に―――――急に逢いたくなったのかしら、」
冗談めかして笑う蘇蘭に、天禪も笑みを返す。
「あぁ、それも有るが、今日は記念日だったろう。」
そう言うと蘇蘭は、やっと思い出したか、とばかりに片眉を上げて応える。
「忘れているんだとばっかり思っていたよ。」
意地の悪い笑みを浮かべながら、彼女は扉を開け放して天禪を迎え入れる。白檀に似た香りが夜気に溶け、いっそう香りを強くした。
「何時まで経っても来ないから、助け舟を出したのさ。」
蘇蘭が背を向けたので、黒地に銀糸を織り込んだドレスの肩を、紅く染めた絹糸のような細い髪の毛が幾筋か滑り落ちた。彼女が一歩、また一歩と歩を進めるたびに、廊下に並ぶ洋燈があかりを灯してゆく。そのあかりに照らされて、彼女の髪の毛が明るい朱に染まった。
少しの間廊下を歩いて、蘇蘭はひとつの部屋のドアを開ける。その間を通って先刻から流れていた音楽が嵩を増し、明瞭に響き始めた。
「……これは、」
「懐かしかろうねぇ?私も随分と驚いたもの。人間の拙い記録も中々侮れないものよ……私達が耳にしたものとは少し違うようだけれど、昔を懐かしむには十分だろうさ。」
部屋の中では古びたレコードが回っていた。
百合のかたちをした蓄音機からは、先程見てきた夜空のびろうどのように、澄んで奥深い音が流れ出ている。音のかけらたちは時に跳ね回り、時に落ち着き、時に切るような鋭さで空気を震わせた。多重な音の層が麗しい和を成し、流れるかと思えばそうではなく、予期というものを許さないその曲には聞く者を飽きさせぬ不思議な魅力があった。
「何時のことだったか―――――」
「私も正確な時間までは解らないねぇ。けれど覚えているよ、天禪。あれはまだお前がお堅い護国神をやっていて、私が面白がってちょっかいを出していた頃さ。」
蘇蘭は椅子に腰掛け、取り出した煙管に火をつけた。そのまま白い手をすっと差し伸べると、丁度テーブルを挟んだ彼女の正面にもう一脚の椅子が現れる。勧められて天禪もそこに腰掛け、蘇蘭の話に耳を傾けた。
「夏の終わりのことだったかねぇ―――――お前に何時も通り、ちょっかいを出してやろうと近づいたんだ。常ならばすぐにも気付くお前が、けれどその日ばかりは桜に見惚れていて気付いてくれなかった、」
「狂い咲きの桜なぞ、滅多に見られるものではないからな。あの桜は、しかし、美しかった。」
はぐらかすように言ってやると、蘇蘭は微笑んで肩を竦めて見せた。時折ふと見せる、悪戯をした少女のようなその目。今も昔も変わらぬその姿に、知らず天禪の眼におだやかな笑みが浮かんだ。
「悔しかったねぇ。何をやってもすぐに見抜いてくれるお前が、私がそこにいるという只それだけのことに、気付きもしなかった。」
それは久遠の昔、新月の夜。狂い咲きの一本桜に見惚れていた天禪の後ろから、雅やかな音楽に紛れ、聞き覚えのある声が響いたのであった。
―――――天禪や。
―――――私がここにおると言うに、何故気付いてくれぬ?
「知らぬこと、忘れること、気付かぬこと―――――」
蘇蘭は長い足を組み、懐かしい音楽を奏で続ける蓄音機を眺めながら、独りごちるように呟く。
「我等久遠を生きる者にしても、総て……耐え難い痛みよ。悔しくて悔しくて、私は思わずお前に声を掛けてしまった。」
彼女の顔に憂いが過ぎる。伏し目がちな瞳は、遠い昔を思い出しているのだろうか。新月の夜の闇は、光あるところでは見えぬものを映し出すのだ。
―――――天禪や。
―――――何時ものように、私を見てはくれぬのかえ?
「思い出すよ。その時のお前の顔と言ったら、無かったねぇ?」
物憂げだった蘇蘭の口元がふと綻び、桔梗の花のような笑みが浮かんだ。天禪も、笑って見せる。
「当たり前だろう。今まで俺を困らせることばかりしていた悪戯者の天仙であったのに、」
―――――天禪や。
そう言いながら、桜の木の陰から舞い落ちる花びらのように優雅に現れた彼女に、天禪は―――――
蘇蘭が、くすりと笑う。
「昔……あの頃は何時も、お前を困らせてやる積もりでいたのにねぇ……。運命とは奇異よの、」
彼女の細い指が燻らせた煙草から紫煙が昇り、音に掻き消されるようにして空間に潰えてゆく。蘇蘭はちらりと天禪を見遣り、ひとすじ煙を吐く。蓄音機が奏でる音は昔と変わったが、縷々と紡がれる流れは今も変わらない。護国神と悪戯者としてでは無く、天禪と蘇蘭として初めて言葉を交わしたとき、桜の木の下に流れていた音のかけらと同じ流れ。
「……時間と共に移ろってゆくものも有れば、変わらぬものも有る。蘇蘭、お前と居ると、その理が良く解るよ。」
永き時を生きる者は、移ろう季節に涙を流す。自分を置いてゆく総てのものに、虚ろを視る。その虚無を、悲哀を、癒せるものはいなかった。お互いを除いては―――――
「そうさね……人も、時も、我等には移ろう幻のようなもの……。けれどお前だけは、私にとって永遠だわ。」
自分達にとってその言葉がどれだけ重いか、どれだけ永いかを知り尽くした上で、
永遠、と彼女は言う。
「永遠か。俺達は一体、どれだけの時間を生きるのだろうな。……それが永くとも短くとも、喩え行く道を違えようと、俺にとってもお前は永遠だ。」
何時の間にか蓄音機から音は流れなくなり、新月の闇夜が生む静寂だけが、二人の居る部屋をおだやかに包み込んでいた。蘇蘭は煙管を吸うのを已め、テーブルの向こうからじっと天禪を見詰めている。
紅の瞳。
血と粉うほど鮮やかに赤い、けれど心惹かれる、うつくしい色である。
「昔を思い出すな……。忘れえぬ存在だ。その色、紅。もしも俺が記憶を無くすようなことがあっても、すぐにお前という存在は俺の記憶に刻まれるだろう。あの時のようにな」
「ふふ、」
蘇蘭は笑って、ゆっくりとひとつ、瞬きをした。長い睫毛が頬に影を落とし、この上無い艶やかさを創り出している。
「……では私を忘れるような事があれば遠慮無く違える故、覚悟せい?早う思い出さぬと、この世と言わずあの世といわず、お前のいた場所総てを喰ろうて―――――壊すわよ。」
妖しいほどにうつくしく笑んだ唇の間から、研ぎ澄ましたような八重歯が覗く。言葉とは裏腹に、その目元には絵画の聖母の如き優しさが見える。天禪は微笑んで答えず、ただその空気を愛しんだ。
蘇蘭の指先が蓄音機のスイッチへと伸び、再びあの音楽が流れ出す。
天禪は昔と変わらぬ新月の闇に向かって、柄にも無く祈念する。
どうかこの永遠が、醒めることのないように―――――
|
|
|