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常世の牙
強く、強く雨が降っていた。
先程視界に入った大型の蝶は、ふらふらとした頼りない動きで──例えるならば糸を持たれた傀儡のように──空き地へと向かっていた。
入り組んだ、占い屋が立ち並ぶ怪しげな細い路地で道に迷いほとほと困り果てていた事もあった。特別考えも無く、何となしの興味を引かれて蝶の後を追っていく。
──何の音だろうか。
耳を澄ます必要も無い。明らかに、先から空き地の方角で激音が響いている。悪い予感に近いものが胸を締め付けるが、何故か足はそこへ向かおうと必至だった。
蝶が角を曲がる。不自然な程自然に、足がやはりそれを追う。角を曲がる瞬間、不意に見上げた目線は『わたくし屋』という掠れた名前を映した──
刹那。
「黄涙サンッ！」
開けた視界の中で鳥の影と雷が閃いた。同時に届いたのは男の声であって、どうやら当人らしい姿。
そしてその奥に──。
異形。
影のような闇のような、形を為さないが確かに存在するそれの数は九体。周囲を囲まれている男の手には一本の刀、男の後ろ──つまりこちら側には、恐らくは名を呼ばれた鳥だろう、大型のコンドルが眼前を見据えて羽ばたいている。翼が微かに雷を纏っていた。次の瞬間には一声の鋭い鳴き声と共にその雷が影のうち一つを目掛けて飛び、男の刀が異形のうち一つを薙ぎ倒し──、流れるように、男は恐らくはコンドルを振り返ったのだろう。
「──え、」
帽子の下から覗く視線がこちらを確かに見、それは随分と驚きの色を宿していた訳で──
一瞬こちらを向いた男に対し、葛生摩耶は唇に微かな笑みを乗せてみせた。その直後に振り下ろされた異形の爪を刀で受け流して横へと跳ねた男は、どうやら摩耶の事は後回しでも構わないと踏んだらしい。
事実その通りだった。
摩耶の脳裏には逃げる等と云う考えは微塵も浮かばず、目の前の光景は何やら面白い見せ物のように映った。
──なぁんか、…いい感じじゃない？
それまで不快に感じていた強い雨も、摩耶の瞳に現在の光景が飛び込んだ瞬間には粋な演出と化していた。
空き地に降り注ぐ強い雨。
形が定まらない異形の姿。
そしてそれに対して刀を振り回す男の姿に──翼に雷を纏うコンドル。
何やら妙な事になっているのは事実なようで、巻き込まれたいとは思わないが、特別あの男が危険という事もなさそうだ。そう切りを付けた摩耶は、自らの感情に対して素直に従った。
道を進もうとしていた歩みを止め、近くの壁の水を払って体重を預ける。──当然ながら、それは彼らの状態が見やすい場所であって、同時に男と異形のぶつかり合いによる被害が及ばないだろう場所だった。
微かな音を起ててライターが擦られ、舌先には軽い香りが広がる。
浅く吸い込んだ紫煙を細く吐き出して、摩耶は情景に瞳を細めた。
白の光が微かに濡れて艶めいた。その光が描く軌道は常に弧のようであって、男が繰るそれは確実に異形を追い込んでゆく。
空を裂く音。
揺らぐ異形の影の中、男が振り上げた切っ先が埋め込まれる。
刹那に何かが弾け、崩れゆく音。
男の背に異形が迫ったかと思えば、鋭い鳴き声と共に一筋の雷がその影を射抜いた。
コンドルの羽音。
雷の残響。
異形から振り抜いた刀に合わせるように、男は身を翻す。それまで頭が在った場所を異形の爪が大きく薙ぐが、速い動きには向きそうも無い和服に似合わない、しなやかな動きを持ってして、男が異形の腹へと潜り込む。瞬時に突き上げられた刃は異形の背まで突き抜けて光り、異形は奇妙な叫びを残して塵と化した。
──あと四体。
男とコンドル、そして減っていく異形の姿を眺める摩耶の、ビニール傘を叩く雨粒は変わらずに強い。
湿り気が肌を撫でる。
紫煙が一筋空へと上り、雨に巻かれて直ぐに消えた。
一足飛びに跳ねた男の足下が飛沫を上げる。男の後を追うかのように、高くを飛んでいたコンドルが高度を落とす。空の中の何かが急速に密度を上げ、摩耶の耳に耳鳴りのような音が響いた。
翼を広げて体を起こす。
宙に静止したような、次の瞬間には体中を巡る光。
風を孕んだ翼を一度大きく羽撃かせたと同時、空き地に存在した全ての音が止んだようだった。
蛇に睨まれた蛙の如くに動きを止めた異形達に、男が何かを告げた。
瞬間。
思わず摩耶は目を瞑る。凄まじい轟音と光、音によって体の芯が震えた。
はっとして瞳を開けてみれば、土煙が空き地に立ち上る。四つ並んでいた筈の異形の姿は、残り一つ。
──あら、失敗…？
そう思って笑みが溢れるが、どうやらそうではないらしかった。雨に穿たれた土埃はだんだんと収まり、徐々に姿を現す全景は、異形の目の前に立つ男の姿と、その隣に羽撃くコンドルの姿。男の手に持たれる白い刀は異形の頭に向けられている。口元には笑み。
不意に、摩耶の視界を横切る影があった。
蝶だ。
先程見たものと同じだろうか。摩耶の視線がそれを追う。
儚い動きで、その姿が男の構える切っ先と異形の間へと滑り込んだ──そう見えた瞬間に、雷のそれではない、光の洪水が辺りに弾けていた。
自分のそれとは違う紫煙の香りと、雨音に紛れるようにして拍手の音。
狐洞キトラは、上げた視線を摩耶へと向けた。器用にも首と肩とで押さえられたビニール傘。それよりはブランド物の方が似合いそうな女性だ。
「ありがと。面白いモン見せてもらったわよー」
からからと臆する事も無く告げられた言葉に、キトラは曖昧に応えを返す。横へと降り立ったコンドル──黄涙が雫を払う為にぷるぷると頭を振った。
「お礼…って言うか見物料代わりといっちゃ何だけど、奢るからどっか呑みに行かない？ あ、でもそっちズブ濡れ？ んじゃあ適当な店でアルコールとかツマミとか調達でも良いかしら？」
「…普通、その前に名前聞いたり名乗ったりとかしません？」
呆れたように苦笑したキトラは、先ず自身の名前と黄涙のそれを告げた。
摩耶も同じようにして返す。
「で、ここらへんにお酒買えそうな所ある？ 何だったら一っ走り行ってくるから」
「一番最初の角を右、次も右に曲がった所にコンビニありますよ。──で、ホントに呑むつもりでしたらウチに席ありますから待ってますけど」
「やーね、本気も本気。ちゃんと待ってなさいよ」
「はあ。あ、ウチはここですからね」
キトラが指差したのは先程目に止まった『わたくし屋』の看板であって、摩耶は片手を軽く上げて応える。
背を向けた彼女の背を見送って、キトラは帽子越しに頭を掻いた。
「──まだ午前中なんですけどねえ」
軽い音を起てて店内に入る。どうやら摩耶は本当に来る調子だった。ならば服くらいは変えておくのが礼儀だろう。ずぶ濡れのままいなければならない理由も、当然無い。
暗い空によって時間感覚が麻痺しているが、キトラが異形と対峙していたのは起き抜けの事。──案の定、店内にかけられている時計は午前十時過ぎを示していた。
玄関先で濡れた体を振るった黄涙は、ひょいとカウンター横の止まり木に飛び乗ると襟巻き羽根に首を埋めた。その様子を見届け、キトラは足早に階段を上る。極稀に訪れる友人達はこの階段を散々に言うが、馴れてしまえば生活の一部だ。濡れそぼった袴の裾を持ち上げつつ、バスルームへと直行する。
本来ならばそれ相応の洗い方をすべきなのだろうが、キトラの着込んでいた着物は、哀れなまで簡単に洗濯機へと放り込まれる。間延びしたあくびが伸びる。身につけていたものを適当に脱いだキトラは、側にかけられているシャツを羽織った。
一瞬帽子を洗濯機へと投げようとするが、これには流石に思いとどまったらしい。結果としては、ハンガーに洗濯バサミ付きのチューリップ帽子がぶら下がる事になる。
もう一度のあくび。
溜息のようなものと織り交ぜてそれを吐き出し、キトラは今しがた上って来た階段を一段一段と降りた。
「あや、早かったですね？」
そんなに着替えに時間をかけただろうか。
首を傾げると、いつの間にか戻って来ていたらしい、店内を物色していた摩耶がこちらを見遣る。
「お店屋さんじゃないのかしら？」
「…イラッシャイマセ。──ちなみに席はこっちですヨ」
カウンター脇の奥を示す。コンビニ袋をぶら下げたままの摩耶が無愛想ねえと笑った。苦笑のようにして眠いんですと謝ると、かんらかんらとした笑みが、やはり返ってくる。
「服が変わったわねー」
袋の中から缶入りカクテルやビール、肴の類いを出した摩耶が言う。
「和服とチューリップ帽で刀。最初に見たのがあんなのじゃ、普通のカッコはインパクト薄いわ」
「私の場合はアレが普通ですから」
緩く笑みを浮かべたキトラを、摩耶が覗き込むようにして見返す。
「そうなの？ 何か特別なコトするときの服じゃないの？」
「ええ。アレが普通です──あ、どうも」
差し出されたアルコールを受け取る。座った摩耶の体重を受けて、椅子が微かに撓った。缶を一気に煽った摩耶は、ある程度の量を喉へと流し込んで息を吐いた。
「ま、ともかく改めまして初めまして、ね。私は葛生摩耶。普段は吉原で仕事してるの」
フルーツカクテルの缶を持った摩耶が微笑む。
吉原──土地勘が無いらしいキトラが小さく繰り返した。
「あんまり外に出ない上に、こっち系には興味ナシみたいね。あなたは？ 狐洞さん」
「ご察しの通りインドア派な狐洞キトラと云いますですよ。仕事──は、まあ、この店の店主やってますね、一応」
「ふぅん…？ それじゃあさっきのは？ 仕事じゃないの」
悩むような素振りを見せたキトラは、趣味と実益を兼ねたようなモンですかね、と言った。──嘘は吐いていない。実際の処、最後に封印した蝶は知っている人間には高値で売れるものだ。
尤もそれも言う必要が無い。受け取っていた缶の名称を見れば、随分と甘そうなカクテルの名前が見える。特別嫌いでもないが好きでもない。プルタブを引っ掛けて開ければ、微かに空気の漏れる音が響いた。
一連の動作を眺めていた摩耶が椅子に凭れる。
「秘密主義者なのかしら」
「──お嫌いで？」
小さく笑ったキトラを見、摩耶はなるほど食えない男だと一人納得する。断って煙草を取り出すと、キトラが後ろに手を伸ばし、棚の中から重そうな灰皿を出した。
「馴れてるわよ？ 仕事柄ね」
灰を落としながら唇に笑みを乗せる。
「まあ、別に主義って程でもないですよ。話す必要が無いってだけですから」
気の抜けたような笑い方をするその男に、摩耶は肩を竦めた。喉に通すアルコールは一瞬の熱を残して通り過ぎていく。
「草間興信所って知ってる？ 普段は私、そこから仕事貰ってるんだけど」
「名前だけは知ってますね。ちなみにウチでも斡旋やってますよ」
「…何屋なのよ、ココは」
「メインは骨董屋です」
機嫌よろしくそう告げるキトラに苦笑する。
小さく笑った彼は更に話を続けるべくして口を開いた。
「──まあ、もし常の日常が物足りないんでしたら、不思議なお仕事でも紹介しましょ。お暇な時間帯にでも、ね」
「…狐洞さん、割といい性格してるわねー…」
態々時間帯という言葉を出して来たキトラは、それならば最初に述べた職業を粗方把握しているのだろう。何気なく、再度吉原という単語を唇に乗せてみたが、どうやら土地としては本当に知らないらしい。興味は無いのか？ そう尋ねればぼやけた応答の繰り返しで躱された。
常の日常が物足りないなら──。その言葉が微かに熱を帯び始めた頭の中でぐるぐると廻った。確かに満たされている故の物足りなさは常に付きまとうが、それも以前程酷くはない。
不意に黙り込んだ摩耶を見遣って、キトラは微かに笑った。
「……左胸でも熱いですか？」
一瞬何を言われているのかが解らなかった。──自分は好きなフレーズを一度でも述べただろうか。答えは否ではあるが、気にしていても仕方がなさそうだ。摩耶は紫煙を吐き出しながら瞳を細めた。
「痙攣するみたいに、ね」
雨音は変わらずに続いている。
了
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【登場人物】
- PC // 1979 // 葛生・摩耶 // 女性 // 20歳 // 泡姫 //...
- NPC // 狐洞・キトラ // 骨董屋店主 //...
- NPC // 黄涙 // 霊鳥 //...
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