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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


昔日の素描

 『神影』は閑な店だ。
 そもそも、骨董品店というものは、そう客が回転するものではない。そのかわり客単価を高くすることで成り立つ商いなのである。
 ましてや、『神影』においては、店主がまともに商売をする気があるのかないのかわからない。その上、扱っている品物はどれもこれも、いわくつきの物ばかりだったし、店の宣伝をことさらしているわけでもない。
 この店を訪れる客は、かなりの好事家だけ。『神影』が繁盛するようになっては、ある意味、世も末だと言えたかもしれない。
 だからこれでいいのである。
 店番を言いつかった藍原和馬が、飴色のロッキングチェアでうたた寝をしていても。
 うす暗い空間に聞こえるのは閑古鳥の鳴き声――ならぬ、柱時計の時を刻む音と、和馬の寝息だけなのだった。
「…………待て、コラ……」
 和馬の寝言だった。
 その椅子は、ロンドンで、さる高名な探偵が使っていたとかいないとか。名探偵にでもなった夢でも見ているのか、むにゃむにゃとなにか呟く和馬の身体が傾いでゆき……
「……っおわぁ!」
 派手な音を立てて、彼は椅子ごとひっくり返った。
「……っ痛ェ」
 乱暴に、午睡から醒めた和馬は、椅子のひじ掛けがぼっきりと折れているのに気づいた。
「うお! なんだこりゃ、やべェ」
 一応、この椅子も売り物なのである。そして、アンティークの品物というのがどれもそうであるように、和馬に言わせると「古いくせに暴利だ」となるほどの値段なのである。むう、と、しばし、眉を寄せて思案していたが、奥の倉庫に似たような椅子があったことを思い出した彼は、とりあえず、店先の椅子と入れ替えておくことにした。それから時期を見て、店主の機嫌のいいときに言い出せる機会を探ろう。
 そんな姑息な工作を和馬がやっていると――
 どこまでも乱雑に積み上げられていた古書の山が雪崩を起こした。
「ああ、畜生、この店はまったく!」
 悪態をつきながらぼろぼろの、グーテンベルグ印刷機で刷られたのではないかと思えるような本たちをまた積んでゆく。
「…………あ」
 はらり――、と。
 本のあいだから、零れ落ちたのだ。その一枚の黄ばんだ紙が。
 和馬でさえ読めない文字の古書(グーテンベルグどころか、手描きの写本のようだ!)の中に、挟まっていたようだった。
(絵――)
 スケッチに、簡単に色をつけたものだったが、永い時間が経って、色はほとんど褪せてゆこうとしていた。描かれているのは、ひとりの男性の顔である。肖像画の下描き、とでもいった風の素描だったのだ。
 白人の青年だった。やわらかな金髪に、通った鼻すじ。人のよさそうな、優しい微笑を浮かべていた。

「ったくこっちが下手に出てりゃつけあがって。なにさ」
 ぶつぶつ呟きながら、店主が帰還した。
 仕入れてきたらしい、またあやしげな品物を、どかどかと、机の上に並べてゆく。
「かなり負けさせてやったわ。……これご覧。やっと手に入れたわ。『アルハザードのランプ』。うふふ」
 『神影』の美しい女主人、マリィ・クライスは凄絶な微笑を浮かべた。
「変わりはなかった?」
「……特には」
 微妙に目をそらしながら、和馬は応えた。
「そう。これ、倉庫に運んでくれる」
「うぃっす」
 言われるままに、荷物を運ぶ和馬。
「師匠――」
「なァに」
 仕事を終えて、和馬が掛けた声に、仕入れたばかりの『無名祭祀書』ドイツ語版をあらためながら、マリィは生返事を返した。
「これ…………倉庫で見つけたんスけど」
「ん……?」
 面倒くさそうに向けられたマリィの金の瞳が、はっ、と見開かれるのを、和馬は見た。
 亡霊を見た人間の目だ。
 遠い遠い過去から甦った誰かの姿を、目の当たりにした――。
「――ッ!」
 紅に飾った爪を持つ手が、和馬の手の中からその紙をひったくった。
「師匠……?」
 逃げるように、マリィは店の奥へと消える。
 呆然とした、和馬だけが残された。
 はかったように、柱時計がボーン、ボーンと音を立てた。
 和馬とマリィは長い付き合いだったが……それこそ、気の遠くなるほどの昔からの、永い永い腐れ縁――数奇な運命のつながりだったのだが……あんなマリィを見たことなど、あっただろうか。
 ぼりぼりと、和馬は頭を掻いた。自分はなにか、まずいものに触れてしまったらしい。この店にはそういうものがたくさんある。悪魔を封印した壺、古代の秘密を著した魔道書、持ち主に災いをなす呪われた宝石――そんなものの中で、もっとも危険で、謎めいたもの。他ならぬ店主、マリィ・クライスの語られざる過去に。

「師匠」
 しばし、ぼんやりと店番を続けていたが、ずっとそうしているわけにもいくまい。
 和馬は、ぎしぎしいう階段を登って店の二階――マリィの自室へと赴いた。
 ノックをするまでもなく、扉は半開きになっていた。
「俺、そろそろ……」
 マリィの金の目が、和馬を射すくめる。
「あ、いや……」
「まあ、坐りなさい」
 女主人の白く艶やかな肌は、紅く火照っていた。
 仕方なく差し向いの席についた和馬の前にグラスが置かれる。度数の強いアルコールの匂いが、和馬の嗅覚を刺激した。コニャックだ。それもなかなか良質な。マリィ秘蔵の一本を開けたに違いない。こんな状況でなければ喜んでお相伴にあずかるところだが……しかし、こんな状況でなければ封を切られることのなかった一本かもしれなかった。
「この人……誰なんスか」
 テーブルの上の、黄ばんだ紙に目を落として、和馬は訊ねた。
「さあ、誰かしらね」
 くくく、と、鼻にかかった声でマリィは笑った。
「名前なんか忘れた」
「…………」
「だってそうだろ。一体、何世紀昔のことだと思ってんのさ」
「…………」
「もうとっくの昔に、死んじまったひとさ」
 ぐい、と、酒を呷る。赤い唇をぺろりと舐めて、自嘲めいた笑みを浮かべる。
「そう――、遠い昔に……」
「…………」
「男前だろう」
 マリィはスケッチを指でつまみ上げて、言った。
「そう……スね」
「心にもないって言い方よしな。この莫迦」
 げんこつが、和馬の頭をはたいたが、今日ばかりは、何も言い返さない和馬だった。
「最初に会ったときは、こんなに若かったんだよねぇ。ふふふ……思い出す。そう、ちょうど今頃……収穫祭の頃だった」
 マリィの瞳は、ここではないどこか遠くを見つめている。
 彼女の記憶の中にしかない、遠い風景、遠い面影なのだ。
「でも……季節が変わって、年が過ぎていって……あの人は――あの人だけが老いていった」
 彼女の指が、紙の上の絵をなぞった。
「蜂蜜みたいだった金髪は白髪に……顔には皺が刻まれていって…………それでがっかりしたってわけじゃないのよ。そうじゃない。ただ――」
 声が詰まった。
「ただ、私は何も変わらなかった」
 ぴくり、と、和馬が反応する。
「私たちが一緒に、老いていくことはできなかった。それは許されなかったのさ。……そんなこと、最初からわかってた」
 ばさり、と、マリィが荒々しく上着の、黒いカーディガンを脱ぎ捨てたので、和馬は心底どきりとした。まさかとは思ったが、押し倒されるのでは、との莫迦げた危惧が頭をかすめたのだ。だが、そうではなかった。
 上着を脱いであらわになったマリィの白い腕に残った傷痕――。
「呪いのせい。いつかそうなるって……ずっと、わかっていたのに」
 いつになく神妙な顔つきで、和馬は黙って、マリィの長い物語を聞いている。
 誓いをかわしたふたりが、しかし、無情な時に引き裂かれてゆく。一方は、定命の人のさだめに従い、もう一方は、呪われた身ゆえ、そこにとどまり続けねばならない。
 彼の脳裏に、ひとりの女の姿がちらついた。
 藍原和馬もまた――
 人として老いることはない身の上だ。
(俺もいつか……)
 今とまったく変わらぬ若い姿のままで、年老いた彼女の傍らに立つことになるのか。
 マリィが、彼女だけが娘の姿のまま、彼女を残して先立とうとするかつての青年の手を握ったときのように。
(いつか話さなきゃならない――時が来るのか……?)
 その思考を破ったのは、甲高い、マリィの哄笑だった。
 あっけにとられる和馬の前で、マリィは涙を流さんばかりに笑い続けていた。
「バカね、私…………何を思い出してんのかしら。忘れたはずなのに。……どうせ、遠い昔のこと……もう戻って来やしないのに」
 きゅっ、と、ボトルの栓を抜くと、マリィは、和馬のグラスに酒をどぼどぼと注いだ。
「飲むだろ?」
 なみなみと注がれたブランデー。
「いただきます」
 その酒を、和馬は一息に飲み干した。
 その飲みっぷりに、マリィは手を叩いて喜ぶのだった。

(了)