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白く冷たい壁の中で
何の前触れもなく唐突に、小さな手がするりと伸びてトンと春香の背中を押した。
「あ……」
ぽつりと宙に浮いた短い声。
緑の中に埋もれるようにして佇む白亜の洋館。その裏庭で、彼女の躰は泥にまみれながら崖下へと転がり落ちた。
*
いまだ夏日が続く東京の一角。寂れたビルに構えた興信所の黒電話が悲鳴を上げて、思うまま惰眠を貪る草間を叩き起こした。
こんなふうに心地よい休息を妨害されるのは一体何度目だろうか。
そう心の中でひとりごちつつ、だらりとやる気のない仕草で腕を伸ばして受話器を取る。
「……はい、草間興信所」
用件は何かと問うより先に、そして相手が名乗る気配より先に、ザリザリと不快な雑音が耳に飛びこんできた。
おかげで言葉らしいものは何ひとつ拾えない。
「ああと……?」
イタズラか。
そう思いつつも、とりあえず草間は、再度受話器に向かって声を掛けてみる。
「もしもし?どうかしましたか?もしもし?」
まだ雑音だけが聞こえてくる。
この奇妙な沈黙があと3秒続いたら切ろうと心に決めた矢先、
『……あ、あの――助け、てほしいん、です………』
ひどい雑音の下から、か細い女性の声が途切れ途切れに聞こえてきた。
『ペンションに…友達と来てるんです……でも、あの……ここから動けなく、て……怖くて……』
助けてと、彼女はひたすら繰り返す。
「どういうことだ?」
『……怖いん、です……怖くて怖くて……』
そうして不明瞭ながらも電話口で告げられたのは、まるでホラー映画のようなシチュエーションで起きた不可解な連続事故だった。
緑の中の白い洋館。
高橋奈美は3日前に親友とともにそこを訪れた。
客は自分たちの他に、老夫婦と若いカップルの2組。暑い都会を逃れ、避暑を求めてきた彼女達は、何もないなりに深緑色の世界を楽しんでいた。
だが、異変はその翌日から始まったのだ。
はじめは奈美の親友。ペンションの裏庭を散歩中、不意に誰かに背中を押されて崖下へと転げ落ちてしまった。幸い草がクッションとなり、捻挫だけで済んだが、自分ひとりで動ける状態ではなくなった。
次に若いカップルが数時間ほど地下の倉庫に閉じ込められ、その闇の中で何者かに後頭部を激しく殴打されたという。
奈美もまたシャワールームで危うくヤケドしかけ、老人もまた倒れ掛かってきたスタンドで怪我をし、もう事態は偶然で片付けられるレベルではなくなっていた。
なにより被害にあった誰もが、一瞬だけ居る筈のない幼い少年の声を聞いていたのだ。
だが、奇妙な連続性を帯びながら、この一連の事故をペンションのオーナー夫婦はなかなか取り合ってくれない。それどころか、妙に神経質に眉をひそめるだけだ。
なにより。
そう、なにより、ここを出ようとする度に車はパンクし、木々は行く手を遮り、彼女たちを緑の世界に閉じ込めようとする意思が働くのだ。
『……助けて、下さい……もう、こちらしか、頼れる場所が……』
草間はいつのまにか身体をしっかりと起こし、真剣な面持ちで彼女の怯えた声が懸命に訴える内容を頭に刻み込んでいた。
そこには確かに『何か』が介在している。
ソレがどういうものなのか知りようはないが、解明する手立てがない訳でもない。不本意ではあるがそのための調査員達がここには集まってくるのだ。
草間は諦観に近い溜息をつく代わりに、ゆっくりと頷いた。
「いいだろう。その依頼、引き受ける」
もう何度目が分からない決まりきった台詞と共に受話器を置くと同時に、興信所の扉が開かれた。
*
非常に険しい表情で、雪森雛太は愛車のハンドルを握っていた。
ガタガタと不穏な音を立てて必要以上に揺れるシアンブルーの車体は、既にこのオフロードを走行することに限界を訴えている。
「こんなとこでエンストすんじゃねえぞ、くそ」
中学生でも通りそうな大学5年目の可愛らしい青年の口から、イライラと吐き出される不満。
「森からペンションまでは車で10分とか言ってなかったか?もうどんぐらい走ってんだよ、まったく」
目的地まで後どれくらい走り続ければいいのだろうか。
そもそもこんな場所まで来ることになったのは、5歳下の従弟のせいだ。彼がどこからともなくペンションのチラシを持って来て、森の中の白い洋館はロマンだとか、リアルホラーゲームを体験したいとか言い出したのがキッカケなのだ。
だが、当の本人は見事に出発前日におたふく風邪を患ってダウン。部屋に隔離という、実にお約束な展開を地でいってしまった。
おかげで、この何もない山奥を雪森はひとりで走る羽目となったのだ。しかも急な話で付き合ってくれる友人関係は誰も捕まらなかった。
いまいち気は進まなかったが、予約してしまったからにはキャンセル料が激しく勿体無い。どうせお金を取られるなら、本当にリアルゲームを体験しに行った方がましではないか。
そんな理論で行動する雪森の視界が不意に開けた。
「ここか」
チラシよりも随分と大きく大時代な印象を与える白亜の洋館が、緑の世界にそびえ立っていた。
黒い頑丈な門が両手を広げて自分を出迎えてくれている。
ようやくの到着に疲労ゆえの溜息をこぼしつつ、門の内側へと車を滑り込ませたと同時に、
「あ」
ぷすんと気の抜けた音を立てて、雪森のルノートゥインゴは屋敷を目前にしてストライキを決行した。
*
ボクを閉じ込めたのは、ボクのオトウサン。
*
「まあ、時間がないのは承知だけれど、少し周辺の情報収集をしておきたいわね」
シュライン・エマは、草間から依頼の話を聞くたびにしみじみ思う。事件とは、探偵が選ぶのではなく、探偵を選ぶものなのだ。そして、選ばれた探偵がその運命から逃れることは出来ないらしい。
そして、いま興信所のソファに座っている調査員達もまた、彼と同じ運命を辿るものなのかもしれない。
「依頼人からの話はこれにまとめてはいるんだけど、皆さんはどうかしら?」
「お話を聞く限り、白い洋館自体に意思が宿っているという可能性も否定できないわね。この辺の調査も出来るといいんだけど」
藤井せりなは、母親が持つ独特の穏やかさでシュラインの方へ顔を上げた。
彼女はここに、日頃世話になっている娘と夫の礼を言うべく興信所を訪れ、そのまま調査に名乗りを上げたのだ。
資料に記されているだけでも、気になる箇所はいくらでもある。不透明な部分をどこまで明瞭にできるかで、勝負は決まるものだ。その手伝いが出来ればいいと、願う。
「そうですね……入ることは適っても出ることは適わないという状況のようですし……私も出来るだけ準備を整えてから向かう、というのを提案しましょう」
澄んだ蒼の瞳を伏せ、ステッキに視線を落とすセレスティ・カーニンガム。静謐な美貌の青年が憂えているのは、今この瞬間にも依頼人達の身に何事か起きているかも知れないという現実だ。
「……ペンションに向かうなら……途中の店なんかも、いい情報源……ね、銀ちゃん」
冬の色をまとう彼とは対照的な炎の色彩を放つ鳴沢弓雫が、カーニンガムを覗き込んで同意を求める。
「銀ちゃん?」
訝しげに問いかけは、呼ばれた本人ではなくシュラインとせりなから同時に発せられたものだ。
「銀髪が、綺麗な紳士だから……前から気になってた……ダメ?」
「いえ、よろしいですよ」
くすりと小さく笑って、カーニンガムは鳴沢独自の理論を受け入れ、了承した。
「……で、ね……続き。たくさん、話を聞きたい……オーナー夫婦にも、出来るだけ早く、かな?」
ゆったりまったりスローペースで資料をめくり、首を傾げて見せた。
「応急処置的なものや、万が一を考えた場合の危機回避の準備も怠らないようにしておかないと」
せりなの足元に置かれているのは、万が一の時のために必要と思われる救急セットと保存食関係が詰め込まれたリュックサックだ。
「それでしたら、私の方でいくつかご提供できるでしょう……場合によっては私たちで加療する可能性もありますし」
カーニンガムはそんな彼女にゆったりと微笑みかけ、そして、
「能率を上げるための手段も講じておいた方がいいでしょう。皆さんにこれを提供させてください」
そう言って彼が全員の前でトランクを開く。
「衛星携帯電話です。森林地区へ入るのでしたらこちらの方が何かとご都合も宜しいかと。それぞれの番号も既に登録済みです」
「有難うございます」
「すみません。お借りしますわ」
「………どうも」
「これは……どのように、扱うもの…なのでしょうか……?」
「え?」
「おや」
突然滑り込んできた声に、全員の視線が一箇所に集まる。
「あら、灯火ちゃん、いらっしゃい」
シュラインだけがにっこりと歓迎の笑みを浮かべた。
「……お世話に、なって、おります……シュライン様。それから……」
それまで確かに3人しかいなかったはずの応接セットのソファに、いつのまにか小さな少女人形がぽつんと腰掛けていた。
「お世話に、なります、……皆様。わたくし、四宮灯火と、申し、ます……」
四宮灯火はシュラインと、他の調査員達へそれぞれ丁寧に頭を下げると、全員の視線を気にも留めず、手にした携帯電話を不思議そうに眺めてまた首を傾げる。
「……わたくしにも、教えて…いただけます、でしょう…か?カーニンガム、様……」
「宜しいですよ。ではこちらをご覧下さい」
「有難う、ございます……」
カーニンガムは動じることなく微笑みかけ、幼い人形に細やかな説明を行った。
まるで一幅の絵画のような光景に口元をほころばせながら、せりなとシュライン、そして鳴沢の3名は改めて状況の整理を始めた。
「もし洋館を調べるにしても、あまり壁には触れない方がいいかもしれないわね」
せりなの青い瞳が、ふぅっと物憂げに細められる。
調べるべきこと。知るべきこと。触れてはならない、あるいは踏み込んではいけない領域を確認しあう。
もし、事故が起きるその原因が建物自体にあるとしたら、どれがスイッチか分からない以上は迂闊な行動は極力慎むべきだ。
「有難う、ございました……もしもの時は、こちらを……」
説明を一通り飲み込んだのだろう。灯火がカーニンガムへとお辞儀している姿が鳴沢の視界に入ってきた。
「では灯火さんもご一緒に参りますか?調査用に車を2台ほど用意させて頂きましたから」
銀髪の紳士がそう申し出るのも聞こえた。だが、
「いえ、わたくしは……皆様より先に洋館へ、向かうことに、いたし…ましょう……」
小さな少女は首を横に振る。
「灯火ちゃん?」
「ご心配には、及びません、シュライン様……斥候、と申しますのでしょう?わたくしならば、危険が及んだとしても、大丈夫でございます、から……」
「ああ、そうだ……良かったら、これ」
鳴沢がおもむろにジャケットの内ポケットからごそごそと大玉のイチゴキャンディをひと掴み取り出したが、
「………いない」
着物を彩る牡丹の赤だけを残して、少女の姿はこの空間から消失していた。
「お近づきのしるし、あげようと思ったのに……牡丹ちゃん、行っちゃった……」
「また会えるわよ、鳴沢さん」
明らかに落胆している赤毛の青年をつい可愛らしく思いながら、シュラインは彼の肩を軽く叩き、そして、
「武彦さん、それじゃあいってきますね」
カーニンガムの用意した車に向かった。
*
ボクを閉じ込めたのは、ボクのオカアサン
*
「あ、なんだ?」
雪森は微妙な空気の変質に眉をひそめた。
チラシにあったペンションはこんな場所だったっけ。もっと小さくて、もっと明るい印象だったのだが、ここは想像よりも遥かに広く、そして重厚感に溢れていた。
ここは本当に自分の予約したペンションなのだろうかと、妙な不信感を覚えずにはいられない。
土足のまま赤絨毯を歩くのに日本人として少々抵抗を感じつつ、カウンターを探す雪森の背後から、そろりと窺うように、大学生と思しき女性が姿を現す。
「あ、あの……草間興信所の方、ですか?」
おずおずと問いかける彼女の視線が自分を見下ろしていることにちょっとだけムッとしつつ、
「まあ、間違ってないけど……何でわかんの?」
何も知らない雪森は彼女へと当然の疑問を返す。
だが、奈美は問いかけの意図を僅かに外して、安堵の溜息をつき、そうして深々と頭を下げた。
「お待ちしていました。私が高橋奈美です。お電話してからこんなに早く着ていただけるなんて思ってませんでした」
それから、微かに首を傾げる。
「あの……他の方はいらっしゃらないんでしょうか?」
「ちょっと待った。俺、全然話が見えねぇんだけど……」
「え?あの、それは……?」
「いや、分かるような気がした。つまり――」
ここで何かが起きているんだよな、と言う言葉は唐突に断ち切られた。
バチッと激しく電気系統がショートする音が響き、次いで、2人の立つ玄関を含めた全館が停電する。
完全な闇に支配された視界。
何が起きたのか理解できないままに、すぐ隣に立っているだろう奈美の腕を掴んで、雪森は声を潜めて問いかける。
「……ここ、何が起きてんだ?」
脳内を駆け巡るのは、あるひとつの可能性だ。
自分は偶然ここを訪れた。だが、彼女は草間興信所からの調査員を待ち望んでいた。この状況が何を意味しているのか、自分は熟知しているはずだ。そうだ、何かが起こっている、ソレは怪奇探偵でなければ解決できないこと、ソレは特殊な世界に通じる出来事、この世ならざる事象が顔を覗かせる事件――ソレは―――
視界を閉ざされることで活性化した思考がぐるりとめぐって答えを導き出そうとしたその瞬間、雪森は強い力で後ろへ引き倒され、そして、突然の痛みで意識までも遮断された。
高級車が田舎の道を、しかも2台続けて走る光景はいやおうなく注目を集めることとなる。
それでも好奇の視線に晒されることがないのは、ここがいわゆる観光地化されているためなのかもしれない。
車は途中で道を分かれ、調査員達の望む場所で彼らを降ろしていった。
奈美の声を頼りに空間を跳んだ灯火が最初に見たのは、何故かしんと静まり返った闇だった。
ここは目指すべき洋館のはずだ。
なのに、活気らしい活気が一切感じられない。
ガラス玉の瞳でゆっくりとあたりを見回す。
次第に浮かび上がってくるのは、雑然と転がるいくつもの椅子とテーブル。横倒しになって割れた食器棚。蜘蛛の巣があちこちに掛かっている。
「……わたくしは、間違えたのでしょう、か……?」
まるで眠ってしまっているかのように、家具たちは沈黙している。
何も聞こえない。
いや。
ざらりとした異音が空気に混じりこんで伝わってくる。ソレが、本来あるべき温かな思いを全て凍らせてしまっているのだ。
「……お話を……聞かせてください、まし……」
灯火は、転がるアンティーク調の椅子へ手を伸ばす。
「あなた様の、言葉を……」
目を閉じれば、自身を取り巻くものたちが意思を言葉に変えてほんの小さな声を発し始めた。
殺された殺された白い痛い怖い白い白い白いぽきんぽきんと殺された赤い赤い紅い―――あの子が―――あの子があの子があの子が―――
「あの子、ですか……?」
―――あの子あの子可哀相なあの子が泣いている紅い赤い白くて赤い可哀相なあの子……
「では、その方を、探しましょう…か……」
灯火は闇の中をそろりと歩き始める。
せりなは洋館そのものに意思が宿っている可能性を示唆していた。それは灯火も考えたことだ。
事故にしてはあまりにも出来すぎている。偶然が偶然を呼ぶのだとしても、あまりに重なりすぎれば、そこには作意が介在しているのだ。
「わたくしを……案内して、ください…ませ……」
ザワザワとさざめく洋館の言葉を拾いながら、小さな身体で重い扉を通り抜けた。
そんな少女人形の背を追いかけるように、ある言葉がポツリと投げ掛けられる。
ここには以前、幼いご兄弟が両親と住んでいたと。けれど今はもう誰もいないのだと、本当は誰ひとり居るはずがないのだと、朽ちて行くだけの家具たちは囁き続ける。
本当は誰も居ない。
なのに、生きた人間たちがあの子の哀しい眠りを揺さぶり続ける。
辺りの闇を取り込んで、どんどん膨れ上がっていく不吉な気配。
でも、キミは平気だと、何かがポツリと呟いた。
*
出して……ねえ……痛いよ、オカアサン……
*
「まずはここから、かしらね」
シュラインはいわゆる観光案内所を兼ねたロッジ風の建物で足を止め、周囲を確認するとそのまま扉を押し開いた。
「おや、いらっしゃいませ、こんにちは」
恰幅の良い壮年の男が、カウンターから笑顔で迎えてくれた。胸のネームバッチには『案内担当』の文字が記されている。
「すみません。少々お尋ねしたいことがあるんですが……」
唇を引き上げて完璧な笑顔を浮かべると、シュラインは観光客らしい質問と他愛のない日常会話――ペンションの場所、ここの風物詩、最近の様子などの間に、引き出すべき情報を滑り込ませていく。
「へえ、お嬢さん達はあの白亜館に行くんかね」
「ええ。それで出来れば詳しい地図とかがあると助かるんですが」
「ちょっと待ってくれるかな。すぐに取ってこよう」
そう言って奥に引っ込んだかと思うと、店主は気前良く地図を取り出してきてシュラインの前に広げた。
森の緑が紙面の半分以上を占めている、随分と縮尺の大きなものだ。
「で、もっと詳しいのはこの裏側だ。ちょっと道が入り組んどるから解りにくいかもな」
「あ、有難うございます」
もう一度にっこりと微笑んで地図を覗き込むと、ここからそう遠くない距離に目指すべき建物の表記を見つける。
車でせいぜい十分、だろうか。この程度ならば、たとえ車が故障していても自力で脱出できない距離ではないように思える。
「この洋館までの道程は、よく聞かれるんですか?」
「ああ、獣道に近いし、入り口の表示を見落とす人もおるしな」
「最近も聞きに来られた方、いらっしゃいました?」
「最近も何も、しょっちゅうだねぇ。ほんとに気持ちのいい夫婦だし、けっこう頻繁にお客さんが来てるねぇ。この間は雑誌に載ったとか言うとった」
話し好きの中年店主は、実に楽しげに話して聞かせてくれる。
「つい数時間前にも若い男の子が道を聞きに入ってきたし」
「若い男の子……?」
また新に誰かがあの洋館を目指したのだろうか。
「あの……そういえば、ご夫婦はこちらまで買出しにいらっしゃったりなさいます?」
「ん?」
店主は不思議そうな顔をした。
「買い出しになら週に3回は来とるよ。……ああ、ほら、噂をすれば」
彼の視線につられて振り返れば、丁度50代半ばと思しき男女ががらんと呼び鈴を鳴らして店内へ入ってくるのが見えた。
「白亜館のおふたりさんだ。気さくな人たちだし、多分なんでも質問に答えてくれるだろうよ」
「そうみたい、ですね」
店主が言うとおり、確かに白亜館の夫婦は朗らかという単語がピッタリ来るような2人で、とても依頼人達の怪我や立て続けに起こる事故を黙殺するようなタイプには見えない。
では、依頼人との証言との差はどうして生まれたのだろうか。
微妙なすれ違いや齟齬が生まれているのだとしたら、何があの洋館で起きたのだろう。
いや、それよりも。
自分が話を聞きたい人物ははたして彼らなのだろうか。
一度浮かんでしまったこの疑惑は容易には消せない。
「あの、不躾な質問かと思うんですが」
だとしたら、その疑問は解消してしまうに限る。
シュラインは表情を改めて、彼ら夫婦に向き合い、いま掴んでいるだけの依頼人の特徴を挙げてみた。
「そんな観光客は見ていませんね」
「見ていないんですか?あの、分かっているだけでも老夫婦と若いカップルと、それから若い女性2人の3組はいらっしゃるはずなんですけど」
「時々ご連絡もなくキャンセルされるお客様もいらっしゃいますし」
やや困惑気味に彼女は答え、同意を求めるように隣の夫を見上げた。
「ああ、そうなんだよな。こうなってしまうと我々じゃあどうにも出来ないし」
彼女たちが嘘をついているようには見えない。
「あの、こちらで白い洋館をペンションとして使用されている方は他にいらっしゃいますかしら?」
奈美の話に聞く夫婦とは随分と印象が違う。だとすれば、建物はふたつ存在していると考えてみてもいい。あるいは、そう、現実と非現実の狭間に置かれた迷い家のようなものだという可能性も。
「ああ……まあ……」
「ええと……」
言いよどむ彼女たちの表情は、どこか不吉な色を含んでいた。
シュラインはいくつも浮かぶ可能性にきゅっと唇を引き結び、それから思い切ってストレートに質問をぶつけた。
「どんなことでも構いません。教えていただけませんか?もちろん伺ったお話を公表することもしませんから」
シュラインを除く全員が互いに視線を交わす。
「あまりいい話じゃないんだよ……もう随分と古い話だしねぇ……15年も前だ。それでも未だに覚えている者は多いな」
重苦しい空気と共に、渋い表情でオーナーの夫が質問への答えを語り始める。
黒塗りの高級車が玄関先に止まった時点で、小さな町役場は異様な緊張感に包まれた。そして、カーニンガムがガラスの自動扉を通ってきた瞬間、滅多に見ない異国の、それも彫像のような美しい姿に今度は全員が息を呑んだ。
「ああ、すみません。突然の申し出で大変心苦しいのですが、こちらに少々お伺いしたいことがありまして」
その場にいる全ての視線を一身に受けながら、彼は唇に悠然とした笑みを湛えて自分を取り巻く人間たちをゆっくりと見回した。
「ご協力願えますか?」
よく通る声質は心地よく耳に響き、そうして魅了された者たちがふらふらと頷きながら彼のために動き出した。
勧められるまま奥に通され、カーニンガムは応接セットに腰を下ろすと、後は穏やかに自分の前に積まれていく資料を待った。
洋館にまつわるあらゆる情報を手に入れることで、推測をより真実に近づけていくことが出来る。
誰が建て、誰が所有し、どのような経過で今に至るのか。そこから導き出されるのはどのような形を為しているのだろう。
ふと、内ポケットから着信を知らせるメロディが奏でられる。
「はい」
携帯電話の向こう側から聞こえてきたのは低くしわがれた男の声だ。相手は非常に簡潔で端的な報告を為す。
言い終えるまでの僅かな間に、カーニンガムの表情に落胆と険しさが滲んでいた。
「そう、ですか……いえ、有難うございました」
軽く息を吐いたが、落胆の溜息までは行かなかった。どこかでこの返答を予想していたせいだろう。
ペンションでは何人もの怪我人が出ている。もしかするとソレは依頼人が訪れる前から繰り返されてきたのかもしれない。命に関わるほどではないにしても、救急車の要請があってもおかしくはない。
だが、ここ最近、いわゆるペンション側から医者を必要とされた記録などないという。
「……応急処置の用意は必須になりそうですね」
事故は隠蔽されているのか。それとも、命の別状があるような怪我人は現時点において出ていないということか。
あるいは。
そう、あるいはもっと別の可能性を示唆しているのかもしれない。
「お待たせしました。こちらがペンションの見取り図と資料になります」
自身の思考に沈みかけたカーニンガムの元へ、役人がプリントアウトされた紙の束を抱えてやってきた。
「お手数を掛けしてすみません。さっそく拝見させて頂きます」
笑みを浮かべて彼らから資料と受け取ると、無機質な紙面にゆっくりとしなやかな指を這わせた。
足と同等以上に不自由な視力を補うためのリーディング能力が、自分の中に文字としての情報を与えてくれる。
「……洋館は一度建て替えられたんでしょうか?」
違和感に指が止まる。
まったく違う見取り図がふたつ用意されている。同じ洋館でありながら、その様式は随分と異なっている。
「あ……ええと、実はカーニンガム様の必要とされているのがどちらか分からなかったもので、ふたつ用意させていただいたんですよ」
「ふたつ?」
「白亜館と地元では呼ばれてるんですがね……まあ、雑誌にも載るくらいのいいペンションなんですが」
白いペンションは確かに存在している。壮年の夫婦が切り盛りをし、評判もいい。客足が途絶えることもない。
しかし、それとは別にもう一軒、既に何年も前に閉鎖されたまま放置されている洋館が森の奥になるのだという。
地元の人間でもめったに近付かないその廃屋もまた、かつては随分と話題になったものだと、そう告げた役人の声には、どこか微妙に陰鬱な響きが含まれていた。
「………そう、ですか……」
今もペンションとして充分に機能しているものと、既に見放されて廃れきってしまったもの。
依頼人が閉じ込められ、灯火が目指した場所は、もしかすると後者ではないのか。
「……噂を聞き込んでいる方は、何か掴めたでしょうか」
礼を述べて役所を出た後、カーニンガムは自分を待っていた車に乗り込むと、登録された番号のひとつを押した。
「イヤナコトを聞くなぁ、あんたら」
母子とも取れる年齢差のせりなと鳴沢2人を前に、派出所の巡査は困ったように苦笑いを浮かべた。
この場所で起こった子供に関わる事件や事故、または捜索願などを確認するために来てみたが、人の良さそうな彼は妙に歯切れが悪い。
せりなの目には戸惑いを表す心の炎がちらりと揺れているのが映る。
いわゆる閉鎖された山陰や海辺の共同体とは違い、ここは観光に力を注いでいる分、余所者に対する町民たちの対応はけして悪くない。
それでも、彼も、そしてこの付近の住民も、白い洋館をキーワードとした噂話には口を噤もうとする。
洋館はこの土地ではタブー視されているのだろうか。
「いやなこと……聞いてはいけないことでしょうか?」
訝しげに首を傾げながらも言葉を発しようとしない鳴沢の代わりに、せりなは質問係を請け負う。
「いや……いや、そうじゃないんだが……」
苦虫を噛み潰したような、そんな表現がまさにピッタリ来る顔で巡査はぐしゃりと髪を掻き掴んだ。
「……けして気分のいい話じゃあない。なんとも痛ましい事件だったよ。あんな小さい子が、なぁ」
とつとつと語られるのは忌まわしい過去の記録。ずきりと胸を刺すような、そして、ずしりと圧し掛かってくるような、暗く哀しい事件が綴られていく。
「ちょうど今時分かな……ほら、すぐそこの森。見えるだろ?あそこから幼い兄妹が傷だらけになって駆け込んできたんだよ」
「キョウダイ、ですか」
「ああ……可哀相に随分と怯えていてな……雨が降っている晩だった。あの子達は泥と血にまみれててまともに話すことも出来なかったな」
出された毛布に包まって彼らは蒼ざめた唇をわななかせ、互いに身を寄せ合っていた。
ただならぬものを感じ、巡査2人で夜の森を抜けて洋館まで向かったのだが、そこで彼らが見たものは―――
「長くこんな仕事をしてて、初めてだよ。あの子らはあんなモンを見ちまったんだな」
重い扉を押し開けば、妻と夫が血塗れになって倒れ伏している姿が目に飛び込んできた。
当時の警察側の見解は、両親による無理心中の果てに起きた悲劇、だった。
重い口を開いた彼の証言に、ふたりの娘を持つせりなの表情から笑みが消え、代わりに嫌悪の混じった厳しいものとなる。
親が子を殺そうとする。
たとえ未遂で終わっていたとしても、その子供達に心にどれほどの傷を残したかを考えると胸が痛い。
鳴沢はじっと男の口を見つめていた。
なんと言っていいのか考えあぐねて、結局何もかもを呑み込んでしまうことしか出来ない。
言葉にするのが怖いのかもしれない。声に出すことで確定されてしまう事実が怖くてたまらないのかもしれない。
「あの、その子たちは今何をしているんでしょうか?」
「ん?しばらく親戚関係を回ったらしいけどなぁ、その後は何にも聞こえてこんよ。で、あのお屋敷は売りに出されて……」
結局、曰くの付いてしまった建物を購入するものなどおらず、今では森の奥で廃墟と化しているのだという。
「まあ、この土地でいやぁな話と言えばこれくらいかな。あとはごくごく稀にペンション目当てのお客さんが肝試しをして子供の幽霊を見たとか騒ぐくらいかね」
「……幽、霊?出るの?」
ようやく口を開いた鳴沢の言葉はひどく断片的だった。
「出やせんよ。噂は噂だ。どこにでもある」
「どこにでも」
「どこにでも、だ。こういう話はない方が珍しいくらいじゃないかね?オーナー夫婦もちょこっと困ってた時期もあったらしいが、まあ、仲良くガンバッとるし」
せりなと鳴沢は無言のまま視線を交わし、苦笑と共に肩をすくめた巡査に頭を下げて派出所を後にした。
「何が起こっているのかしらね」
けして小さくはない事件。既に解決したことになっている洋館での出来事。そして、噂の範囲でしかない幽霊騒ぎ。ペンションはまともに機能し、今も避暑を求め、静寂を望む客達で賑わっていると言う。
では、依頼人達は一体どこで誰と会い、この数日を恐怖とともに過ごしているのだろうか。彼女たちが閉じ込められていると言うペンションは、果たして本当にペンションなのか。
「シュラインさんやカーニンガムさんがこの件で何かを掴んでいるとは思うんだけど……どう思う?」
「幽霊……子供の……多分、それ、ただの噂じゃない、気がする。夫婦も、いないと変だし……変なんだよ、ね?」
せりなの質問から微妙に外れた答えを、まるで独り言のように呟く鳴沢。
依頼人たちを『ある場所』に閉じ込めているのは子供の幽霊かもしれない。だが、その手段はあまりにも手荒い。追い出したいのではないのに、何故そんな真似をするのか。
占えば何か分かるだろうか。だが、習い途中のものでまともな結果が出るのかどうかも怪しい。
「ペンション、そろそろ向かう?行き着けないかも、しれないけど……」
「そうね。向かいましょうか?情報収集を続けながら、ね」
方向を決めたそのタイミングで、彼女たちの携帯電話にそれぞれカーニンガムとシュラインの名前が表示された。
いきなり背中を棒のようなモノで強打され、痛みのあまり意識を失っていた雪森の指がぴくりと反応する。
「うぅ………」
じくじくじんじんと痺れた痛みに顔を顰めつつ、何とか起き上がって周囲を見回せば、ずらりと見知らぬ人間たちが自分を取り囲んでいた。
「大丈夫ですか?」
「ボウヤ、大丈夫?」
どうやら自分はベッドに寝かされているらしいことに、今更ながらに気付く。
老夫婦と先程奈美と名乗った女性、そして自分とそう変わらない男女3人。彼らの関係性がいまいち掴めないが、妙な連帯感が生まれていることは分かった。
ちなみに、坊やなどと言う非常に不本意な呼ばれ方をしたことについては、相手が老女ということで不問にした。
「……まだ痛いけど、平気」
不意打ちとはいえ大きな怪我を負うことなく済んだ丈夫な自分の身体に感謝しつつ、そう言葉を返す。
「着いて早々にこんなことが起きるなんて……」
怯えた視線が自分の頭上で交錯する。
暗闇に襲われる寸前にたどり着いた考えを確かめるなら今だろうか。
「あのさぁ、俺に分かるように話してくれね?こんな目に遭ったんだ。ぜってぇ調べてやる」
ふつふつと沸き立つ怒りと共に、雪森の中で何かのスイッチが入った。
彼女たちからもたらされたのは、草間興信所へ助けを求めた際に語られたものだ。
退路を絶たれ、奇妙に連続する事故の只中で、彼女たちはひたすら息を潜めてこのペンションで過ごしている。
「まあ、証言集めは基本だよな……で、あんたはどんな声を聞いたわけ?」
「声……」
「そう、声。全員、子供の声を聞いたんだろ?なんつってたワケ?」
彼らは再び顔を見合わせ、誰から先に話すのかをためらい譲り合っているように見えた。
「……出して、と」
「出して?出て行け、じゃなくてか?」
「思い出させないで、閉じ込めないで、と……それから、怖いとか痛いとか、そんな感じの声が」
「私の時には、もうぶたないで、って……」
「私共の時には、ひたすら『許して』と『イタイ』を繰り返していましたねぇ」
地下の倉庫で、浴室で、裏庭で、小さな部屋で、彼らはそれぞれ微妙に違う言葉を聞いている。
ペンションの見取り図でもあれば、それに書き込めるのだが、あいにく手元にそれはない。それでも、雪森は彼女たちから借りたメモ帳とペンを駆使して状況を懸命に分析していく。
何が起きているのか。どうしてソレが起きているのか。知っておかなければならないことは何か。そして、一連の事故から生まれる法則は――
「……共通項は……あんまり人目につかない場所、か……あるいは、何らかのキーワードに反応、かもな」
身体の痛みも忘れてひたすら思考に没頭する雪森を、彼女たちはある種の期待を以って見つめ続ける。
雪森たちの部屋から程近い場所で、灯火はぴたりと足を止めた。
ざり……と、また嫌な音がする。断続的な悲鳴に似た声。けれどソレはすぐに絶え、追いかけていたはずの子供の気配も同時に消える。
代わりに、壁の上部に取り付けられた飾りランプが、別の囁きを灯火に与える。
「……依頼人の皆様は全員、そこにお集まり、ですのね……?安全は、保障、されていらっしゃいます……か……」
家は、彼女たちが無事であること、そして新たな人間がそこでここにまつわる話を聞いているのだと言った。
そして、一瞬だけあの子がまた目を覚ましたのだとも。
「その方は……今はどこに?」
どこかに、と彼らは言う。
「……ではわたくしは、再び……跳びましょう……」
客人たちが訪れた場所や、あるいは不穏な気配に満ちている場所を探るため、灯火は導かれるままに空間を跳んだ。
白い壁に囲まれた、ここは誰かの意思が支配する場所。
小さな土産物屋の前でシュラインを拾い、ついでせりなと鳴沢を喫茶店の前で拾うと、カーニンガムはとりあえず掴んだ互いの情報をつき合わせる。
ゆったりとした広い車内で交わされるそれらは、ただひとつの方向を指し示そうとしていた。
「……どうも我々が目指す洋館は別にあるようですね……ふたつの洋館……その内のひとつはもう何年も外界との接触を行っていない。所有者が変わったという記録もない変わりに……」
「現在使用されている形跡も一切ない、わね」
彼の言葉を引き継ぐ形で、シュラインが手帳を確認する。
「この土地で言われている『白亜館』のオーナーご夫婦は既に50歳を過ぎているし、お子さんも成人して別のところで働いているみたい。依頼人の話で受けた印象からもかなりかけ離れているわ」
「幽霊……出るって」
「幽霊、ですか?」
首を傾げるカーニンガムに先を促され、鳴沢はぽつぽつと話し出す。
「子供の幽霊。僕は今のところ何も感じないけど、見たって騒ぐ人も、たまにいるらしいよ……ちっちゃい子供って誰のことかな……」
「派出所や近隣での聞き込みでは、事件らしい事件が起こったのは15年前の無理心中、くらいなのよ。行方不明の子供が居るとか、そういった話は全然ないみたいね」
せりなが彼の言葉を補足する。
「どこからかやってきたのか、それとも幽霊ではなく、何らかの力ある魔性の存在か……判然としないんだけど」
しかも当時幼かった子供達は、親戚に保護されている。もし戻ってきたとしたらすぐに町の人間が気付くだろうことも聞いた。
「オーナー夫婦の存在そのものも怪しくなってきたのよね……子供の声を聞いたとして、その存在もあやふやなものになっていくみたい」
シュラインは眉をひそめて手帳をペンで軽く弾いた。
「そういえば、灯火さんでしたか……あのお嬢さんからの連絡はありましたか?」
「いえ、まだ……多分、彼女なら大丈夫だとは思うけれど……」
「では、早急にお嬢さんの情報を照らし合わせに行く必要がありますね。我々の推理がどの程度正しいのか、その確証も欲しいですし」
カーニンガムは運転手へと、もう1台の車が待つ場所まで行くよう指示を出す。
シュラインの入手した地図、そして自分の手元にある資料によれば、目指す洋館は随分とここから距離がある。そこに何が待ち構えているのか分からない以上、無関係な人間を巻き込むべきではないとの判断だ。
「では、そろそろ本格的な調査と参りましょうか」
数分後。
運転手を降ろし、調査員4人だけを乗せた黒塗りの高級車は、奇妙に捩くれた深緑の世界へ走り出した。
*
ボクを捨てたのは、ボクのオトウサン……
*
雪森は依頼人達を部屋に残して、屋敷内を歩き回っていた。
靴を履いたままでの忍び足に、いわゆるトラップの見分け方。危険察知の方法。居候がもたらしてくれた数々のシーフ技能は確実に雪森から『普通の大学生』という肩書きを奪いつつある。
「ま、少なくともピッキングって確実に犯罪だよな」
話を聞こうとオーナー夫婦と顔をあわせてみて思うのは、どうしてああも無愛想なんだろうということだ。
帳簿をつけ、各部屋の掃除をし、地下の倉庫まで降りていっては何かを整理する。こまごま動く割に何かの制限を課されてでもいるような印象を受けるのは、彼らの表情があまりにも乏しいせいだろうか。
雪森はしばらく2人の動きを目で追い、思い切って声を掛けてみてが、オーナー夫婦はまるでソレが聞こえていないかのように振る舞い続ける。
挙句の果てには、この洋館のどこかに姿を隠して追いかけることすらままならなくなってしまった。
「……神経質どころか、カンペキ視界に入れてねえじゃん」
招かれざる客だからか。いや、自分はちゃんと予約を入れた。来るべくしてきた人間のはずだ。ならば何故こんな扱いしか受けられないのだろうか。
そもそも相手はこの立て続けに起こっているらしい怪事件に対し、何も困っていないのか。問題だと受け止めないのだとしたら、そこにはどういう理由があるのだろうか。
不意にかちゃんと言う手ごたえを感じ、イラつく思考を止めてにやりと笑う。
「お邪魔しまーす、と」
ドアの隙間から顔だけを覗かせて薄暗い室内を見回し、耳をそばだて、僅かな物音もしないことを確認するとするりと身体を滑り込ませた。
奇妙な腐敗臭が充満する淀んだ空気を掻き分けて部屋のスイッチを探り当てるが、小さな白色灯がひとつ点くだけで、それ以上の明度は望めなかった。
「うわ、足跡がついちまう」
埃が厚く積もったここは、もう随分と長い間使用されていないことが一目瞭然だった。
「さらにドアがあんのか?」
折れそうなほど痩せ細った身体がころりと床に転がる。
ソレは一瞬の幻覚。
『―――オトウサン、ヤメテ―――っ』
「―――っ!?」
背中を思い切り突き飛ばされた。
バランスを崩し、雪森は地下へと続く階段を転げ落ちていく。
ヤバイ。今度こそマジでヤバイかも―――と言うか、何でこんな目にばかり遭うんだよ。
転落の時間をやけに長く感じながら、雪森は頭の片隅でほんの少し死を覚悟しそうになった。
「シュラインさん?何を?」
ふと、運転席に座るカーニンガムがバックミラーごしにちらりと視線を投げ掛ける。
地図を入手した彼女自身は後部座席につき、代わりにせりなが廃屋となって久しいらしいペンションまでのナビを務めていた。
「少しだけ保険を掛けておこうと思って」
彼女は車の窓から手を伸ばし、先程からずっと何かを少しずつ撒いている。
「塩と聖水……ね」
せりなが興味深げに目を細めて振り返る。
「貴女、なかなか面白い感性をしてるのね。ウチの娘や夫から聞いていた以上かも」
「え?あの、お2人とも話されてるんですか?」
少し驚いたように、シュラインがせりなを見る。
「この間帰って来た時に、しっかりと。草間興信所の優秀な司令官というお噂はかねがね、というところね。一度会ってみたいって思っていたから嬉しいわ」
「有難うございます」
年上の女性から賞賛の言葉と共ににっこりと微笑まれ、つい頬が赤くなる。
鳴沢はそんな彼女たちの会話を傍で聞きながら、反対側の窓から右手を空に差し伸べて、
「我が命に従い……行け、朔」
小さく口の中で呪を唱える。
ふわり。
小指に封じていたものが解き放たれる。
彼の眼にだけ映るのは、闇色の髪を着物に滑らせて彩る美しい女の姿だ。彼女はふわりと水のように流れ、空間に消えた。
そして鳴沢の目は彼女の視界と同調し、世界を二重写しに変える。
緑。緑。緑。
ぐにゃりと捩れた空間。
僅かな抵抗。
白い壁。
その白が、忌避すべき色だと警告を発している。
暗く淀んだ影がまとわりつく。
アレは―――
「止まった方が、いい……車、止めて」
明確に感じるわけではない。だが、何かが訴えかけてくる。鳴沢は自分の中に落ちてくるものをそのまま言葉に変えてカーニンガムの肩を掴む。
「もうすぐ領域に入る。止めて。あとちょっとでパンクするよ。動かなくなるかも」
「鳴沢さん?」
「止めて、銀ちゃん」
「はい」
唐突な要求にも拘らず、彼は微笑んだまま何も聞き返すことなく速やかにブレーキを踏んだ。
ドアを開けて降り立てば、腐葉土特有の匂いがムッと押し寄せてくる。
どこまでも視界を遮る深い緑の世界。
「まだだいぶ掛かるわね」
地図を確認しながら、せりなが溜息をつく。彼女の手元を覗きこみ、シュラインもおおよその距離をそこから把握すると、同じく溜息をついた。
「歩けない距離じゃないけれど、車椅子での走行には無理がありそうね。これが使えないとなると……」
舗装されていない道は、ボコボコと好き勝手に隆起しており、石や植物の根のせいでカーニンガムの足では少々困難だ。
だが、もしこのまま車で進めば、万が一の時に脱出する手段がなくなってしまう危険性もある。
「心配、しなくても平気」
「え」
ボンヤリと周囲を見回していた鳴沢が、突然カーニンガムの背後に立ったかと思うと、一言の予告もなく彼のけして華奢ではない体をステッキごと抱き上げた。
「鳴沢さん?あの……これは?」
戸惑うように腕の中から見上げると、
「歩く、お手伝い……銀ちゃん、大変そうだから。車椅子も使えないし」
顔の半分を覆う前髪から覗く穏やかな目がまっすぐ自分に返ってきた。本気でこの青年は抱きかかえて洋館まで歩く気らしいことが、はっきりと分かった。
シュラインとせりなは少し驚いた顔をしているものの、彼を止めるつもりはないらしい。
彼女たちは車から荷物を取り出し、双方の手に抱いた。
「………では、お言葉に甘えさせていただきましょう……よろしくお願いします」
「了解」
なんとなくゴールデン・レトリバーを鳴沢に重ね見ながら、カーニンガムは彼の手を借りて森を進むことを選んだ。
そして、彼はシュラインの手からこぼれる塩と聖水を、その指で操り、ひとつの道標とした。
*
ボクを見つけて……ボクを見つけないで……そっとしておいて……ほうっておかないで……イタイイタイイタイ……ダレカ、タスケテ……
*
「雪森雛太さま、でございますね……?」
「あ?」
床に転がり這いつくばるという非常に屈辱的な状況に置かれた雪森の目の前に、白い小さな手が差し出された。
「アンタ、誰?」
「わたくしは、四宮灯火、と……申し、ます……」
「ふうん……」
後頭部がじくじく痛む。つい先程強打された背中はさらに痛む。だが、骨に異常はない。とっさに受身を取れた自分の反射神経を褒めながら、雪森は彼女の手を借りてゆっくりと身体を起こした。
立ち上がって見ても、故障らしい故障はどこにもなさそうだった。
「お」
目線を下に向けられる経験なんてそうそうない。お互いに立っている状態で他人の頭の天辺を見たのはどれくらいぶりだっけ。周りの人間たちは育ちすぎだよ、まったく。
そんな愚痴をこっそり胸に秘めながら、雪森は彼女を観察する。
妙に現実感の薄い子供だ。
人間に酷似しているがその性質はまったく違うような、もやもやとした違和感を与える。
草間興信所に関わるものなら、真実人間じゃない可能性もあるのかと、そんな結論に行き着こうとしていた思考を遮り、ふぅっと灯火は天井を見上げた。
「ああ……皆様が、いらしたようで、ございます」
「皆様?」
「……はい」
コクリと小さな少女は頷いた。
「参り、ましょう……」
「あ?」
次の瞬間。雪森は今まで経験した事のない浮遊感を味わうこととなった。
*
ボクを見つけて……ここから出して……ボクを、ボクを、ボクを………オカアサン……
*
黒い鉄柵を抜ければ、そこには廃屋と呼ぶにはあまりにも手入れの行き届いた白い館が姿を現す。
「辿り着くことは出来たわね」
「入ることは出来るのかもしれません……あの、依頼人たちのように」
カーニンガムの視線の先には4台の車が止まっていた。
パンクしているらしい3台の隣に、随分と使い込まれた……言ってしまえばポンコツが1台紛れている。
「少年……じゃないわね。男の子がひとり、つい何時間か前にここへ来たみたいよ」
せりなの眼に映るのは、この空間が記憶している過去の映像。
ストライキを起こした車を置いて、洋館へ向かうその後ろ姿はやけに子供っぽい。彼は新たな犠牲者となってしまっているのだろうか。
「牡丹ちゃん、発見……でも、知らない人も、いる」
「鳴沢くん?」
「ほら」
彼に促されるままに、シュラインが、続いて他の者達も視線を洋館の玄関へ向ける。
「あら」
「……ご無事でしたか、灯火さん……」
いつのまにか赤い着物の日本人形が見知らぬ小柄な青年の手を取って、扉前の石段に佇んでいた。
「……この方は雪森、雛太さま、ですわ……」
「どうも」
きょとんとした顔で、彼はカーニンガムたち調査員に軽く会釈した。
「……皆様を、ご案内いたします……まずは、依頼主様の所、で宜しいでしょうか……?」
小さく首を傾げた少女人形に、彼女たちはゆっくりと頷いた。
*
『ボクの体は、もう、ボクのものじゃない……』
少年の傍にふわりと舞い降り、朔は哀しい亡霊を無言のまま見下ろす。
『いないんだよ。誰もいない。いないいないいないいない――誰もいないのに、こわくてたまらないよ……』
虚空を見つめ、呟き続ける少年。
ソレはもう随分と長い間、ここに留まり続ける想いの残像だ。
『出して……ここから出して……もう、悪いことしないから……オトウサン……オカアサン………』
膝を抱えて、残像はいつまでも日の当たらない物置の片隅で呟きを繰り返す。
*
老夫婦は身を寄せ合って部屋のソファに座り、依頼人である奈美、そして友人の春香と若いカップルが、待ち焦がれた調査員達の到着にほっと息をつく。
せりなとカーニンガムが用意した応急処置用のセットで雪森を含む彼らの怪我の具合を確認し、それぞれが手当てを開始しながら、話は進められた。
「聞きたい。子供の声、なんて言ってたの?」
「あれは」
ベッドに横たわったまま、老女はゆっくりとあの瞬間を思い起こす。
「あれは、男の子の声……閉じ込めた、と……」
「閉じ込めた?」
「そこの坊ちゃんにもさっき説明したんだがね……小さい男の子がね、イタイイタイと泣いとるんですわ……」
子供の泣き声。閉じ込められたと、痛いと、そう訴え続ける彼は今どこにいるのだろう。
朔は――少年の欠片を見つけた。でも、ソレはあくまでも残留思念だ。
灯火もそれと同様という。
だが、雪森は確かに幼い少年の声を聞き、背中を押されて階段を転げ落ちた。
「俺の見解としては、人目のつかないところで聞こえることが多いってのと、どうも……そうだな、オトナだって事に過剰反応してるんじゃないかって印象だ」
事実、話を聞く限りでは、たとえ空間を跳んでいるにしろ、灯火には一切の被害が出ていないのだと、雪森は付け加えた。
「……多分……それは正解かもしれない……この洋館にかかわる存在がもし本当に子供で、もし私の考えているとおりの境遇だったとしたら……」
大人だけに被害が出る理由も頷けると、シュラインは唇を軽く噛んで俯いた。
「皆さん、申し訳ないのですが、もうしばらくの間、こちらにいてください。出来るだけお独りでの行動はお控えいただくようお願いいたします」
カーニンガムはそうして彼らをゆっくりと見回し、それから静かに微笑んだ。
「今日中に……そうですね、あと数時間の内に必ず皆さんをこの洋館の外へとお連れいたしますから、どうかそれまでよろしくお願いします」
「わたくし、からも……お願い、いたします……」
彼の声、そして灯火の瞳が、恐怖と不安で心を占められる依頼人達にやわらかな安心感を与える。
張り詰めていた緊張の糸を緩めて、彼らは素直に頷いた。
それは2人が持つ、魅了の力。精神の安寧をもたらす心地よい暗示にも似ている。
「あ、そうだ。手、出して」
「え?」
「コレ、あげる」
鳴沢はジャケットの左右のポケットに入っていた手をずいっと差し出す。
そうして開いた両手の中に収まりきれていない大小さまざまなキャンディを、ざぁっと奈美の手に流しいれた。
「甘いもの、食べたら落ち着くから……幸せな気持ちになれる、かも」
「あ、有難う、ございます……」
「行ってくる、から」
じゃあ、と手を振って、鳴沢は調査員達の後を追いかけ部屋を出る。
そうしてパタンと閉まるその扉に、彼はひそかに守護の呪を掛けた。
「これで、よし。もう、大丈夫」
大丈夫だと、もう一度言葉にして呪をより強固なものに変えて、歩き始めた雪森に早く来いと呼ばれるままに廊下を駆け出した。
『何をするの……ダレ……ダレ……?出して…コナイデ……ボクをいじめないで……オトナはコワイよ……』
シュラインの指示により、調査員達は3組に分かれて洋館内部とその周辺の探索を開始した。
灯火と雪森が見ていない箇所がまだいくつも残っている。
そのどこかに、自分達が探すべきものがいるはずだった。
「出て来てくれない、かな……?」
少年がいるであろう壁の向こう側に力ある言葉を差し向け、鳴沢は見えない視界で少年の姿を追いかける。
「姿を、見せて……声を聞きたい……閉じ込めたり、しない……助けて、あげたい」
常にはないほど多くの言葉を、掛け続ける。
だが、何かがそれに揺らめく気配はするのに、どうしても怯えて一歩を踏み出せていない。
「あれ?そういえば雪森ちゃん、どこ……?」
数歩進んだところで、きょろきょろと彼の視線が斜め後ろに控える自分の頭上をものの見事に通過する。
「素で見失われるとめっちゃむかつくんだけど?」
不機嫌さを隠そうともせずに、雪森はじろりと鳴沢を見上げた。
「ああ……ごめん」
申し訳なさそうに頭を掻くも、すぐに人懐こい笑みを浮かべて壁の向こうを指差す。
「変な通路、たくさんある……見た?この先……あの階段の上……」
「ふたつは開けた。まだあんのか?」
「ある。朔が屋根裏で一個見つけた……行く?」
「行かなきゃダメだろ?ここの持ち主から直で話が聞けねぇんだからな」
どこをどう探してみても、オーナー夫婦の姿はどこにもない。自分が乗り込み、次いで調査員達が全員揃った時点で彼らは完全のこの館から消え失せてしまった。
アレは、結局のところなんだったのだろう。
「……オバケ……」
「へ?」
まるでこちらの思考を呼んだと思えるタイミングで、鳴沢が呟く。
「オバケ、たくさんいるね……他の人も、怖い目に遭う、かも……」
「気になるなら電話してみるか?あんたが持ってるソレ、衛星携帯電話だろ?」
「あ……」
「あ、じゃねえだろう?」
ここにスリッパがあったら思い切り後頭部を叩けるのに、と思いつつ、雪森は深い溜息をついた。
「あ」
「今度はなんだ?」
「シャンデリア、落ちてくる」
「はぁ!?」
慌てて見上げて雪森の視界いっぱいに、天井から確かにシャンデリアが迫る。
耳元で、少年の声が掠めていった。
『ボクを助けてくれるヒトは、どこにもいない……出て行け……出て行け…………ダシテ…タスケテ……』
得られた情報を再度確認し、検討の末にシュラインとカーニンガムは洋館1階の浴場へ向かった。奈美が閉じ込められて熱湯を浴びせられたと言う現場を、自分たちの眼で確かめるために。
「一緒に外にでましょう?だから、ねえ、姿を見せて……どこにいるの?」
移動の間、シュラインは自分の視界では何も捉えることの出来ない空間に呼びかけ続ける。
だが、時折飾りランプがバチッと音を立てる他は、それらしいアプローチを得ることが出来なかった。
「改めてお聞きしたいのですが……」
一瞬、自分たちの脇を掠めた黒い影を感じながら、カーニンガムは問いを投げ掛ける。
「この現象……シュラインさんご自身はどう捉えていらっしゃいますか?」
「ただの推測程度ならいくつか仮説を立てられそう……話しそびれてしまったけれど、いやな予感がずっとしているのよ」
奈美たちが襲われた状況を記した手帳に視線を落とし、シュラインは眉をひそめた。
「雪森くんが実際に遭ったものも含めて、この一連の事故がどうしてもただの悪意から生まれたものとは考えられなくて」
崖や階段からの転落。照明器具による殴打。熱湯による火傷。頭部や背中への執拗な攻撃。死に至るギリギリのラインで繰り返される暴力の数々。
これらが何かのサインだとしたら、そこに至る過程であげられるものがひとつある。
「やはり、そこに行き着きましたか……」
「ええ……」
浴場の扉を軋ませて、2人は思いのほか広くとられた脱衣所へと足を踏み入れる。
ざわりと肌が粟立つのは、嫌な冷気が辺りに満ちているせいだろうか――そう思いながら、シュラインは大きな鏡が嵌め込められた洗面台を覗きこみ、手を伸ばして軽く叩く。
自分と、浴室のガラス戸を引くカーニンガムが映し出される鏡面からは不審な反響はなかった。
「隠し扉や通路の類は仕込まれていないみたいね……それで、話の続きなんですけど」
「はい」
「ここには誰にも知られていないもうひとり子供がいたんじゃないかしら。15年前の事件で逃げ出した兄妹以外にもうひとり……でもその子はおそらく、何らかの理由で虐待されてい―――っ!?」
言葉半ばで、突然天井のスプリンクラーが一斉に熱湯を噴射した。
『思イ出サセナイデ――デテイケ―――っ』
激しい怒りで以って襲い掛かってきた大量の水は、カーニンガムの前でぴたりとその動きを止めた。
動くに動けず、ぎしぎしと悶える水のカタマリ。
「セレスティさん」
「大丈夫、です……」
もうもうと湯気を立てるソレが、じゅわりと音を立てて蒸発した。
「あらゆる水を操ってこそ水霊使い、ですから」
ステッキを持ち直して、美貌の紳士はシュラインを振り返り、微笑んだ。
「どうも、この屋敷には少年の念に同調する性質の悪い存在もいるようですから……気をつけないといけませんね。それから……」
それから、今の攻撃こそが、真実を探り当てたという証拠になる得るのではないか。
「さて、灯火さんたちも随分とご苦労なさっているようですが、連絡はつけられるでしょうか」
鳴らない携帯電話。それは双方無事だという現れであるのか、それとも――?
「待って」
制止の声を上げると、シュラインは耳をそばだてて周囲に意識を集中させる。
聴覚が捕えた屋敷内の異変。
足音。悲鳴。軋み。何かの落下音。そして、
「何か壊れた……多分……多分、シャンデリアの類……呼吸と心拍数が乱れている……あとは、小さな異音」
「参りましょう」
「音は、あの向こう。屋根裏に続く辺り、だと思います」
可能な限り早足で、2人は音の発信源へと向かう。
カーニンガムを抱きかかえて走ることが出来る鳴沢と離れたこと、そして車椅子を持ってこられなかったことが今更ながらに少々悔やまれた。
春香に割り当てられた部屋から裏庭へ続く扉までの通路を、灯火は作りモノの指でなぞりながら歩く。
「家に染み付いてるのね……冷たくて痛くてたまらない……子供の記憶……」
「せりな様……」
赤い絨毯を敷き詰められた床を踏む度に、何故ぬかるんだ道を歩いているような錯覚に陥るのだろう。
海を映した青の瞳に炎が揺れて映り込む。
深い孤独の色を帯びて、蒼とも紫とも付かない暗く哀しい炎がチラチラと揺れている。
この建物の至る所に残された記憶が、せりなの視界を彩り、代わりに世界を不明瞭なものにしている。
振り上げられる腕。
悲鳴。
親が子を、子が親を、憎み蔑んでしまう感情はどうして生まれるのだろうか。
やりきれなさに溜息がこぼれる。
この向こうに広がるのは、闇色の深い森だ。
「灯火ちゃん?先に歩いて本当に平気?」
すぐ後ろから、せりなが心配そうに声を掛けてきた。
「ご心配には、およびません……シュライン様と雪森様が、わたくしでしたら平気だと、仰っておりましたし……それに……もし何が起きても、痛みは感じません、から……」
「ん……興信所であった時にも思ったんだけどね?見掛けはちっちゃい女の子でしょ?それに自分は痛くなくても、見ている方が痛いって感じちゃうかもしれない。だから、怪我を前提にお話しちゃだめよ」
穏やかながらも、せりなはきっぱりと言い切った。
「……あ、はい……せりな様」
きょとんと彼女を見上げながら、それでも素直に頷きを返す。
そして、彼女のためにより慎重に、指を壁に這わせて行く。
相変わらず、この家は至る所で哀しい声が反響していて、言葉の残骸たちが異音を発し続ける。
「あちこちに嫌な記憶が刻まれているのね」
「随分と……ひどい仕打ちで、あったようです、わ……わたくしには分からない、けれ、ど……ずっとずっと、痛いと泣いておりますもの……」
振り上げられた腕。
罵り、踏みつける大きな足。
照明スタンドが倒れ掛かってくる。
イタイアツイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ―――っ
「……ありえないわ」
せりなの指から生まれた炎が、パンっと弾けてまとわりついてきた森の雑霊を払いながら呟く。
哀しい記憶。
切ない記憶。
同じ子を持つ親として、どうしても許すことの出来ない行為。
助けて、と彼は泣く。
ここから出して、と彼は泣く。
何故こんな真似が出来るのだろう。
「せりな様……?」
繋いだ手に力が込められる。
その微妙な変化に思わず声をかける灯火に、せりなは微苦笑を浮かべて、痛かったかしら、ごめんなさいねと小さく謝る。
痛みは感じないと伝えているのに、彼女は気遣ってくれる。
そして、きつく握ってしまった手のチカラを抜きながら、緑で囲まれた世界を凝視する。
そこに在るのは哀しい炎。
「親の責任。大人の責任。子供たちは皆、ちゃんと愛されなくちゃいけないと思うのよ」
奈美たちがこの洋館で歩いた場所を正確にトレースしながら、せりなは灯火と一緒に屋敷の裏庭へと進む。
春香が足を滑らせたのはこの辺だろうか。
「残り火……これは春香さんの記憶だけじゃないわね……もっと昔の……消えかけた記憶が残っている」
春香と思しき女性の背中。そこに陽炎のように寄り添う少年の小さい背中が見える。
周辺を取り巻く不吉な闇。不意に突き出された子供の腕。いや、たくましい男の腕。彼女の、そして彼の転落。驚愕の表情。
「……この方、も……」
傍で茂る木々の幹に触れて、灯火は陰惨な告白に目を閉じる。
「今、何か大きな物音が……」
「場所は分かる?」
「はい……」
「急ぎましょう」
再び灯火の手を取って、せりなは事故が起きたのかもしれない場所へ急ぐ。
*
白い壁。
白い白い、どこまでも白い幽鬼が作り出した偽りの壁。
ここは白く凍えた裏側の世界。哀しみと罪を塗りこめた、弔いの白い壁の内側。
*
「なんていうかさ、お互い、運動神経の良さを誇ってもいいよな」
支柱と共に崩れ落ちてきた天井と砕かれたシャンデリアの残骸を眺めながら、雪森はやや脈拍の速くなった心臓を軽く抑えた。
「……朔にも、感謝」
着物の裾を揺らめかせ、守護者はするりと鳴沢の頬を撫でて再び空間に消えた。彼女が危険を知らせてくれなかったら、自分達はもっと悲惨な有様になっていた。
「ついでに運の良さも誇っちまおうか……こういうの、なんつーんだっけ?」
「………怪我の功名……かな」
「棚からぼた餅、じゃねえもんな」
瓦礫の下から垣間見えるもの。
ソレがおそらく今のままで自分達が探していたものの正体のように思えた。
「今ものすごい音が聞こえたんだけど……」
「大丈夫ですか、鳴沢さん、雪森さん」
「あ、司令官と銀ちゃん」
長い通路を辿って、下からシュラインとカーニンガムが二人の元へやってくる。
「呼ぶ前に、来た……」
彼女たちの登場に、鳴沢は純粋に感心してしまった。
そんな彼を横に置いて、雪森が2人の視線を指先で誘導する。
「これ、見ろよ。ちょうど屋根裏部屋がこの真上になってたみたいだ」
「……これは……」
「これって、もしかして……」
砕けた漆喰とガラスに混じって、瓦礫に埋もれているもの。それはどう見ても白骨のようにしか思えない代物だ。
「ようやく、見つかりましたのね……」
不意に挟み込まれた声に振り返れば、背後の壁に灯火とせりなが佇んでいる。
「壁の中に、あの方は……散らばって、しまいました、の……」
灯火が作り物の指先で、そっと少年の欠片をなでる。
彼女を通じて具現化され、調査員達の前に展開されていくのは―――
「ここで起きた事件の全てが、ようやく見えたわね……」
せりなが、揺らぐ炎から伝わる感情を言葉に変えて、灯火の映像に添えていく。
散らばった過去の映像。断片的な悲鳴。噂話。15年前の事件と、今回の事故。全てのピースが、このバラバラの白骨によってひとつになる。
『思い出させないで……気付いて……ここにいる……ボクを閉じ込めないで……助けて……コワイコワイコワイイタイイタイイタイ…………タスケテ……』
今ならば、全員の耳に彼の嘆きが聞こえる。
「あのオーナー夫婦は少年の両親の残像、なんだ……」
殴られて。
蹴られて。
心臓が止まってしまった少年は、屋根裏部屋で骨になった。
朽ちるまえに彼をお墓に埋めてあげようとしたのは幼かった2人の兄妹。
しかし、親に見つかり、咎められて。
助けられなくてごめんなさい。何もしてあげられなくてごめんなさい。お兄ちゃん……お兄ちゃん……ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……
誰にも知らされることなく、彼は親の手に掛かり、屋根裏の床に詰め込まれた。
けれど、どれほどの時が経っても誰も少年に気付かない。
誰も少年の事を探そうとしなかった。
やはり、彼は存在しない子供。他ならぬ両親によって存在を抹消されてしまった子供なのだ。
そして。
そして、少年の強い想いはこの家に溶け込んで、一体化するまでになった。
激しい憎しみと孤独から暴走を始めた力で、ついに、あの日少年は犯した罪の報いを両親へ放った。
15年前の無理心中。その真相はこんな場所に行き着くのだ。
「……もうずっと以前から、あの子はここに呪縛されていた……」
せりなが見たのは、少年が持つ虐待の記憶。この屋敷と周辺の森を支配するまでに成長してしまった強い念は、孤独の表れでもあったのだ。
「助けを求めていたけれど、それ以上に恐怖が勝っていたのね」
依頼人から話を聞いたときからずっと心に引っ掛かっていたモノのカタチをようやく捕えることが出来た。
シュラインにとって、それはどこかで予感した真相でもあった。
「生命情報記憶…とか言うんだっけか?この間見たテレビ番組で解説してた」
「あ、知ってる」
雪森の言葉に、鳴沢がポツリと反応を返す。
物体に生物の念などが刻まれる現象。事故車などに見られる現象だとも聞いた。この場合はそれだけで済まされなかったのだが。
森の中や暗く淀んだ場所に潜む雑霊をも取り込んで、長い年月の内に変質してしまった少年の想い。
「……名をつけて、支配するのは……したくない、かも……でも」
連れて帰ることは出来ないだろうか。
鳴沢はシュラインへ首を傾げて問いかける。
彼はずっと寂しい時間を過ごしてきた。ずっとずっと孤独と共にここに閉じ込められていた。
15年と言う月日の中で、彼に与えられたのはどうしようもない暗く淀んだ『願い』だけだ。
「あの子をこのままにはしておけないわ……ただ、浄化することも、したくないわね……」
せりなは母親の顔で、床に屈みこんで少年の骨を優しく撫でる。
「入れ物を作ることが出来れば、あるいは」
シュラインは過去の経験から記憶を引き出し、そしていくつかの事例から可能性を語る。
貼りついてしまった想いを何かに転化できさえすれば、彼をこの呪縛から解き放ち、なおかつここではないどこかへ連れて行くことも出来るかもしれない。
「……あの……わたくし、身体…作れます、わ……」
「牡丹ちゃん……」
「少しだけ、お時間を下さい、ませ……」
灯火は壁に寄り添い、誰にも聞き取れない音を奏でる。
この屋敷を形作るのは、哀しい記憶とばらばらになって塗り込められた少年の欠片だ。白く冷たい壁の中で過ごした彼を癒す術があるのなら、それに応えたい。
この屋敷たちも、本当はそれを願っている。
ザリザリとした異音が灯火の声に重なり、やがて哀しい呪詛の声は穏やかなものへと変わっていく。
そして、屋敷中に散らばる少年の欠片が灯火の前に集まり、淡く拍動する光を帯びて塵となりかけた骨から実体を取り戻す。
カーニンガムは彼の瞳を覗きこみ、そっと囁く。
「もう、怖がる必要はありませんよ……」
優しい色を添えて、静かに安堵の言葉を彼の中に浸透させていく。
「大丈夫よ……もう、大丈夫……」
彼に重ねて、シュラインも穏やかな笑みと共に言葉を紡ぐ。
「もう誰も、あなたに痛い思いはさせないわ……大丈夫よ……」
せりなの言葉。
「ほら、心配すんなって」
雪森も続く。
「ね?だから僕と、行こう……もう、寒くないから……」
目線を合わせるように屈みこみ、泣きそうな顔の少年に手を差し伸べて、鳴沢は乏しい表情で辛うじて笑みを形作る。
「あ、あとね……これ。渡しそびれてた『お近づきのしるし』……」
ほんわりとした笑顔と共に小さな手に握らされたのは、ウサギの形をした可愛らしいピンクのキャンディだった。
不思議そうにじっと手の中の飴を見つめ、それから少年はようやくコクリと頷いた。
「よし」
人形によって与えられた少年の手をぎゅっと握って、鳴沢は仲間を振り返る。
「帰ろ?」
「そうね。帰りましょうか……」
互いに視線をかわしあい、彼らはゆっくりと瓦礫を避けて2階の一室へ向かった。
身を寄せ合いながら、部屋の中でひたすら調査員達が呼びにくるのを待ち続ける彼女たちを迎えにいくのだ。
全てが終わった。
だからもう、大丈夫だ。
雪森が不本意ながらも身長がそう変わらないと言う理由で春香に肩を貸し、シュラインとせりなで老夫婦に付き添った。
長く閉じ込められていた少年もまた、鳴沢についてそこを後にする。
「最後に仕上げ、しておきましょうか」
せりなが黒い鉄柵の前で振り返り、洋館をいまだ執念深く取り巻く黒い闇についっと指を向けた。
「浄化、しておきましょう……もう、一切の過ちが起きないように」
瞬間。
可視と不可視の境にある白い炎が屋敷全体を包み込んだ。
そしてついに、洋館に本来の時間が流れ出した。
壁は崩れ、剥げ落ち、蜘蛛の巣が急速に天井や隅を侵食していく。調度品も色を失い、後にはもう何年も雨ざらしのまま放置された廃屋だけが残される。
哀しい記憶も、いつかは風化して完全に消え失せるだろう。
長い夜が明ける。
長い長い夜が、ようやく明けるのだ。
「では、行きましょうか、皆さん……」
カーニンガムに促され、灯火によって修復された車で以って、彼らは今度こそ崩壊する白く冷たい壁の内側から抜け出した。
END
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【0086/シュライン・エマ/女/26/翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト】
【1883/セレスティ・カーニンガム/男/725/財閥総帥・占い師・水霊使い】
【2019/鳴沢・弓雫(なるさわ・ゆみな)/男/20/占師見習い】
【2254/雪森・雛太(ゆきもり・ひなた)/男/23/大学生】
【3041/四宮・灯火(しのみや・とうか)/女/1/人形】
【3332/藤井・せりな(ふじい・せりな)/女/45/主婦】
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■ ライター通信 ■
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はじめまして、こんにちは。重度の方向音痴ゆえに、初代以降のプレイを断念せざるを得なかった某ゾンビウィルス感染ホラーゲーム好きライター・高槻ひかるです。
街中とか建物内で瞬時に方角が分かる方って尊敬に値すると思います。
と、それはさておき。
この度は当依頼にご参加くださり、誠に有難うございました!
調査依頼ノベル17タイトル目の今回は、定番の館モノでございます。
その割にあまり館内部そのものはあまり描写出来ていない様な気がしないでもないですが(あわわ)
皆様のプレイングの結果、いつにも増して個別描写がメインとなっているのですが、分割はしておりません。
視点が切り替わる中で、事件の全貌を追いかけていく過程を少しでも楽しんでいただければ幸いですv
<シュライン・エマPL様
14度目のご参加、有難うございますvいつもお世話になっております。
プレイングを拝見するたび、頭の中を覗かれているような錯覚に陥ってしまいます(笑)
中でも少年の正体や事故との関連性に対する考察には、正直びくりとしてしまったほどです。
でも、シュライン様独自の推理を一番最初に拝見できると言う立場はなかなかおいしいなぁとひそかに思っておりますv
それではまた、別の事件でお会い出来ますように。
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