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空母からの手紙
前略 お姉様
秋の気配も強くなり、急に寒くなりましたけれども、いかがお過ごしでしょうか?
もちろんお姉様のことですから、あたしが聞くまでもなく、つつがなくお過ごしだろうなとは思うのですけれど。
「ここ」にいますと、東京は異世界の都市のように、遠い存在に思えます。
お姉様の顔を思い浮かべるのさえ、何だか恐れ多いような錯覚に囚われています。まるで話すことも触れることもかなわない、禁忌のひとであるような気がして。物語に出てくる、神殿に幽閉されて一生を送る巫女姫さながらに。
今年は、東京の紅葉は遅いみたいですね。
今が盛りなのは、金木犀でしょうか。
あたしは、今、修行中です。
太平洋上の――空母の上にいます。
日本航空母鑑『信濃』。
水線長266m、公試排水量62,000t。竣工は昭和19年11月19日。
お父さんから聞いたところでは、もともとは大和のような戦艦として造られたようですが、ミッドウェー海戦の敗北がきっかけで、空母に改造されたということです。
もとが戦艦ですから、装甲飛行甲板は500kg爆弾の直撃に耐えられるそうで――ああ、ここまでお読みになったお姉様は、疑問に思われることでしょう。
はい。『信濃』は、数十年前に海の底に沈んだはずの空母です。
就役後わずか10日で、アメリカの潜水艦の魚雷攻撃を受け、転覆したのです。艤装工事に向かう途中のことでしたから、結局、実戦に参加することはありませんでした。
そんな空母が何故ここに……と、あたしも最初は思いました。
でも、用意なさったのはお父さんですし、あたしを『信濃』に連れてきたのもお父さんですから――あたしの修行のためにご尽力くださったってことですよね。
あるがままを受け入れようと思います。
頑張らなくちゃ。
ことのきっかけは、夏のある日のできごとでした。
あたしが未熟だったせいで、周囲の方々を水浸しにしてしまったことがあったのです。
あたしは、触れている水しか制御することはできません。それは仕方ないとしても。
――もう少し限定した水を制御できるようになりたいです。
ちょっと思い詰めて、お父さんに打ち明けました。
そうしたら、その直後にといいますか、間髪入れずにといいますか、あれよあれよという間にといいますか、ともかく、はたと気づいたときにはここに来ていたのでした。
……でも、お姉様。
あたし、ちょっぴり疑問があるんです。
あたしが立っているのは、重防御を誇る装甲飛行甲板の上なのですけれども。
お父さんの命令で、『スクール水着』を着てるんです。
「これから水の制御をする訓練をするんだし、濡れてもかまわないようにね」
お父さんはそう仰いますし、理屈はわかる……んですが。
だけど、どうしてスク水なんでしょうか。
好きなのを選んでいいよと言われて、色とりどりの水着をずらっと並べられましたが、デザインはみんな同じだったんです……。
あたしが一番無難な紺色を選んだら、お父さんは満足そうに頷いて、
「うん。それでこそみなもだ」
って仰います。
しかも、着替え終わって空母の上に立ったとたん、どこからかヘリコプターが現れて――上空からあたしの写真を何枚も撮ってるみたいで――
「今後のために、みなもの修行の様子を記録しておこうと思ってね」
お父さんはにこにこと空を見上げます。
(そんなに気を配ってくださるなんて……)
あたしは、ありがたいような申し訳ないような気持ちでいっぱいです。
「始めようか。みなも、手を出して」
お父さんは小さなペットボトルを持っていました。あまり見かけないデザインのものです。
「『女神の泉』……?」
「幻の水と言われる『五色水』の姉妹品だよ」
あたしは首を傾げました。何でも、湧出量が少なくて高価格で発送も順番待ちの、高濃度天然有機ゲルマニウムイオン水だそうですけど。
(もったいないです。水なら何でもいいのに)
「そういうわけにもいかないだろう。みなもが新しい力を身につけるきっかけとなる、いわば門出なのだから」
お父さんはあたしの心を読んだように微笑みました。
差し出したあたしの手に、一滴、二滴、『女神の泉』が注がれます。
水滴は手のひらの上で真珠のように丸くなってから、空母を後にして飛翔します。
海に落ち、溶け込んだその瞬間から。
太平洋は、あたしの意のままになる巨大な水たまりと化したのです。
「いつもみなもが使っている『ライン』だが、これをより細く、長く、強くできないかね?」
「やってみます」
あたしは目を閉じて集中します。
細く長く強く……。たとえるならグラスファイバーでしょうか?
太平洋から垂直に、一本の輝く水の糸を伸ばしてみます。
上へ。上へと。
「成層圏の雲まで、繋げられるかい?」
「はい」
水の糸は、太陽の反射を受けながら天空を目指します。
(……繋がった!)
あたしの表情を見てお父さんは頷き、次の指示を出してくださいました。
「『ライン』の太さを、水分子1個にしてごらん」
「……はい?」
「分子にかかる物理的な『力』のベクトルを一定方向に集中させるんだ。それで一定数の水量で長さは確保できる。あとは『繋げた』先の水を制御するだけだよ」
(その、『だけ』っていうのがすごく大変なんですけど……)
お父さんの言葉のままに、あたしは『ライン』の太さを調節しました。
「よし。太さはそのままで、横に広げて――そうだな、この空母の幅を目安にして」
細い細い水の糸を、平行に。
太平洋上に、ごく薄い水のスクリーンを出現させる……。
難しいです。繋げた先は、人魚の感覚としてしか『見る』ことはできないのですから。
やはりお姉様は偉大だなと思いながら、あたしがいったん目を閉じ、そして開いたとき。
天空と海を繋いだ水の紗(うすぎぬ)に、鮮やかな虹が架かりました。
「よくやったね」
お父さんは軽く拍手してくださいました。
成功のようです。でも、ほっとしたのもつかの間でした。
『女神の泉』とはまた別のペットボトルを、お父さんが取り出したからです。
「それじゃ次は、同じ要領で地下水脈に繋げてみようか」
あたしの手に、また、一滴、二滴、水が注がれ――
(……違う!)
あたしは狼狽して、バランスを崩しました。
あたしの手を濡らしたのは、なじみ深い水ではなく、水とは相容れぬ液体――
油、だったのです。
「お父さん……。なぜ?」
「気に入らないかね? アンデス山脈の大自然に育まれた野生の種子から取った、最高級ローズヒップオイルだが」
「……そういうことではなくて」
水のカーテンはたちまち崩れ、空からの津波となって空母に降り注ぎました。
あたしの足元にも水流が渦巻いて、あっという間に、空母から太平洋へと落ちてしまったのでした。
「大丈夫かい? みなも」
お父さんが空母から身を乗り出しています。
(大丈夫です)
あたしは声に出さずに答えます。
(だって、あたしは人魚ですもの。海の水は、あたしの血のようなものですもの)
――ああ、でも。
(まだまだ修行不足ですね、あたし)
あたしはよく、夢を見ます。
夢の中のあたしは、さまざまな――本当にさまざまな、想像もつかないものに変化し、驚愕し……絶望し、崩壊し――そして再生するのです。
たとえば水が、温度変化により、液体に固体に気体になるように。
ささやかな水たまりが、生き物たちにいいように蹂躙されて飲み干されることによって、その身体の一部となり、やがて細胞を通じて、次の世代として生まれ変わるように。
お姉様。
長々と連ねてきましたけれども、あたしは、紙にペンで文字を記しているわけでも、パソコンのメールソフトを立ち上げているわけでもありません。
あたしは心の中だけで、送るつもりのない手紙を書いています。
ですがお姉様はきっと、一言一句逃さずに読んでくださるでしょう?
そしてあたしが帰ったら、きっと優しく声をかけて、珍しい飲み物や食べ物でねぎらってくださ……あら?
今、何か、近い未来のビジョンがよぎったような……?
この空母での出来事とは全然違うのに、どこか似ている、甘い悪夢のような映像が見えるのですけれど――気のせいですよね?
もうすぐ、帰ります。
お土産は……そうですね、海底から真珠貝をいくつか、拾ってきましょうか?
草々
みなもより
――Fin.
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