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常世の牙
強く、強く雨が降っていた。
先程視界に入った大型の蝶は、ふらふらとした頼りない動きで──例えるならば糸を持たれた傀儡のように──空き地へと向かっていた。
入り組んだ、占い屋が立ち並ぶ怪しげな細い路地で道に迷いほとほと困り果てていた事もあった。特別考えも無く、何となしの興味を引かれて蝶の後を追っていく。
──何の音だろうか。
耳を澄ます必要も無い。明らかに、先から空き地の方角で激音が響いている。悪い予感に近いものが胸を締め付けるが、何故か足はそこへ向かおうと必至だった。
蝶が角を曲がる。不自然な程自然に、足がやはりそれを追う。角を曲がる瞬間、不意に見上げた目線は『わたくし屋』という掠れた名前を映した──
刹那。
「黄涙サンッ!」
開けた視界の中で鳥の影と雷が閃いた。同時に届いたのは男の声であって、どうやら当人らしい姿。
そしてその奥に──。
異形。
影のような闇のような、形を為さないが確かに存在するそれの数は九体。周囲を囲まれている男の手には一本の刀、男の後ろ──つまりこちら側には、恐らくは名を呼ばれた鳥だろう、大型のコンドルが眼前を見据えて羽ばたいている。翼が微かに雷を纏っていた。次の瞬間には一声の鋭い鳴き声と共にその雷が影のうち一つを目掛けて飛び、男の刀が異形のうち一つを薙ぎ倒し──、流れるように、男は恐らくはコンドルを振り返ったのだろう。
「──え、」
帽子の下から覗く視線がこちらを確かに見、それは随分と驚きの色を宿していた訳で──
「ありゃ、さっちゃんじゃないですか?」
狐洞キトラが表情の通り声を発するのに然程時間は掛からなかった。異形が振りかぶった爪を刀で薙いで躱し、そのままの速度で突き立てられる白の乱れ刃。
空を劈く悲鳴に、さっちゃん──そう呼ばれた女性、我宝ヶ峰沙霧は思わず顔を顰めた。
「キトラじゃない。何してんの?」
少なくともこの状況で交わされるべき会話ではない。──が、友人の姿を認めたキトラもまた、流石に視線こそ寄越さないが平然と応える。
「半分は遊んでますね」
「まあそう見えるわね」
腕組みをしてうんうんと頷いた沙霧は、次々に異形を薙ぎ倒すキトラの刃を目で追い乍ら首を傾げた。沙霧が訪れた時には七体存在した異形ではあるが、既にその半分異形が数を削られている。──そしてまた一体。
「さっさと終わらせたらー?」
残り、一体。
そんな状態で異形の攻撃を避けるばかりのキトラに声を投げれば、雨の隙間を縫うように、チョーチョ探してるんですよと、機嫌の良い返答が返る。
──蝶?
沙霧の脳裏に過るのは勿論先程追って来た蝶のそれであって、そういえばと辺りを見回してみるも姿は見えない。相変わらずしなやかな動作で異形の爪を躱すキトラは、深く被っている帽子のおかげで目こそ見えないが──恐らくは口元同様、笑っているのだろう。
轟音。
窮鼠猫を噛む──。そう云うが、異形が窮鼠だとして、キトラが猫だとして、異形の牙は彼には届かない。それどころか、深く地面に突き立てられた爪、その上にキトラはひょいと飛び乗る。大人しくしてて下さいよ──、沙霧の耳に呆れたような声色が届いた。
「よっし、その依頼請けた!」
「は?」
「蝶、キトラの持ち物なんでしょ? 言い訳無用待った無しっ。任せて、直ぐに見つかるから」
依頼も何も言ってませんけど。そう云うキトラの声は既に届かず、沙霧は素早く雨の景色に視線を走らせる。
「あ。──ホラいた」
数秒も掛からずに舞飛ぶ蝶を見つけ出した沙霧は、自らの黒色の瞳を細めて妖艶に微笑った。
即座の判断は流石のもの、蝶の場所を鋭い呼び声でキトラに伝える。彼もまたその呼び声に応えるかの如く刃を振りかぶった。灰色の空を背負った白刃が一瞬光り、跳んだキトラに合わせて、一拍。
沙霧の視界を、不意に何かの翼が覆った。
──鳥?
その理解が追いつくと同時に、──。
「なるほど…封印だったのねー」
「ですよン」
ばさり。──沙霧を光の洪水から守る為に翼を広げ、そうして今羽音を響かせて横に下りた黄涙の、濡れた翼を撫で乍らキトラが笑う。
手のひらには巨大な蝶。──この中に先程の異形を封じたのだと云うキトラは満足気であが、沙霧はどこか不服そうにその姿を眺めていた。片眉を上げて視線を投げたままにしておけば、気付かない訳も無いキトラが沙霧を振り向く。
傘を差していた沙霧は暫く思考を巡らせるようにして視線を彷徨わせると、思いついたようににっこりと笑った。
「依頼は終わったけど──これじゃ私がつまんないわよ」
「…いや、依頼した覚えはないですヨ。仮に依頼したとしても、──これは殺しの依頼じゃありませんでしょ」
「……意外。キトラ、知ってたの?」
「ありゃ? 鎌かけたんですけどご本人でしたかやっぱり。我宝ヶ峰沙霧サン。職業は殺し屋。通称は──」
口角を引き上げるようにして笑んだキトラが、緩やかに沙霧の通称を唇に乗せる。喉に掛かるような笑みを殺して告げられたそれに、沙霧の脳裏にはある一つの楽しみが生まれる。背を向けたキトラの姿を瞳に映し乍ら、静かに傘を畳む。
さて、──と、引き上げようとするキトラに対して、沙霧は行き手を遮ると同時に提案を口にする。
「…オッケー! 知ってるんだったらちょっと相手してよ。──私が撃つ十四発の弾丸に当たらなかったらキトラの勝ち、蝶はロハ。当たるか詰まれたらキトラの負け、依頼料……まあ百万くらい──を払う。当然キトラが私を殺してもキトラの勝ち。相討ちなら…そうね、五十万でどう?」
「ええ? ヤですよ、殺し合いは勘弁願いたいですしねえ。…それにその提案、私に対して何の特もないじゃないですか」
「えー。私と戦えるじゃなーい?」
肩を竦めた沙霧は、少々普段とは違う様子で戦闘を拒否するキトラには構わず、腰元の銃を二丁引き抜いた。
生温い風が雨の合間を抜けて頬を撫ぜる。キトラが微かに眉を寄せた。
「──じゃあ、行くわよ?」
瞬間。
スライドの引かれたオートマチックが容赦のない咆哮を上げた。
撃針の震えが沙霧の腕を駆け上がると同時に、炎を噴く愛用のそれ。非情なまで確かに自らの友人の頭を狙った銃口だが、キトラは僅かに身を翻すのみで躱す。
空を切る音。一足飛びに跳ねた沙霧が再び引き金を引く。通常の銃の威力を優に超えた、その弾丸が辿り着く先では轟音が咲いた。土煙の中に動く影、それを目掛け三発目の弾丸を撃ち込む。爆音。
常人なら耳を殺ぎ落としたくもなるだろうそれの中、悠然と沙霧は立っている。
──これくらいじゃ死なないでしょう?
唇を舐めた沙霧は、沸き起こる高揚感に身を任せて銃を構え直す。銃器には大敵である筈の雨も、今は場を盛り上げる小道具に過ぎない。──が。
「…やめましょ?」
「何でよ?」
瞬時に背後からの声を頼り、振り向き様に銃撃を浴びせる。爆音、続く短い舌打ち。それも掻き消され、キトラは身を屈めて横に跳んだ。それを追い一発、恐らくの着地点に一発──。久々の銃の震えを楽しむ沙霧は、それでも不服そうに唇を尖らせた。
「ちょっと、何で反撃して来ない──発見ッ!」
しかしその違和感よりも体が動く。──それが心地よい。
二丁の拳銃から打ち出されるそれに、空き地の彼方此方が穿たれては悲鳴を上げる。止める気は無い。
──何でそんな事言ってるのかしら、キトラ。
過る考えと体が終に剥離する。不気味なまで穏やかに考えをなぞる脳裏に対し、一瞬でも多く、──少なくとも普通の殺人依頼よりは楽しめそうな相手を見つけたのだ、それを逃すまいとする獣の視線。
刹那。
揺らいだ、そう思った瞬間には白い弧が沙霧の首筋を襲った。飛び退いて躱す、雨の合間に微かな黒髪が散る。それでもまだ──。
「本気で来てよ、どうせなんだし」
「……沙霧サン、ホントにやめましょ? こりゃ間違いなく不毛ですヨ」
愛称ではなく一歩引いた呼び名。沙霧はそれに眉を寄せるが、キトラは今度こそ本当に表情を見せない。
──少し、手を抜きすぎましたかね。
一撃で昏倒させる気で打ち込んだ峰だったが、踏み込みの甘さで躱された。キトラは思い出しそうになる記憶を無理矢理の理性で制し、帽子の隙間から沙霧を見遣った。
ぱきりと、引き金に爪が当たる音。
苦笑のような溜息。直後にキトラが居た場所目掛けて打ち込まれる火薬の華。爆ぜる音が鳴り響くよりも先に、男は素早く後ろへと跳ぶ。
沙霧の黒とキトラのそれ。髪が雨と風に煽られて夫々に跳ねる。
──それなら、これでカタ付けましょうか。
諦めたように銃撃の土煙の中息を吐いたキトラは、一瞬の間の後に高く跳躍する。その人間離れした動きに、判断こそ遅れたものの、動きを読み違える程沙霧の目は悪くない。振り向く、構える。
そして胸よりも遥かに致死率の高い頭部を狙った銃口が、十四発目の黒色を吐いた。──しかし。
「──これで勘弁してもらえませんかね?」
沙霧の喉元に、紛う事無く突きつけられた刃があった。
それでもその切っ先が皮膚を破るような事は無く、困ったような、怒りを鎮めているような、そんな声色で呟いたキトラは、沙霧の返答も聞かずに刀を引く。
雨の雫を拭い、涼やかな音を起てて鞘に納められたそれを腰元に強く固定する。
「沙霧サン。──スイマセンが、…どんな状況でも、私は『遊び』で刀を振るう覚悟を決められるような…人間じゃないんですよ」
静かにそう言ったキトラに対し、沙霧は喉を擦り乍ら返す。
「…キトラ、それでもまだ本気出してないわね?」
「お互い様でしたでしょ、それは」
さて。──その一言で二の句を次ぐ事を許さなかったキトラは、やれやれと辺りの惨劇を見回して帽子の隅を上げ、沙霧を眺めた。釣られて、沙霧もまた周囲を見回す。
「…五十万、私が頂きたいくらいなんですけど」
「……確かに凄いコトになっちゃったわね」
一般人が見たら、此処で戦争が起こったのではと思う程の惨状である。土は抉れ、奥に並んでいた背の低い木等はその存在すら消し飛んでいる。
「まあ、放棄したのは事実ですから、それがさっちゃんの気分害してたらお金はお支払いしましょ」
「えー…確かに不完全燃焼だけどー…」
流石にこの状況を作り出した身として、良心が咎めるらしい。沙霧は唸り乍らも空になった銃を元の位置に納める。思い出したように、先に投げ捨てた傘を拾い上げて差してみるが、中にまで伝っていた雨水が一気に四散した。
「それじゃ二十五万。これでこのお話はおしまいってコトで、どうです?」
キトラの提案に、肩を竦めて同意を示す。
黄涙。そのひとつの呼び声に、今までの展開を離れて見守っていたコンドルがばさりと降り立つ。黄金の羽根に水が伝っている。黄涙は一声低く鳴くと、まるで何かを伝えるようにしてキトラの手を甘く噛んだ。当人は苦笑するばかりで、黄涙の頭を緩く撫でた。
「ねえキトラ。あなた、何かワケアリの人なわけ?」
「──さあ? どうでしょ。想像してみて下さいな、どうぞご自由に」
振り向かずに飄々と返る応えに、沙霧は片眉を上げる。
それじゃあそうする、不本意乍ら、一先ずの応えとして。
そしてそれには返答せず、どうしますウチで服乾かしていきますか、そう尋ねる男に対して、沙霧は当たり前だと微笑み返すのだった。
了
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【登場人物】
- PC // 3994 // 我宝ヶ峰・沙霧 // 女性 // 22歳 // 滅ぼす者 //...
- NPC // 狐洞・キトラ // 骨董屋店主 //...
- NPC // 黄涙 // 霊鳥 //...
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