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<東京怪談ノベル(シングル)>


しあわせなじかん



 今日の宿題は漢字の書きとりで、学校から真っ直ぐ自宅へ直行したみなもは窓から射すまだ青く清々しい空の色や外の雑踏音をBGMに聴きながら綺麗に要点を書きとめてあるノートを開いた。
(あ、少し遅くなっちゃうかな…)
 時々キッチンからジュースなどを拝借し、休み休み宿題を終わらせていけばどんどん外の騒音は収まり、日は傾いてくる。そうやってあと何文字という所でみなもは小さな寝息を立てて机にもたれかかってしまったのだ。

「うん、これくらいなら明日の朝でも終わっちゃうよね」
 起きた時にはどうしようと思ったが、あと何文字の事ならば学校へ着いてからでもなんとかなるだろう。目を覚ませば夜の11時、学校から帰った時にはあんなに射し込んで来た光が無くなり、手探りで机に備え付けたライトをつけると、時計はかなり遅い時間をさしていた。
 そんな風に起きてしまえば、そろそろ寝ても良い時間だというのに、みなもの目はしっかりと覚めてしまってい、
(誰か居ないかなぁ…)
 外出の多い海原家でみなも一人お留守番というのは珍しくも無く、だからといって寂しくないわけでもない。学校や時々遊びに行く様々な場所では話す相手はいるものの、矢張り家で家族と団欒してみたいものだ。

(あれ?)
 明りの少ない部屋を抜けたと思えば廊下から小さな光が零れていて、
(あっ、お父さんだ!)
 その光を辿るように歩き、ドアについているガラス窓を覗けば居間の中央付近に置いてあるテレビを見ながらくつろいでいる父の姿が目に飛び込んできた。
 座っているソファの近くにはテーブルが鎮座しており、その上にはいつもなら父の好むお酒が並んでいる筈なのだが、
(まだお酒飲んでいないのかな?)
 どうやらこれからだったらしく、みなもの脳裏に以前とある探偵の所で口にしたお酒という飲み物の味が口いっぱいに広がった。
「ちょっとだけなら言ってみても良いよね…」
 暗がりの中でこっそり呟いて、あのふわふわ浮き上がるような感覚を再度味わいたく思いながら、みなもは居間の扉を開いた。



「お父さんお帰り」
 軽いドアを静かに引くと、ドアの金具とフローリングが合わさって小さな音を発する。
 みなもは、その小さな音と共に居間に入ると父の元へ歩み寄り、第一声をかけた。
「ただいま、みなも」
 父の座ったソファに行けば、柔らかな笑顔と言葉をかけられついつい嬉しくて微笑みが溢れてしまうみなもがいる。
「ねぇ、お父さんお酒は飲まないの?」
 いきなり言うのも最初は戸惑ったが、同じソファに腰掛け少しだけ悩んだ挙句聞いてみる事にした。
「なんだいきなり」
 本当に唐突な問いに、いささか戸惑ったのか父は苦笑しながらテレビから目を外し、改めてみなもを見る。
「えっとね、いつもお父さんはお酒を飲むでしょう? だから、気になって…」
 母がお酒を飲むという姿は見た事が無く、それがほんの少しでもたしなむ程度には、飲む父を見ているみなも。ただ、それを飲むか飲まないかと問うた事はないので、言ってしまってからどう切り出せばよいのかと言葉を濁した。
 まさか、友人の所で飲んでしまった事など言える筈も無く。
「気になるのかい?」
「……うん」
 図星をつかれてしまい、どうしようかと俯けば机で寝てしまった時についたセーラー服の皺が目に入り、恥ずかしいと更にみなもは顔を赤くして縮こまる。
「あのね、みなも。 日本の法律では二十歳になるまでお酒は飲んではいけない決まりがあるんだよ」
「えっ…」
 論すように話し始めた父を見やれば、お酒に興味を持ってしまった娘をどうしたものだろうと苦笑しながら、賢明に話す姿が青い瞳に映り、
「まだ子供のうちに飲むと身体を悪くしてしまうからね」
「何故?」
 鏡を見るように澄んだみなもの言葉が、父の言う『決まり』に対しての疑問を投げかけた。
「まだ身体が大人になっていなくてちょっとした刺激で壊れてしまいやすいからだな」
 うーん、と首を捻りながら父は「だから早いんだよ」とみなもに言い聞かせてくれる。
「じゃあ、駄目?」
「駄目といえば、駄目かな…」
 残念そうにみなもが俯くと優しく頭を撫でられ、父は立ち上がって何処かに行ってしまう。
(飲みたかったな…)
 以前飲んだ時の浮遊感が忘れられなくて、みなもは唸る。確かに、父の言うとおりあまり良い事ではないのかもしれないが、
(じゃあ悪い事しちゃったのかな)
 あの楽しい思いをさせてくれたお酒をみなもが飲む時、その酒を持ち込んだ人物が苦い顔をしていたのを思い出し、父の言った事が頭を過ぎる。
(でも、飲みたいなぁ…)
 諦めきれずに先程一緒にいた人物の歩いていった先をふと見ると、何処から持ってきたのだろう、そこには何本もの酒瓶を抱えた父がほんの少し嬉しそうに立っていた。
「お、お父さん?」
 ゆっくりと近づき、その酒瓶をテーブルに置いていく父に声をかければ、
「少しだけだぞ」
 という言葉が返ってきて、嬉しさで頬が熱くなってしまうのを感じる。
 テーブルに並べられた物は日本語で何か書いてある茶色の瓶が二つに、英語で文字の書かれた濃い緑色の瓶が一つ。そして、みなも達がいつも飲んでいるジュースが二本に、以前お誕生日の時にだっただろうか、キラキラした包装が可愛くて買ったお酒じゃないシャンパンも一本。
「ちょっと待ってなさい」
 それだけ置くと、父は期待に胸を膨らませているみなもを置いてキッチンに立ってしまう。
(うわぁ…凄い)
 目の前に並べられた酒瓶・ジュースの色合いも楽しそうで素敵だったが、なにより父が台所に立って何かを作っている事もみなもには新鮮に感じる。
「みなもは甘いものも欲しいかな」
 そう言いながら、卵焼きやいつもなら母が作ってくれそうな鳥のから揚げ、そしてチョコレートなど少し甘い物を取り出しつつ、父はみなもと同じソファに腰を下ろした。



「さて、みなも」
「は、はいっ…!」
 ソファにくつろぐ様にして座った父の少し緊張したような声につられて、みなもも驚いたように声を上げると、
「…内緒だよ」
 そんな彼女の様子に噴出した父の言葉が耳に入り、ぶんぶんと青く長い髪が上下する程頭を縦に振る。
「よし、じゃあ準備だ」
 まず先にとったのは茶色の瓶と白葡萄のジュースが一本。
「どうするの?」
「みなもにはアルコールは辛そうだしな、足して飲んだ方が軽くていいだろう」
 いつも父の使っている大きいコップにはそのまま、そして、それよりももう少し小さいコップにはお酒少しとジュースが。元々明るく濁っていない茶色をしたお酒だったが、小さい方に入ったお酒は少し乳白色に濁ってしまった。
「はい、みなも。 これはビールだよ」
 ジュースで濁ってしまってはいるが甘くて美味しい香りのする方を父は差し出してきて、
「ありがとう!」
 それを飲み干せば、ピリ…と辛い後味の後から、別の甘さが入ってきてどちらかというと少し濃いジュースの味がする。
「ねぇ、お父さんの飲んでいるのはどんな味?」
 甘さに手助けされている濁った色のビールを父の飲んでいるビールの色と比べ、自然とみなもからそんな疑問が浮かんできた。
「一口だけ飲んでみるかい? 美味しくないと思うぞ」
 父が瓶から手を離さずに、コップを寄せればその手に沿わせるようにしてみなもは小さく喉を鳴らす。
「うっ、にがい……」
 少し口に含んだだけで先程の美味しく味を調えた物と違う、思わず口をすぼめてしまう苦さが広がり、慌ててコップから口を離した。
「言っただろ。 ほら、今度はワインがいいかな」
 自分と共にお酒を飲むのが嬉しいのか、意外と慣れた手つきで父は濃い緑の瓶から赤いお酒をコップに注ぎ、次にアルコールの入っていないシャンパンを注ぐ。
「ん、飲みやすい…」
 「これならあまり味は変わっていないかな」と、受けとったワインを飲めばふわりと浮く様な感覚がみなもを包んだ。
 勿論、ビールの時も浮遊感はあったがこれ程までに感じなかったのは、ジュースの味が濃かったり、父のものを飲ませて貰った時は苦かったりで幸福感がこれほどではなかったのが理由だろう。
「ソーダみたいで美味しいね」
 ワインと子供用シャンパンの入ったコップを微笑みながら飲み干すみなもに、
「アルコールの入ったシャンパンだったら立派なカクテルになるんだぞ」
 と、父は嬉しそうに話してくれた。
「今度は何を作ってるの?」
 「カクテルかぁ…」と、大人になって父と飲んでいるような幸福に浮き上がりそうな感情を抑え、テーブルを見やればまた、別のお酒が出来上がろうとしている。
「これは日本酒かな、ちょっとアルコールが多いからやっぱりジュースで割ろうな」
「はぁい」
 「おいおい、あまり酔うなよ」という父の苦笑が聞こえたが、みなもは既に天国にも上るような気持ちで父の肩に寄り添った。
「ほら、飲めるかい?」
「うん、大丈夫」
 少量とはいえ、ワインの入っていたコップを置いて日本酒の入ったコップを手に取れば、最初はあまり力が入らなく父に助けてもらうようにしてその液体を流し込んだ。
「うわぁ…甘くて飲みやすい…」
 ふわり、と広がった味は父が全体の量こそ少なめにしてお酒自体の味をもう少しわかり易い様に調節してくれた、少しジュースの甘みがかった味はあるものの調理中のような匂いが鼻をくすぐる日本酒が喉を通る。

 お酒と一緒に用意してくれたたまご焼きや、時々チョコレートなども摘みながら、こくり、と、少量を口に含み飲み干すといった事を繰り返しているみなものコップにはなかなかお酒が減ることが無くて、一口一口幸せを体内に取り込むように喉を鳴らす。
「ねぇ、お父さん」
「ん? なんだ、みなも」
 父の肩に寄り添いながら、浮遊感とともに再来した眠気がみなもの脳を暖かな闇に引きずり込もうとしていて、
「なんでお父さんは駄目だ、って言っていたのにあたしにお酒。 飲ませてくれたの?」
 最初こそ反対していた父が、嬉しそうに酒瓶を持ってきてくれた時の幸福感が忘れられない。
「そうだな…、娘とこうして膝突き合わせて飲むのが夢だったんだよな」
 みなもが小さく父の顔を覗き見れば、どこか遠い所を見るようにして同じく、微笑んでいる父の嬉しそうな横顔が目に入った。
「じゃあ、あたしと一緒でお父さんも嬉しい?」
「ああ、嬉しいよ」
 初めて褒められた子供のように、みなもは父の肩で小さく笑うとすぐに重力に身を任せてしまい、持っていたコップが握りの甘い手から滑り落ちる。
「みなも…危ないな」
 零れてセーラー服を汚しそうになる酒を守り、父がそのコップを受け取れば体勢が崩れたみなもがそのまま胸にもたれてきて、
「まったく、とんだ酔っ払いだ」
 先程からドキュメンタリー番組を放送しているテレビを切り、ほんの微かに動いただけでも自分の所からずり落ちてしまいそうなみなもを抱えながら、父は娘を部屋で眠らせてあげるべく立ち上がったのだった。


おわり