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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


 □重ならない、双眸□


 白い世界が、垣間見える。


「――――あ」

 ガタン、という音と共に身体が道場の床へと転がった。
 回る視界に翻弄されながらもどうにか受け身を取ると、神嗚 雅人は大きく息をついて立ち上がって前を見た。

「………………」 

 見慣れた風景が目の前にある。もう何年ここで過ごしただろうかと思いながら、少年はゆっくりと辺りを見回した。
 彼はひとりきりでここにいた。道場の開放時間はとっくに終わっている為、廊下をたどる軋む音さえも響いてはこない。少年にとってそれは好都合だった。どうしても確かめたい事があったからだった。

 壁にかけられたカレンダーに視線をやり、じっと数字を見る。いつもならばこの程度の距離で容易に読み取れるものだ。
 だが数字は輪郭がうっすらとぼやけ、以前のようにはっきりとしたかたちとして雅人の瞳に飛び込んではこない。目を細めても同じだった。

 少年は溜め息をつき、今度は左眼の前に自身の手をかざした。完全に手のひらで包み込むようにすれば、片方の瞳に完全な闇が落ちる――――筈だった。
 だが雅人の左眼は決して闇を映しはしなかった。

「……あ………………」

 そこにあったのは、完全な白。
 いつか、あの御佩刀 緋羽と名乗る少女を助けた時にも一度見た世界への門が、再び開いている。
 何もない純白の世界だというのに、けれど雅人はその世界をはっきり見ているという自覚があった。説明はつかない。けれど確かに雅人自身はそう感じる事ができていた。
 しかし手を外せば、いつもと同じで少しだけぼやけてしまった世界が再び雅人の前に甦る。

 緋羽を助け、自分に宿っているらしい『力』を使ったあの日から少しずつ少しずつ視力が削られていた。霞む世界。それに反比例するように、雅人の左眼に繋がる何処かへの門はこうして何でもない時でも開いてしまうようになってしまっていた。
 通学路などで開いてしまった時などは、そこかしこに異質なものの気配を感じ取れてしまったばかりか、こちらをじろじろと血走った眼で見つめてくる妖怪と目が合ってしまい、朝から気分が悪くなってしまった事さえある。
 そんな時は道場で身体を動かしていれば一時でもその事を忘れられたが、けれど視力の減退は武術において負担にしかならなかった。ぼやけた視界でもどうにか組み手などは行えるが、こうしてあちらの世界と繋がってしまう時は急激に片目の視力が弱まってしまう。なので先程のように距離感が掴めず転倒してしまう事も珍しくはなくなってしまった。

 今はまだどうにか周りの者には誤魔化せてはいるが、このまま視力の減退が激しくなれば感づかれるのも時間の問題だろう。
 
「どうすれば……いいんだろう」

 口をついて出たあてのない問いは、けれど知られるのを憂うだけのものではなかった。
 問題はもうひとつ少年の眼前に立ちはだかっているのだ。
 
「緋羽」

 脳裏に過ぎるのは、暗い路地に転がった少女の姿と流れる赤色だった。
 自分を助けようとし、躊躇いもなく自らの身体を盾にした緋羽。雅人はその光景を今でもまざまざと思い出す事ができる。
 そしてもしもう一度同じように自分が襲われたとしたら、少女はきっと同じ事を繰り返すだろう。契約を交わした自分を護る、ただそれだけの為に。

 だがそれは雅人の本意では決して、ない。
 
「……どうしたら、――――護れるんだろう」 
 
 護られる為の契約だった。
 加えて、少女はその為だけに生きるのだという事も知っている。
 だが。

「…………っ」

 頭を振り雅人は立ち上がると、乱雑に汗を拭き着替えをして道場をあとにした。視界はややぼやけてはいるが、今のところは歩くのに不自由するほどではない。
 少年は廊下を歩きながら、じっと考える。

「そうだ。僕にだって力があるのなら」

 夕闇が押し迫る中廊下に立ち止まり、雅人は再度眼の上に手のひらをあて、白の世界を垣間見る。人の世では決して有り得ない、純白の世界。
 恐れはある。だが、今の雅人にはそれだけではないものが胸の中にあった。少年は目の前にある世界にそして力に、ともすれば背筋を震わせそうになりながらも、確かに今それを求めていた。自らの危険を通り越し、ただ少年が思い描くのは緋羽という少女の無事でしかなかった。
  
「あの子を、緋羽を護るんだ。そして二度と……」

 二度と。
 かつて腕の中に抱いた、力のない小さな身体と赤い血液。
 あの感触は、二度と。

 雅人は手のひらを外し、ぼやけた視界の向こうにある部屋のそのまた上を見る。少女は、緋羽は今もそこにいるのだろう。いざとなったら自分の身を挺してまでこの自分を護る覚悟を、いつもその胸に当然のように抱えながら。
 そう考えて雅人は目をどこか寂しげに細め、秋の気配が漂う風に吹かれながらぽつりと囁いた。
 
「――――二度と、あんな真似はさせるもんか」

 自分の身は自分で護ればいい。そうすればきっと、緋羽も無茶はしなくなるだろう。ひいてはそれが彼女の無事にも繋がるのなら、雅人に迷う必要はどこにもなかった。
 だが、雅人には力はあるもののそれを使う術はない。
 緋羽ならば知っているだろうか、そう思いながら雅人は裸足のまま廊下を早足で歩き出す。善は急げだった。もしこの力を制御でき、鬼一匹を消せるだけのこの力を自由に使いこなせれば、緋羽を危険に巻き込む事もなくなる。その考えに、自然と雅人は浮き足立った。
 
「そうだ、そうだよな。そうすればきっと……!」

 いつのまにか駆け出していた少年を、沈みかけた夕陽がただ遠くから照らし続けていた。





「緋羽、いるかい?」

 呼び声に、天窓を眺めていた緋羽が一面茜色に染まった天井裏をすり抜けるように階下に降り立てば、ちょうど部屋に戻ってきたばかりらしい主の姿があった。走ってきたのかやや息が荒いが、主である少年はそれすらも気にする事無く、現れた緋羽に向かって微かに微笑んだ。
 緋羽はいつものように主を見つめながら用事を聞こうと口を開きかけたが、それは少年の問いによって一言も発せられずに終わってしまった。

「あの、ちょっと聞きたいんだけどいいかな」

 自身の主にそう乞われれば、緋羽に拒否する道理はない。首を縦に振ると、主の少年は座布団を差し出し緋羽に座るように告げ、自身もまた畳に胡坐をかいて自然と二人は向かい合う形になった。
 障子の向こう側から光が射し込み、走ってきた少年の額の汗が反射して輝く様をぼんやりと見つめていれば、そんな緋羽に主である少年はやがて決心したかのように勢い込んで口を開いた。

「緋羽は『力』の使い方って、知っているのかな。もし知っているのなら、その方法を教えて欲しいんだ」

 だが熱のこもったその問いに緋羽は微かに首を傾げた後、ゆっくりと首を横に振る。少女にとってその問いは、意味が分からないものでしかなかったからだ。

「……『力』の使い方など、緋羽は知らない」
「え?」

 驚愕する少年をよそに、緋羽は静かに語り始めた。

「精を取り込むのも、この眼が瞬くのも、剣を喚ぶのもみなおなじ。赤子が泣くのもまたおなじ。緋羽には全部がおなじもの。うまれたときから、緋羽は、できた」
「それって、どういう……」
「……主が」

 少年の言葉を遮り、緋羽は自分のそれよりも広く大きな手を取ると、彼の指をゆっくりと折り曲げ、そしてまた開かせる。

「こうして主が考えずともできることと、おなじ。息をするよに、力を使う」
「あ……」

 手を離し、緋羽は主を見上げて言った。

「だから、教えられはしない。緋羽には、分からない――――」

 緋羽の口から静かな声が響くと、それを耳にした主の少年はどんどんと表情から力を失わせていった。
 
「そうか……」

 肩を落とし、少年が項垂れた拍子に額から流れた汗が頬をつたい畳に落ちた。
 その光景を緋羽はしばらくじっと見つめていたが、やがて少女はゆっくりと自身の唇を開く。

「なにゆえ、そのようなことを問う?」
「え?」

 顔を上げた自身の主へと向かって、緋羽はぽかりと浮かんだ疑問をただ口にした。だが少年は何か言いかけて、すぐに口を閉じてしまった。
 その様子を見て緋羽の胸の中にちり、と何かが走ったが、少女はあくまで能面のような無表情のまま、主を見上げて問いを続ける。

「なにゆえに? 君は緋羽が護りし主、吾は君を護りし刃であり盾。主は力など必要としなくとも、緋羽がいる。ならば力など、要らぬもの」
「だけど、それじゃ……!!」

 言い募ろうとして、けれど少年はまたそれ以上を言葉にはしなかった。
 再び、ちりりと何かが胸の中を通り過ぎるのを感じながら、緋羽は夕陽の色に染まりきった部屋の中、立ち上がる。
 主は緋羽をじっと見上げたまま、何も言わない。そんな少年の茜色にも決して染まらない黒々とした瞳を少女はじっと見つめていたが、やがて表情のない視線を絡ませたまま呟いた。

「吾が主よ、力を持ち、然し扱いを知らぬ君よ。慣れぬそれは幼子の持つ火花。一度炎に翳せば弾け、身に降り掛かる危うきもの。火の粉が貴方を襲ってからでは何もかもが遅すぎる」
「……………………」

 雅人の手のひらが握り締められ、正座した自身の足へと擦り付けられる音がした。
 けれど緋羽は無表情を保ち続けたまま、更に続けた。

「君よ、吾が主。貴方は緋羽が護るのであるから、そのような考えは要らぬもの。――――緋羽が、マサトを、護るのだから」

 少年の目が一度大きく見開かれ、すぐに伏せられる。
 項垂れる自らの主の姿をただ緋羽は見つめていたが、やがて少年はよろよろと立ち上がると、緋羽の方を見ずに静かに部屋を出て障子を後ろ手に閉めた。
 縁側に座り込んだ主の影が障子を越し、歪になって部屋へと伸びていく。長い影は立ち尽くす少女の足元近くまで伸びたが、決して届きはしない。

「…………」

 障子一枚を隔てたそこにあるだろう広い背中に背を向けて、緋羽はとん、と飛び上がり闇色の着物を揺らめかせて屋根裏へと降り立つと、いつのまにか定位置になってしまった古びた布団の山へと登り、音を立てて横たわった。
 黒く、そして長い髪が異形のもののように白いシーツの上を彷徨うのを見るともなしに見つめながら、緋羽はそのひと房を小さな手の中に握りこんで目を閉じる。

 目蓋の裏に浮かぶのは、先程の少年の残像。
 そして胸に過ぎるのは、ちりりという微かな疼きだ。それはごく小さな波紋に過ぎないというのに徐々に緋羽の胸の中へと広がり、痛みによく似た響きを生む。
 一瞬だけその響きに僅かに眉をしかめ髪を握り締めたが、しかしすぐに無表情に戻ると、緋羽は目を開いて天窓を見上げた。茜色はもう終わりへと向かい、代わりのように浅い紺が空に広がろうとしている。それは侵食されていくような、不思議な光景だった。

 輝きが失われ、夜へと近づく世界の中、緋羽はぼんやりと考える。
 今の、そして主と会話をしていた際の疼きは――――

「………………」

 主が力を求めるのは、戦う為だというのは容易に想像がついた。過去の主が戦う事はないではなかったが、けれどその誰もが緋羽を必要として助力を願ったものだった。
 だが、きっと今の主である少年はそうしないだろうというのを緋羽は知っている。
 自分を未だに力ある守護者としてではなく、いち少女として見ているあの眼が証拠だった。緋羽こそが少年を護るべきであると思っているのに対し、主はその真逆をいっていた。

 だからこそ彼は力を、その制御の仕方を知りたいのだろう。
 きっとひとりで緋羽を護る、その為に。

「……あ」

 いつのまにかまた髪を握っている自分に気付き、緋羽は表情のないままゆっくりと指を一本一本開いていった。
 開かれた白い手の中でほんの少しうねってしまった髪の束を見つめながら、少女は呆然と呟く。

「いま、緋羽は……」

 怒っていた、のだろうか。
 自分を頼ろうとせず力を求め、それで緋羽を護ろうとする契主へと、怒りの気持ちを抱いたのだろうか。
 
「………いや、………」

 焦っていたのかもしれない。
 力を得、また制御する術を知ればきっと少年は自ら駆け出すだろう。緋羽を追い抜いて、その眼前に立ちはだかる異形のものへと向かっていくのだろう。何の為に? 緋羽を、そして何かを護るその為だけに。少年にはそういった、自分を大事にしない面がある。
 契約を結んだあの夜も、少年は自分を頼らずに外へと逃げた。助けのあてがあるわけでもないのにそうしたのは、恐慌状態に陥ってしまったせいもあっただろうが、その根底にあったのは恐らく家人を、そして転がり込んできた緋羽を危険に晒さない為だったのだろう。

 結果的には二人とも助かったものの、その主の行動はともすれば自分を破滅させる可能性の方が高かった。
 慣れない身にとっては酷く恐ろしい体験であっただろう。だがそれでもなお少年が力を求め戦おうとしている事実に、緋羽の心は静かに、けれど確実に波立っていく。

 契約を結んだならば、その主を護ることこそが緋羽の役目だった。それは覚えてもいない過去からずっと、半ば永遠に続いてきた緋羽自身の生そのものであり、存在理由と言っても過言ではない。
 だというのに、今の主は護られるのではなく護ろうとしている。自らができることを求め、それを用いて戦おうとしている。



「……マサト」



 少年の名をただ口にし、緋羽は夜の迫る天井を見上げ続ける。






 彼が、そして自分が――――分からない。










 END.