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<東京怪談ノベル(シングル)>


深草に抱かれて眠れ


 男は困惑と憔悴に彩られた面で、力無く招き入れた。
「どうぞ……少し、散らかってますが」
 招きに応えて玄関より廊下に踏み出したのは隙無くネイビースーツを着こなし、穏やかな余裕を漂わせた青年だった。名を神山隼人と言う――少なくとも現在は。
 隼人は踏み出した足の先を見て僅かに眉を寄せる。薄く、埃が降りている。
「……済みませんね、家内が居なくなってから掃除もしてなくって」
 男は隼人を振り返りもせずに言う。隼人の表情に気付いたわけではなかろうが、タイミングの良さに生じかけた苦笑を前行く男を労る表情の下に隠した。
「いえ……心中お察しします」
 男が足を止め隼人を振り返る。
「こんな時に、家の事にまで気が回るわけがありませんから。どうか、お構いなく」
 二十代半ば程の若い外見でありながら、隼人の物腰の落ち着き、そして品位は年令以上である。背の半ばまでも届こうかと言う真直ぐな黒髪を自然のままに流し、日本人離れした白い顔、光に透ける蜂蜜のごとき金の瞳が身に纏う雰囲気と相俟って、物言わず動かねば神聖なる塑像の様だ。
 だが皮肉にも、隼人は神聖とは遠大な距離を隔てた存在であった。それを知る由も無い男は隼人の姿に安心感を覚えたか、詰めていた様子の息を大きく吐き出した。
「そう……言って貰えると少し気が楽になります……。正直、今でも色んなものが頭の中を廻っていて。仰る通り他事に気が回すゆとりがありませんで」
 言葉は男の心情を素直に物語っている。身に付けた服も薄汚れ、皺が寄り、顔もきちんとあたっていないのか、無精髭が浮いていた。
 食事も摂っているのかどうか。隼人はこの男の元の顔を知らないが、げっそりと痩けた頬は元からではあるまい。
 ――このままでは、この人は保たない。
 この男を手招く手が見えるようだ。
 隼人は男の右肩を幾分強く掴んだ。
「もう暫くの間です……、どうか気をしっかり持って下さい。御家族はきっと見付かります。いえ、見つけ出しましょう」
 破滅へと足を踏み入れかけた男に、希望を翳す。本来の隼人、その存在からは懸け離れた行為に、胸の内で微苦笑が生まれる。本来ならば、踏み入れた足を更に深い闇へと誘い引き込むのが自分と言う存在であった筈、と。
 対極にある「彼等」がこれを知れば嗤笑に喉を震わせるか、それとも冷笑に瞳を眇めるか。
 ――どちらにせよ、天上から見下ろしているだけの彼等には判るまい。
 己の無力に嘆き、届かぬ願いに身を焦がし、絶望に身を焼く。その弱く哀れな姿――それでいて、闇に染まりかけながらもあと一歩を踏み止まり、天を睨み這い上がろうともがき足掻く。この対照的な強さ。
 永く人の傍に在ったが故か、隼人は何時の間にかこの矛盾に心惹かれていた。
 神山隼人は人間ではない。
 名を変え乍ら数多の国の間を渡り往き永世を生き続けて来た――悪魔であった。


 現代で隼人は、東京に便利屋の事務所を構えている。仕事は合法、非合法に係らず寄せられ、また引き受ける。従業員もおり、隼人自身の気が向かぬ仕事が入れば一切を任せている。
 隼人の事務所は金回りが良い。それだけに仕事は多く、従業員の殆どが出払う事も少なくはない。
 その日も隼人以外、全てが出てしまい。便利屋と言うよりも企業のオフィスのごとく整然とした室内の静寂を騒がす電話を黙らせるのは隼人しかなかった。
 そしてその電話が、今隼人の前で疲れた己を奮い立たせようとしている一人の男のものであったのだ。
「ここがダイニングキッチンです」
 男の手が指す先には、何も置かれていないテーブルと、椅子が4脚。すぐ奥にキッチンがある。
「私が仕事から戻った時には食事の支度がしてあって……料理からは湯気が立ってました」
 男の説明を聞き乍ら隼人は男に小さく断って中へと踏み入った。テーブルに近付き、上に手を置く。
「テレビは付けっ放しで、キッチンの水道からは水が出し放しでした。……まるで何かをしている途中で消えたみたいに……気配だけが残ってるような感じで」
「荒らされたような様子は一切無かったんですね」
「はい。最初は他の部屋に居るものと思って、家中探しました。ですが誰も……一人もおらず……部屋も綺麗なもんでした。荒らされた様子は無かったですし、その後警察を呼んで調べてもらった時も、盗まれた物も特になくて」
「そうですか……」
 二週間前、男の家族は男が仕事から帰宅する直前に突如として姿を消した。妻と高校生、中学生の男児二人、そして男の母親の4人が同時にである。自ら失踪するにしても、料理は家族の人数分用意され、服や銀行の通帳、貴重品が持ち出された様子はない。家の鍵もかかっておらず、何もかも途中で放置した様子を見る限りでは自ら姿を消したと考えるのには無理があった。
 第一、自らの意志であるならば、どんなに緊急であっても財布くらいは持つだろう。
 妻の財布は、いつも彼女が使用しているハンドバッグの中に入ったままだった。他の3人についても同様である。
 と、なれば誘拐されたと思うのが普通だが、4人もの人間を、住宅の密集地帯で誰にも見られず気付かれず連れ出すのは至難の技だ。凶器をちらつかせ脅すにしても、容易には行くまい。
 方法として、先に殺害すれば不可能ではないだろうが、部屋を全く荒らさずそれが出来るかと言えばこれもまた否と言えよう。自らが、また親しい者が殺されようとしているのを黙って見ている者などないのだから。物言えぬ赤児ですら、危機を察知して泣き喚くだろう。
 まして全員が、物事の判断のつく年令であり、4人の内の2人は未だ子供とは言え男性である。
 警察の捜査では近所に騒ぎを聞いた者はなく、不審者の目撃証言すら得られなかったようだ。
「警察が言うんですよ……神隠しみたいだ、と」
 隼人に家族を探すよう依頼した男は、口惜しそうに拳を握る。
「そんな……現代の警察が、巫山戯た事を。自分の無能を棚に上げて……っ」
 握った拳と、声が震えた。悲しみが怒りに転化されたのだろうか。白かった男の顔に、興奮の色が昇る。
「落ち着きましょう……、怒りは解決に繋がりません」
 隼人はテーブルに手を触れさせたまま、静かに制した。
「でも……」
「それより。この辺りは住宅地になる前はどんな所だったか御存知ですか」
 飽く迄穏やかなままの声音に、男の興奮が冷めて行く。それでも納得が行かぬ風であるのに、隼人は消していた笑みを僅かに上がらせた。悲しみに沈むよりは、良い傾向だ。
 男は隼人の質問に考え込む。
「さあ……。ここにはあんまり長く住んでませんからねえ。……あ、でも待って下さい確か……!」
 一寸待ってて下さいね、と言い終わる間もなく男は慌ててダイニングを出て行く。
 残された隼人は、やはりテーブルから手を離さずにいた。微かに「何者か」が残した波動が漂っている。無論、それを男に話すつもりはない……波動とは、普通の人間が捉え得るものではない。「気」等とも呼ばれる、生のエネルギー。その流れ。
 ここに足跡の様に残されたのは、生きた人のそれではなかった。
 ――警察の言葉は皮肉な事ですが、正解に近かったと言う事ですね。
 神隠し……古来、天狗や山神の仕業とされ、主に子供が行方知れずになる事を言った。
 諸説ある言葉ではあるが、端的にはは今件を捉えていると言って良いだろう。
 人でなき者に捕われ行方を失う……。
 隼人は浮かべた笑みを深めた。


「お待たせしました」
 男が戻って来たのは、ダイニングを出てから15分程経ってからだった。
 手には本とレポート用紙を束ねたものを持っている。
「これは?」
「こっちは児童書です。こちらは子供のレポートで」
 隼人は手渡された二つを見る。児童書のタイトルは『下生えをかきわけて』とあり、レポートは『「下生えをかきわけて」の真実と脚色」とある。
「この、『下生えをかきわけて』と言うのは事実を元にした本らしいんですね。で、ウチの息子が高校の国語の授業でこの本の内容について調べたレポートを作ったんです。ちょうど良かった……提出したレポートが戻ったのがつい先日の事ですから」
「事実を元に、ですか」
 何処かで聞いた話だ、隼人は記憶に残るタイトルを引き出す。
 ――ああ。
 知人の作家の姿を移したような、小説。そして内容を準えようとした、作家の霊。
 以前ある雑誌の編集部に協力する形で携わった事件を思い出し、隼人は既視感に瞳を細めた。
「この本の内容は御存知ですか?」
「いえ、私はよくは……。息子から少し話を聞いたくらいで。それももう殆ど覚えておりませんし」
「そうですか。……失礼します」
 隼人は本を開く。児童書と言う割に、文字は小さいように思える。挿し絵が多い事と、平仮名が多い事から一応は児童書の体裁をとっているようだが。
 内容は、身寄りの無い男が村の外れに一人で住んでいたが、病を患い、それによって出来た醜いできものが体に残り村の人々に迫害され虐待されると言う話だった。
「児童書と言う割に、随分と陰惨な話ですね」
「そうなんですか……そう言えば息子も似たような事を言ってました。事実だから、こんなに酷い話なんだろうかって。それで興味を持って調べておったようです」
 依頼人の声を耳に、隼人は読み進める。
 男の体に残ったできものは醜いだけでなく、伝染するのではないかと村の人々は考える。虐待は時を追って酷くなるが、ある時、虐待を見かねた一人の少女が間に入ってそれを止める。だが、村人の凶行は少女にも及び、結局少女は死んでしまう――。
「最後には哀れに思った神が二人を救う事になっていますが、子供に読ませるには少々難しい話に思えますね……」
 医療が発達していない昔にはよくあった事だろう。病による差別。そして無知による虐待と忌避。
「そうそう、その本の作者はこの辺の出身だそうです。他の本で賞をとった時に……それは児童書じゃなかったらしんですが……インタビューで言ってたらしいんですよ。小さい頃に繰り返し聞いた実話が忘れられなくて本にした事がある、と。それがこの本らしくて。息子はと言えば、元々この本を知っていたとかで、話を聞いてから俄然興味が沸いたようです」
「それでこのレポートを」
 隼人は本をテーブルに置き、レポートを開いた。そこには、この本について調べた事が決して巧くはないが、丁寧な文字で綴られていた。
「……」
 隼人は唐突に顔を上げた。
「どうしたんですか?」
 怪訝そうに覗き込んで来る男の腕を掴んで、引き寄せた。
 途端、男が居た場所に椅子が倒れる。
「え……」
 触れてもいない椅子が倒れたのである。男の目が驚愕に見開かれた。
「済みませんが、少しの間、出ていて頂けませんか?」
 隼人は、掴んだ腕をそのままに玄関へ向かって歩き始める。
「え、ええっ? どう言う事ですか? 出ていろって何処へ……」
 事情が判らず戸惑いに声を荒げる男の瞳を、隼人は正面から見る。
「親戚の家でも、友人の家でも……近くのコンビニでもいいのです。出ていなさい」
 隼人は依頼人の瞳を見詰め、静かに命じた。
「……ああ、はい」
 男は急に落ち着き、ふらふらと連れて来られた玄関から靴を履いて出て行く。
「ここはこれから危険ですから」
 隼人は男の背を見送って、中へと踵を返した。


 戻った部屋は死臭が渦を巻いていた。先程迄は薄かった、邪気が空に濃い紗をかける。
 テーブルの上に、石碑があった。いや、墓石か。
 それは背景を透かして在る。気付けば石の下には草がそよいでいる。見れば周囲は一面の草原。右へ視線を転じれば崩れかけた荒ら家があった。
「これが貴方の記憶ですか」
 声に引かれるように石の前に影が立った。人の相好を為さぬ、だが人であった者の影。黒く黒く、陰気が形を為したかのように。
 影は、『下生えをかきわけて』の元となった、迫害の末に死んだ男だ。
 隼人は残された痕跡を読み取る事で知った――この家は、過去男の墓が在った場所だったのだ。
「この本の最後とは違い、貴方を救う者はなかった。……貴方を哀れに思う少女も、少女と貴方を救った神も」
 墓石は崩れかけ、名も刻まれていない。
 立てたのは村の者だろうが、それは供養の意味を持っていたのか。
 殺してしまった男の、死後の怨讐を恐れただけではないのか。
 名も無く、手入れのされている様子もない。花一輪手向けられてもいない――。
 影は何も言わず、墓の前に立っている。時折ゆらりゆらりと布のように揺れる。
 その光景は、家の中の風景をそのままに、写真の二重写しのように殆ど透けて重なっていた。
「何か言いたい事があったのではないのか?」
 隼人は影へと近付く。影は反対に、後退った。隼人を恐れているのか、それとも。
「言うがいい。聞いてやろう」
 隼人の髪が闇に溶けて揺らめく。声は凛と、邪気を裂くように。
 ――うらやま、しい……
 微かな声が、影から上がる。苦しげに身を捩った。
 ――おれにはなにもない、のに。ここにはあたたかいものがみちて、いる……
 ともすれば聞き落としそうな程に小さな声。だがそれは激しい怒りを孕んでいた。その証であるかのように下から邪気が吹き出して、家の中を覆い尽くして行く。
 ――やまい、はおれのせいか……、みにくかったのはおれのせいか……。おれが、なにをしたという……
 声は続く。悲嘆と怒気に塗りつぶされた声が。
 ――おれに、はひとつも、あたえられなかった……手が、ここにはたくさんある……
 欲しかった、と男は呟いて。激しく身を震わせた。同時に邪気が間欠泉のように、一気に吹き上がった。衝撃が家内を走る。家具が揺れ、位置をずらし、壁が軋む音を立てる。
 隼人の瞳は静かな光を湛えたまま、見る間に邪気によって覆われて行く室内にも変わる事はない。
「お前の欲しかった手は、ここにある」
 隼人は激震に揺れる中、微動だにせず、手にしたものを影に差し出した。
 『下生えをかきわけて』と、レポートを。
「これは二つとも、お前に差し伸べられた手だ」
 言葉と同時に、隼人の手から炎が生じた。隼人の瞳にも似た金の炎が、手にした二冊を包み込み、燃え上がる。
 燃え上がった炎は、天上を焦がさんばかりに成長すると、形を変え始めた。
 次第に収縮し、人の姿へと。
 それは少女の姿をしていた。
 炎が形作る少女は、柔らかな微笑みを浮かべ、滑るように影へと近付く。
 影は恐れるように二三歩下がり……、止まる。
 少女が影へと手を伸ばした。
「……」
 隼人が小さく呟く。影は、弾かれたように顔を上げた。
「これは、お前すら忘れていた、お前の名だ」
 影であった筈の顔に、表情が浮かぶ。
「そして、今お前に伸ばされているのは、お前が草の下で待っていた、手だ」
 影……男は、伸ばされた手に、自分の手をゆっくりと重ねた。
 炎が男をも包み込み、大きく燃え上がった。それを中心として、炎が嘗めるように周囲に広がってゆく。黒くそよぐ草、荒ら屋、そして名も無き墓石を。
 影は炎の中で次第に色を姿を取り戻して行く。邪気の具現の様だった黒い影から、人へと。
 同じように、黒かった草が鮮やかな緑へと変わる。荒ら屋が音もなく崩れ、墓石に名が刻まれる。
 炎は家の中の家具を焦がす事なく、現実の世界に重なるように浮かぶ景色と、邪気だけを燃やして行く。
 全てを焼き尽くして、炎が消えた頃。
 家は静かに元の姿に戻っていた。


 依頼人の家族は、庭の土の中から見付かった。
 計算上では二週間、土の中に在った事になる……が、不思議な事に4人とも目を覚ました後の状態は良好だった。
 目立った外傷もなく、精密検査の結果も問題はない。
 大事をとって、入院しているとの事だが数日もしない内に退院出来るだろうと、依頼人は嬉しそうに言った。
「結局何だったんですかねえ」
「神隠しだったんでしょう……そう思う事です」
「ですが……」
「消えた御家族が一人も欠ける事なく無事に見付かったのです。この場合大切なのは事実ではなく、結果でしょう」
 男は何かを言いかけ、首を振った。
「そうですね……皆無事に見付かりましたし。……有難うございました」
「顔を上げて下さい。皆さんが無事だったのは私の功績ではありません」
 不思議そうに顔を上げる男に、隼人は穏やかに微笑む。
「皆さんを救ったのは、貴方の息子さんです……良い、息子さんをお持ちですね」
「……息子、が?」
「それでは、私はこれで。次の仕事がありますから」
 説明を求めようとする男に、隼人は背を向け歩き出す。
 隼人は家から遠離り乍ら、レポートの最後に書かれた言葉を思い出していた。

 ――どうして誰も彼を助けなかったのだろう。助けられなかったのだろう。
 調べていて、思う事はそればかりだった。
 誰か一人でも、『下生えをかきわけて』に出て来た少女のように手を差しのべたなら、こんな悲しい結末にはならなかったろうに。
 彼が、静かに眠っている事を願い、このレポートを終えようと思う。

 特別な術を知るでもなく、能力を持つでもない、未だ幼い少年の残した思いが、冷たい草の下に眠る男を救った。縁もゆかりもない、同じ時代を生きたでもない全くの他人に対する思いやりの心、それだけで、現実の人間を隠す程の力を持ってしまった霊を。
 元々、霊を起こしてしまったのは、『下生えをかきわけて』をこの家に持ち込んだ事だ。男が眠らせていた記憶を、事実を元にした本が持ち込まれる事で、波長が合ったか、揺り起こされてしまったのだろう。
 同じ、人に書かれたものが、一方は霊を引き起こし、一方が霊を鎮めた。
 
 ――彼が、静かに眠っている事を願う……ですか。

 少年が願った通り、今度こそ悲しい男は永き眠りに就いたろう。
 二度と現世に姿を現す事はない。
 隼人の胸に、炎に包まれた男の最後の表情が浮かぶ。
 それは、怒りも悲しみも超えた、笑顔だった。


――終