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ツキノヤグラ
「ツキノヤグラ、って知ってます?」
唐突な問いかけにそちらを向けば、この店の店主である狐洞キトラが中途半端な笑みを浮かべている。
訝しげに見えない目を探ろうとしてみれば、キトラはにへりと気の抜けた笑みを更に深くして、吸い込んだ紫煙を吐き出した。
「いえね、実は…今日みたいな満月の晩に…ってもまあ特別な日なんですけどね、ツキノヤグラ、って云われる現象が起きる事があるんです」
キトラに云わせれば、それは少々不思議な──そう、結界のようなものの事であるらしい。
外側から見ていれば、非常に美しい長方形の柱が、延々と空へ向けて伸びる──そういった情景であるらしいのだが、内側に入ってしまうと、その人間の精神の、最も脆弱な部分に、月光のような密やかながら確りとした光が差し込むのだと云う。
「要するに、精神の崩壊を計るような…ヤなお月サンの光って事ですよ」
にこにことしたキトラに曖昧な相槌を打てば、彼は待っていたとばかりに表情を輝かせた。
「…今日の晩が、そのツキノヤグラの出現する日みたいなんですけど…どうでしょ、お月見しませんか?」
散歩がてらに遠出をして、たまたま寄った小さな骨董屋。妙な力を感じると思い乍ら品物を眺めていた劔持薔は、声を掛けられているのが自分だと気付いて瞳を瞬かせた。
勿論この店に寄ったのは初めてであるし、店主と思わしき男との面識も無い。
それでも何と無し興味を引かれたその話題に乗ろうと、薔はにっこりと唇に笑みを乗せると男へと微笑んだ。
「──で?」
「ま、要するにお月見のお誘いですね。どうでしょ?」
にこにこと、見えるだけの口元が笑っている。
「ツキノヤグラ…聞いた事はある気がするんだけど…」
「あれえ、ご存知無かったですか? てっきり…数百を生きてらっしゃる方でしょうから見たことあるかと……」
あら、と薔は首を傾げる。
「バレちゃってるの?」
「ええ、まあ──月の匂いと一緒に、ノスフェラトゥに近い方々は独特の気配が濃くなりますからねえ」
ノスフェラトゥ──不死者の事を総じて言っているのだろう。
「ちなみに、私はキトラと申します。狐洞キトラ」
「自己紹介されちゃったなら名乗らない訳にはいかないじゃない」
苦笑で返した薔に、別に名乗らないでも構いませんよ、と言った男──キトラは、不意にぱちりと指を鳴らした。
「…劔持薔サン、ですね」
深く被られた帽子の隙間から一瞬だけからかうような視線が漏れるが、薔がそれを見返した瞬間には隠れて見えなくなる。
何の能力? そう問うものの、指先の隙間を蝶が抜けるかのように躱された。
「で、お月見…ね。いいじゃない、楽しそうだし──そうね、二時間後くらいに戻ってくるから、それでいいかしら?」
勿論。そう言って帽子のふちを持ち上げたキトラは、お仲間出来ましたよ、と間延びした声で足下の猫を抱き上げて言った。
赤色の毛並みが薔の目に留まる。──同時に、カウンタの横に構えていた黄金のコンドルも。
「その子達は?」
「にゃんこは赤猫、コンドルは黄涙サンってんです」
一旦は扉を開いて店を後にしようとしていた薔が、キトラの側へとついと寄って赤猫の額を撫でる。
ごろごろと喉を鳴らす猫に、薔は瞳を細めた。
「普通のコじゃないのね。──でも、人数が多い方が楽しいに決まってるわよね。赤猫ちゃんも、ええと…黄涙クンも一緒にどう?」
似ているが確かに違う、紅蓮の瞳を持つ薔は緩やかに唇をつり上げる。緩やかではあるが妖艶な眼差しである。薔をちらと見遣った黄涙は一声だけ低く鳴き返す。オーケーみたいですねえとキトラが笑った。
それじゃあまた後で、そう告げた薔は、楽し気に薄く浮かぶ月を見上げる。
クルツ・ヴェアヴォルフは後悔していた。
──先刻に鳴り響いた携帯のコール音に出なければ、そして更に切れる前に言い返してやれば良かった。
と、彼は目の前に揺れる緩いウェーブの髪を見つめて唸った。
「解ってるのか? 月だぞ、月。──しかも特殊な月光っ」
「あら、折角誘ってあげたのに何? その言い草」
低く吼えたクルツに対して、薔は後ろ目で微笑った。すっかりと沈んだ太陽は既にその影すら無く、代わりに高く上った夜の支配者たる月が煌々と辺りを照らしている。
「あなただって私だって、月に関係なく変化出来るじゃない? それとも本当に面倒なだけでそんなに怒ってるのかしら」
「別に怒ってねえよ。……お前が言うように、本当にそれが『ヤグラ』なら……面倒なんだよ」
口元を曲げたクルツは、確かに怒ってはいない。
何が? ──月の所為かも知れない。普段よりも闇の濃くなった声色で薔が問う。月に翳した爪に施された、彼女の瞳と同じ色をした模様が光った。
「何が誘ってあげたのに、だか……俺は何だ、荷物持ちさせる為に呼ばれたようなもんだろ?」
「だって爪が割れちゃうじゃない」
問いには応えずに、息を吐いて肩を竦めたクルツに対して薔はさらりと告げた。クルツの両の手に持たれたビニール袋ががしゃりと音を起てる。
「そんなチャラチャラした格好して何が面白いんだか……」
「うるさいわねえ。──あ、」
キトラさん、と、薔の声が高く呼んだ。
足下の先を眺めていたクルツの視線が上がる。
──なんだありゃ。
正直を言えばそれが感想だ。
空き地にぼうと佇んでいる男は、時代錯誤にも和服を着込んでいる。それだけならまだしも、頭にはちょこんとチューリップ帽子が乗っているのだから、──妙だ。
片手を上げて声を上げた薔に気付いたらしい、キトラは見えない視線で微笑んだ様子だった。
「んや、お友達もご一緒で?」
「構わないわよね?」
「勿論ですとも」
軽い口調で受け答えをする男が、しかし止まったのは次の瞬間だった。
顔を上げたクルツの視線を捕らえた彼が一瞬だけギクリとしたような気がしたのは気のせいではないだろう。
本当の一瞬だったのだが。
「──お友達も、こちらにどーぞ」
形容し難い軽さがクルツを呼んだ。
「迷惑かけるな」
「いえいえ、こちらはお月見のお仲間が出来て嬉しい限りですから。ささ、どぞどぞ、クルツサンも」
足下の青のビニールシートへとひょいと座ったキトラは、クルツを見上げ、それから気付いたように彼の両手に持たれた荷を受け取ってご苦労様ですと言った。
小さく違和感を感じた。
──名前、言ったか?
この妙な東京の事だからそう云う能力を持った人間もいるのかも知れない──そう切りを付けて上がり込む。
靴を脱いでそこに上がり──今度はクルツがギクリとする番だった。クルツのそれよりは若干薄いが、銀色の瞳が彼を見上げている。赤猫はこっちいらっしゃい、とキトラが気を利かせて、月光に照らされて鈍く光る猫を、膝へと抱き上げた。
「もう、さっきから何仲良く話してるの」
片眉を上げた薔が、既に広げたアルコールの中から軽い物を差し出し乍ら不満げに言った。ねえ、と、横に佇んでいる黄涙の背を撫でる。
少々ぎしぎしした様子で胡座をかいたクルツは、勧められるままに酒を煽った。
長い夜になりそうである。
そろそろですかね、と、懐中時計を見乍らキトラが言ったのはそれから一時間程経った頃だろうか。
中空に浮かぶ月は、まるで夜空の穴のように存在している。
「ああ……畜生、」
「こちらもそろそろですかね…」
「…るせえよ」
舌打ちをしつつ睨むクルツを、キトラは笑って躱す。
すっかりと、ツキノヤグラの出る夜の月の影響を受けつつ、クルツの瞳は紅へと変化していた。
用意した缶ビールは大抵のところが既に空いていて、杯には日本酒が注がれた。
薔が首を傾げる。
「私には変化ないけれど」
「ツキノヤグラは、ホンモノの方の本性を曝け出すようなとこがありますからねえ。氏は見たところ人狼サンでしょう。──予想するに、しかも一度か二度、『ヤグラ』のシリーズを体験しているようですし」
「勘ぐるつもりはねえけどな…何者なんだよ、お前は…」
気の抜けた笑みを浮かべたキトラは、それだけで答える気等毛頭無いらしい。
くいと傾けられた杯からは甘い香りが揺れた。銀色の懐中時計からのカチカチという僅かな音が夜空に溶けていく。──刹那だった。
どおん、という低い音が一瞬だけ、その場にいた彼らの身体の中を突き抜けた。
同時に刃が触れ合うような高い金属音のような者。その凄まじさに思わず目を閉じる。
光。
それと、闇、だろうか。
短く悲鳴を上げた薔は、音と共に荒れていた風から目を護る。
濃厚な月の気配。
「──こりゃまた…今回も見事ですねえ…」
笑みを含んだキトラの声色に、薔は恐る恐る顔を上げた。
見上げた先の月は相変わらず在る。
そして、──
「これが…ツキノヤグラ?」
巨大な光芒だった。
触れれば確かな質感を持っているのではないかと錯覚する程の、月光の柱。大気にまだ馴染んでいないとでも云うかのように、時折ちりちりとその表面を歪める月光。やがて確かな硬質を持ったそれは、──確かに月からの『櫓』だった。
「まあ、見事なのはこちらさんも」
「黙れ」
「あら」
唸ったのは月明かりに照らされて鈍く光る白銀の獣──クルツである。
舌打ちした彼は、行動とは裏腹にツキノヤグラの月光に確りと当てられていた。既に幾度となく人形への変化を意図したものの、生まれたてのヤグラの光にはまだ敵わないらしい。
彼が見上げた先には、正しく悪魔の姿と思わしい──赤猫が舞っている。いかにも楽し気にツキノヤグラの周りを舞う彼女が、急に急降下なぞして来ないかと気になっているのだが。
「ふふ…普段でも月を見ると血が騒ぐのよねえ…」
妖艶な薔が笑った。
いつの間にやらキトラの方へとしなだれかかっている彼女に、クルツと黄涙の視線がぎょっとしながら集まる。
実は、精神的なものは微塵も月の影響等受けていない薔ではあるが、ここぞとばかりに微笑んでみせる。彼女の赤い爪がキトラの頬を撫でた。既に上半身を押し倒した状況である薔は、流れてくる黒髪をかきあげ乍ら瞳を細め──キトラもまた持ち上げられた帽子の隙間から笑った。
「──薔サン、私には誘惑効きませんから」
「やだ、失敗?」
はいはいと薔の肩を押し返すキトラは居住まいを正す。
「暴走するなよ…」
獣のクルツからですら溜息が漏れた。
しかしそれでも諦められないらしい、ちょっとだけ味見を──そう言う薔をさらりと会話で躱しつつ、彼女の杯に酒を注ぐキトラ。
クルツは中空を見上げた。彼の隣に跳んで座った黄涙が、ヤグラの周囲を飛んでいる赤猫を視線で追う。
天上には月。
──闇の中の穴。
言い得て妙かも知れない。低く鳴いた黄涙に視線を遣れば、クルツと同じ──今は違うが──銀色と目が合った。ふと口元に浮かんだ微笑。それをそのままに、クルツは獣の前足に顎を乗せる。
一陣の風が過ぎていく。
月明かりが彼らの肌を、静かに舐めていった。
了
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【登場人物】
- PC // 4131 // クルツ・ヴェアヴォルフ // 男性 // 999歳 // -- //...
- PC // 2024 // 劔持・薔 // 女性 // 226歳 // ネイルアーティスト //...
- NPC // 狐洞・キトラ // 骨董屋店主 //...
- NPC // 黄涙 // 霊鳥 //...
- NPC // 赤猫 // 悪魔 //...
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