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<東京怪談ノベル(シングル)>


蒼い命


「あら、羽柴……遊那さん。もう来たのね」
「『もう』って、あの、なんかタイミング悪かったでしょうか?」
「そうかも」
 カメラを携えて羽柴遊那が顔を見せたとき、碇麗香は腕組みをして難しい顔をしていた。
 アトラス編集部内はいつもと変わらず散らかっていて、喧騒に溢れていたが、編集長のデスク付近は、結界でも張られているかのように空気が張り詰めていた。
 遊那は歳が歳でもあるし、プロとして仕事というものをわきまえているので、事前にアポはとっていたが――麗香の挨拶は素っ気ないものであった。遊那はその態度に少なからず不満を抱いたが、すぐに考えを改めた。
 麗香も仕事の常識が身体に染みついている女性だ。こうして麗香が何ものに対しても素っ気ない態度を取り、結界を張っているのは、よほどの不測の自体が起きたとき。
「写真がね、もう明日締切だっていうのに、あいつ本当にどこ行っちゃったのって話。写真が上がらないのよ、記事は上がってるのに、写真が、肝心の写真――」
 は、と眼鏡の奥の目が現実に戻ってきた。
「遊那さん! あなた、カメラマンだったわね!」
「いえあの」
「なんてタイミングがいいのかしら!」
 フォトアーティストです、と訂正する間もなく、遊那は麗香の話に引きずり込まれていった。

 片田舎――といっても東京の片隅なのだが、そこにある旧家があり、それは美しい壷が家宝として伝わっているのだという。『吸』と名づけられているのだという。
 アトラスが、碇麗香が目をつけたということは、曰くつきの壷だということだ。
 その壷の取材に行ったカメラマンが、戻ってこない。
 消えたカメラマンの名前を聞いて、遊那は息を呑んだ。……よく知っている名前だった。先週、仕事の合間に喫茶店に行って、ともにコーヒーで一息ついたのだ。
 ざわざわと胸を鷲掴むものがある――呆然としている遊那の前で、麗香が東京全図を広げた。反射的に、遊那はその広がる地図の端を押さえて、地図を広げるのを手伝っていた。

 見えたものがあった。
 当たり前の日常のように、遊那の赤い瞳に飛び込んでくるのだ。

 割れゆく美しい壷の姿が。渦を巻く蒼が。悲鳴、枯れ枝、落ちる雛菊。

「青磁の壷なんですか」
「え?」
 地図に目を走らせていた麗香が一瞬目を見開いた。
「そうよ。もう話したっけ?」
「え、ええ」
「場所はここ」
 遊那が『見た』壷についての話は、運良くもさらりと流された。麗香の指は、確かに東京の片隅を指している。遊那が行ったことのない土地だった。


 屋敷の外観と、壷の写真を3枚ほど収めてくるだけでいい――
 助っ人になることにした遊那に、麗香はそう言った。それは、「深入りはするな」と言っているようなものだ。取材に行った人間が戻ってこない、というのは、アトラス編集部ではそう珍しくもないことだが――それに慣れ、それに何の感情も示さなくなるほど、碇麗香は冷酷非情な人間ではない。遊那は、それを知っていた。麗香に触れ、麗香を『見る』までもなく、すでにそれを知っている。
 屋敷に到着した頃には、日もだいぶ傾いていた。
 遊那はしばし、斜陽を浴びる屋敷にみとれた。気づいたときには、フィルム1本分の屋敷の外観を写真に収めていた。函館でよく見られる様式の洋館だ。退廃的だが、どこか時間の流れに逆らっている力強さのようなものを持った、矛盾したたたずまいを持っていた。
 正面にまわってみると、箒を持った上品な婦人が、玄関から出てきたところであった。
 カメラを持った遊那をひとめ見やり、婦人は恥ずかしそうに苦笑をした。
「こんにちは――素敵なお家ですね。……ごめんなさい、勝手に撮っちゃって」
「かまいませんよ。どうぞ、ご自由に」
 そう言ったところをみると、使用人ではなく(屋敷は使用人がいてもおかしくはないほどの大きさと様相であった)主人であるようだ。割烹着の女性は、玄関先に溜まった落ち葉を掃きはじめた。この日は、風が強かった。落ち葉はかさかさと、半ば吸い寄せられるようにして屋敷の門の前に集まっていく。
「あの、失礼ですが」
「はい?」
「私、月刊アトラスの記者で、羽柴と申します。『吸』という壷の写真を、是非撮らせていただきたくて」
「まあ」
 女性は、嬉しそうに笑いながら顔を上げた。
「『吸』をご存知なのね。あれもそんなに有名になって」
「差し支えなければ……」
「もちろんですわ。どうぞお上がりになって」
 遊那が嗅いだ玄関の匂いは、博物館のようなものだった。

 遊那を客間に導いた女性は、やはり、主人であった。
 女主人は、この屋敷にひとり住まいなのだそうだ。
 珈琲を持って戻ってきた主人は、割烹着を脱いでいた。小奇麗な和装だ。洋館と珈琲とともにあっても、不思議と違和感を抱かせない。髪型は、大正時代に流行したものによく似ていた。30代から50代の女性が好んだという結い上げかたなのだが――
「……」
 主人のそのうなじは艶やかだ。顔にはおろか、首筋や手の甲にすら皺ひとつない。他愛もない世間話や、この屋敷、そして壷についての話を、珈琲を飲みながら進めていくうちに、遊那はようやく違和感に気づき始めていた。
 洋館と和装という組み合わせが、ちぐはぐなのではない。
 もっと別の、大切な何かが置き去りにされている。
「壷はこちらにございます」
 客にすぐに見せられるように、ということだろうか。客間の棚に置かれていた桐の箱を、主人は手に取った。
 大事そうに――だが慣れた手つきで、主人は紐をとき、箱を開けた。
 中におさめられていた壷は、なるほど美しいものであった。
 主人と同じように、艶やかで、ひびのひとつもなく……不可思議だ。遊那はすっかり言葉を失って、壷を写真に収めた。やはり気づけば、フィルム1本分。
 触れることが出来れば、この違和感の正体がつかめる。遊那にならば。
 遊那は、主人の隙を見て壷に触れようとねらっていたが、隙をうかがっていたのは、遊那だけではなかったのだった。
 一息つくためにカメラから顔を離した一瞬、ファインダーにうつる光があった。

 遊那は短い叫び声を上げてカメラを取り落としたが、すばやく主人の腕を掴み上げた。女主人の皮膚は、まるでつくりもののようだった。金切り声を上げる女主人の手から刃物が落ちた。
「何をするの!」
 だが、答えは、『見える』。


 壷にかかる血。温かい血。
 息を吸い込むように、『吸』が血を吸う。ひかる薄青の表面に、さっと染みこんでいく血、客の血、カメラマンの血、古物商の血、血、
 遊那の血、
 あでやかに微笑む女主人の唇に、さっとその色が乗る。
『壷と約束をしたの』
『血と魂という、永遠のものを喰い続ければ、壷は永遠であると』
『壷と約束をしたの』
『壷が永遠のものである限り、わたくしも永遠のものであると』
 血を失った遊那に、主人が微笑む。


 遊那には護身術の心得があった。掴み上げた腕を掌握し、背負い投げをきめた。
 主人は棚に突っ込んだ。明治・大正の遺産が、美しい怪物に降り注ぐ。
「それは契約というのよ」
 静かに、遊那は壷に言った。
「契約には代償がつきもの」
 遊那は、静かに主人に言った。
「そろそろ払わないと、みんなに文句を言われるわよ!」

「やめてぇ!」

 しかし、壷は、砕け散った。
 遊那のあでやかな笑みとともに。


 壷の破片は血の色だった。主人の悲鳴がたちまちしわがれ、錆びて、砂になっていく。
 その服までもが、時間にさらわれ、蒼が逝く。どこからか現れた埃が、客間を埋め尽くす。失われたものは何ももどってこない。
 時間はよみがえり、遊那はカメラを拾い上げた。カメラと遊那だけは、埃をかぶっていなかった。
 麗香から聞き忘れていたことがあると、遊那はようやく気がついた。
 『吸』についていた曰くとは、どんなものだったというのだろう。




<了>