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ツキノヤグラ
「ツキノヤグラ、って知ってます?」
唐突な問いかけにそちらを向けば、この店の店主である狐洞キトラが中途半端な笑みを浮かべている。
訝しげに見えない目を探ろうとしてみれば、キトラはにへりと気の抜けた笑みを更に深くして、吸い込んだ紫煙を吐き出した。
「いえね、実は…今日みたいな満月の晩に…ってもまあ特別な日なんですけどね、ツキノヤグラ、って云われる現象が起きる事があるんです」
キトラに云わせれば、それは少々不思議な──そう、結界のようなものの事であるらしい。
外側から見ていれば、非常に美しい長方形の柱が、延々と空へ向けて伸びる──そういった情景であるらしいのだが、内側に入ってしまうと、その人間の精神の、最も脆弱な部分に、月光のような密やかながら確りとした光が差し込むのだと云う。
「要するに、精神の崩壊を計るような…ヤなお月サンの光って事ですよ」
にこにことしたキトラに曖昧な相槌を打てば、彼は待っていたとばかりに表情を輝かせた。
「…今日の晩が、そのツキノヤグラの出現する日みたいなんですけど…どうでしょ、お月見しませんか?」
溜息を吐いた皆瀬綾は、にこにことした口元だけが見えているキトラを眺めた。カウンタの方向には充満している煙草の煙を避けているものの、流れてくる細いそれを手のひらで払う。
「──やっぱり普通にお月見じゃないのね…」
「えー…普通のだけじゃつまんないじゃないですか」
薄い印象を与える笑みを浮かべたままキトラが言うと、綾は肩を竦めた。
結局どうします、行きますか行きませんか──。間延びした問いではあるのだが。
「そりゃあ行くわよ」
「あれ、乗り気じゃないんじゃ?」
「何言ってんの! 秋よ、秋。秋って言えばお月見みたいなもんじゃないっ」
気分の切り替えはお手の物である。はあと呆れるキトラに対して、綾は準備する内容で想像を一杯一杯にしている。
「お酒は? ウチにも何本かありますけど」
「あ、あたしはあんま好きじゃないからいいわ。お団子でも買って来るわよ?」
「…いや──」
キトラは暮れ始めている夕日を窓から眺めると、わざとらしい程に微笑んでみせる。
「綾サンはここでじっとしてられんのが吉でしょう。赤猫にでも何か作らせましょ。お団子でいいですか?」
「……それは戻って来れなくなるからって言いたい訳?」
「さあ?」
あかねこー、と、やはり気のない声が上階へと投げられる。丁度ヨモギの葉っぱがあるんですよ、と、どこか準備していた気がしないでもない男はそう言って紫煙を燻らせた。
「あか…アカネのお団子?」
赤猫の『こ』が言えない。
猫の単語にすら、綾は冷や汗をかき乍ら問い返す。以前、彼女のケーキをこの店で食べる事になった覚えのある綾としては、キトラのそれは嬉しい発言でもあった。コンビニエンスストアで売っているような、市販のくたびれた団子よりは彼女の作るそれのほうが美味しいに違いない。
たんたんと硬質な音を響かせて下りて来た当の赤猫に目線をやって少々ほっとした。
綾がこの店にいるときは人形に変化、と覚えたらしい彼女は、今日もまた見事なボンテージ姿で姿を見せる。
「ヨモギありましたでしょ。お団子作って来て下さいな。──あ、よければ綾サンもご一緒にどーですか。二三時間はありますから十分作れますでしょう」
「…あんた客に雑用させるわけ?」
「いえいえ、お団子ご所望なのは綾サンですし、赤猫ひとりに作らせるのもなあ、と」
結局綾の問いには答えていない。
「それならキトラが作れば──」
いいじゃない、と続けようとして、目の前の男が団子をこねている姿を想像した綾はピタリと止まった。
──うん。それは、厭だ。
何となしに認めたくないものがある。
「いいわ。作ってみようかな。──あ、アカネ? お願いだからあたしの前で変化解かないようにしてね?」
引きつりつつ笑顔を向けた綾に、赤猫は小さく首を傾げた後に頷くのだった。
そもそも二三時間もあるのであれば、普通は十分にコンビニエンスストアと店の往復は可能な筈なのだが──。幸い、よもぎ団子作りへと頭を切り替えた綾には、先程のキトラの不躾な言葉は既に消えているのであった。
溜息。
それに、山盛りのよもぎ団子。
「…どうするんですかこんな量……」
「う、うるさいわね…たんとお食べ。たんとお食べなさいキトラ」
キャラクタ違いにもなんとかして開き直ろうと、綾は何故か女王口調で、キトラに大量のよもぎ団子を勧めていた。要するに作るのに夢中になりすぎたらしかった。
ぱちんと音を起てて、溜息とともに閉じられた懐中時計に依れば、時刻は二十四時を過ぎたところ──。
「ヤグラの出るところからお月見しようと思ってたんですけどねえ…まあ、いいですか」
煌煌と。
考えてみれば凄まじい光量であるのだが、不思議とそれが当然であるような存在感。足下に敷かれている青いビニールシートが照らされて艶めいている。
強大な──月からの『櫓』だった。
硬質を帯びた月光が象るそれは、どこか高い耳鳴りのような音を夜空へと響かせている。そしてそれは何処か、
「……なんか、哀しい──光ね」
ぽつと漏れた綾からの呟きに、そうですねえとキトラが答える。
中空の冷えた月は銀色なのに拘らず、地へと伸びる櫓の光は、綾の髪と似通う黄色でもあった。
「ちなみにご存知で? 哀愁の字に送り仮名の『しい』を付ける。こうなるとどう読みます?」
「何を唐突に…かなしい、でしょ?」
あたし今言ったじゃない──綾の言葉にキトラは軽く頷いて続ける。
「ういうい。では、愛と言う字に送り仮名の『しい』を付ける。──すると?」
「え。…いとしい?」
何の謎掛けなのだろう。
月明かりの中で、よもぎのそれが強く香っている。
「ま、それも正解ですけどね。『愛』に『しい』、と書いてもね、かなしいと読む事があるんですよ」
悲痛のかなしいに、悲哀のかなしい、愛しさにもかなしさがあるんですねえ──と、キトラは月を見上げ乍らどこか遠くへ呟く。
何か、違和感を感じた。
綾は眉を寄せる。
「…キトラ?」
「ん? 何でしょ?」
くいと帽子のふちを上げた男が、珍しく露にした目線で綾を見遣った。漠然と普段と違うと感じるその気配は、恐らくは間違ってはいないのだろう。しかし何が違うのかが良く解らない。
残酷を宿すまでの神々しい光は、綾の頬を照らしては四散してゆく。
地に影。
不意に視界を横切ったそれに、慌てて何事かと見上げた空には翼が舞っている。
「…あ、あれってアカネ?」
「──ああ、そうみたいですねえ」
誤摩化すように問いを作った綾に対して、気付かぬふりのままキトラも薄く笑う。
手持ちの猪口に、強い芳香漂う日本酒が注がれる。
自らで酌を済ませてしまう手つきが馴れていた。
綾サンもいかがですか。そう尋ねるキトラに、まだいい、そう応える綾は改めてツキノヤグラを眺めた。
「──ねえ、ツキノヤグラって…もう少し近くで見ても大丈夫?」
「大丈夫ですけど──触れないように気をつけて下さいね。能力者の場合は力の暴発もありえます」
「おっけー」
大丈夫大丈夫、とひらひらと手をひらめかせて綾はサンダルを突っ掛けて立ち上がった。冷えた空気。冬へと一歩近付いた、秋独特の濃い気配を含んだそれが綾の喉を降下していく。
微かに肌を刺す月の光。
魔力、霊力、──人間の作り出した拙い言葉等では言い表せない、感覚だった。
ちりちりと頬を舐めていく感覚に、綾は思わず指先で頬を撫でる。
──なんだろ。何も無いのに。
何も無いのに。
しかし、何かが、
──かなしい。
それに当て嵌まる漢字は何になるだろうと、綾は漠然と考える。
一歩を踏み出す。
感覚。
更に、一歩。
空を見上げる。
月。
中空の。
綾の、青の視線がぼんやりと霞み越しにツキノヤグラを眺めている。
視界に指先。
──誰の?
誰も止めるものは居ないのだ。
少なくとも、今の綾の世界の中では。
綾、と、聞き覚えのある声が呼んだ。
意識が浮上する。
見覚えのある屋根が視野に入る。少しばかり古くさいその外観。強大とは云えないが、しかし小さいとも表現するには違うという事になるだろう。
──涼しい。
事態を、綾はまだ認識していない。
不意に気配。
反射のみで振り向いた綾の脇を、金が擦り抜けて行く。
「綾、サンマ買って来て。さっき帰り際に見つけたんだけど、買って来れなくて」
「えー…なんであたしが? ──に行かせればいいじゃない」
掠れて聞き取れない。
だが。
──嘘。
──どうして。
「いいじゃない、どうせ暇なんでしょう。父さんはまだ仕事中だし、──だって、まだまだ一人でのはじめてのお使いは早いの。ほら、早く行って来て。直ぐに日が暮れるわ」
緩やかな微笑。
声の方向へと首をやった綾は目を見開いた。
──嘘。
「うえ。仕方ないなあ…サンマね。一尾?」
「一尾でどうやって家族全員のおかずになるのよ。ちゃんと考えてちょうだい」
──嘘だ、どうして──。
──どうして、あたしが。
微笑んでいるのか。
こんなにも穏やかな愛情を込めた微笑みを、自分は浮かべない筈だ。
少なくとも今の自分は。
──これは。
「考えなくたってわかりますー。…ね、ね、おつりは?」
「もう。好きにしていいわよ。──あら、」
「おねーちゃ、」
「あれ、──。一緒に行く?」
くすくすと。
玄関から出て来た、まだおぼつかない足取りの女の子の手を引く。
引いているのは。
「綾、──、行ってらっしゃい」
今の己よりも、幾分幼い。
しんしんとした空気が朧に彼女達を包む。
手を振り替えした幼い子は、姉の背を追って駆けた。
行ってらっしゃい。──そう告げて笑っている女性は、どこか綾に似ている。
おねえちゃん。──そう言って、金糸の少女に手のひらを伸ばす幼子は。
──ああ。
綾は、遠くへと駆けていく己の幼い姿を見た。暫く見ていない、可愛い妹の姿も。
そして。
──母さん。
穏やかに微笑んで、自らの子を見送る女性の姿に。
綾は手を伸ばした。触れようとして、漸く自身の姿が朧に透けている事に気付く。指先の先に透ける地面は、今しがたまで雨が降っていたかのような感触を宿していた。
この景色に、見覚えがある。
この景色の、匂いを知っている。
綾の目尻に涙が浮かんだ。
──あたしがまだ、能力者じゃなかった頃の。
記憶、だった。
今の綾が持つ、物質を故意により爆破させるという──一般からは掛け離れた異能力。それは何も、彼女が幼い頃から宿していたものではなかった。否、宿していたのかも知れないが、少なくとも表面化はしていなかったのだ。
そして彼女の家は、平穏だった。
ともすれば、平穏すぎる程に。
それ故にだったのかも知れない。ある日を境に異能力を宿した綾は、家の中での居場所を失った。優しかった母親は、自らの子が宿した能力を畏れ、何よりも己を慈しんでくれた父親もまた、異物を見る眼差しを綾へと向けた。妹は幼いが故に、その能力を魔であると呼んだ。
皆瀬の家に、綾の居場所は消えた。
平穏は異質を受け入れる事が出来なかった。
頬に涙が伝う。
意図して、過ぎ行く毎日の中で封じ込めた記憶が、今目の前に在った。一番望むものと言っても過言ではないだろう、──家族の優しさ。温もり。
いつから触れていないのか、綾はもう忘れかけている。
──母さん。
触れたい。
綾は半透明の指先を伸ばす。
触れたい。
触れたい。
伸ばして、そして、
光が、弾け、──。
「──触れちゃダメですよって言いませんでしたか」
背に温もり、腕に微かな痛みが走った。
煙い。
頭の上から降った低い声色に、綾は思わず泣き濡れた顔もそのままに見上げた。
「き、きと…ッ!?」
「ヤグラの光は、その人の一番弱い部分に憑くんです」
綾の伸ばした指先の直ぐ近くに、ツキノヤグラの表面があった。
「憑かれれば、それはもう妄執に近い。…封じたくても封じられない。無理矢理光に照らされる記憶は、その人間を一番蝕むんですよ」
何処か怒りを含んでいるような声で、キトラは綾を見ようともせずにツキノヤグラを見据えていた。口元に加えられた煙管から煙が伸びている。
綾は呆然とその様を眺めていたが、やがてキトラが不意の溜息と共に、
「離します。──いいですか」
と、言った。
ツキノヤグラへと伸ばされた綾の腕を、キトラが押しとどめるかのように握っている。漸くそれに気付いたかのように、綾は妙な声を上げてそれを振りほどいた。痛かったでしたらすいません。笑みもなくふざける様子もなく、淡々と言ったそれに、痛いに決まってるじゃない──綾はそれだけをぎりぎりと絞り出した。
月光。
煙い。
綾は慌てて涙を拭った。
「…そ、その、これは…」
「染みたみたいですからねえ。──真水で洗うのがいいですよ」
「…は?」
相変わらず、キトラは綾を見ない。
「──ですから、煙草が染みたんでしょう。無理もない、馴れないンですから涙も出ます」
ミネラルウォーター持って来てますから洗って下さい──。
無理に擦った所為で、僅かに赤く染まった綾の目元を、相変わらず無視したままキトラはビニールシートの方向を示した。──気付いていない訳が無いのに、それを突きつけないのか、この男は──。
綾は唖然としつつも、やがてそれに従った。
駆け出した綾に、キトラはやれやれとツキノヤグラの先を見つめる。
水音。
どちらかと云えば、目を洗うと云うよりも顔を洗っている綾がくしゃみをした。
「キトラは…一人で寂しくないの」
然程離れていないから、良く声が通る。
振り向かずに、キトラは苦笑した。
「寂しいですよ。たまにね」
「──え」
「…なんか失礼ですねえその反応は」
私だって人恋しい時はありますよ──。そう続けたキトラは頃合いだと綾を振り返る。
「予想外ですか?」
「…よ…予想外、です」
思わず敬語になった綾は少々赤面した。
──うわあ、何か悔しい。
口の片端を釣り上げたような笑みを浮かべているキトラは、今はもう間違いなく遊んでいた。言い返そうと綾が口を開く。──しかし。
「…でもまあ、ホントにね。──寂しい時はありますよ」
見たことの無い笑みが一瞬浮かび、その後にはもう閉ざされていた。
言葉を失う。
沈黙。
「──ま、思い出すのはこんな日に限りですけどねえ。って言いますか、綾サンもよもぎ団子の消化手伝って下さいよ」
ひょいと、纏う空気を──故意に変えたキトラが笑った。
「じゃなきゃオミヤゲですからね、これ。一人で全部食べて大きくなって下さい」
「ぶッ──ば、バカキトラ! 凄い失礼! あり得ないくらい失礼ッ! それハタチの女性に言う事じゃないでしょッ!?」
「大丈夫です、私の視点から見て綾サンはハタチじゃないですから」
「キトラぁあ!」
親指さえ起てたキトラに半ば掴み掛かる綾は、一先ず彼の髪をぐいぐいと引っ張り乍ら、一瞬動きを止めた。
「──ありがと」
ぼそりと。
聞こえない程度に言ったのは自己満足の為。
綾は再度キトラ苛めを続けにかかる。キトラからはやめてくださぃいと今更情けない声が発せられた。
「もう言わない?」
「い、言いません──言いません、…多分」
この野郎絶対言いやがる。
確信めいたものが綾の中で翻るが、まあそれもと諦めて綾は座り込んだ。
笑顔を向ける。
そして気の抜けた笑顔が返ってくる。
「じゃ、あたしも飲んでみよっかな。お酒ちょーだい」
差し出した、借り物の漆の猪口に、キトラははいはいと日本酒を注いだ。片手に酒を持ったまま団子に手を伸ばす。よもぎの香り。そして、夜の香り。
口に含んだ酒の芳香は、今しがた見た記憶すら幻であったのだと綾に言い聞かせた。
苦笑。
「──かなしいくらいに綺麗ね」
「秋、ですからねえ」
合わせるように、自らの猪口にも酒を注ぐキトラが、それを月へと向けた。乾杯。小さく言われたそれに倣い、綾もまたそう告げる。
変わらず、月光は降り注いでいる。
何も語らないまま、ただ、静かに。
了
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【登場人物】
- PC // 3660 // 皆瀬・綾 // 女性 // 20歳 // 神聖都学園大学部・幽霊学生 //...
- NPC // 狐洞・キトラ // 骨董屋店主 //...
- NPC // 赤猫 // 悪魔 //...
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