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こぼれるは月光の花
――眠れねぇ。
10月初旬の、涼やかな夜だった。
このマンションは駅前の立地にしては静かで環境が良く、今夜は天候も良好である。寝苦しかった真夏の一時期を思えば、かなり快適な睡眠が約束されるはずなのに。
目を閉じても、眠気は訪れない。かえって神経が研ぎ澄まされていく感じだ。
嘉神真輝は何回めかの寝返りを打った後で、とうとう飛び起きた。
チェック柄のパジャマ姿のまま、くわえ煙草で窓を開ける。
部屋からは、くっきりと形の良い半月が見えた。満月にはほど遠い月齢であるのに、煌々と明るい。
――そういえば、中秋の名月ってのは、必ずしも満月じゃないんだったな。
ぼんやりと、そんなことを思う。
機会があったらマンションの住人たちとお月見を、と思いながら今日に至っている。「中秋の名月」というのは旧暦の8月15日のことであし、「仲秋」と考えて満月にこだわるなら9月28日ということになる。どちらにしても時期は過ぎてしまっていた。
(月と地球の公転軌道の関係なんですよ。新月から満月までの日数が15日とは限らないので、そうなるんです)
以前、神聖都学園の職員室で、同僚の女性教師がそう教えてくれた。
(それでですね、ココが肝心なんですけど)
重大な秘密を打ち明けるように、真輝に顔を近づけて彼女は言った。
(中秋の名月は、六曜でいえば必ず「仏滅」になるんですよ!)
(それがどうしたぁー!)
(あら。豆知識として話の種になるかなって思ったのに)
美術教師である同僚は、歴史にも文学にも造詣が深いのだが、さまざまな風習や伝承などの雑学にも詳しい。
真輝をかまうついでに色々な知識を披露してくれる。
――あんまり、役に立ったためしはないけどな。
ふうと煙を吐きながら、苦笑したとき。
異変は、起きた。
「あいや」
急激に伸びた長い髪が、ぱさりぱさりと肩を滑り落ちる。
背に感じるのは、4枚の翼の出現。
「まいったな。またかよ」
取りあえず煙草を消してから、洗面所の鏡で確認してみる。
鏡は、長い髪を引っ張りながら困惑している、パジャマ姿の智天使を映し出した。
「……いーんだけどさぁ。なかなか自分で制御できないってのが不便だよなー」
真輝はときどき、こんな姿になってしまう。その原因は、未だに解らない。
「まあ、どうせ眠れなかったところだったしな。せっかくだから、文字通り羽根でも伸ばそっか」
ベランダに続くサッシを勢いよく開ける。
すでに風を求め、翼は大きく羽ばたいていた。
たとえばその日、眠れぬ少女がいて、部屋の窓からそっと夜空を見上げたとしたら。
彼女は幸運にも、目にすることが出来たろう。
長い髪をなびかせて、半透明の翼に月光を受けながら飛翔する、智天使の姿を。
「いい眺めだねえ」
月に向かって上昇すれば、砕かれた宝石のように星々が煌めく。
高層ビルの上に翼を休めて見下ろせば、天上の星に負けじと輝く東京の夜景が広がる。
行きつ戻りつ、空中散歩を謳歌していた真輝は、はたと重大なことに気づいた。
「やべ。煙草、持ってこなかった」
……そっと覗いていた少女がいたとしたら、がっくりと肩を落としそうな台詞である。
「しゃーねえな。いったん帰るか」
愛飲しているKOOLはちょうど切らしていて、部屋にもストックはない。財布から小銭を取り出して、再び夜空に戻った。
近所の街の上空をふらふらと飛びながら、自販機を探す。
「よし! まだ販売中だ。……しかしまぁ、喫煙者の生きにくい世の中だよな。増税は真っ先に煙草代を直撃するしさー」
自販機でライターも購入してから、アスファルトの上にあぐらをかいて煙草に火をつける。
「……と。邪魔だな」
長い髪がさらさらとなびいて、顔を横切る。煙草を吸うのにさしつかえるので、真輝はぶつぶつ文句を言いながら三つ編みを始めた。
「さて」
一服して立ち上がれば、どこからか甘い香りが漂ってくる。
「……ん? この妙に美味そうな匂いは……。そっか、金木犀か。ご近所で庭に植えてる家、たくさんあるもんな」
そういえば――と、真輝は思い出す。
かつて、やはり同僚から、月を彩る花の伝説を聞いたことがあったのだった。
――月には桂花の大木があるんですって。あ、桂花って、金木犀のことです。秋の月が美しい金色なのは、金木犀が満開になるからなんですよ。
――ふーん。で、月に咲いてるその花が、何で地上にもあるんだよ?
――月宮殿に住む女神さまが、花や実を落としてくれたんだそうです。地上の人々のために。
――女神ってのは、お節介なのが多いんだな……。
高く地上を離れても、花の芳香は思いがけず強く真輝を追いかけてくる。
江戸城跡、皇居周辺、六本木通り――
東京に咲く金木犀は、想像以上に多いのだ。
香りに満ちた光の海を泳ぎ、都会の空を飛び続けた智天使は、やがて――
「あれ……? あの神社に、金木犀なんてあったっけ……?」
そこは通勤時によく前を通る神社だった。境内の樹木の種類など気にしたことはない。
しかし、ひときわ華やかな香りに誘われて近づけば、それはたしかに金木犀だった。
樹高10メートル以上の大木である。おそらく樹齢は1200年以上にもなろう。
「そっか。大きすぎて、かえって気づかなかったんだな」
伸びた枝は円形に広がり、まるで柳のようにその先を地表に垂らしている。
花があまりにも満開なので、重みで枝がしなっているのだ。
そっと幹に触れただけで、はらはらと、金色の雪のような花弁が降り注ぐ。
編んだ髪にも、広げたままの翼にも、小さな花が積もる。
見上げれば葉と枝を透かして、月の光も降ってくる。
花と月光の乱舞に、真輝はしばらく目を細めた。
――ねえ。
どうしても行くの?
どうしても?
転生の門をくぐって、人間の世界へ。
……私を、置いて。
月光が、何かを囁く。
それはとても近しい、誰かの声に似ていた。
喚起される記憶は、遙か天上の世界。懐かしいはずの誰かを、しかしどうしても思い出せない。
この、天への郷愁めいた気持ちは何故だろう。自分は、何者だと言うのだろうか。
天から降りてきた? 月の女神が地上に落とした、金木犀のように。
「俺には、わからん」
握りしめた右手には、まだ何本か残っているKOOLの箱。一本取り出して、ちょっと失礼と大木に断ってから、火をつける。
「でも、俺は俺だってことには変わり無いしな」
苦笑いして吐いた紫煙に、黄金の花が舞う。
「金木犀――月の桂とも言ったっけ? お月さん色の花は、故郷を映して咲くのかねぇ」
ぽつりと呟いてから、慌ててあたりを見回す。
「……誰も聞いてないよな? 柄にもなくセンチになっちまった」
こりゃこの花のせいだな、うん。
ぽりぽりと頭を掻いてから、真輝は再び飛翔した。
――くわえ煙草のまま。
髪や翼やパジャマに、たくさんの花を積もらせたまま。
天の星と地の星の狭間を。
4枚の翼が大きく羽ばたくたびに、金木犀は地上にふりこぼれる。
今宵、東京に降る桂花は、マイペースな智天使の落としものであった。
――Fin.
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