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『闇夜の修行』
夜闇の中、まるで全ての生物が存在しないかの様な静かな空間があった。
そこにある音は、世界の音のみ。
いっそ鮮やかと言える漆黒は、通常の人であれば足を踏み入れることも敵わない山中にあってこそ、一層映えるのだろう。
その山中を更に進むと、大層荘厳な雰囲気を醸し出している滝に出る。
濤々と、そして蕩々と、この世の果てまで落ちて行く様な水の流れが、その滝からは溢れていた。
時は深夜にもなる。
滝は、獣すら喉を潤すのを躊躇う程の冷ややかさを持っている筈だ。
なのに。
その滝の壷当たりには、やたらとごつい影が二つ見えた──。
「そこで鬱陶しく丸まっているカブト虫。聞いても良いですか?」
何処か怒りを抑えた様な重低音が、水音のみの世界に響いた。
発したのは、二つの内、幾分細身──だがしかし、通常よりは遙かにごつい──の影。
その重低音のなすところは、あくまでも問いだ。
が。
「……」
「聞こえませんか?」
無言が返った後、更に怒りを深めた声がする。
その声はさっさと応えろと、そう言下にするまでもなく言っていた。
だが。
「……」
いい加減にしろと言いたかった。
彼には良く解っている。
問いかけた相手は、聞こえているにも関わらず知らん顔をしているのを。
子どもではあるまいに、と考え、半ば投げやりに、そして仕方なしに付け加えてやる。
「……黒炎丸様」
「何だ? ゲールマン・サイズ」
漸く応えが返った。
はっきり言って、腹が立つ上に情けない。
これが我がライバルかと、そう言いたかった。
高々名を呼ばないと言うだけで返事をしないと言うのかと思う彼だが、その黒炎丸と呼ばれた相手にしてみれば、名を呼ばぬ無礼な輩にかける言などないと考えているのだ。
とまれ、漸く返った応えに、彼──ゲールマン・サイズは、胸から溢れ出る不満を、率直ではなく遠回しに言ってみる。
「私達は、何故こんなところで滝に打たれているのです?」
身を打つ水は、恐らく一般的な人類であれば『もう、凍えそう。お願い助けて…』と言いたくなるだろう。
だが彼らは人ではない。
メタリックなブルーに覆われた金属の身体を持つ楓希・黒炎丸、そして闇より尚暗い黒に覆われた金属の身体を持つゲールマン・サイズ、彼らは機械兵だった。
少々の水温くらい、屁でもない。
「修行だ。解りきったことを聞くな」
答える鉄の塊は、眉間──そんなものがあるのなら、だが──に皺を寄せて五月蠅いとばかりに言い放つ。
再度言うが、彼らは機械兵だ。
水温など、大した苦ではない。苦ではないことをするのが、何故修行に当たるのだ?
それがゲールマン・サイズには、甚だ疑問だ。
普通、修行と言うのは、血反吐を吐く様な思いをして新たな高みに己を引きずり上げるものの筈だろう。
『五月蠅いのはこっちです…』と、口に出さないまでも顔に思いっ切り出している真っ黒な鉄の塊二号こと、ゲールマン・サイズは、その思いを知れとばかりに地を這う様な重低音で言い返した。
「……錆びます」
「気合いがあれば、錆びる訳がないだろうが」
即座に返る言葉に、一体どうやったらそんな自信が持てるのかを、彼は問い糺したかった。
「……嘘吐きは泥棒の始まりと言いますが?」
いや別に、世界征服を前にしている自分達が、たかだか嘘吐きになろうと別段構いはしなかったが。
ゲールマン・サイズは、理解不能な言葉を吐く相手に呆れた。
「D、貴様は己の気合いが足りんのを、人の所為にするつもりかっ?!」
「気合いと錆は、何のつながりもありません。屁理屈は聞き飽きました」
だから一体何故水浴びなのか、それを知りたかった。
「貴様、悔しくないのか?」
黒炎丸の痛恨の声音から察するまでもなく、ゲールマン・サイズは相手が何を言いたいのかを確信していた。自分自身、思い出しても腹に据えかねることだから。
「ええ、勿論悔しいですとも。あの様な小娘に敗れるなんて、この上なき恥ですから」
「なら黙って、俺の言う通りにしろ!」
「筋が通っていれば、私は何もこんなことは言ったりしません。破れて修行のし直しと言う理屈は解ります。しかし、何故この様なところで、私が水に打たれなければならないのかと言うことが、理解に苦しむところなのです」
「貴様は馬鹿か? それとも阿呆か?」
「…何ですって?」
少なくとも、黒炎丸にだけは言われたくなかった。知らずの内に、声音に殺気が籠もる。
「ふん。俺達が何故負けたかも解ってないだろうがっ!」
「私達の実力が及ばなかったからでしょう」
「…あの小娘の言ったことを、覚えているか」
不意にこちらを向いた黒炎丸と、微かに視線が絡み合う。
そして彼から問いかけられたことは、当然覚えていた。
あれほど悔しいことを言われたのは、ゲールマン・サイズが生まれて一年で初めてのことだったから──。
世界征服の為、その一環としての道場破りを、何故このライバルであるゲールマン・サイズと共にしなければならなくなったのかは、既に忘れた。
某所での戦いの後、彼の師によって、更なる身体を得ることになった。その前後を含め、数多くの道場破りを行って来たが、この様に圧倒されたのは初めての経験だ。
世界征服四人組の中で、自分の実力は、このゲールマン・サイズ共々群を抜いているものだと自負している。
なのに──。
この目の前の人間の強さは一体なんだ?
まだ小娘であるのに。
まだ高校生であり、また女でもあると言う事実から、実力を見くびっていたのは、確かに二人の失態だった。
しかし一太刀交わし、即座に考えを改めたのだが、それはもう遅かったらしい。
互いに声すら掛け合う余裕すらなく、ただ振り下ろされる太刀を、時に身を伏し、時に空を飛んで避ける。避けきれぬ僅かなそれは、剛健な身体すらそぎ取る様にして裂いて行った。
ゲールマン・サイズは大鎌を振りかぶり、必殺の一撃を繰り出すが、それは目の前の女子高生にせせら笑いを浮かべながら弾かれる。
『ならば…』
ぐん…、と、黒炎丸は魔力を溜め、握りしめている災機へと充填する。
ゲールマン・サイズが、これから来るものの煽りを食わぬ様、黒炎丸の背後へすっと引いた。ちらりとその様子を伺うと、彼は己の力が及ばなかったことを苦々しく思っているのが見て取れる。
高まるその魔は、周囲を染め変える勢いで一点に収束して行った。災機を手にしている黒炎丸は次に来る解放の時を感じ、また、身体中に漲る魔に魂の底から震える。
一拍。
「食らえっ、我が必殺の──流魔、爆斬っ!!」
怒声にも似たそれと共に迸る魔の奔流。
炎機が歓喜に身震いするかの様に揺れ、主である黒炎丸にも伝播する。
真っ直ぐ、黒炎丸の心にも似た勢いで少女に突き進んでいくそれは、尽きることを知らぬマグマの様だ。
闇夜よりなお冥い魔は、進むにつれ更に力を得て爆発し、そして……。
『勝った…』
黒炎丸が、心で呟いた直後。
少女が花の咲き誇る態で鮮やかに笑った。確かに少女を襲った筈の魔は、瞬時に方向を変え、怒濤の様に突き進む。
「何っ?!」
「──?!」
目の前に、己が発した魔があった。
互いに瞠目したものの、それ以降は声を出す間もない。
冥い冥い力が、その顎(アギト)を裂けよとばかりに開ききり、二人を飲み込んでいく。己の放った圧倒的な力が黒炎丸とゲールマン・サイズを丸ごと食らうと、咀嚼するかの様な感覚が二人を襲った。
圧迫する力は、二人から声を奪い、力を奪い、矜持を奪った。
助けてくれと懇願することすら忘れ、眩い闇の中、何時しか二人は意識を手放していた。
──。
気が付くと、二人は地べたへと這い蹲っていた。身動き一つままならぬ黒炎丸は、彷徨う視線の先に華奢な足を見る。
「くそ…っ」
懸命に起きあがろうとする黒炎丸の上から、静かに声が落ちた。
「私に勝とうなど、思い上がりも甚だしい。良く聞け、機械兵よ。所詮機械は機械だ。人間を越えることなど出来ない」
また腹が立ってきた。
あの数瞬を思い出すと、今でもゲールマン・サイズは、凶暴な感情が沸き上がるのを抑えるのが難しい。
怒りにまかせ、この静かなる夜を叩き切ってしまいたかった。
「俺は考えた。人と機械、何処が違うのだと」
嫌な予感がする。
「人は、『心技体』にして完全となる」
「それで?」
「技も体も、俺達は作って頂いた時、最初に得ている」
ゲールマン・サイズは、自分達を作った師に思いを馳せては、束の間の陶酔に耽る。
「だが心は違う。つまり、技も体もあるが、心が足りないのだ。……一部だけだが」
その一部と言うところに、黒炎丸の未練を感じた。
そもそもがそう言う未練を感じると言うことにして、すでに足りないとは言えないだろうと心の中で突っ込んだ。
「心技体だ、D。これが俺に…いや、俺達機械兵に足りず、あの小娘に負けたと言うことだ」
やっぱりそう来るか…と、ゲールマン・サイズは溜息を吐きたくなって来た。
「そして古来より、人は心──、いや、精神を鍛える為に、滝に打たれると言うだろうが。だから俺達は、ここで滝に打たれ、精神を鍛えているんだ」
そう清々しく言う黒炎丸は、自分の出した結論に、至極満足している。
が。
ゲールマン・サイズは怒鳴りたかった。
『何故自分の実力不足を認められないのですかっ!!』と──。
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