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<東京怪談ノベル(シングル)>


例えば最も死に近い生

 傘など持ち歩くような習慣は全くと言って良いほど持っていなく、常澄は大通りの、光が洪水のように溢れる街道を抜け出し、裏路地で一人濡れ鼠となって落書きの多く描かれたコンクリートの冷たい壁に身を預けた。
(酷い雨になりそうだな…)
 少しは水を弾いてくれそうな皮の手袋も今は天からの涙の為、元々黒い皮が更にじっとりとした黒い色に変色していて気持ちが悪い。
 そう、それはまるで人の血の、冷たくなったそれのような。
「く…っ!」
 ぐらり、と常澄は生理的な嫌悪感と共にアスファルトに尻餅をつく。座り込んでしまった場所が場所なだけに、雨音でその細い身体を預けたという微かな物音はしなかったが、降りだした雨によって出来た水溜りの水が常澄の身体に纏わりついている服に染み込み、妙な重さと不快感に襲われる。
 皮で出来ている手袋の湿り、そして皮独特の張りのある感触がまるで人間の肌のように感じて、投げ捨てるようにそれを脱ぎ、片手にぶら下げ持つと壁に沈み込んだ。
 頭皮がコンクリートに擦れるのが頭蓋骨から直に伝わってこれも気持ちが良いものではない。ただ、常澄はその不快感から逃れる事も既に億劫であり、虚ろに輝く茶色の瞳を琥珀のように淡く、降りしきる雨の一滴一滴を追っては路地の暗がりのせいか、はたまた元の肌の色なのか、死人の様に白くなった自分の指先を見ては目をそらした。

 そもそも、常澄自身雨の日自体が嫌いと言うわけでは無く、ただ、それらから連想させられる様々な物が彼の気分をいつも暗くさせている。
 外気に触れればすぐに冷たくなっていく冷気は自分という『生き物』と外の世界を明確に知らしめて、その様はまるで龍ヶ崎常澄―――つまりは自分という人間の生き方や記憶そのものであり、神を使役しながら同時に悪魔とも共存する召喚士そのものにも見え、さしずめ体内から出る命を繋ぐ吐息が生であり陽ならば、その生を飲み込み自分の領土としている冷たい外気は死であり陰のようにも考えられる。
(くだらない)
 常澄は自分の考えを振り払うように濡れてしまった服や先程脱いだ手袋を醒めた瞳でまじまじと見ると、
「これじゃあ入れる場所なんてないか…」
 と、一人ごちた。

 確かに、衣服も濡れ、しかも今しがた悪魔召喚をしその場に居た人間という人間に奇怪だという目で見られてきたばかりでもあり、雨宿りだからといってそうやすやすと人前に出る気にもなりはしなく、
「気持ち悪い…」
 何もかもが今の常澄には気持ちの悪い物にしか感じる事が出来ず、そう感じる事がどれだけ悲しい事かも彼自身痛い程よくわかっているのだ。
 だが、それでも異人種であり人の命をエサとして生きるモノから人を守り、常澄の召喚した悪魔や常澄自身、そして普通に生きていれば到底知ることの出来ないモノを見、嫌悪する人間達の顔が思い出され、吐き気を覚えては目を伏せると、雨の滴るままにうなだれこれで良かったのかと自問自答した。
 異人種とて生きるために狩るというモノが居ないわけではない、その生きる行為を邪魔してまで命を救われた人間がはたして助けてくれた側に罵りの言葉や恐怖を表して良いのだろうかと、顔を歪ませる。
 確かに、守ってくれと願い出たわけでもない一般人を守るという事もあるのだ、恐怖を表すなという方がどうかしているし、常澄もそこまで欲を出しているわけではない。常に神や悪魔と共存している彼にとって、自分が人の位置に居るものなのか、或いは悪魔など人ではないものの位置にいるかという、どっちつかずな立場が最も不安な事であり、恐れることでもあるのだから。―――だからこそ、そのどちらかに自分が区別された場合、今まで共に微笑んできた人物達が恐怖の念で何処かへ行ってしまうのではないか、そしていわれ無き差別によって全ての居場所を奪われるのではないかと酷く怯えるのだ。

 細い喉が冷気と雨水のせいで冷たくなり、ぐっ、と生唾を飲み込み顔を上げる。
 茶色い前髪が華奢な輪郭と整った顔に張り付き、時折それが邪魔になり冷えた指ではらえば、触れる指先の消え入りそうな生命の温かさが額に触れ、死んだ母親の指もこの微かな暖かみから次第に冷たくなり最後には全く温度を感じさせなくなった時、横たわったあの遺体のようにもう何も話す事も笑うことも無い『モノ』となってしまうのかと思うと常澄は泣きたくなった。

「お、龍ヶ崎じゃないか?」
 黒い革靴が水溜りを蹴りながら近づいてくる。
「…武彦か」
 豪雨と表通りの光で見えなかった人影が常澄に近寄ってくれば、今にも飛ばされそうな古い傘をさした探偵の男が物珍しそうに彼を見ている。
「随分寒そうな事をしているな? 趣味か?」
 からかっているのか、座り込んでずぶ濡れの常澄に近寄ると、探偵―――草間武彦は常澄の顔を覗きこむ。
「武彦には関係ない」
 顔を覗きこまれるという行為は小さな子に大人がするものと思え、あまり良い気分はしなく目を潜めて壁の方を見れば、濡れた髪がまた顔に張り付き軽い苛立ちすら覚えた。
「ま、こんな所にいるのもなんだ。 バーにでも寄って温まらないか?」
「…バー?」
 草間がため息混じりに提案した場所に常澄はあまり立ち寄ったことが無い。
 なにせ召喚士に関する本や知識になる物全てに時間を費やしてきたのだ、無理も無く一瞬『バー』という単語すら理解に苦しみ、それが同じように悪魔などを相手取る同業者の人間が行っている場所だという情報からある程度の事は理解し、草間を見た。
「お、結構行く気みたいだな。 ほれ、立てるか?」
 虚ろだった常澄の瞳がほんの少しだけ生気を取り戻したのを見、草間はコンクリートやアスファルトと一体化しているその身体を起き上がらせる。
「随分と濡れたな。 こんな所に座っているからだぞ」
「武彦も、随分と世話焼きだな」
 肩を借りるようにして立ち上げてもらえば、足は雨の跳ね返りで濡れていた草間の肩やほんの少し触れた場所全てが常澄の衣類の吸った水に汚れてしまう。
「俺が世話焼き? おいおい、それは俺の妹の間違いだろう」
 元々雑用的な仕事が多い草間なので雨に濡れることに関しては興味が無いのか、常澄を立ち上がらせると自らの傘もたたんで髪の毛に天の涙を滴らせた。
「傘はいいのか?」
「どうせ濡れちまったんだ、バーに入ったらタオルでも借りりゃあいいだろう」
 店は自宅ではないだろうと、常澄は心の底で思ったが草間があまりにも至極当たり前だというように話しているので、また何かの腐れ縁付きの店が出来たのだと小さく息を吐く。

「この路地をもう少し行ったところだ、この時間だからな…客もまばらだろうし、貸切に近いぞ」
 衣服に吸い込まれていく水や顔に跳ねる水滴をものともせず、草間は常澄をひっぱるようにして歩いていく。常澄はというと、草間の背中を何処か遠くで傍観しているような気分になりながら、重くなった赤いコートを引き摺りながらその後を追った。

 闇へ闇へと吸い込まれるようにして細い路地を進むのは何故か暗い穴に落ちているような錯覚すら覚えたが、建物と建物がそれだけ近くになり草間や常澄に襲い掛かるようにして降っていた雨をしのいでくれ、二人のずぶ濡れた衣服だけが身体の一部のように張り付き、滑稽に見える。
「いらっしゃいま…随分と濡れてこられたご様子で…」
 暗いコンクリートやシャッターの閉まった古い店等が延々と続くのかと思えば小さなオレンジ色の光が踊る路地に辿り着き、草間はその店らしき建物のアンティーク調の扉を勢い良く開けた。
 勿論、濡れ鼠になったままなので草間が空けた瞬間、出迎えた店員らしき黒髪長髪の男性は草間と常澄を交互に見た後、盛大なため息をつくと奥に居る店員にタオルを持ってくるようにと指示を出している。
「好きな所にでも座ってやれ、この時間なら誰も来ないだろう」
 渡されたバスタオルで頭や首を拭いたかと思えば、シャツを肌蹴てその中まで拭きながらカウンター越しの真ん中を陣取った。
「拭き方が年寄りくさい」
 常澄は草間の隣の席に腰を落ち着けると、彼のタオルの使い方に呆れたのか、小声でそれだけ言うとカウンターかせ見えるグラスから反射する光に目をやる。
 頭からかけられそのままにしてあるだけのタオルだったが、土砂降りの中初めから傘もささずにいた常澄の張り付いた水分を吸い込み既に一度水につけたように湿っていた。

「ご注文は如何致しましょう?」
 タオルを持ってくるよう指示した男はバーテンだったらしく、カウンターに戻ってくると二人にオーダーを促す。
「ノルマンディを頼む。 っと、龍ヶ崎はどうするんだ?」
「…あ」
 慣れた仕草でオーダーを言ってのけた草間と違い、常澄はまだ飲酒すらしたことが無く、よって酒の名前も何が美味であるのかも知らない。
「なんだ、おまえ。 もしかして酒は始めて…」
「う、うるさい!」
 草間が言葉を言い終わる前に常澄は店に備え付けられたメニューらしき紙を取ると、それを眺める。もっとも、眺めてみても人名やあまつさえ山の名前までもが書かれているだけのメニューは常澄を混乱させるだけであったが。
「ああ…わかった、わかった。 俺が適当に頼んでやるから、黙って座ってろ」
 草間も常澄がメニューで固まってしまったのがわかったのか、その紙をとりあげ元の位置に戻すと、
「そうだな、沈んでいる時は一気に飲むが普通だろう」
「ここは居酒屋ではないのですよ」
 思考をめぐらせる草間に、カウンターからの冷静な指摘が入る。
「わかったよ、…じゃあこいつにも同じものを頼む」
 「そんな事どっちでもいいだろう」と言いながら、草間は自分と同じものを注文した。

 最初こそ草間に子ども扱いそれているようで少し納得の行かない常澄であったが、びっしょりと濡れた身体が店内の暖かな照明と、草間武彦という人間と行動を共にするという感覚で少しづつであったが尖った空気が次第に和やかになっていくのがわかり、グラスとスプーンが織り成す鈴のような音色を小さな音楽のように聞いている。
「どうぞ」
 草間と常澄に黒のカクテルが注がれたグラスが差し出され、そのグラスを手で包むように持つと暖かな温度が冷え切ってしまっている常澄の指先を熱くさせた。
「暖まるだろ?」
 草間はグラスに息を吹きかけ、少しだけ冷ますようにしてから一口飲む。
 常澄もそんな草間を覗き見ながら同じように口にすれば、彼が興信所でよく口にしていたコーヒーのようなほろ苦い味と甘い味が柔らかく口の中を暖めてくれた。
「まぁな」
 聞き取れるか取れないかの返事をすると、常澄はまた暖かいグラスを口に持っていく。
「それで、お前はなんであんな所に居たんだ?」
 何気ない草間の問いが少し大きく聞こえてしまうのはどうしてだろうか、常澄はふと、路上で雨にうたれていた時に思考した事を走馬灯のように思い出す。

 そう、今日は運が悪かった。
 たまたま人間と接する事の無い悪魔を見かけ、条件反射のように同じものを召喚した常澄は周囲の奇怪な視線を気にも留めずにただその場にいた人間を守るためだけに力を行使し、そして退魔し終えた時に初めて、守った筈の人間達の恐ろしい物を見るような目つきに気付き、その場を逃げるようにして路地に入ったのだ。
 元々一人で雨の中を歩いていた事もあり、土砂降りになった頃常澄の身体は死人のように冷え切っていて、そんな最悪の状態から思い出した幼い頃の記憶である、すぐ側で起きた母親の死。当事、死という言葉すらはっきりと理解しなかった常澄にとって自殺という形でこの世のから去ってしまった母の存在は大きい。

 そう、いくら召喚士になったとて、この世のものではない神や悪魔は召喚できても、同じようにこの世のものではなくなってしまった母は召喚できないのだ。

「おい、大丈夫か?」
 夢から覚めるように隣を見ると、草間があっけに取られたように常澄を見ている。
「武彦には関係ない」
 振り切るようにして常澄は飲みかけのカクテルを一気に流し込む。
 暖かなアルコールが激流のように喉を走り、視界が湾曲し、沈んでいた気持ちが何かどうしょうもなく滑稽に思えてきた。
「もう一杯同じものを頼む」
 今度は常澄がバーテンにオーダーし、カウンターにもたれるようにして肘をつく。
「武彦。 世の中は矛盾しているな」
「ま、矛盾しているから世の中なんじゃないか?」
 常澄の何気ない一言に、草間はさも当たり前だというように返してきて、それがこの草間という人間の一つの答えなのではないかと思った。
 神と悪魔、矛盾した能力を使う常澄自身も一つの世の中に生きる人間であると。
「ま、考えていても仕方がないだろう。 今日は土砂降りで酷い目にあったが、明日にはきっと晴れているさ」
 それは何の事を指しているのか、常澄には理解こそ出来たが気持ちの浮き立ったこの状況ではなんだか笑い話のように聞こえてしまい、バーテンが先程と同じノルマンディをカウンターに置くと同時にグラスを回しカクテルを冷ますと、また一気にあおった。
「お、おい龍ヶ崎!」
 いきなり飲み始めた連れに草間の驚く声が聞こえたが、アンティーク作りの店内と照明がゆらゆらと揺れ、常澄はそれら全てが面白くなってしまい小さく笑う。
「なぁ、武彦」
「あ、ああ…なんだ?」
 ひとりきり笑うと、常澄はその澄んだ声で、
「さっきの、明日にはきっと晴れているというあれだが…」
「ん? あれがどうしたんだ?」
 目だけは店の天井にぶら下がる照明を見つめながら瞳に輝く琥珀色をさらに高級に光らせながら口調だけ笑い草間に言う。
「誰かの受け売りだろう? 以前誰かに同じ事を言われた気がする」
 言ってからまた可笑しさがこみ上げてきて、生ぬるくなって気持ちの悪い衣服をものともせず、常澄は身をよじりながら笑った。
「ったく、それよりも龍ヶ崎は酒乱か…?」
 常澄の笑う横で草間は扱いづらい事になってしまったと頭を抱える。
「ちゃんと家まで送って差し上げてくださいね」
「あ!? 俺がっ!」
 「当たり前です」というバーテンの声を草間は観念したように聞くと、整った顔を綺麗に微笑ませ柔らかな笑い声を出している常澄の腕を自分の肩に回させ、
「くそう、酒の代くらいこいつに払わせれば良かった…」
 くすくすと少年からまだ大人になったばかりのような青年を見て悪態と、そしてほんの少しの微笑みを見せた彼はカウンターになけなしの金を置くと店のドアをくぐった。

「龍ヶ崎、今度は俺におごれよ…」
 常澄に聞こえていない事は承知だったが、煙草に当てたいととって置いた金までもが飲み代となって消えてしまい、意識をまともに保っていない連れに、ついつい未練の言葉がついてでる。
 外は土砂降り。傘も草間がたたんだまま。
 だが、きっと家に帰れば着替えはあるであろうし、明日になれば雨もやんでいる事であろう。