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<東京怪談ノベル(シングル)>


映し世の夢

 頭が痛い。体が重い。
 門屋・将太郎は、もうろうとする意識を必死につなぎとめながら歩いていた。
 自分がどこに居るのかもわからない。仕事場である神聖都学園の中だとは思うのだが、場所の認識が曖昧だった。
 それだけではない、だんだんと、周りの感覚も曖昧になってくる。足の感覚がなくなったとたんに、将太郎は床に倒れ込んだ。
「門屋先生!」
 聞こえてくるのは、教師の声。どこかで聞いたことがあるのだが、名前が思い出せない。
「大丈夫ですか?」
 教師は将太郎に近づくと、その肩をゆする。
 大丈夫だ、と口を開いて言おうとした。
「警察沙汰には、しないでくれ」
 しかし、口から出てきたのは全く違う言葉。何が警察沙汰なのか、そもそも自分はどうなったのか、思い出そうとしても、記憶が阻害されたかのように曖昧だった。
「先生!」
 教師の声が遠くなる。あぁ、ヤバイかも、と思った瞬間には、将太郎の意識は遠ざかっていた。
 意識が完全に闇に沈む瞬間、何かが見えた気がする。とても大切な何か。
 しかし、それを確認する前に、門屋の意識は途切れていた。


 何となくの思いつきだった。学校の中でいちばん空に近い場所に行ってみよう。なぜそんな気分になったのか分らなかったが、将太郎の足は自然に屋上へ向っていた。
 もともと屋上は人が入れないようになっている。職員室からカギを借りて、屋上へと続く扉の前に立って、変なことに気づく。
 誰も入れないはずの扉のカギが、開いている。
「おっかしいなぁ」
 誰かが屋上に行ったときに、カギをかけ忘れたのか。軽くそう考えつつ、将太郎は扉を開ける。
 だだっ広い屋上は、風が強い。白衣の裾をはためかせながら、一歩、二歩、と足を進める。空を見上げてみれば、雲ひとつない青空が広がっていた。やっぱり来て良かった、と実感する。
 ぐるん、と視線をまわして後ろを見る。そこで見えた光景に、将太郎の目が見開かれた。
 自分以外は誰も居ないはずの屋上。そこに、一人の男子生徒が居た。しかも男子生徒は、屋上の柵を乗り越えようとしている。その先には、虚空が広がっていた。
「おい!」
 男子生徒に声をかけつつ、早足に近づいていく。こちらに気がついた男子生徒が、感情を宿さない視線を向けてきた。感情が平坦になるのは、自我が抑圧されている証拠、と将太郎の頭の冷静な部分が囁く。
「落ちたら痛いぞ!」
 我ながら微妙なセリフだが、男子生徒にはこれが効果あると思った。感情を押さえつける生活は心の現実から遠ざけていく。それが進めば、死さえも幻想のように思え、そして楽になろうとする。それを止めるには、男子生徒を現実に引き戻す必要があった。
「……あ」
 自分が落ちようとした先を見て、男子生徒がぽかんとした声を上げる。その顔に、わずかながら恐怖が浮かんだ。
「落ちても死ねなかったら、これからもっと辛い目にあう!」
 将太郎の説得に、男子生徒の体がぴくりと振るえた。その隙に男子生徒に近づくと、柵から乗り出していた体を引き戻す。
 男子生徒は、自分が何をされたのかもわかっていないような顔で呆然としている。恐らく、自分が死のうとしたことすら気づいていないのだろう。
 それを覚まさせるには、少し痛い目にあわせるしかない。
 パンッ!
「っ!」
 男子生徒が、痛む頬を押さえる。男子生徒の頬を張った将太郎は、その肩をつかんでゆさぶった。
「痛いだろ、それが生きてるってことだ」
 陳腐なセリフだな、と内心苦笑する。しかし、そう言うことしかできなかった。
 男子生徒の目が見開かれる。唇が震えると同時に、その瞳から涙が零れ落ちた。
「う……うわぁぁぁぁぁぁ!」
 男子生徒はせきを切ったように泣き出す。将太郎は、その背を優しく撫でた。


「とはいっても、何とかしないとな」
 体育館裏の壁によりかかりつつ、将太郎は小さく呟いた。
 泣きじゃくった男子生徒は、保健室につれていて休ませている。そのときに、男子生徒をこのようにした犯人の名前を聞いておいた。男子生徒はなかなか話そうとしなかったが、死ぬ勇気があって告発する勇気がないわけはないだろ、という説得に、口を開いてくれた。
「呼びましたか、先生」
 やがてやってきたのは、三人の男子生徒。いかにも普通の学生、といった感じの彼らが、あの男子生徒を虐めていた相手だった。
「よぅ」
 軽く手を上げて挨拶するが、その声には剣呑な響きがこもっていた。人の尊厳を踏みにじり、心を壊すイジメは何の理由があっても許すことはできない。将太郎の声の調子に気づいたのか、生徒たちが表情を固くした。
「ストレスたまってんのは分るが、人を傷つけて発散するのはよくないな。どうせなら、俺のところに来いよ、そのためのカウンセラーなんだからな」
 後半のセリフは軽い口調で言ったが、生徒たちの表情が硬いまま。すっ、と一人の生徒が前に進み出て、将太郎をにらみつけた。
「おっさんに何がわかるんだよ」
「わかんないから止めんだよ」
 将太郎の声が、剣のごとき鋭さを帯びる。しかし、生徒はひるむ様子もなく、暗い光のこもった目でこちらを見ていた。その生徒の合図で、残りの生徒二人と三人で、将太郎は取り囲まれる。
「おっさんみたいな偽善者が、俺は一番嫌いなんだ」
「偽善でもなんでも、いいことすりゃいいことされるんだ」
「それが嘘だって分らせてやらぁ!」
 叫びとともに、生徒三人がいっせいにとびかかってきた。よけきれず、したたかに腹を殴られる。体を折り曲げたところで、後頭部に痛みが走った。視界が一瞬暗転し、地面に倒れ込む。
 閉じていた目を開ければ、生徒の一人が石を持ってこちらをにらんでいる。その瞳には、慈悲も情けもなく、ただ、無軌道な怒りのみが渦巻いていた。
 こんな奴がいつから、と将太郎は思う。こんな奴がいるから、人は人を愛せなくなり、傷つける。自分のような精神科医がどれだけがんばっても、人は人を貶めつづけ、世界は確実に破壊に傾いている。
 終らせてしまえ、と将太郎の心の奥が囁いた。全て終らせてしまえば、世界は少しでもよくなる。
 その言葉を信じたのは、将太郎が激怒していたからだろうか。それとも、例えようのない喪失感を感じているからだろうか。
 どちらにしても、将太郎がとる行動は一つだった。意識しなくても使える自分の力、それを、意識的に限界まで活性化させる。
「お……おぉぉぉぉぉ!」
 将太郎の叫びとともに、風が巻き起こる。同時に、生徒たちが頭を抱えて苦しみだした。
 将太郎の放った異能は、生徒たちの記憶を削り、そして同時に、将太郎の心も削っていた。
 十数秒後、将太郎はゆっくりと立ち上がった。生徒たちは倒れふしたまま動かない。
 保健室に戻って、このことをあの男子生徒に伝えよう。急速に輪郭を失っていく記憶のなか、それだけがはっきりと残っていた。


 差し込む光に、ゆっくりと目を開ける。
 周囲を見回すと、白い壁と天井が見えた。どうやら、病院に居るらしい。
 そこまで考えて、ふと、疑問が浮かんだ。自分はなぜ病院に居るのだろう。
 そして気づく。
「俺は、誰だ?」
 自分のことが全く思い出せない。それだけではない、今まで経験した思いでも、全く思い出せなかった。
「俺は」
 言葉に詰まる。何も思い出せないが、言いようのない悲しみだけが、心の中に残っている。
 門屋将太郎と呼ばれていた男は、もう居ない。

 END