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<東京怪談ノベル(シングル)>


灰色の世界

 そこは傷だらけだった。
 原形を保ってはいたが、薄汚れた壁や床などが、そこがどれほどぞんざいに扱われたかを示していた。
 そう。そこは――廃棄され、壊れかけたビルの中だった。
「随分とボロボロだな……」
 清掃用具――青いバケツとモップを左右それぞれの手に持って、肩から愛用の鞄を下げた斎藤和貴が、やはり薄汚れた扉の脇でぽつりと呟いた。
 この『夢』の主は、一体どれほどの苦行を抱えているのかと、疑問に思うほどだった。そしてだからこそか、機能面で見れば殆ど壊れていないことが、逆に痛ましくもあった。
 一つ気づく。ある程度は無事なのだから、
「電気とか、点かないかな」
 もしかしたら点いてくれるかもしれない。
 夢の掃除人としてかなりの経験をつんでいる和貴だったが、やはりこの暗い灰色の世界で動くのは少々心許なかった。それに、常に万全の準備で向かうのがプロというものだ。
 夢の中の姿であるすらりと伸びた肢体と、いつもより高い視点でキョロキョロとあたりを見回し、電灯のスイッチを捜索する。だいたい、こういったものは――
 案の定、壊れた扉のすぐ横、即ち自らの真横に白く二つ並んだスイッチを見つけた。
 それに手を伸ばして切り替えると、カチリという音に呼応するかのように電灯がチカチカと白い光を点滅させ、点いた。どことなく健気なビルである。
 このビルに潜むものは何だろう。
 悪夢というものは、個人の夢の中で何らかの形になるものだ。それが化け物になるか、敵対人物になるか。風景自体である可能性もある。
 あまり大きくないビルではあるが、建物として見るならばビルというだけでそれなりの大きさだ。どこに潜んでいるかもわからない。探索には細心の注意が必要だ。
 囲まれないようにと、逃げ道を意識しながら部屋を歩き出す。
 どうやら、この階には悪夢はいないようだ。
 ならば階段をと、扉まで出戻る。その影から外を見れば、すぐ目の前に上へ続く階段があった。そして下へ続く道はないということは、ここは一階であるということか。
 二階への階段はやはり薄暗く、そして汚れている。近づくのが躊躇われたが、そういうわけにもいかない。
 和貴が意を決して歩き出した――その矢先に。
 どこかで見覚えのあるような不意に緑色の小さな光が、暗闇に浮かんだ。それも二つ。
「にゃー」
 その声がヒントであり、証拠であり、原動力だった。
 何も考えずに手を伸ばして、その声の主をむんずと捕まえる。
 もちろんそいつは抗議の悲鳴で「ふぎゃー!」などと叫ぶが、彼は意にも介さない。
 その心はすでに虜である。
「ああ……」
 どことなく恍惚とした声をあげて和貴が触るのは、肉球であった。動物の足を保護する、ぷにぷにの。
 声の主は小さな黒猫だった。
「照れるな。別にいいじゃないか」
 ふにふに、ふにふにふにふに。
 和貴、一心不乱に黒猫の肉球を触る。
 ――その姿が隙だらけであることは、誰の目にも明らかだった。
 彼の耳に、その音色は多分届かなかった。
 彼の目に、その行程は多分見えなかった。
 だから恐怖を感じたというより、本能で動いたといった方が正しかったのかもしれない。
 ごとりと落ちたソレと同時に――切断に一瞬遅れて――鮮血が噴出す。鼓動にあわせてぴゅっぴゅっと噴出す。
 腕が、右腕が、斎藤和貴の右腕が、何者かによって切断された斎藤和貴の右腕が音を立てて階段を転げ落ちる。
 その現実を頭の中で受け入れる前に、和貴は動いていた。それとも自らの肉の切り裂かれる感触を頭のどこかで意識していたのか、腕の中の猫を放り投げるように捨てて走り出し、生きた左手で死んだ右手を握手するような形で確保して、その勢いで一階の部屋に逃げ込む。
 扉を入る時に横目で見た敵は、どうやら三匹いるようだった。小さな猫と、大きな豹と――もう一匹は紅い眼を確認することしか出来なかった。
 勢いを殺さぬままに、文字通り転がり込んで机の影に隠れる。
 失血で意識が薄い。目が霞む。世界がぼやける。視界の端にぼやけて見える己の青い髪が、飛び散った血の赤に濡れ入り混じって、現実を見失いそうになる。
 泣きそうになりながら、必死でオーバーオールの胸ポケットから手帳を引っ張り出して、右腕を脇に挟んだまま残った左手で文字を書き連ねる。
 ペンなど持つ余裕がない。流れる血がインクだ。人差し指それ自体がペンだ。
 書き上げると、そうすればくっつくと言わんばかりに腕の切断面を押し付けあう。激痛が走るが低下した意識レベルの前には無意味だ。
 彼が血文字で描いた幻想は――。


 * * *

 それは唐突な依頼だった。
 割れた眼鏡が痛々しい、草臥れたスーツを着た男――三下忠雄に声をかけられたのが発端だった。
 彼は、いつも様々な人間に苛められているような人物だ。そして、それをなんとかしたくとも無力な自分に対する憤りから悪夢を見るようになったようだった。それは人にではなく、自分に対する想いである。
 夢の掃除をして欲しいと、涙ながらに頼む彼の姿はどうしようもなく哀れで、断りようがなくて、報酬の話さえせずに店長のもとに連れて行ったのだった。尤も、報酬は元々微々たる額しか受け取ってはいないが。
 和貴自身には、夢の世界に入り込む能力はない。
「わいは夢の運び手、そんで自分らは掃除人や!」
 と豪語する店長に送り込んでもらっているのである。
 あまり詳しい話を聞かずに夢に送り込んでもらったものだから気が付かなかったが、このビルは多分、三下そのものなのだろう。そして、あの三匹の夢魔が彼の女王様の象徴ということか。
 ぼろぼろになりながらもまだ働ける、白い電灯が印象的なビル。可愛らしいがどこか危険な猫、美しいが獰猛な豹。
 もう一匹はわからない。だが用心しなくてはならない。
 怒れる女のヒステリーほど、怖いものはない。

 * * *

 誰かに呼ばれた気がして和貴は目を覚ました。
 失血から意識を失ったのだろう。長い夢をみていた気がする。だが、血の渇き具合から見て、本当に気を失ったのは一瞬だったらしい。 すでに腕は結合されていた。
 斎藤和貴は手帳に書き込んだ空想を二十秒間現実にする能力を持つ。
 彼の手帳に書かれた血文字は『傷のすぐ治る身体になる』といったものだった。腕がある状態を空想したのではなく、腕が治るまでの経緯を空想したのだ。
 二十秒が経過し、能力が途切れたとしても、すでに回復した腕は再び落ちることはない。
 一つ問題があるとすれば、貧血状態からの回復が成されていないことだろうか。血を造ろうにも、彼の細い体にはその材料がない。
「ふらふらする……」
 鞄の中の『熊』を撫でながら言う和貴の声には、確かに力がなかった。
 だが、ここで依頼を放棄するわけにはいかない。悪夢を殺さなくてはならない。
「そういえば、何で追いかけてこないんだ? 僕は深手を負ったはずなのに」
 ふと思いついた疑問。だがその答えは、なんとなく予想がついていた。止めを刺しに来れないのではなく、ここに入って来れないのではないか。そして、ここと外の違いは――。
「光、かもな」
 あれだけ健気な男をさらにどん底に突き落とすのは、さすがに地獄の閻魔様で良心の呵責がある、といったところか。
 傷だらけのビルであっても甲斐甲斐しく働く電灯に、悪夢も少々手を焼いているのだろう。
 それが正しければ、この場にいる限りは安全である。だが、先ほどからなんだか電灯が弱くなっている気もする。
 時間がない。
 ならば早急に手を打たなくてはならない。敵を討たなくてはならない。
 そういえば――少なくとも敵のうち二匹は猫科だ。ならば『アレ』が使えるんじゃないかと、和貴は思った。
 鞄を漁る。あった。なんとなく持ち歩いていて正解だった。
 勝負は二十秒。一太刀で切り捨てねばならぬ。
 手帳を持ったまま、のそりと壊れかけた扉に近づく。そこが境界線だ。そこを越えれば、――始まる。
 深く息を吸って、深く吐く。そして扉の先に広がる闇を見据え、彼は異常な速さで手帳に何かを記した。
 そして鞄から取り出した何かを持って、闇へと手を伸ばす。
『チッチッ』
 という音と、何かの香りが鼻腔をくすぐる。ある種、血の匂いよりも芳しい。
 彼が取り出したのは特製ねこじゃらしだった。猫の好む音を発し、さらにまたたびまで仕込まれた優れもの。知り合いに作らせたものだが、その効果は――
「来たな」
 抜群のようだ。独特の足音が近づき――来た!
 またたびに走る黒猫と豹の姿は、よく見ればどこか違和感があった。大きさの狂ったパーツにやせこけた腹の猫、長い長い人工物のような爪と潰れた鼻の豹。猫になろうとして猫になりきれていない、豹になろうとして豹になりきれていない、そんな醜悪さだ。
 これなら遠慮は要らないなと言わんばかりに和貴は足をぐいりと振り上げ、そのまま振り下ろす。
 単純な踵落しだ、人並み程度の身体の柔らかさでも出来る、何の変哲もない踵落し。
 だがその威力は人並みなんてレベルではなかった。音からして違った。
 ドパンと、武道の達人の踏み込みと象の足音の中間みたいな音を立てて、またたびに懐く豹の頭を踏み砕いていた。そしてそのまま黒猫の頭を返す足で蹴り上げる。
 頭を盛大に吹き飛ばされて、二匹の悪夢はただ静かに消え失せた。
 和貴の明らかに体格を超えた力は、体重増加と脚力強化といったところか。小さいものを相手にするには、踏みつけるのが手っ取り早い。
 失血により集中力を欠いていたとしても、和貴の実力は相当なものなのだ。この間十秒といったところか。油断さえしなければ、和貴の夢の掃除人としての腕は、一晩で何人もの夢を掃除できる程の実力であるのだ。
 だが、やはりその細い身体に、あの出血量の負担は大きいらしい。
「やっぱり、ふらふらする……」
 額に手をやって軽く頭を振りながら、振り上げた足をゆっくりと下ろす。勢い良く降ろしたら、転んでしまいそうな眩暈がした。
 壁に凭れ掛かる。意識が白濁して、視界が定まらない。瞬間的な運動で、再び貧血状態になったのだろう。
 壁に沿って、ゆっくりと腰を降ろすと、自然と顔が上を向いた。
 紅。
 そして闇。
 自らを丸呑みできそうなほどに開いた口腔が降りてきて、ぱくんと音を立てて閉じた。
 次の瞬間そこにいたのは、ただ大きな蛇が一匹。その腹は、酷く膨れている。
 ちろりと、満足そうに大蛇の赤い舌が走った。
「書くのは速いんだ」
 どこかで声がした。
 蛇の腹が大きく引き伸ばされ、弾ける。
 鳳仙花のように広がる血飛沫の中に、青い髪の青年が立っていた。蛇の歯に引っ掛かったか、その身体はいくつかの裂傷を負っていたが、そう酷い怪我ではなかった。
 ――食われる瞬間、和貴は咄嗟に手帳に空想を記したのだ。彼の筆記速度は、異常なまでに早い。
「掃除完了っと」
 そう思ったのだが。
 しばし、時が経つも、普段と違い現実に帰れない。
「もしかして、ビルの清掃もか……」
 げっそりと呟く。最初から覚悟はしていたが、三匹の悪夢を片付けた後には、少々つらい物ではあった。
 ふぅと、溜息を一つついて、和貴は手帳に何かを書き込む。
 モップとバケツを拾って、掃除を開始した彼の動きは、常人では捉えられないほどに速かった。
 だが、途中で貧血も相まって、目を回してへたり込んだのは、彼と熊だけの内緒である。

 * * *

「ちぇ。蚯蚓腫れになってるし……」
 和貴は、現実に戻り、三下に思いっきり文句をいってやった。
 切断されたあとが蚯蚓腫れになったとか、三匹も悪夢がいたとか、清掃が大変だったとか、挙げ尽くせないほどの文句だった。
 不満を全てぶち撒けられて、一心に土下座で謝りながら報酬を差し出す三下は、やはりどうしようもなく哀れだった。
 だが、依頼はそれで終了だ。関わる必要はもうない。もともと、和貴は人に干渉するのも干渉されるのもあまり好まない。
 彼が好むのは――。
「さて、あの店にでもいくか。やっぱ一等賞だよ、猫は」
 その独り言に対してかどうかはわからないが、どこかで抗議の声が上がった気がした。
「あ、熊は特賞だから、心配するなよな」
 和貴は何かを取り繕うように、ぽんっと鞄の中の猫のぬいぐるみの頭に手を乗せて、ぷらぷらと町へ繰り出すのだった。



 −了−



/////
はじめまして。刀凪と申します。
色々とテンパってしまい、大変遅くなってしまい申し訳ありません……。

内容に関しましては、面白い設定だなぁと、楽しく書かせていただけました。
……三下の扱いが他のWRさんとちょっと違うかもしれないですが。
また、ご依頼文章全体から判断して、多少生々しい描写もありかな、と判断させて頂きました。

お気に召して頂けましたら、是非また声をかけてくださいませ。
この度はご依頼ありがとうございました。

   //……ちょ、ちょっと堅苦しすぎたかな……!!
   //肉球、いいですよね!!