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<東京怪談ノベル(シングル)>


かの書、彼女を呼ぶ



「どうでしたか」
 そう、尋ねられて彼女は薄く微笑む。



 視線を上からまっすぐ前に向けて、目の前の建物を確認する。ここに自分を招待した者……いや、モノが待っているのだろう。待っているのが人とは限らない。
 少しだけ視線を左の方向にズラすとそちらには蔵もある。なんとも古風で、都会では見ない光景だ。今となっては数少ない貴重な光景だろう。
 手元の葉書を再度確認する。そして、口元を引き締めて挨拶の言葉を口にした。

「ようこそ」
 小さな言葉を発したのは、この屋敷に住む老婦人だった。汐耶は……綾和泉汐耶は、葉書をもう一度確認してから少し驚く。
「この葉書は……?」
 この人が自分に?
 そんなわけはない、と汐耶は頭で否定する。文面が男性のものだ。目の前のこの女性ではないことは明白だろう。
 婦人はふわりと笑い、葉書を見つめる。
「……そうですか。連絡は受けていたのですが、今回は女性とは思いませんでしたのでね」
 連絡、という言葉で汐耶はすぐにとある古本屋のことを思い浮かべる。だがそれは、汐耶の発した問いへの答えではない。
「その葉書は『あれ』が出すのです」
「あれ?」
「時には『彼』であり、『彼女』であり、『坊や』であり……それは千差万別。なので、面倒なので『あれ』と呼ぶことにしております」
 やんわり微笑んで言われるが、汐耶には理解不能だった。
「今回あなたを呼んだのは『彼』だったようですね」
「彼……」
「彼と言いましても、まあ様々なタイプがおりますので……。あら、その文面は寡黙な彼からね」
 葉書をちらりと見遣っただけで、婦人はそう呟く。
 汐耶は不思議に思いつつも告げた。来訪の理由を。
「ここには……なにが? 私を呼んだ『彼』とは誰のことですか?」
「まあ落ち着いて。彼はあなたを待っています。こちらへ」

 扉の前に立ち、奇妙な感覚に一瞬だけ襲われる。大きく心臓が鳴ったような気さえした。
 汐耶のその違和感など、いつものことなのか、それとも気づいていないのか、老婦人は笑顔で扉を開いた。
 質素な部屋だ。何もない。
 いや、それは違う。
 たった一つある。部屋の隅に、文机が。
 この文机も部屋と同様に質素だ。まるで部屋と同化しているような錯覚さえ感じる。
「『彼』を」
 老婦人の声に目を見開いた。文机の上には本が一冊。さっきまであったのかどうかさえ、汐耶には判別がつけられなかった。
 だが老婦人の言っている『彼』、または『あれ』というのはおそらくあの本のことだろう。
「では、私は失礼しますね。ごゆっくり」
 背後で扉が閉まる。いつ自分が部屋に入ったのかさえわからなかった。
 汐耶はゆっくりと近づいてその本を手に取った。黒い表紙は多少擦り切れている。まるで何度も誰かが読んだかのようだ。
 手に馴染む感触に、微笑む。
「……私を呼んだというのは、キミね?」
 本は沈黙している。当然だろう。本は喋りはしない。本は記されたものを語るのみ。
 表紙を開き、汐耶は驚いてしまう。本に記された文字は葉書の筆跡と全く同じものなのだ。
 書き出しはこうだ。
 たった一頁に短く一言。
『綾和泉汐耶』



 扉を出てきた汐耶は、目の前に立つ老婦人に多少驚くもののなんとか笑みを浮かべた。
「疲れたでしょう? お茶を用意したわ」
「あ、いえ……」
 断りかけて思い直す。せっかくだしと思い、汐耶はその好意に甘えることにした。
 ゆっくりと座って飲むお茶は不思議と落ち着いた。心に不思議と広がる波紋をしずめる……この安心感。
「どうでしたか」
 そう、尋ねられて汐耶は薄く微笑む。
「大変、勉強になりました」
「勉強? 彼……何を言ったのかしら」
 汐耶の答えに婦人は戸惑い、慌てる。まるで身内が客人に失礼なことをしたかのような様子だった。
 汐耶はゆっくりと、お茶をすする。そして、それから口を開いた。
「他にもいるんですよね、あの本に触れた人は」
「……そうよ。『あれ』はね、読む人を選び、その選んだ人に必要なことを記すの。誰かが言っていたわね、今の自分に相応しいことを教えてくれる素晴らしい本だと」
「なるほど……」
 短く言う汐耶が、少しさがってきた眼鏡を押し上げる。
「あの寡黙な彼が人を呼ぶことは滅多にないの。あなたが女性では初めてね」
 読んだ内容を噛み締めてから、汐耶は笑う。
「そうですか……。それは、光栄です」
 光栄なことだろう。きっと。
 婦人は少しだけ目を伏せる。
「何か迷いでも?」
「迷いではないんですよ。不安でもないですし……」
「そうなの。最近は迷いの多い人が多かったから……。ごめんなさいね、詮索して」
「いいんです。目が覚めたような、気持ちで……だからおそらく、今の私は少しぼんやりしているんです」
 婦人はわけがわからないように首を傾げたが、すぐに気づいて納得したように苦笑した。
 汐耶はお茶の水面に映った自分を見つめていた。なんだか少し暗い表情をしている。
「落ち着くまで少しかかると思うから、ゆっくりしていってね。そうだ……ほかの来訪者さんたちのことを教えましょうか」
「はい、ぜひ」
「一番愉快だったのはね、元気な彼女が呼んだ人で…………」



 汐耶は屋敷を後にする。少しだけ振り向き、それから前を向いて歩き出した。
 おっとそうだと気づいて、携帯電話を取り出す。良かった。ここは圏外ではないようだ。
 手早くかけると、相手が出た。
「私よ」
 汐耶は少しだけ、笑う。
「今回はどうもありがとう。紹介がなければここに来ることができな……。ええ? 何が書かれてあったか?」
 教えるなんて冗談じゃないわ、と汐耶は笑みを浮かべて言葉を続けた。
「それは、今の私に必要なことよ」
 そう。
 あれは必要なことを記した。今の自分に、いや……今だけではなく、今後の自分にも必要なもの。
 アレは汐耶の『過去』を記した。まるで日記を読んでいるような感じだったのだ。
 幼い自分が理不尽に感じた怒りや、面白い本に出会った時の喜び。様々な過去を記した。
 ぼんやりと憶えていた過去を明確にしてしまったのだ。
(たまには振り返ってみろってことかしら……。それとも、初心を忘れるな?)
 いいや違う。
 あの本は自分の感情が激しく動いた日ばかりを記していた。教訓なのかもしれない。そして、もしかしなくても……。
「じゃあもう切るから」
 ピッと軽い音をさせて通話を切り、汐耶は大きく息を吐いて歩き出した。
 もう振り返らない。
 最後の頁に記されていた言葉が、胸に染みる。
『本が好きだ』
 そうよ。私は本が好き。
『だが、本も汐耶を好きなのだ』
 もしかしなくても……代表としてそれを伝えてくれたのだろうか。