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荊姫:第三夜
うだるような暑さも過ぎ去った頃、アトラス編集部に封書が届いた。
三下はそれを一通ずつ確認して、碇編集長に差し出した。
「あら、幽霊退治ですって」
碇編集長はそそくさとその場から背を向けようとする三下に向かって“待ちなさい”という意味を込めて語気を強めた。
「はあ…幽霊、ですか…」
仕方なく振り向いた三下は、捕まってしまったとばかりに肩を落としている。
「ホラ、覚えてない?数ヶ月前に妙な御伽噺と一緒に眠り姫を守ってくれっていう依頼文書を出してきた魔女の洋館について書いてあるわ」
碇編集長は長い指で封を切り、中の書類を確認した。
そりゃ覚えてますけどぉ…と肩をすくめる三下を意に介した様子も無く、彼女は続ける。
「ふうん…どうやらあの洋館には幽霊が出るそうよ」
「その退治ですか…」
「みたいね。差出人は無記名だわ」
「そういえば、前回は眠り姫を守ってくれっていう依頼じゃなかったですか?あれから少し時間が経ちましたけど、何かあったんでしょうか?」
「さぁ…その後については私も何も聞いてないわね。何かあったのかしら。あったとしたらそれが今回の幽霊退治にでも繋がるって所かしらね」
楽しそうに言う碇編集長とは裏腹に、三下はまた人選に頭を悩ませることが容易に想像できて、項垂れた。
「アトラス編集部様へ
初めまして。
突然ですが、街外れの洋館に出る幽霊についての依頼をさせていただきたく、お手紙を書かせていただきました。
私は特別な霊能力などは持ち合わせておりませんが、気配を感じることぐらいでしたらできます。
随分前に爆発事故のあった研究所の所員たちの寮として使われていた洋館の前を、先日通った時に、どうも不快なものを目にしてしまったので、これはアトラス編集部様にお話しするしかないと思い、慌ててペンを取りました。
今、あの洋館は街の噂など、聞くところによると無人の筈なのですが、私が通りかかったときには門から向かって左側の一階の一番端の部屋に明かりが燈っていました。
ようく目を凝らしてみると、霧靄のような女性の影のようなものがふらふらと浮いていました。
これは私以外にも街の人が多数目撃しているようで、恐らく見間違いではないと思います。
どうにも気味が悪いので、アトラス編集部様に退魔、もしくは解決願えませんでしょうか。
何卒よろしくお願いいたします」
■
セレスティは三下からその手紙を受け取ると、簡単に読み流した。
筆跡鑑定でもしてやろうかと思ったのだが、手紙は以前見た洋紙ではなく、コピー紙に綺麗な明朝体で印刷されていた。白い事務用の長四形封筒にはアトラス編集部様へと、やはり黒で印字されている。
「やれやれ…これじゃあ一方的な鑑定は不可能ですね」
セレスティは日の当たる書斎で呟いて、そばにあったスキャナから、その手紙をパソコンに取り込んだ。
画像処理ソフトを開くと、大画面に手紙を映し出し、プリンタのスイッチを入れる。
そこで手元の電話がベルを鳴らした。
「ああ、もうこんな時間ですか…」
時計を見てから電話を取って、受話器の向こう側と二三言交わすと、一度電話を切った。そして今度は別のボタンを押して、階下にいる部下を一人呼んだ。
「今日この後の会食後、夜から出かけます。準備をしておくように」
受話器を上げないまま、マイクに向かって言うと、かしこまりました、と声が聞こえた。
そして今の手紙を見ながら、もう二つほど簡単な用事を言いつけて、offボタンを押す。
時刻は夜十時を過ぎていた。
常澄が暗がりを一人で歩いていると、後方から強いライトが当てられた。一瞬自分の苦手な類の物かと思い身を強張らせたが、どうやらそれは単に車のヘッドライトだった。
やたらに胴体の長い、ダックスフントのような車が常澄の横をすり抜けていく。
――ここは一本道なのに…
そんな思考をめぐらせるが遅いか、黒い車は常澄の10メートルほど前でキッ、と短く品の良いブレーキ音を立てて停車した。
黒い翼のようにドアが開いて、表れた銀色が街灯の光を反射した。
「……めけめけさん」
何かのおまじないのように口の中で呟いた。決してそれが自分を助けてくれるわけではないが、傍に得体の知れる物が何かいるというだけで、そしてその名前を呼ぶだけで、少し気持ちが落ち着くような気がする。…あくまで、気がする、だけではあるが。
――神魔の類は怖くない。否、神魔の類『も』怖くない。
常澄は何とか頭の端で言い聞かせようとした。彼が認めたくない『怖いもの』はつまり、要するに、足がなかったり、宙に浮いていたり、決め台詞が『うらめしや〜』とかだったり、ちょっと体が透けちゃってたりなんかするやつだ。
丁度、今車から降りてきた、透けそうに色素の薄い美丈夫のような。
「この先は一本道ですよ」
「ぅわーーーーっっ!!」
考えたくないことを考えていた頭の端が、連れのめけめけさんに齧られているのも何のその、相手の言葉が聞こえるか否かで常澄は声を上げた。
暗い路地裏にそれは響き渡って、銀髪の相手も絶句しているようだった。
しばし沈黙。
「あの、何か大変なことがありましたか?」
「ぎゃーーっ!」
「この先にあるのは」
「わーーーっ!!」
「大きな洋館ですよ」
「ひえええ!!」
「…お話ができない方でしょうか…」
言いながら車椅子で近づいてくるそれに、常澄は返答にならない返答をするばかりだった。ああ、頭の端が痛い。
「あの、もしかしてアトラス編集部からの派遣の方ですか?」
「わぁああ………あ?」
とうとう頭を抱え込みそうになったところで、常澄は聞き慣れた単語にやっと反応することが出来た。
「この先はさる洋館への一本道ですよ。そこへ何か御用でもおありですか?私は幽霊退治に行くのですけど」
親切にも、もう一度同じことを言ってくれているのに、常澄は初めて聞く事柄のように思えた。
そりゃあ今の今まで絶叫にかき消されていた言葉なんて初めて聞くも同然であろう。
「ゆう、れい退治」
「そう、幽霊退治」
その単語をまともに言うのさえ嫌で、わざわざ言葉を切ってみるが意味は変わらない。
「私はセレスティ・カーニンガム。アトラス編集部からの依頼で今夜街外れの洋館に行くのですよ」
「ああ、なんだ…そうか…」
「あなたもですか?」
「ああ、僕も、その、退治に行く」
落ち着き払って答えて見せるが、相手、セレスティはその顔の奥に苦笑を隠しているようだった。
「宜しかったら車へどうぞ。短い距離ですがご一緒しませんか」
その、思ってもない誘いに快くのったのは、この暗がりで何か出てきそう、という不安が今齧られている頭の端にあったからかもしれない。
車の後部座席に、常澄とセレスティは肘置きを隔てて座った。
「足が悪いのか?」
「ええ、あまり強くないんです」
「悪気はないんだが……それで退治なんて務まるのか?」
「本当の幽霊退治なら、務まらないかもしれませんね」
傍に立てかけてある杖を見て問う常澄に、セレスティは答えた。
「本当…?」
首を傾げる常澄に、セレスティは、じゃあお話しましょうか、とフロントガラスの向こうに見え始めた瀟洒な門に目を向けつつ一つ息を吐いた。
■
「いらっしゃいませ」
肩掛けを羽織った女は二人を物静かに出迎えた。セレスティは少々吃驚した面持ちでその女性を見た。
「おや、初めてお会いしますね」
「はい、初めまして」
三十前後の女性は丁寧に会釈する。
「以前の魔女さんはどこへ?あなたは?」
「…妹のことですか?」
「ああ…あなたはお姉さまですか」
道理で、と呟くセレスティの後ろで常澄はその場所をぐるりと見回していた。
古びた外観とは裏腹な近代的な内装。パソコンがあり、テーブルがあり、ファイルがある。
車の中で聞いた話どおりだと思った。
「妹は二晩目で惜しくもお役御免となりました。その引継ぎを私が引き受けました」
「あなたが二代目魔女というわけですか。妹さんはどちらへ?」
「この街を出てゆきました。姫を置いて」
「あんなに愛着がおありでしたのに…行方知れずということですか?」
「そうです。…私も残念です最後まで引き止めましたが、魔女にだって逆らえないもの、抗えないものがありました」
魔女は二人を動作でこちらへ、と促して、部屋の一室へ進路を取ったようだった。
二人の目の前に長い廊下が続く。
「一体どういう理由で妹さんはここを離れられたのですか?」
「…身体を壊してしまって」
「以前お話した時に睡眠も食事も摂っていないと言っておられましたがそれと何か関係が?」
「ある、でしょうね」
絨毯敷きの廊下は三人の擦れるような足音を吸い込んで、まだ先へと続いた。
「それで、あんたは実のところの魔女なのか?」
今まで話を黙って聞いていた常澄がやっと口を開いた。
「はい。魔女の姉は魔女ですよ」
自分より後ろを歩く常澄に。魔女は柔和に微笑んだ。
そこで廊下は終りを告げて、両開きの木製ドアが現れる。
魔女がそれを両手で開けると、さっきいた広間とはまた違う雰囲気の部屋があった。今度こそ外観に相応しい、重厚な木造りの長いテーブル、それに揃えた頑丈そうな椅子、そして部屋の奥には暖炉が煌々と燈っていた。天井からは古風なシャンデリアが釣り下がっており、両の壁には大きな絵画が堂々と掛けられている。
暖炉の前には一台のノートパソコンがあり、そのすぐ傍には人のある車椅子が停まっていた。
「この部屋だけ、外観に見合うように造られているんです。どうぞ椅子にお座り下さい」
言われて、常澄もセレスティも手近な椅子に腰を掛けた。
「外は冷えたでしょう?温かいお茶でも飲みながらお話しましょう」
魔女は盆に乗せたティーセットを持ってくると、それを二人の前に置いた。そしてポットを手に持つとカップの上で少し傾けて、茶を淹れる。
セレスティはふと向かいに座る相手に言った。
「緊張しておいでですか、龍ヶ崎さん」
「え?」
「お顔が強張ってらっしゃいますよ」
「い、いやそんなことはない。ちょっと寒いだけだ」
言うと、魔女が温まってください、と茶を差し出した。
「その車椅子の方は、以前の姫ですか?」
セレスティは茶を受け取ると同時に目線をそちらへ向けた。
「はい。肉体の年齢はもう齢九十を過ぎました」
「あなたが車椅子に座らせたのですか?」
「勿論です。妹と入れ違いで私がここに来ましたから」
魔女は老婆の姫が眠る車椅子を少し押すと、明かりの下にその顔が照らされるよう、二人の前に近づけた。
俯くように傾いた顔の表情ははっきりと読めず、膝の上に置かれた手の甲の皺でしかその老いを感じることができなかった。
「以前お会いした時より更に十年ほど過ぎておられるのですね」
セレスティは自分の車椅子より少し型の古いそれを見て言った。
「ここまで老いれば、あまり年など関係ないように見えるな」
「常澄さんの言うとおりだと思います」
魔女は車椅子の足元にあるレバーを踏んで、ブレーキをかけると、自分もその横に椅子を置いて座った。
セレスティと常澄が向かい合って座り、テーブルの上座に位置する場所に魔女は座る。
「さて…改めましてお二人とも来て下さってありがとうございます。これから二晩…と言いたい所なのですが、私は四夜目の魔女と以前の魔女との引継ぎ役です。ゆえに今晩一夜でお二人とはお別れです。ですから、これまでの二晩の整理、もしくは何か質問の応答を中心に三夜目としたく思います」
「分かった」
「分かりました」
暖炉の中の炭化した薪がゴトリと音を立てて、崩れる。
「最初に私から。頂いた手紙についてなのですけど、差出人はあなたですね」
セレスティは断言するように言った。
「どうしてそう思いますか?」
「ここへの道は一本道なのに『通りかかった』と書かれていた事から、わざわざこの屋敷を見に行ったように思えるのです。最もそれだけでは心許ないのですが、もう一つ。この手紙の字ですよ」
セレスティは持ってきた手紙を取り出してテーブルの上に置いた。
封筒から便箋を取り出して広げると、魔女も常澄も自然にそこを覗き込むように顔を寄せた。
「普通の明朝体じゃないのか?」
「それが、少し違うんです。魔女さん、そこにあるノートパソコンの電源は入っていますか?」
「はい。どうぞ。インターネットにしか使っていませんから型は随分古いのですが」
魔女は黒い旧型のノートパソコンを開くと、画面を相手に向けた。
その画面を少し操作してセレスティは文書ソフトを呼び出す。
この字体が、と簡単な文章を打ち、フォントを手紙と同じ物に変えると、魔女と常澄に見えるように傾けた。
「このタイプのフォントは数年前に市場から姿を消したものです。よって今このフォントが入っているのは当時のパソコンに限られるわけです。以前この屋敷に来た時、そう新しいパソコンは見ませんでした。殆ど世間に関心の無さそうなこの屋敷なら、こんな古いフォントが入ったパソコンがあっても不思議じゃありません」
「で、でもどこがどう違うんだ?僕には良く分からない」
戸惑ったように常澄が身を乗り出して、手紙とパソコンの画面を見比べる。
そこでセレスティはその手紙の中で使われているいくつかの平仮名を拡大した紙を取り出した。
「勿論良く気をつけなければ分からないでしょう。…たとえば『わ』や『お』などです。はね、はらいの形はこのフォントにしかないものです。特に『わ』は本来なら縦棒に引っ掛けるところが微かに外れているんです。そして、一度棒の外に戻る線が途切れている」
「なるほど」
常澄は大きな『わ』の文字がプリントされた紙をまじまじと見て、納得しているようだった。
「違いますか?」
セレスティは微かに笑って魔女を見た。すると相手は、感心したように息を吐いて
「御見それしました」
と苦笑した。
「ただふわふわ浮いていた、という原理が気になるところですが、これは幽霊の噂になぞらえての表現であると思います。こちらももしかしたら正解ですか?」
続けてセレスティが言うと、魔女は首を縦に振って肯定した。
「じゃあ次は僕が質問する」
常澄は『わ』をテーブルに置いて姿勢を元に戻した。
「どうぞ」
「どうして幽霊の噂なんて流したんだ?人に見られたことにしている意味は?」
「ああ、それは私も聞こうと思っていました。風の噂にここの幽霊のことは耳にしましたし…こればかりはあなた一人が蔓延させることなんてできないでしょう?」
セレスティと常澄が同じ質問を持っていたことに少し驚いた様子の魔女は茶を一口啜ってから言う。
「噂を流したのは私であり妹であり、また事故前の研究員たちです。この洋館の外観がこうなものですから、そういった噂を流しておく方が都合が良かった。誰も近づきたくなくなるような、不気味な噂なら何でも良かったんです。事実は小説より奇なりって言うでしょう?」
確かに、幽霊よりももっと不気味な事が行われていたこの周辺にはその言葉がピッタリ合っている。
「ただ、手紙に関しては、あまりにもこの荊姫のことと関係なさそうな文章にすると判ってもらえないかもしれないと思いました。部屋に電気がついていることを書いて、幽霊が容易に魔女と結びつくようにしたつもりです。…まあそれが、差出人が当の本人であるとばれてしまったわけですが」
魔女は苦笑して最後に締めくくった。
「あと、それから…四方の守護はもう良いのか?」
常澄が続けて質問する。
「ええ。良いんです。常澄さんは新聞は読まれますか?」
「は?」
唐突な質問に間抜けな声で返事をした常澄を見て、セレスティは、最初に出会った時のように、やはり表情の奥で笑っている。
「い、一応…読むけど…関係あるのか?」
「数日前、ここ周辺の記事を集めた見出しに、建物の取り壊し予告が載りました。今日からちょうど十日後に、大規模な爆破作業があります」
魔女は隣に眠る姫に自分の肩掛けを着せると、再び座りなおして常澄に言った。
「もしかして」
「ええ、取り壊されるのはこの洋館と隣の研究所です。大きな敷地なので一気に爆破して取り壊すそうです。常澄さんはお聞きかどうか分かりませんが、荊姫を守る必要があるのは、月齢と風向きが彼女の脳波と合致した時です。それを計算すると必ずしも一定の間隔で『その夜』が来るとは限らない。一夜と一夜の間が数十日開いてしまうこともあるんです。今回は偶々二晩目と三晩目が開いてしまいました。その間に取り壊し作業が決まったのです」
「それでは、三晩目が来る前にこの屋敷は取り壊されるということですか」
「セレスティさんの仰るとおりです」
でも、と常澄が言葉を挟む。
「それじゃあ今日でこの一件は片付くってのか?四夜って聞いたけどこれじゃあ三夜で終りじゃないか。それに、結局荊姫は僕たちが守ったことにならない」
「いいえ、ちゃんと四夜に渡って終結します。お二人にも勿論荊の役目をしていただきます。以前二晩よりずっと楽な方法ですが、それは最後に頼むことにしましょう」
そこで魔女は椅子を立つと、影にある戸棚から果物が入った籠を持ってきて、甘い物でもいかがですか、と笑った。
※※※
魔女は林檎を剥き始める。果物包丁を片手に、林檎は回転しながら赤いリボンを皿の上に落とした。
「魔女だからって毒の入った林檎はいただけないぞ」
「勿論ですよ」
常澄の言葉に、三十前後の魔女は少女のように笑って見せた。しかしその拍子に持っていた刃物が鋭く彼女の指を刺してしまった。
呻くこともせず、慌てて林檎を皿に置くと、魔女は椅子を引く。しかしそれをセレスティが止めると、上着のポケットからハンカチを取り出して、魔女の傷口に当てた。
「白いハンカチなのに、申し訳ありません」
「いいえ。魔女さんでも怪我をすれば痛いでしょう?」
セレスティが優しく言う。
白地に滲む赤を見て魔女は思い出したようにそうだ、と言った。
「妹が言っていましたよ。セレスティさんはとても紳士な方だと」
「それは光栄ですね」
血が止まるまでこのままで、と言ってセレスティはハンカチを魔女に預けると、姿勢を元に戻した。
何となく所在無くなった常澄は、剥きかけの林檎を手に取って、魔女の代わりにトントンと続きを切った。
大飯喰らいの相棒に、食うなよ、と釘を刺して。
「そういえば…改めてなんだけど、あんたは生きてるのか?まさか本当に幽霊じゃないよな?」
林檎の種を抜き終わってから、魔女に問う。
「生きてますよ。血が出るんですから。魔女といえども生身です。ホラ」
そう言って、魔女が怪我をしていない方の手を常澄に差し出した。
白く、薄い皮膚の下に通る青白い血管が見える。少し普通の人間よりも低そうな体温を持ったそれが、自分の手が触れるのを待っている。
「……常澄さん?」
差し出した手をそのままに、魔女はどこか躊躇っている風な相手を見た。
セレスティもどうしたものかと首をかしげている。
「い、いや良いんだ。生きてるならそれで、良いんだ」
常澄は取り繕うように言って、自分で切り分けた林檎を一片口に放り込んだ。
※※※
今日は日の出前にお帰りいただけそうです。
そう言って魔女は別の戸棚から瓶を取り出した。
セレスティと常澄が果物を口にした後、他愛のない会話を続け、気がつけば日付は変わっていた。
話したことといえば、この洋館で普段はどうやって世間の情報を仕入れているのかとか、常澄の隣にいるソレは一体何なのかとか、そんなことばかりだった。
「さて、少し荊のお手伝いをしていただきたいんですが…」
「やっと本題ですね」
魔女は瓶をテーブルに置くと、そのフタを開けた。
「この魔法の粉を一盛りずつ、この部屋の東西南北に蒔いて頂きたいんです。この粉が荊姫を守る荊になってくれます」
「何の粉だ?」
「魔法の粉です」
「分かりました。深くは聞かないことにしましょう。とにかく蒔けば良いのですね」
「はい。魔女には触れられない粉ですので、私が蒔くわけにいかないのです」
セレスティが常澄の問いを遮って言うと、魔女は瓶を二人に預けた。
「しょうがないな…何か蒔き方の決まりとかあるのか?」
「絶対に各方角同じ量で蒔いて下さい。なるべく素手で量りながら…」
魔女はそう言うとスカートのポケットから方位磁石を取り出して、二人の前に置いた。
暫く迷っていた針はやがて北と南をぴったり指して停止する。
「ええと、じゃあまずは北から」
常澄が先に立って、その後をセレスティと、魔女が歩いた。
最初に大雑把に四方に蒔いてから、手で少しずつつかんでその量を微調整していく。
小麦粉のように滑らかな白い粉は、何も匂いがしない。
触れた指は白く染まって、二人は時折手を叩いた。
量の采配はセレスティが指示して、それを常澄が実行する。
「どうしてそんなに正確に量の違いが分かるんだ?」
「さあ、どうしてでしょうね?」
「…魔女といいセレスティといい、ほんと不思議な依頼だな今回は」
そんなことを言いながら常澄は支持された一つまみを西の方角に盛った。
少し離れて見ていた魔女が、軽く咳き込む。
微かに舞った粉が咽を刺激したらしく、眉間に皺が寄っていた。
「大丈夫ですか?」
「ありがとうセレスティさん。大丈夫です」
「もうすぐ終わるから」
「はい、助かります」
空に近い瓶を手に、常澄が今度は東の方角から言った。
そうして、作業はものの十五分ほどで済んだ。
粉が蒔かれた部屋を四人は後にして、元来たエントランスに戻る。
「良いのですか?その方はあの部屋から出して…」
「ええ、お二人と別れたらまたあの部屋に戻りますから」
老女の車椅子の後ろに立って、魔女は言う。
「あなたは、あまりあの部屋には長居しないほうが良いですね」
セレスティが言うと、魔女は困ったように笑った。
さあもうお暇の時間、という時になって、常澄は意を決したように口を開いた。
「あのさ、この一件が片付いたらうちに来るといいよ。僕にはどう見てもあんたが本当の魔女に見えない。うちに来れば本当の魔女ってのがどんなものなのか見せてやれるから…暇だったら来ると良い。その、無理にとは言わないけど」
使い慣れない言葉を何とか繰ってしどろもどろに言う。そして続けてセレスティも言った。
「そうですね。この一件が終わったら、妹さんもあなたも、あなたのお姉さんも呼んで、またお茶でもしましょう。その時はまた私も呼んでください。そちらの姫も生きているようなら、是非に。私の家でも構いません。きっと賑やかになります。その時に、あなた方魔女姉妹の種明かしもしてください」
「ありがとうございます。仲良くすることができたら良いのですけど」
「大丈夫、仲良くなれますよ。夜じゃなくて、今度は昼間にお茶会をしましょう」
約束です、と笑う銀髪の紳士に、魔女は妹に良く似た笑みを見せる。
そして、じゃあそろそろ、と二人を戸口に促した。
開いた戸を隔てて、四人は立つと、それぞれにお辞儀をした。
「それでは…」
「あの!」
魔女が扉を閉めようとした時に、常澄が何度目かになる突然の声を上げた。
「はい?」
「約束、したからな」
確かめるように。
「はい。約束しました」
「…うん。約束」
「ええ。では、もう宜しいですか?」
「ああ。じゃあこれで…」
魔女はもう一度頭を下げると、今度こそ扉を閉めていた。
残された常澄は、先に行き始めているセレスティの背中を追うように、扉を後にしていた。
迎えの車が来て、二人は来た時と同じように肘置きを隔てて後部座席に座った。
しかし、来た時とは違って、二人は一言も言葉を交わさなかった。
第三夜 終
『私』という個人はとても幸せで哀れだった
人間にはなれなかったけれど
眠り続けるだけの生ではあったけれど
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【4017 / 龍ヶ崎常澄 / 男 / 21歳 / 悪魔償還士・悪魔の館館長】
【1833/セレスティ・カーニンガム/男/725歳/財閥総帥・占い師・水霊使い】
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■ ライター通信 ■
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えらくご無沙汰してしまいました。一流初心者ライター相田です(嫌なネーミングだ…!)
第三夜に参加くださりありがとうございました。
ぼんやりと四つ目のお話に向けて霧を吹きかけてみましたが、どこまで想像できたでしょうか。
話の内容にばかり目が行きがちで、個々のキャラクターの雰囲気が出せているかどうか大変に不安ではありますが、ひとまずこれで三夜とさせていただきます。
宜しければまた次の最終話にてお相手くださいませ。
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