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朝を待つ花
さらさらさらと、紫色の蕾が揺れる。
ひとつ、ふたつ、みっつ、 花開く蕾に触れようとすれば、花はたちどころに散っていく。
はらはらはらと、紫色の蕾が揺れる。
見上げれば真黒なばかりの空がある。
ふと足を止めて天を仰ぐしえるの白い上着の裾が、冷えた風にはたはたと静かにたなびく。
――――一面広がる紫苑がさらさらと揺れている。
天を見上げていた視線をゆっくりと野に下ろし、揺れる花を眺めた。
眺め、気付く。
野を照らす月も出ていないのに、紫苑がほのかに発光しているように見えるのは、なぜだろうか。
出来るだけ花を薙ぎ倒さないようにと注意を払い、野の中央に足を進める。
確かに、何者かの声がしえるの耳にささやきかける。
聞き取ることさえも適わない程に微かで小さな呟き。
それは彼女がここに踏み立つ前――街中にいた時でさえも耳をくすぐっていたものだった。
人の思念ではない。おそらくは悪意のこもったものでもない。
何をささやきかけているのか。その声は聞き取れないけれど、救いを求めているように聞こえたのは、しえるの気のせいであっただろうか。
瞳を細めて野の中を見やる。
一面開く紫苑の花の中、大地から伸びる鎖に繋がれた男が佇んでいた。
しえるは男の姿を見つけて歩み寄ると、腕組みをして真っ直ぐに男を見据えた。
「あなた、ここで何をしているの?」
凛としたしえるの声が、紫苑の葉についた夜露を落とす。
男は粗末な布を顔に巻いて、目許を隠している。
「貴様は何をしに来た」
布で隠されていない薄い口許を小さく動かし、男が告げた。
しっとりとした夜の闇に紛れてしまいそうな低音の声に、手入れもされず伸び放題になった漆黒の髪。
しえるは男をしげしげと眺めてから小首を傾げ、「ふうん」と小さく頷いた。
「無骨な男ね。問いかけに対して問いで応えるなんて」
そう返して足を踏み出す。
「あなた人間じゃないわね。――かといって生きているわけでもなさそうだけれども」
「ならば、どうした」
しえるの言葉に、男の声が低くくぐもった。抑揚のない声音だが、言葉の端々にしえるに対する拒絶が感じられる。
男が見せる拒絶に気がつきながらも、しえるは素知らぬ素振りで肩をすくめた。
「どうもしないわ。ただ、こんなに見事な紫苑の野なのに、あなたのような無骨者がいては、せっかくの景観が台無しだなと思っただけよ」
腕組みを解き、風になびく髪を片手で押さえつける。
目隠しをしている男からは見えていないかもしれないが、しえるの口には薄っすらとした笑みが浮かんでいた。
「……見事な花だろう」
しえるの言葉に、男の声音がかすかに和らいだ。
男はそう返しつつも体を動かし、見えていないはずの野をぐるりと見渡して微笑みを浮かべた。
地から伸びた鎖は男の両手を両足を抑えつけ、彼が野を見渡すと、ヂャラリと乾いた音を鳴らした。
「随分と嬉しそうな顔をするのね。その目には見えていないでしょう」
男を戒めている鎖に目をやり、しえるはその双眸をゆるりと細める。
すると男はふんと鼻を鳴らして口の片端を持ち上げ、直立した姿勢のままで天を仰いだ。
「こんな布など無くとも、俺の目はもはや何も映しはしない。布を巻いているのはただの洒落だ。――だが、俺の目には紫苑の花が焼き付いている」
「ふぅん。……それで、あなたはここで何をしているの?」
しえるは再び同じ問いかけを口にした。
男はニヤリと笑んでしえるの方に顔を向け、屈強そうな腕を持ち上げて伸びた黒髪をかきあげる。
「貴様の器は人間だ。中身がどうあれ、器がヒトである以上、貴様はヒトでしかありえない」
薄い笑みを伴う男の言葉に、しえるはゆっくりと歩みを進めて男の傍へと寄っていった。
「ええ、そうよ。私は人間に生まれついた。だから何だと言うの?」
男のすぐ前で足を止め、両手を腰に据えて自分よりも長躯の男を見やる。
男はすぐ目前まで来ているしえるの気配に小さく驚愕し、しかしすぐに笑って、片手をゆらりと持ち上げた。
「ヒトとしての器を持つ女。貴様はこれまで数多くの記憶を忘却の水底へと沈め、置いてきたのだろうな」
持ち上げた手はしえるの首にそえられた。
しえるは戦く事もせずに男を見やり、ふわりと優しい笑みを浮かべた。
「残念だけど、私は一度見聞きした事は決して忘れたりしないのよ」
「塵一つでさえもか」
「今この花に揺れる露の滴までも覚えていられるわ」
弾むように応えるしえるの言葉に、男はくつくつと笑って手を下ろす。
「貴様のような女もいるのだな」
男の声が、ふと暗く沈んだように聞こえて、しえるは柳眉をしかめる。
「――――あなたを捕えているその鎖は、あなたの罪を縛めるものなの?」
男が笑った。
さわさわと、紫苑が風に揺れた。
「罪とは何だ? 誰かを殺めることか? 盗みか?」
しえるは男の言葉に首を傾げ、わずかに思案してから口を開けた。
「――――難しい問題だわ。一口に答の出ない質問ね」
男は笑う。
笑って天を仰ぎ、鎖をヂャラリと鳴らしながら低く告げた。
「……俺は女を待っている。……待っていた。だがきっと女は俺を忘れたのだろうな」
紫の花を揺らす風が、天を仰ぎ見る男の顔に張り付いていた布をさらりと落とした。
布はふわふわと舞って花の上に落ち、男はその顔を覆い隠す物のなくなった事に気付いて、喉の奥をかき鳴らすようにして、笑った。
あるいは、哭いた。
「女?」
「ああ、女だ。――――つまらない理由だ。俺はあの女にもう一度逢いたいがために、今もこうしてここにいる」
男の声がかすかに揺れる。その顔を見やれば、鋭利な切先で抉り取られた眼球の跡地が、黒々とした暗黒をさらしていた。
「つまらないかどうかは他人が決める事だわ。それで、その女は何者なの?」
眼球の無い穴を見つめてそう問うと、男は天を仰いでいた顔を下ろして小さな唸り声をあげた。
「昔、俺はこの場で一人の女と出会った」
男は鬼の子供として生まれつき、ヒトが住む里から疎まれていた。
両親は鬼ではあったが心優しく、ヒトを食らうなど一度もしたことがなかった。
だがそれゆえに短命で、まだそれほどに年を重ねていなかった彼一人を遺し、骸へと身をやつしてしまった。
彼は両親に習ってヒトを食らわず、山に住む獰猛な動物や草の根などを取って食っていた。
何度目かの夏を終えたある年の秋、冬を越すための食料を捜し求めていた彼は、一人の美しい少女と出会う。
少女は汚れ一つなく、ろくな知識も持たず、だがそれゆえに無垢で、清らかだった。
男は少女に心を奪われ、少女は男を恐れず、幾つかの言葉を交わし、あたたかな微笑みをくれた。
だがその秋の終わり、少女は何の言葉もなく姿を消した。
「俺が贈るはずだった花は、女を待つ間にこれだけのものになってしまったさ」
男はそう続けて両手を広げた。
一面に広がる紫苑の花が、夜風に吹かれてゆらゆらと揺れる。
「女を捜して里に近付いた俺はあっという間に捕えられ、眼力でもって呪いを放たないようにと目玉を抜かれ、生きたままで焼かれたのさ。――どっちが鬼やら」
皮肉めいた男の笑みに、しえるはそっと睫毛を伏せた。
「それで。結局女は見つかったの?」
問いかけると、男は黙して首を横に振った。
「女は俺を忘れてしまったのだろう」
「……ああー、もう」
男の言葉に、しえるは伏せていた睫毛を持ち上げて腕組みをする。
「うじうじうじうじ、いつまでもそうしていじけているつもりなの?」
凛とした声が野に響く。
驚いた男は言葉を失くし、唖然としてしえるの方に顔を向けた。
しえるは男の顔を見据えて言葉を続ける。
「その女が何であれ、人間であったなら、もうこの世にはいないわよ。そんなに気になるのなら、あっちで直接訊いたらどうなの?」
そう言って両手を広げ、ゆらゆらと揺れる紫苑の花を指差して、さらに続ける。今度はやわらかな笑みを浮かべて。
「忘れてしまうのではなく、記憶の片隅で揺り起こされるのを待っているだけなのよ。その人の心にあなたが刻まれたのなら、その人はきっと今でもあなたを覚えているわ」
微笑み、男を縛めている鎖に触れる。
男はしえるの言葉に口を閉ざしたままでいたが、ゆっくりと顔を上げて、そして笑みを作った。
「――――貴様のような女もいるのだな」
しえるは男の言葉に得意気な笑みを浮かべ、ふふんと胸を反らして返した。
「いい女でしょう?」
男は小さく笑って天を仰ぎ、大きなため息を一つ洩らした。
「貴様にような女であれば、あるいはもっと早く解けていたかもしれないな」
「いいえ、違うわ。あなたが勝手にいじけていただけよ」
返しながら、しえるは霊刃の名前を呼ぶ。
刃はたちどころに現れ、神々しいばかりの光が広々とした紫苑の野を照らし出した。
「俺が勝手にいじけていただけか」
くつくつと笑う男をめがけ、しえるは刃を傾ける。
「だからといってここであなたを放り投げて帰るほど、私は薄情じゃないのよ。……彼女の元まで送ってあげるわ」
刃が放つ光がちりちりと舞っている。
男はしえるの言葉に、喉を鳴らして笑った。
青白い雷光が鎖を切り裂いていく。
鎖が一つ失せるごとに、男の体は空気の中へと溶けていった。
だが最後の鎖をめがけて刃が振り下ろされる瞬間、男はふいに片手を挙げてしえるを制した。
「……何?」
男の行動にしえるが眉根を寄せると、まるでそれを見透かしたかのように、男は首を傾げた。
「貴様は塵一つ、夜露の滴一つ忘れずにいるのだと言ったな」
「ええ、忘れないわ」
しえるが首を縦に動かすと、男はさらに言葉を続けた。
「ならば、俺の事も忘れずに覚えているのだろうか?」
かすかに俯きながらそう告げた男に、しえるは勝ち誇ったような笑みを見せた。
「忘れないわ。うじうじといじけていた情けない男鬼の事」
そう返した言葉に、男は高く笑った。
静かに吹く夜風が、朝を待つ花達の上を滑り流れていく。
月光のような輝きが野を染めたのは、その次の一瞬の事だった。
さらさらさらと、紫色の蕾が揺れている。
さらさらさらと、さらさらさらと。
今はもう縛めるものもなく、さらさらと揺れている。
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