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<東京怪談ノベル(シングル)>


ワタリガラス


 クラクションの音に、哲生は振り向く。
 ああ、霊柩車だ。
 これから、積まれたものを燃やしに行くのだ。
 ふらりふらりとあてもなく歩いているつもりでも、志賀哲生の足は、『死』を辿っているのだった。いつでもそうだ。彼の行く先――既に足元に、『死』は転がり、彼をいざなう。
「……」
 手を合わせることもなく、哲生はのろのろと発車した霊柩車を見送りながら、大きく息を吸い込んだ。

 いろいろあって、哲生は収入が安定した職を手放すことになった。しばらくは働く気も起きず、退職金でふらふらとその日暮らしをしていた。幸い彼は遊び好きではなかったし、女のようにさほども海外旅行に魅力も感じなかったし、あてもない散歩を日々の楽しみにして過ごすことが出来た。
 ただ、あてのない散歩に、知らぬ目的が出来ていることに気がついてから――
 道端の猫の死骸、霊柩車、火葬場の煙、救急救命センター、
 彼は求人情報誌を買い求めるようになっていた。

 あの霊柩車が、呼んだのか。
 求人誌を適当に開いた哲生の目に、真っ先に飛び込んできたのは、そう遠くもない勤務地の葬儀屋だった。
「これだよ」
 ぼんやりと哲生は笑った。
「もっと早く気がつきゃよかったんだ」


 履歴書に何と書いたか、面接で何と答えたか、哲生はよく覚えていない。だが彼は莫迦ではなかった。死や、死体への抑えきれない想いは、常識にとって異質なものであることがわかっている。当たり障りのないことを書き、答えたはずだ。
 だからこそ、すんなりと採用されたのである。
「おまえは、ちがうようだな」
 勤めてから少し経った頃だろうか、初めて遺体の処置の手伝いをするときに、老いた社員が哲生に言ったのは。
「臭いにも、仏さんにも、ぴくりともせん。たまにそういう新人が入ってくる――そういうやつに限って、一年も居つかん」
 彼はじろりと哲生に目をくれて、ふ、と短く笑った。
「前に刑事をやっていたそうだな」
「ええ、まあ」
「だから慣れている、などと言うなよ」
「……」
「これは、慣れるようなもんじゃアない。……慣れちゃ、いかんのさ」
 それでも哲生は、大きく息を吸い込むのだった。

 葬儀屋は、「喪服を着た土方」とも称される。
 人の死は、時を選ばぬ。
 そして、死なない人はない。
 黒と白と沈黙に彩られたその生業は、実のところ、寝食もままならぬほどに多忙なものだ。身体に死の臭いが絡みつき、砕けた遺体の形相が、脳裏から剥がれることもない。
 今も昔も、過酷な生業である。
 それでも、志賀哲生のように、体力があって、死の匂いとかたちを悦びとするものならば――これほど、割に合う仕事もないのであった。
 哲生は毎日、楽しく正しく勤めを果たした。
 以前のように、職を失うわけにもいかないから、常軌を逸した行動は控えた。ただ一度だけ、自殺した女性の遺体に、頬ずりしてしまったのは……反省した。
 その女性の葬儀には、多くの参列者があった。何冊もの詩集を出した、才能ある詩人だったのだそうだ。葬儀では、詩が朗読された。
 生と死をみつめた、灰いろの詩だった。
 哲生は、遺体に頬ずりしたことを、心から反省した。ほんとうに、反省した。


 その夜の遺体の処置は、成り行きで、哲生が独りですることになった。この仕事に就いて長いはずの社員が、ことごとく処置を避けて、他の業務に手をつけたからだ。
 搬送された遺体の匂いに触れて、哲生は納得する。
 司法解剖が終わり、ようやく解放された仏だった。夕べから今朝方にかけて、ワイドショーやニュースを賑わせていた殺人事件の、被害者だ。あまりにも殺害方法が残忍だったために、しばらくはマスコミもこの事件に食いついたままだろう。
 哲生が向き合った遺体は、なるほど、凄まじいものだった。鉄道事故による轢死体もかくやといった有様だった。しかも、欠けている部分さえある。
「……」
 ごくり、と哲生は生唾を飲む。
「いや、……だめだ、だめだ、だめだ、莫迦か、まったく!」
 死の詩、
 涙、
 沈黙が、
 口づけをしようとした哲生を責め苛む。
 強い死の匂いが、哲生の意識を混濁させても、
 彼は、遺体に何もしなかった。
 ……いや、処置は、施したが。


 その被害者の通夜にも、多くの弔問客があった。哲生は香典を受け取る役目を務めることになった。これほど突然の理不尽な訃報では、遺族の悲しみも大きい。哲生は暗鬱な面持ちを崩せなかった。それほどの悲しみを前にして、自分はあの遺体に口付けをしようと――
 香典を差し出してきたその男を前にして、思わず哲生は顔を上げ、半開きの口で、じっと視線を釘付けにしてしまった。
 一見して気の弱そうな、ひょろりとした青年だ。哲生の視線に射抜かれて、ぴくりとはねた。
「あ、あの……?」
「……いえ。失礼しました」
 哲生は香典を受け取った。男はそれきり会場に消えたが、哲生の視線は最早泳がなかった。
 あの男だった。

 死の匂いが、いつものように哲生をいざなう。
アリアドネの糸なのだ。
 あの、情けない容姿の、あわれさえ誘う若者が――残忍な殺しをやってのけたのだ。いまどきのサイコは若く、そして、情けない容姿だという。セオリー通りだった。そこまで素直になる必要もないだろうに――。
 夜道を独りで歩く男の後ろを尾けるのは、哲生にとって、容易いことであった。男が表通りから住宅街に入ったところで、すう、と哲生は手を上げる。
 この世のものではない、漆黒で透明な死神の鎖が、哲生の手から伸びた。手錠は哲生の意思に従い、ぢゃらりと男をとらえた。
「ひとりじゃないな」
 そばまで引き寄せ、その首を極めて、哲生は死の匂いを嗅ぎながら呻き声を上げた。匂いはあまりにも濃厚だったのだ。出来れば、この男の自宅に行ってみたかった。哲生の嗅覚が嗅ぎ取ったのだ。冷蔵庫の中で冷えている脂肪、唇、目玉の匂いを。遺体に欠けていた、すべてのものの匂いを!
「おまえが殺ったのは、ひとりじゃないな!」
 男と自分に絡みつく、死と死と死と死の匂い、たまらない、死、
 ……ここで捕らえるのが、一億三千万の民のためだ。
 死の匂いによろめきながらも、哲生は暴れる男を引きずり、職場に戻った。
 哲生と殺人鬼を、遺体が出迎えた。


 哲生がにらんだ通り、殺人犯には根性がなかった。彼は蓋が開いた棺と棺と棺の間に、がんじがらめに縛られて投げ込まれ、一晩明けた頃には、まともに言葉も話せなくなっていた。
「『おれがやった』くらいは喋れよ、糞餓鬼」
 適当な交番のそばで男を放し(その尻に蹴りも入れておいた)、哲生は帰路についた。
 頭の中では、ぐるぐると辞表に書くべき文句が回る。
 辞表を書くのは、二度目だ。もう、一生のうちで、二度と書くことはないだろう。書くのはごめんだ。面倒くさいから。
『臭いにも、仏さんにも、ぴくりともせん。たまにそういう新人が入ってくる――そういうやつに限って、一年も居つかん』
 あの老いた葬儀屋が言ったとおりだ。哲生に、この仕事はあまりにも向きすぎていた。だが、哲生はあまりにも安易な考えしか持っていなかった。触れてみて、初めて知ったものが多かった。
 死の詩。
 涙。
 沈黙。
 ――俺は、忘れられやしない。
 自分にはこうして、匂いをたどり、咬みつくのがいちばん向いている。匂いを求めるだけでは、駄目なのだ。いずれ、本当にサイコになってしまうから。
 志賀哲生は、葬儀屋には、ならなかった。




<了>