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月の祈り
また、あの夢をみた。
部屋の外はまだ暗い。時計を確認すると午前三時。起きるのには早すぎる時間だなあ、と苦笑いしてから身体を起こした。
カーテンをあけて窓越しに外を覗くと、きれいな満月がみえた。これからまた月は欠けていき、新月になったらまた満ちはじめる。あたしが生まれる前からずっと繰り返されてきた営みだけど、あんな夢をみたせいか、満月をみているだけで、ずきりと胸がうずいてしまう。
「あたしの好きなひとが、しあわせでありますように」
月に向かって、あたしは呟いた。
「……夢のなかのあのひとが、しあわせでありますように」
※ ※ ※
──夢で彼と会うのは高等部の屋上。
全速力で屋上まで走ってきたので、心臓は悲鳴をあげていた。けれど思った通り彼がそこにいて、あたしは少しだけホッとした。
「月夢さん?」
驚いたようにあたしの名前を呼んだ。久しぶりに聴いた彼の声。さっきまで頭の片隅にあった引っかかりが氷解した。
「やっぱり、あたしのこと憶えてるんだ」
「そりゃ、ね」
彼は微苦笑した。
「月夢さんは僕のこと憶えてた?」
「さっき思いだしたの」
「そっか」
「──くん」
今度はあたしが名前を呼ぶ。心臓が痛むのは、たぶん走ったせいだけじゃない。
彼は返事をしないで視線をそらし、黙ってフェンス際へ向かった。
「待って」
慌ててあたしも後を追う。もう一度、彼の名前を呼ぶ。それだけで心臓がきしむ。──彼は自殺した男の子だった。
そのとき、あたしは学校を休んでいた。タチの悪い風邪を引いてしまい、高熱で一週間近く寝こんでいた。
だから、彼の訃報を知ったのは、しばらくしてからだった。本当ならクラスメイトの誰かが報せてくれるんだろうけど、部屋に電話を引いていなければ携帯電話も持っていないので、なかなか連絡できなかったらしい。
彼の訃報を知ったのは、友達がお見舞いにきてくれたとき。お菓子作りの名人でもあるその友達が、キッチンで雑炊を作りながら、ふと思いだしたように話してくれた。
「ゆ〜なちゃんのクラスメイトが自殺したって」
「……うそ。誰が?」
友達が名前を言ったけど、すぐにピンとはこなかった。存在感がなかったひと、というわけじゃない。そもそもクラスにはいないひとだった。留年してしまって、同じクラスになったけれど一度も教室には顔をださなかった。
「どうして自殺なんかしちゃったんだろう?」
「さあ。詳しくは知らないけど。でも、いじめられてたって噂は聞いたよ」
いじめ、か。相談できるひとが身近にいなかったのかなぁ。あたしも友達は少ないけど、でも出会いには恵まれていると思う。そういう友達は誰もいなかったのかな。
「はい、できたよ」
友達はできあがった雑炊をあたしに差しだして、それから、と言葉を継いだ。
「高等部の校舎の屋上で、そのひとの幽霊がでるって噂もあるよ」
「でも、この学園じゃそんなの日常茶飯事だよ」
言ってから雑炊を受け取って、蓮華ですくって一口食べてみる。熱い。けど、おいしい。素直にそう告げると、友達は満足そうに笑った。
ただ──。
「どうしたの? ゆ〜なちゃん」
「死んじゃったら、おいしいものも食べられなくなっちゃうんだよね」
「そう、だね」
当たり前なことだけど、それはとても大切なこと。死んだら、ささやかな夢も希望も消えてなくなってしまう。彼にだって、ひとつくらい心に秘めていることがあったと思うのに。
一度でいいから会ってみたかったな。
あたしに彼が救えたなんて傲るつもりはないけど、少しだけ、ほんの少しだけ痛みを和らげられたかもしれないのに……。
──けれど、あたしは彼に会っていた。
ようやく熱が引いて、なんとか出歩けるようになったあたしは、まず散歩をすることにした。ずっと寝続けていたから、外の空気を吸うだけで新鮮な感じがする。太陽の光を浴びるのも久しぶり。たまにはひとも光合成をしなきゃダメね、なんて本気で思ってしまう。
まずは石榴の樹。ここは、あたしのお気に入りの場所のひとつ。一週間ぶりだね、と声をかける。もちろん返事はないけれど、挨拶すると樹が微笑んでくれる──気がする。気のせいかもしれないけど。
「またね」
手を振ってから、今度は学園で一番大きな桜が植わっている丘へ向かった。半月ほど前に、あのあたりを根城にしている猫が赤ちゃんを産んだのだ。こっそりとお邪魔して覗いてみると、すやすやと静かに眠っている。一、二、三、四、五。うん、みんないるね。
子猫を起こさないように退散して、次はイチョウ並木。そこを抜けて噴水広場にでて大学の敷地へ。途中にある花壇の様子をみたりしながら図書館へ向かう。いつもの散歩コース。
「こんにちは」
顔見知りの司書さんに挨拶してなかに入る。ここにくるのも、ずいぶん久しぶり。深呼吸をすると、本のにおいがした。どの本を借りようかな、と書架をみてまわろうとすると──。
なにかが脳裏をよぎっていった。
「あれ?」
なにか、とても大切なことを忘れてしまっているような……。でも、それがなんなのか思いだせない。
「どうかしたの?」
振り返ると知り合いの男の子がいた。以前、あたしに『月の夢』という本を勧めてくれた子だ。
「うん、ちょっとね」
曖昧に笑ってごまかした。自分でも説明できないことを、ほかのひとに説明するのは難しい。
「そういえば最近全然きてなかったよね? なにかあったの?」
「風邪で昨日まで寝こんじゃってて」
瞬間、またなにかが引っかかった。以前にも同じようなことがあった気がする。軽い既視感、でもそれはきっと記憶の悪戯で──。
「あっ」
つい声にだしてしまった。ちがう。記憶の悪戯じゃない。
「ゆ〜な?」
怪訝そうに男の子が首をかしげる。
「ごめん。またあしたね」
言ってから駆けだした。走るあたしに司書さんが怒ったけど(ごめんなさい)、とにかく急いで図書館をでた。そして、高等部の屋上へ向かった。
フェンス越しに彼は空をみつめていた。あたしもそれに倣う。
透き通った空の青。あたしの好きな色。帯状の雲が、ゆっくりと風に流されていく。そのすぐ下を、やっぱりゆっくりと飛行船が飛んでいた。
──前もこんな感じだった。
あのとき、あたしは石榴の樹の下で本を読んでいた。そのときは春で、実もなっていなければ、もちろん花も咲いていなかったけど。石榴の様子をみるのが、あたしの日課だった。
彼と会ったのは一度だけ。ある日、石榴の樹の下には先客がいて、それが彼だった。あたしは彼の隣に座り、空を眺めながら、少しだけ話をした。どんなことを話したんだったろう。石榴のことや読書のこととか、そんなことだったと思う。
じゃあ、またね。そんな挨拶であたしたちは別れた。そういえば名前を聞き忘れたなあ、と気づいたのは翌日で、彼と会ったら聞こうと思っていたのに、彼はこなかった。その翌日も、翌々日も。
どうしたのかな、なにかあったのかな。最初はそんな心配をしていたけれど、彼がくる気配は全然なくて、次第にあたしは彼のことを忘れてしまった。
「……どうして自殺なんかしたの?」
「生きるのがつらかったから」
彼は即答した。生きることに未練もなにもないような、そんな言い方。
「月夢さんには僕の気持ちなんて分からないよ」
「そんなの当たり前でしょ?」
あたしは言った。他人の気持ちは分からない。分からないからこそ、分かろうと努力する。ひとの関係はそういうものだと思う。
「月夢さんは──」
言いかけた彼は、途中で口をつぐんだ。
違和感が走った。月夢さん、と名字で呼ばれているからじゃなくて。
「……なんであたしの名前を知っているの?」
あのときはお互いに名前を言い合わなかった。あたしが彼の名前を知ったのはたまたまで、彼とイコールで結べたのも偶然みたいなもの。
「月夢さんだけじゃないよ。学園の生徒の名前はみんな知ってる」
困ったように苦笑して、もう一言つけくわえた。その気になれば日本中のひとの名前だって憶えられるよ、と。
「どういうこと?」
「特殊能力──と言うか呪いだね、僕の場合は。記憶力が異常なんだよ。一度見聞きしたことは、二度と忘れられないんだ」
「それが自殺の理由?」
「そうだよ」
彼はうなずいた。
「でも、しあわせな記憶だってあるんでしょう?」
「それ以上につらいことが多いよ」
そういうものなのかな。
世の中は悲しいことであふれている。そんなことは、あたしだって知っている。今、こうしている間にも世界のどこかでは戦争をしている。そこまでいかなくても、小さな悲劇はそこらじゅうに転がっている。
だからこそ、ひとは小さなことに喜びを見出すんじゃないのかな、とも思う。ひとと出会ったり恋をしたり。石榴の花が咲いたことや実がなったことを発見したり。おいしいものを食べたり。小さなしあわせは、捜そうと思えばいくらでもあるのに……。
「……許せないよ」
「僕のことが?」
「うん」
生きてるのがつらいとか、記憶力があるとか、彼の悲しみはあたしには推し量れないけど、いろんなことから逃げているみたい。逃げることが間違っているとは言えないけど。
「月夢さんには分からないよ」
「そんな言い方しなくてもいいじゃないっ」
彼の頬をたたいた──はずだった。けれど実態のない身体のせいで擦り抜けてしまった。
許せないのは、逃げていることだけじゃない。
あのとき、あたしは彼がくるのを楽しみにしていた。石榴は好きなんですか、と聞こうかとも思っていたし、どんなことを話そうかと夢想していた。だから、いつまでも現れない彼を心配していたのに。その気持ちまで踏みにじられてしまった気がする。
「……から」
首をかしげる彼に、あたしはもう一度言う。
「しあわせになってやるから。あなたが悔しがるくらい、しあわせになってやるから」
「うん。月夢さんにならできるよ」
彼の言葉にあたしは首を振る。ちがう。そんな返事を聞きたいんじゃない。
「ダメだよ。あなたもしあわせにならなくちゃ。生まれ変わって、あたしなんかよりずっとしあわせになって、あたしを見返さなくちゃ」
「そのときの月夢さんは、きっとおばあちゃんになってるよ」
「ならないよ!」
駄々をこねていることは、あたしだって分かっていた。でも止められなかった。たぶん、あたしは彼が好きだったのだ。
「今度はずっと待ってるから。あなたを忘れないで、ずっと待ってるから」
苦笑いを浮かべた彼は、やがて、
「分かった。約束するよ」
※ ※ ※
夜が明けるのを待って、あたしは石榴の樹に向かった。
あの夢がただの夢なのか、本当にあったことなのかは、正直よく分からない。もしかしたら前世の記憶なのかも、と考えたこともあるけれど、まるで漫画みたいと思考を止めてしまう。
樹になっている石榴の実に手を伸ばしてみた。
小さな頃から、ずっと好きで、なのにまだ食べたことのない石榴の実。この実を食べれば、もしかしたら彼に会いに行けるかもしれない、なんて思ったこともあった。だけど、食べる勇気はまだない。
ゆっくりと空を見上げてみる。
夜が明けたばかりで西の空はまだ暗い。満月もまだ沈みきっていない。
「あのひとが、しあわせでありますように」
ふと声にでた。
「彼とまた会えますように」
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