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<東京怪談・PCゲームノベル>


Battle It Out! -Harmony with You-


    01 prologue

 都心部よりやや外れた通り、何の変哲もない雑居ビルの二階に、オランダの版画家からその店名を取った『Escher』という小さなバーがある。
 ふと立ち寄ってみようかと思わせるにはいささかささやかすぎる経営だが、ごく稀に、ふらりと導かれたように訪れる客がいる。
 彼、セレスティ・カーニンガムもそのうちの一人だった。
 店につづく歩道に、枯葉の絨毯が敷かれていたせいかもしれない。足の下でかさかさ鳴る感触が快く、つい鼻歌混じりに散歩をしてしまう者も少なくないだろう。頭上を見上げれば、張り出した街路樹の枝がアーチを形作っている。
 愛用のステッキ片手に出かけようとした彼を、彼の部下は、少しは自重なさって下さいとたしなめた。杖がなければ歩行にも支障がある主を労わってのことだろうが、セレスティは聞く耳を持たなかった。
 まぁ、良いではありませんか。小一時間程度ですから、と。
 押し切って出かけようとした彼に、部下はしぶしぶながらも花籠を持たせてくれたのだった。ジャズバーに勤めている女性への贈り物である。長年財閥の庭園を管理してきただけあって、彼の選んだ花籠は、女性の好みをしっかり押さえた品の良いものだった。
 敢えて車の送迎を断って、セレスティはゆったりとした歩調でバーへ向かっている。
 踏んだときの乾いた音に対して、意外にやわらかな落ち葉の感触。掃いても掃いても舞い落ちてくるであろう枯葉達はアスファルトを半ば埋めており、今や街中が淡い紅や橙、黄といった具合に染まっている。
 不意に強い風が吹き抜け、ざぁ、と落ち葉が舞い上がった。
 珍しく被っていた帽子が飛ばされてしまい、走って追いかけることもできずに、セレスティはその行方を追った。帽子は空中を彷徨った後、ぽとん、と通行人の前に落ちた。通行人の少年は、帽子を拾い上げ、どこから飛んできたのだろうときょろきょろ辺りを見回す。
 振り返った少年は、軽く目を見開いた後、顔を綻ばせた。
「びっくりしました。誰かと思ったら、セレスティさんじゃないですか」
 少年は帽子を片手に、小走りに駆け寄ってくる。
「どうもありがとうございます、幸弘君。こんにちは」
 紅葉に溶け込んでしまいそうな栗色の髪をした少年は、控え目な、けれどとても嬉しそうな笑顔でこんにちはと挨拶を返す。
 遠野幸弘――はじめてEscherへ訪れたときに知り合った、ピアノ弾きの少年だ。
「奇遇ですね。もしかしてEscherへ向かわれるところですか?」
「はい。ピアノ弾かせてもらおうと思って」遠野幸弘は、楽譜が入っているらしい鞄を持ち上げてみせる。「まだ練習中なんですけど、あの、良かったら聴いてもらえますか?」
「ええ、もちろんですとも。私も来た甲斐があるというものですよ」
「僕も弾く甲斐があります」
 幸弘ははにかむように言った。
 二人は肩を並べ、並木の下を歩き始める。
「今は何を練習しているんですか?」
「実は、ジャズやってるんです」
「それはますます楽しみですね。幸弘君のジャズピアノですか」
 ショパニストが弾くジャズ。それは面白そうだ、と思う。
「あの、前にセレスティさんとお話したとき……」幸弘は顔を俯ける。何かやましいことがあるというのではなく、単に照れ臭いらしい。「思ったんです。昔みたいに、純粋に楽しんでピアノを弾いてみようって。ジャズなら親に対する体面みたいなのを保つ必要もありませんし、その、趣味で弾けるかなーって思って」
「肩の力を抜いたらもっと楽しくなったでしょう?」
「はい、とても!」
 幸弘は元気に答える。普段は大人しい少年の、それは滅多に見せない表情だったのだが、セレスティはそのことを知らない。
「芸術の秋、ですね。秋の空気は、音をクリアに、美しく響かせると思いませんか?」
「はい。ピアノ弾くのも気持ち良くって。ピクニックがてらに演奏するのも、良いかもしれませんね。そういうとき、持ち運べる楽器ができたら良かったなぁと思うんですけど」唇に手を当てて、んーと唸る幸弘。「サックスとか……、肺活量ないから無理そうだなぁ。体力ないですし」
「音楽は身体が資本ですからねぇ」
「そうなんですよう。その点、僕は体力ないから駄目かなぁなんて思うんですけど」
 感性と技術だけじゃ駄目なんですね、プロとしてやっていくには。
 自分でウンウンと納得して頷いてから、幸弘はちょっと黙った。途端にいつもの、大人しい少年に戻る。
「……身体が資本……」
 何やら哀愁を背負ってつぶやく幸弘。
「どうしましたか?」
「……それ聞いたら、僕にできることなんてない気がしてきました……」
「悲観することはないですよ、幸弘君。まだまだ若いんですから」
 何やら落ち込み気味の幸弘の肩を、セレスティは優しく叩いた。
「可能性は無限ですよ、幸弘君」
「そうだといいんですけど――」
 見上げた先に、Escherのくすんだ看板。
 様々な悩みに打ちひしがれる者を、等しく明るい気持ちにしてくれる『音楽』という魔法が、その店にはある。


    02 boy meets...

「ぶっちゃけ無理なのよーーーー!!」
 漫画だったら、どっかーん、とかいう擬音がつきそうな大声が、廊下まで聞こえてきた。
 窓ガラスがびりびり、鼓膜もびりびり。
 セレスティと幸弘は、思わず足を止めてしまった。顔を見合わせる。
「……夏樹さんでしょうか?」
「そう、みたいですね?」
 もしかして間が悪かったのだろうか。
 幸弘が先に立っておそるおそる扉を開けると、
「来週までに暗譜できるわけないでしょ!?」
 ――Escherアルバイト店員の橘夏樹が、ぶち切れているところだった。ばしぃッ、と楽譜をテーブルに叩きつける。
「掛け合いのとこ……なんだっけ、レチターティヴォ? だったら、だいたい覚えちゃいましたけど」
 その向かいで同じく楽譜を追っているのは、Escherの常連客で、幸弘の一つ上の先輩に当たる寺沢辰彦。
「おーおー、歌ってもらおうじゃないの!」
「Non sono in vena. ――Chi e la……」
「……なんで歌えるのよ!?」
「だから聴いてるうちに覚えちゃったんですってば」
「でも下手。あんた声楽向いてない。ていうか音楽向いてない。出直してきなさい!」
 びしぃ、と夏樹は扉を指差した。つまりセレスティと幸弘を。
「練習に付き合わせておいて、んな横暴な……」辰彦は横目で二人を見た。「ていうかお客さんが夏樹さんの剣幕にびびってますよ?」
「客がどうしたって――客?」
 アルバイト店員の橘夏樹は、そこに至ってはじめて二人の存在に気づいたようだった。幸弘の背後にセレスティの姿を認めた夏樹の顔が、さっと青くなる。顔にしっかり、しまった、と書かれていた。やっちゃった、かもしれない。どうも彼女のそんな顔ばかり見ている気がするセレスティである。
「いいいいらっしゃいませセレスティさん!」
 発声練習か何かのように、声が裏返っていた。幸弘が、僕は? と自分の顔を指差した。入り浸っているため客扱いしてもらえていないらしい幸弘、既に扱いが辰彦と同じである。幸弘を軽くあしらって、
「ご、ごめんなさいお見苦しいところを。好きなところにおかけになって下さいな」
 楽譜を置くと、エプロンをかけ、夏樹は慌しくカウンタに入った。
「またお忙しそうですね、夏樹さん」
 セレスティは辰彦が腰かけていたテーブルの椅子を引く。幸弘はちょこんとアップライトピアノの前に座った。鞄から楽譜を出し、譜面台に置く。
「この間と似たようなものです」と夏樹。「いきなり、来週テストやるからなんて言われちゃって。仕方なく暗譜してる最中」
 ふぅ、と溜息をついた。
「おかげでこっちは練習に付き合わされてさんざん」楽譜のコピーを放り出して、辰彦もうんざりと溜息をついた。「夏樹さんの歌、ステージで聴く分にはいいんですけどねー」
 辰彦曰く「夏樹さんのソプラノは音響破壊兵器」であることを思い出して、セレスティは苦笑した。確かにオペラは、狭い店内で聴くものではないかもしれない。
「何になさいます?」
 音響破壊兵器こと夏樹が、セレスティに注文を訊いた。
「ダージリンをいただけますか? ストレートで」
「ダージリンですね。春摘みの良い葉っぱがありますよ」
 夏樹は鼻歌を歌いながら、紅茶の準備に取りかかる。
 テーブルに紅茶を運んできた夏樹に、セレスティは彼の部下である庭師に見繕わせた花籠を差し出した。
「ほんの気持ちですが、よろしかったらどうぞ」
「え! 私に!?」
 夏樹は紅茶を引き換えに花籠を受け取って、ぱぁっと顔を輝かせた。
「ええ、先日はお疲れ様でした、ということで」
「男性からお花を貰ったのなんてはじめて! しかも籠入りなんて、洒落てますね」
「気に入っていただければよろしいのですが」
「凄く嬉しいです。部屋に飾ろうっと」
 夏樹はすっかり有頂天である。とりあえず、と花籠をカウンタに飾り、ご機嫌な様子で仕事に戻る。暗譜なんて無理なのよー、などと叫んでいた旋律をふんふんと口ずさんでいることに、本人は気づいていない。
「セレスさんって意外にプレイボーイですね」
 辰彦が夏樹に聞こえない程度の声でセレスティに向かって囁いた。セレスティはにこりと笑う。
「美しい女性には敬意を表しませんと」
「だからそれがプレイボーイなんですってば。もー、セレスさん美形だから、思わせぶりなことをすると夏樹さんころっときちゃいますよ?」
「好意を持っていただけるのなら嬉しいですね」
 僕が良くないです、とぼやく辰彦。
「なんだかんだいって、辰彦先輩が一番――」
「幸弘、なんか言った?」
 辰彦は後輩を睨んだ。いえ、何でも、と小さくなる幸弘。
「何やら面白い事情があるようですね?」
「面白くないです」
 憮然と答える辰彦。
「その点は安心なさって下さい。私には恋人がいますから」
 セレスティの言葉に、二人の高校生男子は、え、と目を丸くした。
「なになになに、セレスさんって恋人とかいるんですか!?」
「わー、初耳です! どんな方なんですか?」
 興味津々といった顔つきで迫ってくる二人。セレスティは仰け反ってしまう。
「私に恋人がいるのがそんな意外ですか?」
「意外ですよ!」と二人の声が揃う。
「だって、セレスさんって、なんか、ねぇ!? 恋愛とか無縁っぽいっていうか!」
「セレスティさんの恋人かぁ。素敵な方なんでしょうねぇ」
 素敵と言われて悪い気はしない。セレスティは愛する恋人の姿を頭の中に思い浮かべて、ええ、可愛い恋人ですよ、と答えた。セレ様、と彼を呼ぶ人懐こい声を思い出し、甘い気持ちになるセレスティである。
「セレスさんの恋人かー。映画の世界だよね」
「むしろオペラの世界じゃないですか?」
 と、幸人はテーブルの上に放り出された楽譜の束を指差した。
「『ラ・ボエーム』ですか」
 プッチーニの歌劇である。ボヘミアンの若者達の生活を描いたものだ。主人公がヒロインに出逢って、恋に落ち、別れ、という。
「ああ、これってぶっちゃけ学生の恋愛モノみたいなもんだよね」と辰彦。「オペラって、なんか大仰な題材ばかりかと思ってけど。これは単純な筋書きですよね。要は“ボーイ・ミーツ・ガール”でしょ?」
「その『ボーイ』役が辰彦君が務めているのですか?」
「そう。で、夏樹さんがヒロイン」辰彦は肩を竦めた。「このミミっての、病弱で繊細な感じのヒロインなのになぁ。配役間違ってるっていうか――」
「聞こえてるのよ」いつの間にか三人の背後にいた夏樹が、楽譜を丸めて辰彦の頭をぱこんと叩いた。「私だってやりたくないわよ!」
「まぁ、そうおっしゃらず」セレスティはやんわりと夏樹を牽制した。「そうですね――、この間は辰彦君に止められてしまいましたし、今日は私のために歌っていただくというのはどうでしょう? 観客がいれば、歌う気にもなれるでしょう?」
「え――」
 夏樹が硬直する横で、辰彦はもう勘弁して下さい、とつぶやいた。
「観客といっても、私一人ですが」
 セレスさん、冒険しすぎです。と、二人の高校生は思ったが、口にしなかった。


    03 modern Utahime

 店内で歌うのは何かとよろしくない、主にセレスさんの身体に、という辰彦の提案(もしくは忠告)で、一同は会場を移すことにした。クラシックをやるのに、これほど最適な場所もないであろう――音楽ホールへ。
「……ま、まずくありません?」
 なんとかフィルハーモニーの類いと思しき集団がリハーサルをやっている最中に、セレスティ・カーニンガムは堂々と正面から入っていく。その後におどおどとつづきながら、夏樹は彼の背中に問うた。
 セレスティは、何がですか? と首を傾げる。
 何がまずいって、そりゃ、色々である。
 都内有数の音楽ホールに、ジーンズとスニーカーで上がり込んでも良いのか、とか。
 楽団のリハーサルを邪魔しても良いのか、とか。
「ええ、問題ありませんよ。私のホールですから」
「…………」
「…………」
 そういえば前に幸弘から聞いたっけ。
「え、でも、リハーサルの邪魔するのはまずいんじゃ」
「私の楽団ですし」
 この人楽団まで持ってる! と目配せで会話するのは夏樹と辰彦である。
 楽団員達は各々ラフな格好でリハーサルに臨んでいた。クラシックのかしこまった舞台からすれば、珍妙な光景と言える。それこそジーンズやスニーカーで古典音楽を奏でているわけだから。
 指揮者がセレスティに気づいてぴたりと演奏を止めた。当然彼らの注目は、セレスティと、その後ろにくっついてきた夏樹達に集まる。
 何やら日本語以外の言語で会話し、セレスティと指揮者は親しげに軽い抱擁を交わした。
 それから優雅な物腰で夏樹を指し示し、何事か言った、指揮者が快諾し、楽団員に同じく何事か指示する。
「……あの、何してらっしゃるんですか、セレスティさん?」
 何だかとてつもなく不吉なものを感じ、夏樹はおそるおそる訊いた。
「あちらのレディのために少しお時間を下さい、と言ったんですよ」
 夏樹は一瞬白くなった。すぐに気を取り直し、
「歌うんですか!? 今!」
 もちろん、とセレスティのみならず、指揮者と団員までもがにこにこしながら頷いた。――さすがセレスティ所有の楽団だけあるというか。
「そ、そんな無茶な……」
「フォーマルな場ではないのですから、楽にして下さい」
「楽にして下さいって言われても!」
「まあまあ、そう緊張なさらず」
 セレスティは客席に腰かけ、舞台のほうを手で指し示した。
「ここでヘマしたら、私、就職ヤバくなったりするんじゃ……」
 クラシック業界への就職が、と庶民的なことをぶつぶつ言いながら、半ば自棄になって夏樹は舞台へ上がった。
 ごほん、と咳払いを一つ。
「ええと、じゃあ、折角凄いホールなので目一杯歌わせていただきますね」
「存分にどうぞ」
 辰彦と幸弘が控え目な拍手をする。歌も控え目にして下さいね、という思いを込めた拍手だった。
 舞台に出ると気の強さがニ割り増しになる夏樹は、ろくな発声練習もなしにいきなりオペラ・アリアを歌い始めた。
 歌詞の意味を丸っきり無視した豪快な歌い方に、思わず噴き出したのは指揮者。楽団員はこの子何者だろう、と目を丸くし、セレスティは――、
 その気持ち良さに、おやおやこれは一種の快感ですねぇ、などと思っている。
 本来だったらさめざめと歌うであろうメロディを、いっそ爽快なほど乱暴に、途中で歌詞を忘れたらしく「ららら」で続行、繊細さには欠けるが、相当気持ちの良い歌唱力である。ディテールを無視した歌い方はしかし、元来の声の良さが補っており、聞き苦しいということはない。
 指揮者が調子に乗って指揮棒を振った、で、楽団員も調子に乗りまくってバックグラウンドに演奏をつけた。完全に開き直ってしまったのか、夏樹は歌に演技をつけた。が、お世辞にもヒロインらしいヒロインとは言えない。ミミは握り拳で、浪花節調にイタリア語を話したりしないだろう。視覚的に面白くはある。楽団員はウケまくっており、辰彦と幸弘は後ろで唖然としていた。
「いや……なんか夏樹さんらしいけどさー」
「僕、あんなヒロインはじめて見ました……」
 セレスティもはじめてだった。
 無茶苦茶ながらもアリアを最後まで歌い上げた夏樹に、セレスティと楽団員達の拍手喝采。夏樹はぜーはーと肩で息を整える。
「……どんなオペラでしたっけ、これ?」
 少なくともボーイ・ミーツ・ガールではありませんね。とセレスティはコメントした。
「愉快でした。素晴らしいですね、夏樹さん」
「それは……誉め言葉と取って良いんですか……?」
「聴く者に活力を与える歌声だと思いますよ」
「活力……。オペラで活力……?」
 疲れ果てたつぶやきを漏らす夏樹であった。


    04 harmony with you

 そんなこんなで夏樹のオペラモドキを堪能した一行は、Escherへ戻った。夏樹が留守にしていたため、開店休業状態である。
「セレスティさんのおかげで半端に度胸がついちゃいました」
 夏樹は複雑な表情で言いながら、仕事に戻る。
「もー、夏樹さん無茶しすぎ。何ですかあのヒロイン。ありえない」
「やかましいわね」
「あはは、でも面白かったですよね、セレスさん」
「面白かったですねぇ」
「この場合『面白い』ことが誉め言葉になるのかどうかは微妙ですよねー」
「余計なこと言うんじゃないわよ」
 夏樹は仏頂面で洗い物を再開した。
「僕もなんかやる気出てきました。夏樹さん式ピアノ弾いてみようかな」と幸弘。
「何よ、私式って」
「こんな感じ?」
 と、幸弘はアップライトの鍵盤を両手で叩いた。大迫力のノクターンである。ショパンの面影はどこへやら、だ。
「……私に喧嘩売ってる?」
「とんでもありません、ほんと、感動したんですよ。あの、人目を気にしないで自分の好きなように演奏したら、凄く楽しいっていうか……夏樹さん、あんなプロの人が大勢いる前で、良くあんな風に自由に歌えるなぁって」
「でもあのパフォーマンスが評価に繋がるかどうかは微妙――」
 再び(適切な)突っ込みを入れた辰彦に、夏樹は蛇口を塞いでぷしっと水をふきかけた。
「わっ、ちょっと、今のモロですよモロ!」
 髪の毛から水を滴らせ、辰彦が夏樹に抗議する。
「セレスティさん、とばっちりいきませんでしたか?」
 夏樹は営業スマイルを浮かべてセレスティに向かって言った。セレスティは笑いを堪え切れない。
 くすくすと笑みを零しながら、これはこれで調和していますね、と言う。
「調和?」
「ええ、調和です」セレスティは店にたむろしている面々を見回してから、「内容や作曲者の本来の意図を無視した音楽でも、皆さんが楽しんで演奏しているのなら、それはそれでハーモニーの一種になるんじゃないかということですよ」
「不協和音とか言いません、それ?」
「あんたはいちいち一言多い!」
 夏樹が再び水道攻撃を辰彦に仕掛けた。
 今度は僅かにとばっちりを食い、夏樹が大慌てでセレスティにあやまる。セレスさんだけ逃げようったってそうはいきませんよっ、とセレスティの袖を引っ張っる辰彦。幸弘は楽器に水かけないで下さいねぇ、とウッドベースを店の隅へ移動する。自身はピアノの前に座り、『水の戯れ』を弾き始めた。
「夏樹さん式です」と幸弘。
「うわっ、そんなのラヴェルじゃない! 繊細さに欠ける! まさに夏樹さん式!」
「どうせ繊細じゃないわよ、悪かったわね!」
 財閥の総帥という立場故に慇懃無礼な態度を取られることが多いセレスティにとって、彼らのあけっ広げな態度は新鮮だった。
 賑やか、めちゃくちゃ、はちゃめちゃ、けれど爽快。
 秩序などないようでありながら音楽らしきものになっている、
 ――そんな調子外れのハーモニーに加わった気分。
「セレスティさん、何かリクエストありますか?」
「そうですね、何か楽しい曲を弾いて下さい」
 それじゃあ、と幸弘は『エンターテナー』を弾き始めた。
 心弾むようなメロディに夏樹がスキャットをのせる。
 踵を鳴らしてリズム・セクションを担当する辰彦に、観客の役割をセレスティが加わって、はじめて完成する音楽のステージ。
 タイトルは『無題』、演奏上の決まりもなく、鑑賞上のマナーもない。
 楽しめればそれでオーケー、不協和音でも和音は和音だ。
 ――たまにはこんなハーモニーもありですね。
 セレスティは彼らの音楽を、おおいに楽しんだ。


    05 epilogue

「秋もそろそろ終わりですね」
 幸弘と共に帰途を辿りながら、セレスティは寒々とした空を見上げた。
「随分日が短くなってきましたものね」幸弘は両手に息を吹きかけた。「僕、寒いの苦手なんです。やだなぁ。セレスティさんは、寒いの平気ですか?」
「暑さに弱い分、冬は快適ですよ」
「うー、僕は無理ですー。冬は憂鬱な季節です」
「楽しいこともたくさんあるではありませんか。来月はクリスマスですよ」
「クリスマスかぁ。クリスマスの曲でも練習しようかな」
「クリスマスコンサートなども面白そうですね」
「そのときはセレスティさんを一番にご招待しますね」
「ええ、是非とも」
 二人の足の下で、かさかさと落ち葉が音を立てる。
 風が吹き、赤や黄の葉がぱっと視界に舞った。葉はくるりくるりと空へ吸い込まれていく。
「可能性は無限、かぁ……」
 ふと幸弘がつぶやいた。セレスティは幸弘の横顔を見る。
「あ、いえ」視線に気づいて、幸弘は意味もなく手を顔の前で振った。「Escherへ向かうとき、セレスティさんがおっしゃってましたよね。可能性は無限って。――夏樹さんの歌を聴いて、そうかもしれないな、って思いました。少なくとも音楽という分野では、制限らしき制限なんて何一つないんだなぁって……」
「ましてや幸弘君には味方がたくさんいますからね」
「え?」
 幸弘はきょとんとして、セレスティを見上げた。
「一緒に歩んでくれる人がたくさんいるということです」
 ここにも、とセレスティ。
「それは、凄く――、力強いですね」
 あるいは今の今まで孤独に戦ってきたのかもしれない少年は、いつもよりほんの少しだけ頼もしい微笑を浮かべた。

 共にハーモニーを奏でる仲間は、時に、どんな武器よりも強力である。



fin.



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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■セレスティ・カーニンガム
 整理番号:1883 性別:男 年齢:725歳 職業:財閥総帥・占い師・水霊使い


【NPC】

■橘 夏樹
 性別:女 年齢:21歳 職業:音大生

■寺沢 辰彦
 性別:男 年齢:18歳 職業:高校生

■遠野 幸弘
 性別:男 年齢:18歳 職業:高校生

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■         ライター通信          ■
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 いつもお世話になっております、ライターの雨宮祐貴です。
 前回に引きつづきのご発注、ありがとうございました! いつものことながら納品が遅くなってしまって申し訳ございません。
 NPCのご指名をいただいたので、いつものメンツに暴れてもらいました。暴れすぎてセレスティさんが被害を受けています。
 北で過ごす冬は二度目ですが、ここのところめっきり日が短くなり、追い立てられているような気分になります。残り僅かな秋を楽しむのに、音楽は欠かせませんね。
 それでは、またどこかでご一緒できることを祈りつつ。