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冴える月を見つめて
彼女のここから先の足取りはまだわかっていない。
しかし、神谷虎太郎の情報網は日本に限定されたものではなかった。
本当ならすぐに情報を集めに行きたいところだが、現在時刻はもう真夜中。ここまで強行軍でやって来たのだ。
ここで一休みくらいしなければ、虎太郎自身の身体がもたない。
急く気を抑えて沈めるも、すぐに眠れる気分ではなかった。
「樹沙羅……」
ぽっかりと空に浮かんだ丸い月を眺めて、思い出すのは儚げな印象を持つ少女の姿。
――姫宮樹沙羅。
彼女と初めて逢ったのは、もう五年も前のことだ。
彼女がいたのは、虎太郎の元同業者でありその当時は世捨て人同然に生きていた剣客の家だった。
久しぶりに立ち寄った友人の家で見かけた少女は、その場所にはあまりにも場違いに思えた。
世俗を離れ、質素な暮らしをする彼の下で剣を学んでいた少女は、大人しく儚げな印象を持っていて、とても剣に向いているようには見えなかった。
もちろんそれは第一印象での話である。のちのちその印象が少々間違っていたことを虎太郎は知ったが、しかしそれでも。
今の世、剣客などで食べていけるわけでなし。
普通の一般的な親ならば、我が子を人里離れた場所に向かわせはしないだろう。
虎太郎の疑問に、しかし剣客は詳しい話を教えてはくれなかった。
ただ、事情があって知り合いから彼女を預かったとだけは教えてくれたが。
とは言え特別な事情がなければ自分の子供をこんなところに預けるわけがないだろうから、その程度は推測済み。
つまり剣客は、虎太郎に詳しいことを教える気がなかったのだ。
――月は、冴え々々と夜闇を照らし、どこか神秘的な雰囲気を醸し出している。
決して裏側を見せない月。
そこには、何があるのだろう?
自分は、知らない事があまりに多すぎた。
……いや、話としては聞いている。
行方不明になった樹沙羅を追いかけることになった時、一通りの事情は知った。
だがそれはあくまでも知識であり、経験ではない。
樹沙羅の中に眠る別人格がどんなものか、虎太郎はまったく知らないのだ。
聞いた話によれば、樹沙羅の内に秘められたもう一つの人格は、殺戮を好む狂人であると言う。
「…………」
止められるのだろうか、自分に。
刀を握り締める手に力が入った。
日本から持ちこんで来たこの刀は、とある事件の中で友人の命を奪ってしまった刀だ。
辛い思い出が残るこの刀を選んで持って来たのにはもちろんきちんとした理由がある。
絶対に、殺しはしない。
殺し合いなど、絶対にしない。
そう、自らに誓いを立てるためだ。
けれど不安がないといえば嘘になる。
虎太郎の実力は相当なものではあるが、樹沙羅の剣の腕も決して悪くはないはず。もしかしたら虎太郎の予想を遥かに上回っているかもしれない。
――それを知ったのも五年前の出会いの時であったか……。
詳しく語ろうとしない剣客から事情を聞き出すのは早々に諦めて、以降、虎太郎は樹沙羅のことを気にかけるようになった。
そうすることで、樹沙羅がなぜここに居るのか。その片鱗だけでも知る事ができないかと思ったのだ。
最初はただの大人しい少女であると思ったのだが、ほんの少し一緒にいるだけで、樹沙羅がただ大人しいだけではないことがすぐに知れた。
樹沙羅は、何かを――自分自身の中にある何かを、抑えようとしていた。
その様がぱっと見に、樹沙羅が大人しく儚げな少女であると言う印象を与えていたのだろう。
今ならばわかる。
『何か』が、樹沙羅の中に眠る別人格であることが。
しかし当時は何も知らず、故に、樹沙羅が何を思いなぜ親元から離れてまでここにいるのか、一体何を抑えているのかが気になった。
知る事で、なにか助けの手を差し伸べることができないかと思ったのだ。
そうして過ごす内に、虎太郎はあることに気がついた。
樹沙羅には類稀なる剣の素質があったのだ。
まだまだ荒削りではあったが、その中に光る原石のような剣の運び。拙い技術を補う天性の才。
ぞくりと、背筋が震える。
それは決して恐怖だけではない。
感じた恐怖は、樹沙羅の剣の才能にではない。
殺してしまうかもしれない自分に、だ。
その実力が拮抗していればいるほど、傷つけずに勝つのは難しくなる。
本当は、戦わずにすめばそれが一番良いのだ。
樹沙羅が表に出ていれば、それも可能であろう。
だがもし、別人格の方が表にいたら……。
思いかけて、虎太郎は小さく頭を振った。
不吉なことばかりを考えていては、それが現実になってしまうから。
考えるべきは無事に樹沙羅と再会すること。
大丈夫だと、できるのだと信じる事。
ふと気付いたら、部屋の中に暗闇が降りていた。
どうやら月が雲に隠れたらしい。
そろそろ休まなければ。明日からは街のあちこちを奔走することになるだろうから。
無事に樹沙羅を連れ帰る事を自身に誓い、虎太郎はそっと瞳を閉じた。
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