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<東京怪談ノベル(シングル)>


波に揺れる鮮やかな過去の記憶


 「兄ちゃんよぉ、そんなに飲んで大丈夫かい。そんなに酒に強そうにも見えないしな……」


 店のオヤジが顔を曇らせながら、目の前の客にグラスをそそくさと渡す。
 同じように優しげな表情を暗く曇らせ、ただ静かにグラスを傾ける青年がそこにいた。
 もしかしたら、彼はオヤジを睨んでいたのかもしれない。

 『さっさとそこに酒を置け』と……

 顔でなくとも、目がそう訴えていたのかもしれない。
 それを申し訳ないと思うこともなく、彼はただ酒を飲んではグラスを前に出す。
 飲むペースなど関係ない。一気に飲み干すこともあれば、ちびちびとやる時もある。
 そんな彼は恐れていた。それはグラスの波間に映る、あの……



 ここはエジプトのとある小さな酒場。
 今を楽しくするために、自然と人が集まる不思議な空間だ。
 その中にひとり、カウンターで黙ったまま安酒を飲み続けるのがシェランである。
 オヤジは気を遣って彼に何度か話しかけているが、これといった反応はない。
 彼はただ最初に「酒を出せ」といい、あとは「おかわり」と言うだけ。
 お互いに深酒になっていくのをわかっていながらも、それを口にすることはない。
 周りの騒がしさが逆に、物静かな彼をますます孤独にさせていく。


 孤独。
 そうか、きっとあの方も……今。


 今の彼にはどんな言葉も毒になる。
 だから、それを洗い流すためにただ酒を飲む。
 うまくもない。酔えない。そんな液体で自分の心を必死で洗おうとするのだ。


 気づかぬ間に、またグラスが空になった。
 オヤジは慣れた手つきで酒を注ぐ。トクトクと音を立てて茶色い水が注がれていく。
 その波間に……彼は愛しい人の悲しい顔を見た。反射的にシェランは、とっさに手のひらで目を隠す。
 だが、その暗闇の向こうにも彼女がいる。瞳にいっぱいの涙を溜めて、そして今にも……!

 とっさにパピルスに書かれた文面を思い浮かべる。目の前に広がる古代の文字。
 昼間に読んだ。忘れようとして読んだ。あの面影を消そうとして。
 消そうとして消そうとして、消そうとして、消そうとして消そうとして消そうとして。
 さらに暗闇に書かれた何の力も持たない言葉をブツブツと読み続け、最後に彼は知る。


 決して、それを忘れられやしないことを。


 ゆっくりを目を開く。顔は何かに怯えているようだった。
 目の前には救いがあった。なみなみと注がれた酒がそこに鎮座していた。
 飲んでいるまさにその時だけは、すべてを忘れられる。シェランは必死で喉を鳴らして飲む。
 そのリズミカルな音でさえ……また自分に迫ってくる。今度は誰かの足音に聞こえる。
 誰なのかはもうわかってる。また思い出してしまう。なぜだ、忘れるために飲んでいるのに。


 なぜこんなにも、人は辛いことを鮮明に覚えてしまうのだろう。
 なぜこんなにも、狂おしいほど愛しい思いを捨て切れないのだろう。

 忘れることができたなら……そう思う。
 でも、忘れてしまったら……どうなる?


 答えなどない。もうシェランはそれを知っている。わかっている。
 だから迷っている。暗い闇の中を。いつまでもいつまでも。
 でももうすでに、彼のその胸に『答え』がある。逃げられない。
 自分がそれを持つ限り。自分がそれを知る限り。
 いつまでもそれから逃れることはできない。そんなものが安酒で褪せるはずがない。


 飲んでいるのが安酒だからではないが、これは悪い酒だ。
 彼はこの酒では決して酔えないのだから。本当に『悪い酒』とはよく言ったものだ。
 気づかずに飲み続け、首を小さく横に振りながらまたグラスを覗きこむ。
 そこに一瞬、ほんの一瞬映った、忘れたいはずの記憶の名をつぶやきそうになる……

 「はっ! んぐんぐんぐ……はぁっ、はぁっ……!」

 気持ちも言葉も彼女もすべて飲みこみ、彼はまたその面影を身体に蓄えてしまった。
 シェランはきっと、繰り返していることにすら気づいていない。
 吐き出そうとしては飲みこみ、消し去ろうとしては見つけ……


 答えなんか知ってもどうしようもない。忘れたい。今はただ、それだけ。
 そんな気持ちを抱えながら、彼はきっと夜明けまで飲み続けるのだろう。
 誰も彼の名を知らぬこの街の中で、ただ悲しげにいつまでもグラスを持ち……
 そしてその先に一時の安らぎを求めるのだろう。きっとそうに違いない。



 「シェラン、行かないで……!」



 誰も彼の名を知らぬこの街の中で、ただ悲しげに、いつまでも……