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その熱情と答え
――暗闇。
一切の光はなく、すぐ目の前のものさえ輪郭程度しか見えない。手を伸ばせば、その先も見えなくなるような‥‥そんな場所で。
(‥‥俺はいったい何をしてるんだ‥‥?)
気付いたときには、唇に触れる温かい感触。重ねられたその隙間から侵入した柔らかいものは、遠慮もなくその内を蹂躙する。
抗う術を持たず、葛井・真実(くずい・まこと)は、ただただ、どうしてこんな事になってしまったのかを一生懸命回想していた――。
‥‥突然の爆発音。
一瞬で電気は落ち、乗っていたエレベーターは緊急停止した。そのままウンとも寸とも言わなくなり、慌てて手を伸ばした緊急電話は全く繋がらない。
「どうやら完全に閉じ込められたようだな」
今更分かり切った事を確認するように、隣で多岐川・雅洋(たきがわ・まさひろ)が溜息をつく。
その言葉に真実は過敏に反応した。
「ど、どうしてそんなに落ち着いてられるんですか!?」
「この状態で今更何をしろと? ここは落ち着いて助けを待つ方が懸命だね」
「だ、だからって‥‥」
駄目だ。パニックになってる自分が何を言ったところで、この目の前の男は常に落ち着き払った態度を崩さないだろう。さすがは売れているニュースキャスター、どんな時でもプロたる姿勢だ。
いや感心してる場合じゃない。
「お、お祖母ちゃん‥‥俺、もう駄目かも」
ギュッと握りしめたのは、祖母のくれたお守り袋。
上京する自分に対し、笑顔で頑張ってこいと励まし、餞別としていただいた物だ。どんな辛い事があっても、このお守りを見るだけで祖母の事を思い出し、次の日も頑張れたのだ。
だけど。
今回こそは、そんな御利益もないかもしれない。
なにしろ爆発でエレベーターに閉じ込められたのだ。
「うう、どうして俺がこんな目に」
もはや半泣き状態の真実。
おもむろに手帳を取り出し、ポツリポツリと呟きながらなにやら文章をしたためていく。
こんな時になにを、と多岐川が後ろからその手帳を覗き込む。そこには、ガタガタとふるえながら一生懸命に遺書を書いているではないか。
その様に、多岐川は思わず苦笑を零すが、一心不乱に書き続ける真実にはまるで聞こえていなかった。
◇
(‥‥おいおい、覚悟を決めるのが早過ぎやしないか)
内心そう思いはしたものの、葛井の性格を考えれば仕方ないかと思い直す。
まるでウサギのように怯える彼の様子を楽しげに眺めながら、雅洋はじっと耳をすませながら外の様子を窺っていた。
そう大きい爆発音ではなかった。エレベーター自体も止まっているだけで、揺れも殆どない。外の様子もそれほど騒然としていないようだ。
二次災害の予兆がないことにホッと安堵し、被害自体はそう大したことなさそうだと結論付ける。
そうなると今度は、この暗闇の密室に葛井と二人きりという状況が、雅洋の気持ちを徐々に昂揚させる。偶然とはいえ巡り合わせたこのチャンス、逃す程愚かな男ではない。
(彼の真意を引き出す絶好の機会だ)
思わず舌舐めずりしそうになるのを懸命に抑え、取り敢えずエレベーター内にある監視カメラを探す。いくら大胆な性格とはいえ、さすがにスキャンダルは御免被りたい。
暗闇の中、注意深く目を凝らし――そうして見つけたカメラは、最初の衝撃で見事に壊れていた。
ニヤリ、と彼の口元がイヤらしく笑む。
好機は、どこまでも自分に味方なのか。
ふと見下ろせば、力をなくした葛井が小刻みに震えている。
そのまま、彼の肩をそっと抱き寄せた。
「‥‥えっ」
「そんなに心配する事はない」
「あ、あの」
「見たところ、そう大した被害ではないさ。直に救助が来る」
子供でもあやすように優しく、柔らかい声を耳元で囁きかけた――。
◇
震えていた体が、柔らかい温もりに包まれる。
そして――届いた声。
「ぁ‥‥」
真実は思わず息を飲む。
唐突に‥‥そして久し振りに聞いた多岐川の声。自分にとって一番弱い、身体の奥の琴線を震わせるその『音』に、真実の鼓動は早鐘のように鳴り響く。
まるで彼に聞こえてしまうんじゃないか、そんな恥ずかしさもあって頬が一瞬で紅潮した。
「どうした? 顔を赤くして」
クスクスという笑い声とともに、からかうような口調。
その言い方に、更に顔が赤くなるのを感じる。既に真実の中では命の危機よりも、間近に感じる多岐川の声と温もりだけしか頭になくなっていた。
「あ、あの‥‥多岐川さん」
「ん?」
「もう少し、離れてもらえませんか」
なるべく距離を取ろうと伸ばしかけた腕を、多岐川が無造作に掴んだ。
ハッと身体を強張らせる真実。そのまま、彼は強引に抱き寄せると、耳元に顔を近付けて――。
「どうして、こんな所まで駆け付けてくれたんだ?」
「ッ!」
囁かれた科白が背筋を駆け抜け、ゾクリとした感触に襲われる。何か答えようと口を開きかけても、すぐにまた閉じてしまった。
そもそもなんと言って答えればいいのか。
取るモノも取り敢えず駆け付けた理由。
自分の中でも結論が出ていない事をうまく説明出来る程、真実は口上手ではない。かといって、このまま黙っていれば一体どんなことを想像されるか。
逡巡に頭の中がぐるぐるしていると、自分の言葉を待たずに彼が行動を起こした。
それは。
頭が真っ白になる程の衝撃で。
「――んんっ‥‥ちょ、やぁ‥‥!」
息を継ぐ間もなく、再度重なる唇。
無抵抗に塞がれて為す術もなく身を固くする自分に、向こうは逃がさないように腕を回してきた。真っ暗な空間なのに、目鼻の先にあるその顔だけはよく見える。
じっと、自分を見つめる視線。
さっきまでふざけていたのに、今はこんなに真剣で。
(‥‥ずるい、よ)
ドキリ、と心臓が一回高鳴る。
多岐川がすうっと目蓋を閉じる。それに合わせるかのように、真実もまた目を閉じた。
重なった唇から伝わってくるのは、彼の温もり――その気持ち。
与えられるそれに自身が包まれ、それで自分が安堵している事をようやく理解する。そうして、真実はようやく知った。自分がどれだけ多岐川の事を意識していた事を。
気付いた途端、早鐘のように鳴る鼓動も現金なモノだ。
どれだけ唇を合わせていただろうか。
ゆっくりと離れていくのを名残惜しいと考えてしまい、思わず気持ちが動揺する。更にそれを揺さぶるような言葉が、彼の濡れた唇から発せられた。
「このまま‥‥いいだろう?」
キスより先を促す科白。
求められ、掴まれた腕の力が強くなる。真っ暗闇の空間で、熱に浮かされた思考回路がそのまま流れていきそうになったその時。
スッと上着の裾から侵入する腕。肌に直接触れた感触。
瞬間。
片隅に残っていた理性の欠片が、真実の意識を正気に返した。
「お、俺! もうすぐ結婚するんですっ!」
思わず口をついて出た科白。
咄嗟に付いてしまった嘘に多岐川が身を固くした隙に、ガバッと彼の身体を押し戻した。そのまま俯き、彼の顔を見ることが出来ない。
――直後。
暗闇の空間に、照明が点灯した。
◇
‥‥静かに見下ろした視線の先、俯いたまま顔を上げない。
システムが回復したことでホッとしているのが、近くにいる雅洋にはありありと見て取れた。
それよりも先程葛井が叫んだ言葉が、頭の中をぐるぐる回っている。表面上は落ち着いてみえる顔も、彼の必死の自制心の賜物である事を、視線を合わせない彼は気付きもしないだろう。
張り詰めている空気を和らげるように、自分の方から息を吐いた。
彼の言葉が真実か、嘘か。
それを確かめようにも、さすがにこれ以上強引には出来なかった。それは自身のプライドの高さが災いしたのかもしれない。
そのまま。
気付かれないように、雅洋は葛井から静かに身を離した。
◇
いつのまにか、多岐川が自分から離れている事に気付く。
消える温もり。
さっきまで感じていたそれが失われた事に、真実はどことなく淋しさを感じた。なんて自分勝手なんだろう、そんな思いと共に。
(‥‥嘘、ついてしまった)
安堵も、確かにあった。
だけど、それ以上に感じる罪悪感。離れていく温もりに対する切なさ。そんな感情が今の真実の心を占めていた。
ガタン、と音がして扉が開く。
「ああ、どうやら助かったようだな」
ビクリと肩が震える。
普段と変わらない声なのに、いつも以上に冷たく感じてしまう。それはきっと、自分の中の疚しさがそう感じさせているのだろう。
だから、そのままエレベーターの外へ出ていこうとする彼を、引き止める言葉が見つからず。
「あ」
「ほら、さっさと夕食にするぞ」
振り返らない背中。
伸ばした手を振り払うように歩いていく多岐川。
その後ろ姿を、真実は思わず泣きそうな顔で見送るしか出来なかった――――。
【終】
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