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<東京怪談ノベル(シングル)>


あなたの傷痕


 褐色の店内に落ちるのは、橙の明かり。
 暗すぎる、と客が文句を言うのもはじめのうちだけだ。誰もが、やがて店内に満ちる音色と歌声と酒に酔いしれ、セピアの照明など気にもかけられなくなる。
 客のオーダーも、グラスにマドラーがぶつかる音も、マホガニーとブランデーの香りに溶けていく。
 このバーは、看板も小さく、新宿の裏の静かな一角にこっそりと佇んでいた。付近の住民の中には、ここがバーであることを知らない者がいるかもしれない。見つけ出すのも一苦労のこの店は、ろくな宣伝も打たないままに、長生きをしていた。セピアの音色と香りに安らぎを求める客たちは、いずれもやんごとなき地位を確立した上物だ。
 メニューらしきメニューもないこの店に、10代はもちろん、20代の影もない。
 例外はあった。
 美しく歳をとった女オーナーのお墨付き、相模紫弦。
 彼は16歳だったが、この店に入ることを許され、ステージで演奏する役目さえ負っていた。葉巻とバーボンがトレードマークの重役たちは、彼の演奏に目を細めながらも、きまって「若いな」とオーナーに言うのだ。オーナーは笑うだけだった。紫弦はバーに出入りはしているが、確かに、酒はやらなかった。
 花のような香りが揺れる中で、囁きとグラスの声を聞きながら、紫弦はその世もベースの弦を爪弾いた。オーナーはその日、客を相手に酒と話をやっているだけで、ついに一曲も歌わなかった。紫弦はそれが残念だった――彼女は『シャンソンの女王』で、今は若い歌い手にその称号を譲ってしまったが、少し酒で焼けたその声は、紫弦の鼓膜を癒すのだ。
 オーナーはその夜に、やはり笑って紫弦に言った。
「紫弦はお客にあまり目をやらないからね。気づかなかっただろう。今夜は『あの筋』のお客がちょっと多かったんだよ」
 なるほど、と紫弦は苦笑した。
 どこそこ系なんたら組の連中も、オーナーの微笑と会話の前では、猫のように大人しくなる。彼女の前で、命や血が絡む話は、自然とご法度になってしまう。
「かなわないな」
「紫弦はまだ若いからねぇ」
 シンクで、グラスたちが美しい音色を奏でる。
 店は静かにその夜の仕事を終え、バンドのメンバーも裏口から帰り、店の中は紫弦とオーナーのふたりだけになった。
 入り口のドアの鍵をかけようと、紫弦が分厚い木製のドアに手を伸ばす。シンクのそばでオーナーが、あ、と声を上げた。
「紫弦、まだ、閉めないでおくれ――」
 彼女の声が、外で起きた野太い罵声にかき消された。オーナーが驚いたように口を閉ざし、紫弦はするりと外へ身を翻した。


 四十路を越えたか越えないかの男たちが、口汚く罵りあい、取っ組み合っていた。店ではオーナーの手前大人しくしていたヤクザ者たちだ。店から出たところで、折り合いの悪い組の者とでも鉢合わせたのか。
 紫弦は、原因などもとめなかった。
「喧嘩なら表通りでやれよ。ギャラリーもたくさんいるぞ」
 なにを、と紫弦に掴みかかったひとりが、ぶわッとたちまち宙に浮いた。紫弦が使った投げ技は、その場の誰もが見たこともない型を持っていた。合気道の小手返しに似ていたか。
 ずどう、と大柄な極道が倒れる様を見て、紫弦を囲む男たちは一様に呆気に取られていた。しかしそれも、一瞬のことだ。すぐに頭に血が上る男たちだったため、結果は気にもとめずに、紫弦に拳が飛んだ。

 10分後には、きれいに片付いていた。

「何だ何だァ? なッさけねエな」
 宵闇から湧き出た霧のようだった。その男の風体は、運動を終えたばかりの紫弦の意識に、強く深く食い込んだ。どう見ても、いま紫弦の足元で唸っている男たちとは格が違う。
 だが、同類だ。
 Vシネマの俳優にも出せない、本物の光が、老いた男の目にあった。
 男はのびている輩を鼻で笑うと、バーの入り口に手をかけた。
 もう閉めた――紫弦がそう言おうとしたとき、ドアが中から開けられた。
「いらっしゃい」
 オーナーが、笑顔で男を出迎えていた。


「何だ、もう閉めたのか」
 真鍮の壁掛け時計に目をやって、誰もいないステージと店内に目をやって、オーナーと紫弦に目をやって、男は残念そうに呟いた。オーナーがやはり微笑みながら首を振る。
「いいのよ、座って。スコッチをダブルだったわね」
「悪ィな」
 オーナーがカウンターの奥に入る。
 自然と、紫弦は男と席をひとつ置いたところに腰かけていた。男は紫弦を見て目を細めた。
「ボウズ、いい腕してンだな」
「どうも」
 紫弦は屈託なく笑った。その男に対して、不思議とかしこまる気にはならなかった。すむ世界が違うからだろうか――男が寂しげに見えたからだろうか。
「あの莫迦たちの喧嘩の理由、聞いたか?」
「いや……そこまでは」
「ケータイの機種だかが同じだから、おまえ変えろ、変えない、ってェもんだ」
「くだらないな」
「ああ、くだらねエ。今も昔も確かに、俺たちゃくだらねエことで喧嘩してるがよ。さっきの莫迦ども、同じ組のモン同士よ」
「そうだったのか。それは意外だ」
「昔ゃ、組のモンはどうあっても仲良くやってたもんだ。それが、機械ひとつで壊れちまうってエのか? 盃やっててもやってまうってエのか? なッさけねエよ。だいいち、ボウズひとりに軽くいなされちまうなんてな」
 彼がにやっと紫弦に笑いかけて、紫弦は苦笑した。
 オーナーが差し出したグラスを、男はぐっと一気にあおる。
「俺にゃ、わからねエ世界になってきてる。そろそろ潮時かねエ」
「……俺が言うようなことでもないけど」
 紫弦はステージを見ながら呟いた。
「あんたがいま居る世界は、あんた自身の意志で、抜けたり居座ったり出来るものさ」
「……」
 オーナーがグラスにスコッチを注いだ。男は目を細め、葉巻をくわえた。不意に自嘲し、男は奇妙なほど明るい声を出した。
「音が無エと、余計に辛気臭エわな。『あなたの傷痕』、ボウズ、知ってるか」
「古いけど、シャンソンの名曲だ」
「演ってくれ。ああ、ピアノだけで」
 男の葉巻には、すでにオーナーが火をつけた。紫弦は黙って頷き、ステージに上がって、ピアノの鍵盤に指を置いた――。


   あの橋は思い出の場所
   思い出の架け橋
   あなたが鉄の雨から 逃れ逃れて
   会いに来てくれた あの夜
   あなたの背中の傷痕は
   わたしを抱きしめた あの夜に
   すでにあったというのかしら
   なかったような気もするわ

   でもね いいの
   あなたは思い出の橋を渡り
   あなたはわたしを抱きとめている
   傷痕は どのみち見えないわ
   あなたがいつまでもわたしに
   顔を向けていてくれるなら


 ああ、歌だ。
 ピアノだけでいい、と男は言っていたのに。
 紫弦が気がついたときには、マイクにも向かわず、オーナーが歌っていた。少し酒に焼けた、低い、強い歌声だ。
 物悲しい伴奏が終わって、紫弦が振り返ったとき――
 カウンターに、男の姿はなかった。
 ドアベルの音色を記憶は、紫弦にない。
 オーナーは何事もなかったかのようにカウンターのグラスと灰皿を片付けた。二杯目を注いだはずのグラスは、もう空になっている。
 革張りの椅子には、血がこびりついていた。しかし、紫弦が睨んでいる中、血の染みはすうと消えていった。
「また来年も来るかしらねえ」
 紫弦が男を見たのはこの夜が初めてだった――長く生きているオーナーは、ちがうらしい。
「……わからないな」
 紫弦は掠れた声で、椅子を見つめながら呟いた。

 男は、世界を手放したのか。

 それは、紫弦にもわからなかった。
 答えは、来年が知っている。




<了>