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アトラスの日に
■抹茶パフェ■
がばっ、と漫画よろしく身を起こす。
風太は、寝癖がついた頭をかき回した。気がかりな夢から覚めた気分だ。ただでさえ、この夏は妙な夢ばかり見たというのに。
「って! 今日はアトラスだ!」
日曜の午前の日差しは、すでに秋のものになりつつある。日曜ゆえに講義はなくとも、風太には予定があった。先日すっかり寒くなってしまった懐を温めるために、最近は土日返上でバイトをしている。月刊アトラスでのバイトが半ば趣味のようになってしまった風太は、特に金を使うあてもなかった。バイト代は親からの仕送りの足しになっている。
盆にはそう遠くもないふるさとに(実費で)帰り、妹にまたしてもいろいろせがまれ、風太の財布の中はほとんど空だった。小遣いがもらえるかもしれない期待は持たずに帰ったら、本当にもらえなかった。妹が、「最近バイトで羽振りがいい」ということを吹聴したらしい。くそっ。
そもそも懐が寂しくなった要因は、妹なのだ。
渋谷を遅くまで歩き回って、買って、見て、食べたあの夜のことは、風太の脳裏に、奇妙なほど鮮やかなまま留まっているのだった。
慌しく身支度をした風太は、電話口に置いた小さな包みを掴むと、バッグに詰めた。
そして、ばたばたとワンルームを出ていった。
蔵木みさととは、会っていない。
どこか、曖昧な世界であの顔を見たような気もする。だがそれは、「みさとに会った」といえるのだろうか。手を伸ばせば実際にその肌に触れられるような、そんな世界で、自分は会っただろうか?
この夏は、彼女に会うこともなかった。
風太は、そういうことにした。
だが、碇編集長から、最近リチャード・レイがまた編集部の応接室をよく使うようになったという話を聞いている。何でも、日本でまた厄介な問題が起き始めたからなのだそうだ。
レイが出てくる原因となる『問題』の数々は、風太もけして無視は出来ないものだった。尤も、風太はどうしても、その問題を解決しようという気持ちより、率先して動いてしまうきらいがある――蔵木みさとの身を案じているために。
山のような書類束を整理する(片付けても片付けても、書類はキリストのパンのように減らないのだ。リアルタイムで増え続けていくためである)のが、その日の風太の仕事だった。単調で退屈で終わりが見えない仕事だが、どこかに取材に行くよりは楽だ。
ばさばさと無言で書類をまとめる風太は、ふと、奇妙な感覚に囚われた。
何か、背中に、不愉快なような――湿った――気がかりなものを感じる。
視線だ。
さっと振り向くと、反射的に身を翻したような黒い影があった。
「あ、み、みさとちゃん!」
がさばさと書類を落としながら、山岡風太は席を立って、蔵木みさとに追いすがる。その手が、しっとりと湿った黒いレインコートの裾を掴んだ。
「ひ――久し振りだね。ごめん、いきなり掴んじゃった」
「……こ、こんにちは」
みさとは金の目を泳がせた。風太と目を合わせようとはしないし、そわそわしている。
「……あの、あたし……」
「い、忙しい?」
「い、いえ……」
たどたどしい、短い言葉による会話が続く。
書類の束は増えていく。風太は見ないことにした。
「みさとちゃんさえよかったら、ちょっと話があるから……その、また1階の喫茶店行かない?」
「話……」
ぎくりとしたように目を見開いたみさとは、すぐにその目を伏せた。
それから、か細い声で「はい」と言った。
『ちゃんとかのじょのハァトお、がっちりゲッツしなさいよぉ』
『んああ……出来るといいんだけど……』
『そぉんなんじゃダぁメだぁあ』
『いや、それも俺はわかってるんだけどさ……』
今こそ、酔っ払った妹のあの助言や、懐に忍ばせたプレゼントが真価を発揮するはずだ。
みさとはどういうわけか、相変わらず風太と目を合わせようとしない。喫茶店の隅の席についても、何も注文しようとはしなかった。
「あ、あのさ」
「……はい」
「ここ、抹茶パフェがいちばん美味いんだって。三下さんが言ってた」
「……らしいですね」
「食べる?」
「……い、いいです」
「た、食べようよ」
「……はい……」
始めのうちは、緊張のあまりそれどころではなかった風太も、さすがに気になってきた。確かに目は伏しがちで、顔色の悪い彼女だが、話すときは人の目を見るはずなのだ。よく笑うはずなのに、まだ今日は一度も笑顔を見ていない。
黒いフードの奥にある顔には、かげりが見える――。
「みさとちゃん、ど……どうかした?」
「……」
みさとは少しばかり恨めしげに、風太の目を見返してきた。
風太が初めて見る目つきだ。
ぎくりとして、風太は言葉をのんだ。
「ちょっと前……」
蚊の鳴くような声で、みさとは話を切り出した。
「渋谷駅で……風太さん、デートしてました?」
ぼぅん、
何かが爆発するような音を、風太は聞いたような気がするような感じがしないでもなかった。
ポク、ポク、ポク、ポクポクポクポク――
ああ、聞いたとも、あの音を。
ハチ公前の人込みの中、彼は聞いた。黒いゴム長靴が立てる、愛らしい音を。
「ちち、違う! 違うよ、違う違う! 違うんだ! 風の神に誓って違うんだ! 違う違う違う! 有り得ないから! あーアアア!」
喫茶店で一息つく記者をはじめとした、客の視線を痛みとする余裕もない。そして風太は、どう誤解を解いたかまったく覚えていなかった。あれは妹だったんだ、という言い訳は、真実だというのに、使い古されすぎていて説得力がなかった。みさとも疑いのまなざしを強めた。
それでも――
気がつけば、みさとはぎこちない笑顔でほっとためいきをつき、風太と一緒に、抹茶パフェをつついていたのだ。風太に妹がいるということは、前々から話してある。普段積み重ねていた雑談が功を奏したらしい。
「……でも、あたし、バカでした」
「え?」
顔を上げれば、いつもの笑顔だ。みさとは唇を噛みながら笑っている。
「風太さんに彼女さんがいたとしても、風太さんは、女のひとと腕組んで歩くような人じゃないもの」
彼女は、青褪めた唇についたクリームをちろりとなめた。
唇だ、
そうだ……プレゼントの、中身は……
いつも青褪めた、その唇のための……
「あたし、風太さんのこと――」
「山岡君!」
風太は抹茶クリームつきの白玉団子を喉に詰まらせ、みさとは言葉を飲み込んだ。いつの間に現れたのか、風太の背後で、碇麗香が腕組みをしている。喫茶店から、一息ついていたはずの記者たちの姿が消えていた。
「あ、あああ、編集長!」
「仕事はどうしたのかしら……?」
「す、すすすすません!」
「私は構わないのよ。今回の仕事は時給制じゃなくてノルマ制なんだから。――蔵木さん、レイさんが呼んでたわよ」
「え? ……すぐ行きます!」
麗香は踵を返すと、三下を伴ってビルを出て行った。彼女の言伝は、ついでだったのだろう。わざわざバイトひとりを呼び戻すためや、伝言のために編集部を出るような女性ではない。
風太とみさとは急いで抹茶パフェを片付けると、急ぎ足で、連れ立って、喫茶店を出た。
言葉のつづきよりも先に、ふたりを待っているものがある。
うっかりもののイギリス紳士と、増殖し続ける未整理の書類の束。
なかなか来ないエレベーターをあきらめて、ふたりは階段を駆け上る。
競争するかのように、笑顔だ。
みさとがここのところ笑顔を見せなかったけれど、ようやく調子が戻ったようだと――リチャード・レイから風太が話を聞くのは、もう少しあとのことだ。
いまは風太の懐に入れられたままのプレゼントの中身をみさとが知るのも、まだ少しあとのことだった。
<了>
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登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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【2147/山岡・風太/男/21/私立第三須賀杜爾区大学の3回生】
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ライター通信
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モロクっちです。ゲームノベル復活とともに、このエピソードも復活! わたしも嬉しいというか、微笑ましいというか、複雑な気持ちです(笑)。
わ、わたしが、こういう類の話を書くなんて……!
いつもカップルと言えば、殺されるか、喰われるか、殺されるか、殺されるかしかしないような映画とか小説を観たり読んだり書いたりしているだけに、これでいいんだよなと不安になってしまいます。
これまで積み重ねられた風太さまの冒険(笑)は、無駄ではありませんでした。色々な意味でおめでとうございます!
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