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溢るるは青の水
黙っていると、『それ』が床を浸食する音が今にも聞こえてきそうだった。
「それで、依頼の内容……は?」
草間の言葉に、零の出したお茶をすすっていた制服姿の少女が表情のない顔を上げる。
「彼……匂坂路留(さきさか・みちる)が二週間前から行方不明なんです」
依頼人・宍倉多紀(ししくら・たき)はまばたきの少ない黒い大きな目で草間をじっと見据えながら、年齢に似合わぬ静かな声音で言葉を紡いだ。
対する草間はというと、暑くもないのに汗をだらだらと流しながら落ち着きなく腰を浮かせている。
「というと、依頼は人探しですか?」
どこかすがるような言い方に、依頼人は小さく首を振った。
「いいえ。彼にはもともと放浪癖があって、こういうことも珍しくはないんです。問題は……」
依頼人の視線が足元に落ちる。決して草間から目をそらしたかったわけでも、言葉に詰まってうつむいたわけでもない。
多紀が見ているのは、自らの足元に不自然に広がる青い水溜りだった。
「ですよねえ……」
草間が肩を落とし呟く。テーブルを挟んで向かい合っている今は依頼人の足元は見えないが、その水たまりが決して遅くはない速度で絶えず面積を増しているということは、彼女がこの部屋に入った時点で認識できたことだった。
つまり、今。
草間の大切な仕事場は、着々と水浸しになっているのである。
依頼人は草間の動揺をものともせず、淡々とお茶を呑み淡々と説明を続けた。
「『これ』自体も、初めてというわけではないんです。ただ、今まではもっと目立たない小さなものだったし、一日もしないうちに自然に消えて消えていたんです。それが、今回は二週間……」
多紀はいったん言葉を切り、再びお茶で喉を潤した。
「さすがにこれでは日常生活に支障をきたします。依頼はこの水溜りを消して頂くこと。……受けて頂けませんか?」
小首を傾げるようにして多紀が問う。問われた草間は口の端を引きつらせながら、感情の読み取れない依頼人の顔を見つめた。
そして。
「わ、わかった。受ける、依頼は受ける!!」
草間は両手を突き出してわめくように宣言した。慌てて立ち上がると多紀を押し出すように玄関へ連れて行く。
「今、すぐ!! 適任な奴を呼んでくるから、外で! ビルの外で待っててくれ!」
草間は勢いよく扉を閉めると、この平成の時代にいまだ役目を果たし続ける健気な彼の黒電話に飛びついた。
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「まず、基本的なことを聞かせて欲しいのだけれど」
簡潔に自己紹介を済ませたあとで、シュライン・エマはそう切り出した。すっきりと切れ上がった青い眸と一つにまとめた長い黒髪を持つ彼女は、草間興信所の事務員であると共に優秀な調査員でもある。
「それまでにその『水溜り現象』が起こったのは、やはり彼がどこかへ行っているときだったのかしら? それと、いつ頃からその現象は度々起きるようになったの?」
「路留がいなくなったときに水溜りが出来たのは、路留と付き合って初めて彼がいなくなったときだけです。そのときは路留に放浪癖があることを知りませんでした」
さばさととしたエマの問いかけに、多紀もよどみなく淡々と答える。
「水溜り自体は、物心ついたときから、時々」
「そうなると、この現象は宍倉様の性質によるところが大きいのかもしれません……」
それまで黙って話を聞いていたもう一人の調査員・四宮灯火(しのみや・とうか)が静かに口を開いた。切り揃えられた艶やかな黒髪に、牡丹を大きくあしらった赤の振袖。幼い少女の形をした彼女はまぎれもなく日本人形であるにも関わらず、その青い眸に思慮深い光を湛えている。
「ですが、依頼はあくまでも今回の水溜りですから……」
「そうね、今回の水溜りに絞って考えましょう」
灯火の言葉の意図を瞬時に理解すると、エマが多紀を振り返った。
「この二週間、彼の失踪以外に何か変わったことはあった?」
「いいえ」
多紀の口元を動かすだけの最小限の返事に、エマは「そうなるとヒントは彼ね……」と人差し指を顎に当てて呟いた。
「一体何処へ行ったのかしら」
「匂坂様のお部屋にお邪魔することはできないでしょうか……? 何か残っているかもしれません……」
多紀を見上げ、灯火が問う。人形という性質ゆえか、その顔は多紀に劣らず感情の色がない。
「合鍵を持っているので大丈夫です」
「彼、独り暮らしなの?」
「はい」
「では早速……これ以上ここに留まっていますと、地面が水浸しになってしまいます……」
灯火の言葉にエマは多紀の足元を見やり、そうね、と深く同意した。
匂坂路留の住居は、駅から歩いて十五分ほどの坂の途中にある、古ぼけた二階建てのアパートだった。一歩ごとに悲鳴をあげる錆びの目立つ階段を上り、多紀は路留の部屋の鍵を開けた。
「ああ、ちょっと待って」
多紀の後について部屋に入ったエマが、そう言ってすぐに多紀を引き止めた。
「その水、普通の水なのかどうか調べてみたいの。バケツか何か、水を溜めるものはないかしら。そのままじゃ部屋も濡れてしまうし」
「わかりました」
多紀が玄関を上ってすぐ、右手のドアの中へ消える。足跡のように残った水溜りをエマは見つめたが、灯火が「失礼します」と言って草履を脱ぐのを見て、彼女も後に続いた。
二人は細い廊下を兼ねた台所を抜け、六畳ほどの部屋に足を踏み入れた。白いシーツのかかったベッドとエマの腰より低い本棚で四方の壁が埋められているほかには、ほとんど何もない。
「シンプルな部屋ね」
エマが後から部屋に入ってきた多紀に言う。多紀をベッドに腰かけさせ、その足元に多紀の持ってきた洗面器を置いた。
何かヒントはないか、と思ってきたものの、見るべきものがほとんどない。エマは本棚から地図を抜き出し、ぱらぱらとめくった。
匂坂路留――――二十二歳、私立大学二年生。フットワークが軽く、思い立ったが吉日とばかりにその足で旅に出ることもしばしば。旅行先は国内外問わず。
多紀とは彼女の友人が所属する部活のOBであったという縁故で知り合い、すでに二年の付き合いである。
ここまでの道中、多紀から得られた情報だ。
「うーん、特にヒントになりそうなものはないわね……」
地図には特に書き込みもなく、きれいなままだった。ただしどのページも繰り返し開いた形跡はあり、使われていないわけではないようだった。
「水は溜まった?」
室内のヒントを諦めて、エマは多紀の足元を覗き込んだ。水はすでに多紀のくるぶしすれすれのところまで溜まっていたが、青い水面はエマを歪んで映すばかりで、何の情報も与えない。
「これ……海水かしらね?」
エマは慎重に水を見つめた。
その横で多紀は自ら足をつける洗面器に無造作に人差し指を入れ、それをなめた。
「味はしません」
「…………」
幼いころからの現象にもはや慣れてしまったのか、未知の物質に何て無警戒な……と、エマばかりでなく後ろで見守っていた灯火もあっけにとられる。しかし多紀があまりに平然としているので、二人はじきに気を取り直した。
と、灯火は空かと思われたゴミ箱の底に、白い紙飛行機が落ちているのを見つけた。
「これは……」
灯火の念動力に、紙飛行機がふらりと宙を泳いで灯火の両手に収まった。それを見た多紀はわずかに目を瞠ったが、一瞬後には元の無表情に戻る。
「そういえばいなくなる前の日、紙飛行機を作って遊んでいました」
「……」
多紀の言葉に灯火は一瞬思案し、それから目を閉じた。
灯火が『力』を発動させていることに気づいたエマが、それを見守る。
やがて、灯火の長いまつげに縁取られた大きな瞳が開かれた。
「匂坂様は大阪の方へいかれたようですよ」
「大阪?」
エマの反応に、灯火は小さく頷いた。
「何でも、急にたこ焼きが食べたくなられたようです。そのついでに、関西で遊んでこられるおつもりで……」
灯火は多紀の前まで歩み寄ると、紙飛行機を差し出した。
多紀がそれを受け取る。
「宍倉様、匂坂様は近いうちに帰ってこられると思います」
はっきりと告げ、それから小さく付け加える。
「二週間以上学校を休むと、単位が危ういそうですから……」
「路留、が……」
紙飛行機を持つ多紀の両手に力がこもる。そのまま一言も発しない多紀に、ふと、二人の頭によぎるものがあった。
エマが口を開く。
「……もしかして、彼がいなくなる前に何かあったの?」
多紀はゆるゆるとエマに顔を向けたが、その途中、小さく息を呑んで動きを止めた。
と思うと、ぱっと身を翻し玄関へ向かう。その後ろで紙飛行機が宙を舞い、床に不時着する。
何事かと驚くエマと灯火の耳に、かんかんかん、とアパートの階段を上る音が届いた。
多紀は扉に手を伸ばしたまま、立ち尽くしている。
足音は着々と近づき、扉を挟んだ多紀の前で止まった。
そして、扉が開かれる。
「多紀、来てたんだ」
平均よりやや高めの身長に、細い、けれど骨のしっかりとした体。無造作に額にかかる前髪。色素の薄い眸と、すっと通った鼻梁。色の落ちたジーンズ。
年齢の割にどこか少年の様子をただよわせた青年が、肩にかけていたリュックを下ろす。
「ただいま」
路留の笑顔に、多紀は数秒ばかり沈黙していたかと思うと、不意に床にへたり込んだ。
「多紀?」
「……要らない?」
「え?」
多紀のつぶやきに、路留が困惑の表情を浮かべる。
「私は無表情で……何を考えてるかわからないから。だから、要らない……?」
多紀の足元から、溢れ出すように一気に水溜りが広がった。エマが反射的に二、三歩駆け寄る。路留も部屋の奥にいる二人の存在に気づいたが、すぐに多紀に視線を戻した。
「何言ってるんだ? 多紀」
路留が多紀の肩を抱くと、多紀は路留の袖をぎゅっとつかんだ。
「路留が……言った。もう少し感情を表に出せって。それじゃあ周りは何考えてるかわからない、って」
「多紀」
「そんなんじゃつまらない? そんな人間は傍に要らない?」
「多紀、違う」
路留は多紀を抱きしめた。
「俺にはわかってるよ」
水溜りの勢いは収まらない。見る見るうちに玄関の床を満たし、部屋へさえも侵入しようとする。
路留は多紀の背を撫で、諭すようにささやいた。
「多紀の感情は豊かだって、俺は知ってるよ」
「だって、路留が」
「そう言った?」
「言った」
「それはさ、俺以外の他人の話だよ」
路留はゆっくりと丁寧に言葉を発した。
「俺は知ってるから。多紀の不安なときに首を傾げる癖とか、落ち込んでるときほど普段どおりに振る舞おうとするところとか、嬉しいときはじっとこっちを見つめてくるところとか。だから……何を考えてるかわからないなんて思わないし、要らないなんて思ったことはない」
その言葉に、多紀は顔を上げた。路留が微笑む。
「大丈夫だから、な」
「だって、……」
「ごめん、不安にさせたんだな」
本当、ごめんな。路留が言った途端、水溜りが大きく渦を巻き、次の瞬間にはエマや灯火たちの視界は青に埋め尽くされた。
しかし、とっさに閉じた目を次に恐る恐る開いたときには、部屋はもちろん多紀の足元にさえ、一滴の水も残ってはいなかったのだった。
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つまり、多紀の水溜りは彼女の面(おもて)に現れない不安や恐れ、悲しみだったのだろう。彼女はさまざまな感情を表情に出すことができない代わりに、青い水溜りという形で訴えていたのだ。
(けれど、もしかしたらもう水溜り現象が起きることはないのかも)
エマは恋人の頭を撫でる路留の姿を思い出しながら思った。彼は青い水溜りで多紀が訴えることの何倍も、多紀のことを分かっているのだから。
そして多紀は今日、それを知ったのだ。
今回の水溜りが消えることがなかったのは、路留を失うという恐怖が多紀から薄れることがなかったため。それだけ、多紀は路留を想っているのだ。
エマは幸福な気分になって、赤く染まる空を見上げた。
「調査報告も兼ねて、今から武彦さんに会いに行こうかな」
電話で呼び出されたっきり、顔も見ていないんだから。エマはつぶやき、アスファルトに長く伸びる影を引き連れて興信所への路を歩いた。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
0086 / シュライン・エマ / 女 / 26 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
3041 / 四宮・灯火(しのみや・とうか) / 女 / 1歳 / 人形
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■ ライター通信 ■
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こんにちは、新人ライターの凍凪ちひろです。
『溢るるは青の水』へのご参加、ありがとうございました。
納期に遅れてしまい、大変申し訳ありません。
■シュライン・エマ様
主に進行役をお願いさせていただきました。今回の作品には生かせませんでしたが、プレイングにあった「名前から来るイメージ」がとても素敵だったので、いづれ機会があったら是非使わせていただきたいな、と。……駄目でしょうか?(笑)
■四宮灯火様
元の持ち主を慕い続けているという設定に惹かれこのようなラストになりましたが、如何でしょうか? 灯火さんの能力のおかげでお話を進めるのがだいぶ楽になりました。ありがとうございます。
それではまた、どこかでお会いできれば幸いです。
凍凪ちひろ 拝
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