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<東京怪談ノベル(シングル)>


 □昔日の闇色□


 その夜、月は出ていなかった。
 風もなく、森にたちこめたむっとするほど濃く青臭い空気は運び去られないまま、ただ木々の狭間に留まり続けている。息が詰まるその空気が過ぎ去るのを待つかのように、生き物はどれもひっそりと息を潜めていた。
 枝と葉に覆われた空。明るさというものが何ひとつないせいか、もはや森と空の境界線はないように人の目には見えただろう。足元から生えた木がぐんぐん伸びてあまつさえ天を覆うようなその様は、自らの世界を危うくさせるだけの力を秘めて、けれど静かにそこにあった。

『……………………』

 そんな森に、夜と同化しているかのような影がある。
 もしこの場に灯りがあったとしたならば、それは小柄な輪郭を浮かび上がらせただろう。
 影は少女だった。深く濃い色の着物を身にまとっており、尚且つ漆黒の髪が白い面を隠すようにさらさらと流れている為か、その存在は目を離してしまえば容易く夜の隙間に隠されてしまいそうにも見える。
 
 少女が身じろいで、立ち尽くしていた足を折る。その拍子に懐からのぞいたのは一枚の赤い紙だった。
 それは草むらに座り込んだ少女の膝にはらりと落ちたが、少女はそれに一瞥もくれないまま、ただ自らの前に横たわるものを見ていた。

 それは、青年だった。

 気に入りだと言っていた着物の鮮やかな藍が、今はとても色が濃い。少女は、緋羽はその理由を知っていた。青年の胸元から肩からそして頭から流れ染みた、おびただしい量の血液のせいだ。
 血は凄惨な傷口から淡々と流れ、青年の仰のいた鎖骨にごく小さな血だまりを作っている。そしてそこからまた流れると着物を染め上げて、余った血液は土へと落ちていた。
 闇の中、青年は大きく息を吸おうとして口を開いたが、けれど呼吸の代わりに赤い塊を吐いた。
 荒い息だけを耳に捉えながら、緋羽はそれでもただそこに座っている。





 襲われるのはいつもの事だった。
 だが場所が悪すぎたのだ。 

 所用の為に、どうしてもこの森を突っ切っていかなくてはならなかった。青年はここを歩き慣れており、緋羽もまたそれに賛同した。
 しかし夜の森というものは通い慣れた者の信頼をあっさりと裏切り、獣道すらも新月の闇に覆い隠してしまった。後は機会を伺っていた化生たちの思うつぼ。緋羽に散々苦渋を舐めさせられた者たちが群れを成して二人へと飛びかかり、爪や牙をのぞかせるのに時間はかからなかった。
 闇などさしたる問題ではない緋羽はすぐに懐紙を抜き出し、応戦に入った。襲われたのは不覚だったにしろ、そこまでは確かに順調だったのだ。

 けれど、青年はあくまでただの人間にしか過ぎない。

 小さな鼓膜に叫びが響いた時は既に遅く、幾つもの化生の牙が青年の胸に頭に肩にめりこみ、血を噴き出させていた。周囲からの襲撃を排除している間に、地に身を潜めていた者たちが一斉に青年へと躍りかかっていたのだ。
 緋羽は自らの頭に爪が振り下ろされるのも厭わず、振り向きざまに赤光をたたえた無数の剣を化生へと叩き込む。消える異形と崩れる青年。 

 少女の瞳がより赤く輝いた瞬間、その場にいた全ての化生は赤に包まれ、霧散した。





 主と守護者。
 結ばれた契約。

 緋羽は共に過ごした日々を思い起こす事も無く、激痛に眉をしかめている主である青年の顔をじっと見ている。付き従う者の生命が霞んでいこうとしている今も、少女の大きな黒の瞳からは一滴の涙すら出る事はなかった。
 守護者の胸を揺らすのは、主を護りきれなかったというたったひとつ目の前にある事実だけだった。それだけが小さな胸を満たしているせいか、自身の負った傷や、着物に付着している化生の返り血が発する生臭い匂いすらも少女の意識を引くまでには至らない。
 先程つけられた頭の傷から一筋の血が流れ、緋羽の頬をつたう。
 少女は動かない。

 けれど涙のように白い頬をつたったそれを拭う、暖かな手があった。

『……………………』

 いつのまにか、青年が辛そうに閉じていた瞳を開いて緋羽を見ていた。
 爪の剥がれた手を伸ばし、もう一度確かめるように大きな手のひらで少女の頬を撫でる。指先の一本一本で傍らの存在を慈しむかのような仕草に、緋羽は無意識のうちに青年の手を包むように、自らの手を重ね合わせていた。
 微かな温もりを感じたのか、青年の血に汚れた口元がほんの少しだけ笑みのかたちに歪んだ。

 そうして。
 ゆっくりと、少しずつ青年の身体から力が抜けていくのにならうように、緋羽の額に刻まれていた契約の証である『令』の一文字もまた薄れていく。
 契主の命が尽きれば、交わされた血の契約も消える。それは誰が決めたわけでもない、緋羽が存在する以上決して避ける事ができない絶対の決まり事だった。

 薄れていくいのちのともしび。
 
『……契主』

 緋羽が呟く。
 森の静けさに呑み込まれてしまいそうな微かなそれを耳にし、青年はもう殆ど見えていないであろう瞳を少女に向けた。
 そして力が抜けていく手のひらでもう一度ゆっくりと緋羽の頬を撫でて、 

『――――ごめんね、緋羽』

 青年が、微笑んだ。
 手のひらから力が、抜ける。



『有難う』



 緋羽の手の中から、青年の手が、落ちた。





 弾けるように緋羽は目を見開いた。たった今まで目の前にいた筈の青年の影はどこにもなく、少女の黒目がちな瞳は古い木の梁だけを映している。
 瞬きを何度かして、ようやく緋羽は今の出来事の全てが夢だったのだと気付き、ゆっくりと身を起こした。

 嫌な汗でじっとりと湿った背中が秋の冷気に晒されて体温を奪っていく。常よりも低い夜の気温に、知らず緋羽は身体を震わせた。
 毛布をかけていても冷ややかな空気は背中だけに留まらず少女の全身を駆け回り、足先から手指の爪までをも冷たさに浸す。
 けれど緋羽にとってそんな事はどうでもいい事だった。

「………………」

 布団の山をたわませて闇色の着物が舞い、幼いつま先が音もたてずに床についた。だがそれも一瞬のことですぐにまた少女は跳躍し、開かれたままの下へ続く穴へと身を翻す。ふわり、と着物の袖と髪飾りが上へとなびき、さながら蝶の如く緋羽は落ちていった。
 降り立った足の裏に感じるのは、こんな夜でさえもどこか温かみを残す日に焼けた畳の感触だ。
 十畳ほどの広めの部屋は当然のようにひっそりと静まり返り、いつも緋羽の姿を見ては微笑む者も今だけはその瞳を閉じたまま、中央に敷かれた布団の上で穏やかな寝息を立てていた。
 布団からのぞいた、少年と青年の中間に位置している寝顔はあまりに普通で、緋羽はその姿に全身の力を抜くように息をついた。

 彼はいま、生きている。
 ああ、確かに生きている――――。

 考えるまでもなく当たり前の事だった。昨日は異形の侵入もなく穏やかに一日を終え、今も緋羽の警戒を呼び起こす者の気配は微塵もない。少年が安全なのは緋羽自身が一番よく知っている筈だった。
 だというのに。
 
「ん……」

 布団がもぞりと動き少年が寝返りをうつ様に、少女は僅かに息を呑んだ。
 けれどゆっくりと長い寝息が再び部屋に響いては消えるのを聞くと、緋羽は一度だけ少年の顔をじっと見て踵を返し、起こさないように注意を払いながら飛び上がって天井裏へと戻った。そして積まれた布団の上に昇ると、改めて横になる。

「…………………………」 

 幾重にも毛布をかぶればじわじわと冷たさが消え失せ、代わりに柔らかな暖かさが小さな身体を包んでいく。その心地良さに一度は見開かれた緋羽の瞳が、ゆるゆると閉じられていった。
 遠ざかる意識の中、緋羽は先程の眠る少年の姿に昔日の主の姿をだぶらせる。最後にはあんな風に誰もが横たわり潰えていったのだ。
 どの主も精神や肉体を異形の者に屠られ、緋羽の前から消えた。何度新たな血の契約を結んだだろうか。しかし何度新たな契約を交わそうと、何度主の笑みを間近で見ようと、最後はいつも決められたかのように死は主と緋羽に別れをもたらした。

 いつも笑っていた者。
 しかめた顔で、けれど緋羽を見る時だけはひどく優しげな目をした者。
 泣き上戸だったが最後に緋羽を庇うようにして、果てた者。

 それから、それから。数え切れない程の面影が少女の脳裏を過ぎってはすぐに消える。まともに思い出せるわけではなく、ただ薄ぼんやりと膜がかかったように回想できる程度のものだ。
 思い出すたびに緋羽は身体の力が抜け落ちていくような虚無感に駆られたが、それでも回想は留まる所を知らず、膨大な記憶はぐるぐると緋羽の中を巡る。
 いつ果てるとも知れない記憶の渦が巡り巡って最後に行き着いたのは、階下で眠るあの少年の記憶だった。

「……契主」

 眠たげな呟きが白いシーツに落ちる。
 額には描かれた文字があり、今この真下には血でそれを刻んだ者が生きて、眠っている。たったそれだけの事だが、けれど契主が存在しているというだけで緋羽の胸には自然と歓びがこみ上げ、それは喪失の虚無すら覆い尽くしてしまう程に快く、暖かなもので緋羽の存在を満たしていく。
 だが完全に満たされる事がないのは、あまりに護れなかった者が多かったからだ。どんなに護ろうとしても命には限りがある。半ば永遠の命を宿しているかのような緋羽と違い、人間である今までの契主たちは少女と時を共にする事ができなかった。
 思い起こした喪失感に、毛布の中で緋羽の手のひらが固く握り締められようとした時。
 

『ごめんね』


 声を思い出す。
 苦しげな息の中、それでもはっきりと紡がれた血まみれのそれ。
 喋らなければもう少し楽に逝けた筈なのに、その主は言葉を紡いだ。ただ緋羽に謝る、それだけの為に。

 そんな必要はなかった筈なのに、そう緋羽は思う。
 主は自身の事だけを考えていればいい。緋羽の為に心煩わせる必要などない。
 むしろ責められるべきである筈なのに、主はこうも言ったのだ。


『有難う』


 緋羽の心に波紋が広がっていく。
 護る事を約束した守護者である自分が契約を交わした者を護れなかった、それだけでもなじられ唾を吐きかけられるのには十分過ぎる理由だというのに、最後の最後に微笑みのかたちをした唇から喘ぐようにして出されたのは、その言葉。
 何故、と緋羽は思う。自分は護れなかったというのに。
 交わした約束を、守れなかったというのに。

 夢を見たせいか、まだあの時の感触が残っているような気がして、緋羽は手のひらを胸に抱く。
 抜け落ちていく大きな手と命と体温。だがそれらは少女に答えをもたらさないままに、やがて過去の感触として消え失せていった。


 どうして。

 
 かすれた声がそれだけを紡ぎ、緋羽は再び眠りへと落ちていく。
 疑問はただ淡く微睡みの中に溶けて。





 朝はまだ遠く、夜はまだ長い。
 少年と少女を抱いたまま、闇は静かに夜明けの時を待っていた。







 END.