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そのお味は?
描舞治は急いでいた。ハッハッと息を弾ませ、ただその足を走らせる。その手には、最早トレードマークと言っていいスケッチブックもペンもない。
描舞治は急いでいた。全ては一つの電話から始まった…というほど重い話でもないが。話は、少し前に戻る。
○ほんの少し前の話
「はいもしもし」
何時ものように、漫画を描く昼下がり。治は手にペンを持ちながら電話の受話器をとった。このときほど、その何気ない行為を彼は幸運に思ったことはない。
『もしもし?あ、治?』
その声は、聞き違えるはずもない、とても大切なあの女性の声だった。
「あ、す、涼香さん、はい、治です!」
その返事に、電話の向こうから『少し落ち着きや』と苦笑混じりに返ってきた。
「あ、すいません…。で、その…今日はどうして?」
「ん?あぁそうやそうや、あんな、ちょっと今からうちにこん?色々作ってみたいんやけど、ちょうど味見役がおらんかってなぁ。んで、まぁ毒見いうわけちゃうけど、よければ思てな」
「もちろん行きます今すぐ行きます飛んで行きます!」
即答だった。ちなみに、涼香にべた惚れな治君の場合、断るなどという選択肢ははなから存在しない。涼香に誘われれば何処へでも行く、それこそ戦場であろうと宇宙であろうと何処へでも。彼はそういう人物だ。
「はは…まぁゆっくりきぃや。んじゃ切るな〜」
プツッと電話が切れる音が受話器から。その瞬間受話器を置いて治は駆け出した。自分の分身であるスケッチブックやペンのことすらも忘れて。
人は、恋をすると止まらないのだ、色々と。
○そして、涼屋
そして、治は今居酒屋『涼屋』の前にいた。何時もここの暖簾をくぐる時は緊張する。何故なら、好きな人がそこにいるから。
今、目の前には『準備中』の札がかかっている。それはつまり、涼香とその親父だけしかここにはいないということを表している。余計に緊張して、心臓がバクバクと鳴るのが分かった。
「お、お邪魔します…」
覚悟を決め、ガラガラと戸を開け中に入っていく。
「あ、きたな〜」
その声に、すぐに返事が返ってきた。奥から涼香がひょっこりと顔を覗かせた。普段はあまり見せないエプロン姿に、治の胸が高鳴った。
「もうちょっとで全部出来るさかい、適当に座って待っといてんか?」
そう言いながら、涼香は料理の乗った皿をテーブルに置いていく。
「あ、は、はい…」
返事だけ返して、治はぼけーっと涼香の姿を目で追った。こうやって見てみると、この人が自分より11歳も年上だとはとても信じられなかった。それほどに、涼香の見た目は若い。
治は何も知らない。彼女にかかった呪いも、過去も。そして、それを涼香も言おうとはしない。
「後は、っと…」
気づけば、涼香は料理を並べ終わりまた厨房へと下がっていった。その言葉に涼香を目で追っていた治の意識も戻ってくる。
「…………」
そして、あらためて周りを見渡せば。そこにあるのは、まさに料理の『山』。それはもう、一体ここに何人呼んだんだと思えるほどに大量の。
『…もしかして、これ、全部ボク一人で?』
たらーっと、漫画のような音を立てて冷や汗が流れるのが分かった。描舞治16歳、本当に食べすぎで死んでしまうのではないかと嫌な予感が彼の中を過ぎっていった。
「もうちょっとだけ待っといてな。あと少しで全部出来るさかい」
「は、はぁ…」
まだ出るの!?と絶叫しそうになった治君であった。
* * *
「さ〜これで全部や。気張りすぎてちょっと量多くなってもうたけど、まぁえぇやろ」
「あ、そ、そうですね…」
治君、目の前の料理を見て顔が引き攣る。これの何処がちょっとなんだよ!?と激しくつっこみたいところだが、治君にそんなことが出来るはずもなく。
「さ、とりあえず食べてみてんか。そんで感想聞かせて」
涼香のにっこり笑顔。その顔に、治君が引っ込めるはずもない。
「それじゃ、いただきます」
『…胃薬あったっけ…』
こうして、治君と料理たちのシュートファイトが始まった。
○第一ラウンド、VS北京ダック
それは、まごう事なき北京ダックだった。
『い、いきなり北京ダック!?』
治の中に戦慄が走る。初戦の相手としては、あまりにも重過ぎる。
「いやぁ、えぇ填鴨(ティエンヤ)手に入ってな、うちお得意さんやしこれからも回してくれる言うから」
嬉しそうな涼香の顔。しかし、居酒屋に北京ダックというのもこれいかに。
なお填鴨とは、中国で人工的に飼育された脂の乗った家鴨のことである。
「食べ方分かる?こうやって皮を切って、甜麺醤を塗って、それにネギとキュウリの千切り乗せて包餅で包むねん」
目の前でやって見せて、それを治のお皿の上に乗せる。
「さ、食べてみて」
言われるままにそれを口に運ぶ、その途中、治は涼香をチラッと見た。その目は…期待に輝いていた。
下手なことは言えない。
覚悟を決めてハムッと齧る。そして…。
「あ、美味しい…」
普通に美味しかった。思わず声が漏れる。その声に、涼香は嬉しそうだった。
「初めて自分で一から焼いてみたんよ、うまぁいっててよかったわ♪」
ちなみに、北京ダックを焼くという作業は、本当に根気が要る作業である。涼香姉さん、凝りすぎです。
それに気をよくしたのか、治の前にはさらにどんどん北京ダックを包んだ包餅が。頑張れ治君、愛のため!
○第二ラウンド、VS鯛の香草焼き
鯛といえば、古くから縁起のいい魚として有名であり、高級魚の代表的存在である。また、その白身は、高タンパク低脂肪であり、カロリーも中々低いといいことずくめな魚である。
そしてその鯛が、今度の対戦相手だった。
どーんと皿の上に鎮座するは、香草やアンチョビに身を包んだ王様鯛!その風貌は威風堂々、さぁ今すぐ私を食べてくれと言わんばかりの芳醇さ!
「さ、どんどんあがりや」
治は言葉を失った。確かにカロリーは低いだろう。縁起だっていい。味も涼香の料理だから最高だろう。
しかし、しかし、である。やはり、それを一人で食べるには量が多すぎるのだ。おそらく、見た目からして重さとしては500g程度なのだろう。数人で食べるなら丁度いい量なのだが、一人で食べるとなると話は別。しかも、治は先ほど北京ダック一匹丸々食したのだ。元々小食の治にとってはあまりに分の悪い戦いである。
「そ、それじゃいただきます…」
しかし、治は立ち向かう。全ては己の愛のために!
「……」
一口その白身を口に含む。途端に広がる、豊かな香草の香りと鯛本来の味。まさに美味!
「美味しいです」
美味い料理というものは、自然と美味しいという言葉が出てくるものだ。その言葉に、また涼香が顔を綻ばせる。
その顔が嬉しくて、治はまた箸を進めていく。さぁ、残り約490gだ、頑張れ治君!
○第三ラウンド、VS豚のロースト
「うぷっ…」
見事鯛の香草焼きも平らげた治君。しかし、その顔にはありありと限界の二文字が浮かんでいた。
しかし、運命は彼に味方しない。あまりにも容赦のない攻撃がまだ待っていた。
「さって、こっちはどないやろ?」
ドン!と音を立てて彼の前に置かれたのは…丸々豚の肩ロースを使った、シンプルイズベスト豚のロースト800g!!…どんどん料理が居酒屋にしては無国籍になってきているのはきっと気のせいではなく。
「豚は東京]、ソースも一から作った本格派やで!さぁあがりや♪」
あぁそれでも立ち上がるのは治君。愛の力というのはなんと偉大なことか。
「い、いただきます…」
キレイにきられたそれに箸をつけ、口に運ぶ。あぁ、素材も腕もいいものだから、どんなにお腹が一杯でも自然と言葉が出てくるわけで。
「美味しいですね…」
その言葉に、そんなにも顔を綻ばせて喜ぶあなたが綺麗で恨めしい…。
それでも黙々と箸を動かすそんな君に、みんな涙が止まらないよ!!
そして。東京X擁する豚のローストに打ち勝ったところで、治君の意識は飛んでいくのであった。
・リザルト ×描舞・治 − 料理群○(第三ラウンド終了時TKO)
○夢心地
初めて会ったとき、一瞬で心を奪われた。ただ綺麗で、言葉はきついけど、何処か寂しそうなところがあって。
よくは分からないけど。多分ボクにとってあなたは特別な人だから。理由なんて、それだけでいいと思った。
その笑顔が、言葉が、全てが。ただ気になる。
だから、ずっと傍にいたいって、そう思った。
たとえ、それが親に決められたことであろうと、ボクはその出会いをくれたことに感謝する。
ずっと、傍にいれないときだって、あなたのことを見ていること、気づいてますか…?
* * *
うちは、まだあんたのこと忘れられへんよ。…いや、ずっと忘れられへんやろうな。
やって、あんたはうちの初恋の人やもん。
仲のえぇ女友達はおったけど、男のこと好きになるなんてこと、あらへんかったから。
あぁ、そう言えば、初恋って絶対破れるんやんな。そんな言葉、信じたこともなかったわ。やって、好きになって、告白されて、そのまま付き合ってもうたんやもん。
誰かて、あのままずっと一緒におれる思うやん?
でも、結局は破れてもうた。破られた。
…なぁ、全部うちのせいやん。なんで、なんであんたが殺されなあかんねん。それが、うちの背負った業の深さなん?
…あぁもう、こないなことは言いたぁないねん。
なぁ、もういっぺんでえぇから会いたいよ。ただ、あんたの分まで生きてるって、それを見せたりたいよ…。
…後な。ちょっと楽しいやつ見つけたかもしれへん。
* * *
「ん…」
目が覚める。気がつけば、そこは涼屋の奥だった。
「……!?」
治の目の前に、涼香の顔があった。どうやら、膝枕をされていたらしい。涼香は、治が目を覚ましたことに気づかない。眠っているようだ。
「……?」
その治の顔に、何か暖かいものが落ちてきた。よく見れば、涼香の目から涙がこぼれていた。何時も笑っている涼香が、泣いていた。
「…涼香さん…?」
何時も気丈で笑っている涼香が、とても弱く見えた。寝ているせいか、彼女を隠すものは何もない。治は、その涙をそっとぬぐってやった。
「…ぁ……お、治起きたん?」
その行為で目が覚めたのか、あわてて目をこすりながら涼香が言った。
「あ、はい」
頭をその膝から起こしながら答える。その柔らかさが離れていくのが、少し惜しかった。
「とりあえず、親を呼んどいたから」
「ごめんなさい、ちょっと調子に乗って食べ過ぎました」
「あぁ、悪いのはうちやから」
涼香はそんな治に立てる?と手を差し伸べる。その手をとり、立ち上がろうとして、治はうまく立てずバランスを崩した。自然と、涼香も手を引っ張られバランスを崩す。なだれるように、倒れこんだ。
「あ…」
二人の声が重なった。倒れこみ、重なった体にはよくトラブルが起きる。
まぁ要するに。ドラマのような、そんなトラブル。二人の唇が、重なっていた。
「……!」
思わず涼香は勢いよくその顔を離して立ち上がった。顔が、赤い。
「ご、ごめんな、ただの事故やから、うん」
さすがのいきなりの事態に、涼香も動揺を隠せない。しかし、それは治とて同じこと。というか、治にとっては初めてのキスなのだ。
「…………」
治から返事はない。見れば、上体を起こしてぶらぶらさせていた。顔は赤く、何処かにいってしまったような表情で惚けている。いやいや、ヤバイぞその表情は。
「……」
涼香も何も言えず、そのまま黙ってしまった。二人の沈黙は、親父たちがくるまで続くのであった。
「おやおや、二人して黙ってしまって、さては何かあったな治?」
またアメリカナイズされた笑い声を上げながら治父が言った。妙に核心をついているので性質が悪い。
「…なんでもない。治、ちゃんと連れて帰ったってや」
このまま質問され続けたらどうなるか分からないので、涼香はさっさと治とその父を帰らせた。
『キス、か…久しぶりやね』
涼香は一人、部屋で考えていた。それは、自分のために死んでいった恋人のこと。
「あんたとして以来やね、キスなんて」
その顔に、少し苦笑が浮かんだ。
「なんでやろ、あんま嫌やなかった」
それは、つまり?
「…なぁ。うちが、あいつのこと気になってる言うたら、あんたはどない思う?」
<END>
――――――――――
どうもEEEです。
そろそろ進展ということで、こんな感じにしてみましたが。
涼香の場合、どうしても過去の恋人のことがあるので、今回は少しそれ関連のことが多くなっています。
それでは、今回は発注ありがとうございました。
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