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<東京怪談ノベル(シングル)>


calling

 唐突に深い、闇の淵に落込んだようだった。

 黒い姿を呑み込んで流れ去る、真白い霧の行き先を見守ってふと、神鳥谷こうはカタ、と小刻みな振動に気付いて自らの両手を見下ろした。
「…………?」
手、だけではない。
 腕や肩、所作の大きな箇所に如実に顕れた震えはこうの身体全体を覆い、自らの肩を抱いてもそれは収らない。
 熱が失われ行く感覚は、虚脱に似ながらも内を締め付けるようだ。
「君……?」
一方的に顔を見知るに知人とも呼べない黒衣の男の訝しげな呼び掛けに、こうは顔を上げようとしたが、崩れ落ちる膝の動きにそれも適わなかった。
 階段の半ばに腰をかける形に転倒こそ免れたが、唐突な不調の理由が判じられず、こうは呆然と低い視点で目の前に塞がる黒いコートを見た。
「怖かったのかい?」
何気ない問いに、こうは答えを見出す……そう、これは怖れだ。
 こうの自覚よりも早く、作られた身体が内なる異変に反応していた……湧き出でるように、そして高みから注がれるように、満ちていた声が、聞こえない。
 主を捜せと、命じる声が。
 神鳥谷こう、という名の己を自覚してから月のように、強く弱く、けれど絶えず焦燥に駆り立てるかの如く存在を支えて追う声が、残響すらも残さずに消え失せてその比重の深さを示して裡に喪失の虚を穿つ。
 記憶を手繰れば、声を失った瞬間は存外容易に導き出せた。
 あの黒い姿。
 円い遮光グラスに隠されて尚、強さを失わない瞳の色、まるで不吉に赤く染まった月のような眼差しがこうを捉えて笑い、僅かな笑みを刻む口元が僅かな謝罪と再会とを約したその一瞬に、こうを操る声は断ち切られたのだ。
 半ば自失の呈を示すこうに、黒衣の男が気遣わしげに声をかける。
「もう大丈夫だから、安心しなさい」
労りに宥めるように肩に置かれた手に、だが安堵は見出せず、こうは脅えたように身を引いた。
「あなたは……」
咽の奥、発声に抵抗を感じながら、問いを絞り出す。
「あなたは俺の主か?」
唐突を問いに、男はこうの肩に置き損なった手で、痩け気味の頬に浮いた無精髭を撫でるように摩った。
「それは……即断しかねる問題だねぇ」
そしてぼんやりと、口調はそのままに続ける。
「それに君が、僕を主にしたいようには見えないんだけれど?」
こうはその、胸の内に形を得ていなかった思いに、目を見開く。
 声は、喪われた。
 傀儡は主の為に造られる……この思考も、力も、こうをこうとする存在の全てで、主を捜し、仕える、それだけがこうの存在意義。
 だが主を求めながらも真実、得たいと願っていたのは別の存在ではなかったろうか……故に、こうに未だ主はなく、導く声すらも失ったのか。
 身体中が震えに軋みを上げ、こうは更に強く自らの肩を抱いた。
「どう……すればいい」
掠れた問いを受け取る者はなく、空に散じる。
 操りの糸は切れてしまった。
 糸の切れた人形は、自分で動く事すら出来ない。 
 主に仕える事は最早、許されないだろう……使命を見失い、自らの想いに動く傀儡など、主は必要としないだろう。
 主を求め仕える事よりも、痛みを覚える程に心を占める、ただ一人の存在を持つ傀儡など、果たして誰が得たいものか。
 こうは、よろめきながらも立ち上がった。
 傀儡は人に従う為に造られる存在……ならばその、従うべき主を失った自分に残された道は、見えている。
「大丈夫かい?」
案じる男に深く頭を下げ、こうは階段を上り始めた。
 主が見つからなければ。
 そんな問いに答えてほんの少し、笑った赤い瞳がその一瞬、真紅に色を深めた様をまざと思い出す。
『そん時は、殺してやるよ』
軽い口調で確かに与えられた約束を。
 求めてこうは、歩き出す。
 殺す……壊す、彼ならこうを壊してくれる。
 去来した答えが持つ確かな安堵に、こうは知らず穏やかな笑みを上らせた。
 彼はきっと、こうの名前を呼んで笑ってくれるだろう。
 自らの胸に抱いた虚に焦燥でなく確信を抱いて、こうはあの赤い瞳を探し始める……落込んだ深い闇の底で、新たな月の姿を求める如く。