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消えない音
何時からだろう?
入らなくなってしまった部屋……見ないようにしていた部屋が出来てしまったのは。
怖かったわけでもなく。
逃げたかったわけでもなく。
ただ、辛かった。
まるで自分が、全ての世界から拒絶されたかのように見えた、あの頃には。
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お昼に、ほんの少しだけ、近い時刻。
まだ日は高い位置にあり――倉前・高嶺は久しぶりに家の中を探検してみる事にした。
…歩く、のではなく探検、である。
そのくらいに高嶺の家は広かったし、使わない部屋、締めっぱなしにしている部屋なども数多くあり……なら、いっそ中のものを片付けて綺麗にしてしまえば良いとも思うのに、そうも行かないのが、「上流」の家であるらしかった……高嶺は、少し癖になってしまっている苦笑を浮かべ、一つの部屋を開けてみた。
むっとする熱気と、かび臭い匂いが交互にやってきて、気付かぬうちに眉間に深い皺を刻みこむ。
が。
「あれは……」
駆け寄り、カバーを外してみると。
美しい曲線を描くグランドピアノが置かれていた。
カバーを掛けられていたにも拘らず、埃は様々なところに付着しており、高嶺は慌てて窓を開け、ピアノ自体にも空気を入れるように、セットを始めた。
数年前は、此処は立派な音楽室でもあった筈……防音がしっかりしていて、幾らピアノを弾こうとも怒られる事も無い、と誰かが言っていた。
確か、このピアノの持ち主は……蓋に刻まれた名は、高嶺にとっても何より大事な人の名前。
自分をこの世に送り出してくれた、人の名前。
(お母さん……)
昔、休みの日は良くピアノを弾いてくれたものだ。
忙しくても息抜きくらいにはなるから、と微笑みながら、連弾で子犬のワルツを弾いてくれたこともあった。
…なのに、今は。
――哀しくて、ただ溜息だけが出る。
今ある自分を悪いとは思わない。
けれど、ピアノの思い出が余りに優しすぎて――思い返しても遠い日々だと解っているのに。
せめて、少しだけでもピアノを綺麗にしよう。
こんな風に埃を被っていて良い物でもない筈だから。
探検は後日に後回しにして――、せめて、今だけでも。
+
掃除をすべく高嶺はバケツいっぱいに汲んだ水と雑巾を用意し、エプロン、三角巾をつけてピアノを綺麗に拭きだした。
軽く拭くだけでもすぐに雑巾は汚れ、バケツの水も黒くなり何度か往復しなければならなかったが、ぽつりぽつりと懐かしい事を思い出せもして。
思い出すと不愉快な感じがしないのは多分、それらが余りにも今の自分とは違う、懐かしさを伴うからだ。
優しかった時間。
全て知り合う人々は優しく、疑う事なども知らずピアノ教室に通っていた日々。
レッスンの最初は何時も先生が出す、一音。
『この音は?』
『ファ』
『じゃあ……この音たちは』
簡単な旋律を奏で、問い掛ける声。
『ドソラ……?』
『そう。じゃあ、次は歌ってみて頂戴?』
溢れ出す音は何時も、何よりも雄弁で音を当て、旋律にして歌うのが物凄く楽しかった。
何より一番に良かったのが。
「お母さん、お母さん、あのね…先生に今日凄く褒めてもらえたんだよ」
そう言う度に母は優しく微笑んで、高嶺が褒められた曲を聴いてくれたりした事だ。
一緒に居る事は少なくとも、いつも夜には必ず、話を聞いてくれた母。
防音設備のある音楽室を作ったのも、喩え、夜であろうと母が好きなピアノを存分に弾けるよう、父がしたものだとも。
「だから、此処では幾らでも弾いて良いの。さあ、今日は何を教わったのか弾いてみて?」
教わった曲を、もう一度、母の前で弾く事は緊張したけれど、その後に撫でてくれる掌。
上手く行かない時は、曲の解釈を教えてくれたりもした…解る様に何度も言葉を砕いてもくれて。
ピアノには沢山の思い出が詰まっている。
殆どの思い出が優しいものばかり。
どれだけ滑らかに鍵盤の上を自分の指が走ったろう。
覚える曲全て、毎日が楽しくて色々な音の発見だった。
(それなのに忘れようとしたのは――)
誘拐事件をきっかけに、親子の関係がギクシャクしてしまったからに他ならない。
外に出る事に拒否反応を示しそうになった時期と。
母が、より強固に娘を護ろうと、娘を怯えさせた男性に警護を頼んだ事。
全てが空回りをはじめ、歯車は噛み合わず、軋みをあげていくばかりで。
(覚えていると、辛かったから……)
だから、強さを求めた。
鍵盤を叩いていた指を、自分を護る為だけに。
逆の事をするには、それなりのリスクを背負わねばならない。
何もかも完璧に出来るわけではないのだ。
武道をするのであれば、音楽は出来ず、また音楽を志すのなら武道はありえない。
だが――、
『自分の身くらいは、自分で護れる』
――そう、証明したかった、から。
換気をしていた窓から、緩やかに風が吹く。
高嶺は、掃除の終わったピアノに、立ったまま指を置く。
ポーン。
知らず知らずのうちに、押していた一音。
堰を切ったように、右手がドレミ…と一通りの音を鳴らしてゆく。
数年置いておかれたままにも拘らず、音の狂いは殆どない。
「……少しだけ、弾いてみるか」
そのまま、椅子に座り、覚えてる曲は無いだろうかと、懸命に思い出してゆく。
懐かしい曲、良く聴いていた曲でもあり――良く、教わった曲。
何よりも、母が弾いてくれた一番に好きな曲。
ムソルグスキー『展覧会の絵より〜プロムナード』……暗譜はしてあった筈だが、今の今まで忘れてた事に気付くくらいだ。
上手く行くかどうかは解らないが、取り敢えず弾き始める事にする。
母が奏でてくれた音を思い出すように、追いかけるよう、ゆっくりと。
思い出せる言葉。
何度も聞いていたアドバイスが記憶の中を駆け巡ってゆく。
じきに、「良く突っかかりやすい所だから気をつけて」と、教わった部分に差し掛かる頃だ……、と思うと、
「……ッ」
案の定、指が引きつり、そのまま音は消えた。
「当たり前の事だけれど……やっぱり指がよく動かないものだな」
一人、苦笑するように呟く。
当たり前の事だとは知ってはいるのだけれど。
それでも。
(久しぶりに触れて……楽しかった)
自らの中に消えない音があることにも気付けたのだから。
だから、多分、きっと。
――幼い時のように、この部屋に入る事も、もう怖くは無い。
風は緩やかに、ただ室内の中を駆け巡り――何処か近所で咲いているのだろう、柊の匂いを運んで来ていた。
・End
+ライター通信+
こんにちは、いつもお世話になっておりますライターの秋月 奏です。
今回は、こちらのノベルを書かせていただけて、また、久しぶりに
高嶺さんとお会い出来て凄く嬉しかったです、有難うございます(^^)
優しい感じの…と言うご希望でしたが、少しは添えた話になっていると良いのですが(><)
高嶺さんにとって、昔の思い出一つ一つが良い物になるよう、
思い出しても辛くないものであるように祈りつつ、書かせて頂きました。
また、何処かにて高嶺さんと逢えたら幸いです。
それでは♪
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