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<東京怪談ノベル(シングル)>


秋の夜長に。

 …さて。

 くるくるとステアする手許には透明な液体。
 海の色を湛えた視線が、何かの実験でもするように…そのビーカーならぬミキシンググラスの中に注意深く注ぎ込まれていた。
 場所はバーカウンター。
 …とは言え、自分の屋敷の中での事でもあり。
 ひとり、屋敷の主人は透明な液体――お酒相手に奮闘している。
 難しいのか簡単なのかはわからない、ただ、某方が勤める専門的なバー程では無いにしろ折角こんな場所がある訳だし、カクテルのひとつくらいはマスター出来るように頑張ってみようか…と。
 …秋の夜長に、そんな風に思い立ってみた訳で。
 シェークにステアにビルドにブレンド。
 カクテルを作るには方法も様々あるが、屋敷の主人は取り敢えずステアの物を選んでみた。
 シェークはつまりシェーカーを使って混ぜる物。…見たところ、何やら特別な技術が要りそうな方法でもある。
 ビルドは注ぐだけ。…ひょっとすると簡単過ぎるのかもしれない…と思う。
 ブレンドはミキサーで混ぜる物。…あまり腕とは関係が無さそうな気がする。
 そんな訳で、選んだのは…ある程度腕も要りそうな、けれど比較的簡単そうな…ステアで作るカクテル。

 …とか判断した訳ではあるが。
 実はこのステア、下手すると一番難しかったりする訳で。

 結局、屋敷の主人は自分のバーカウンターで色々と悩んでいる。



 出来たカクテルをカクテルグラスに注ぎ込み、オリーブを落として――ぺろりと舐めてはみたが、その時点で少し疑問。
 …ちなみに屋敷の主人が試しに作ってみているカクテルはマテーニ。
 よりにもよって簡単そうに見えて実は色々ややっこしいカクテルを選んでいる。
 カクテルの中の最高傑作や王様とも呼ばれるこのカクテルだが、レシピを見る限りは至極簡単、ドライジンとドライベルモットをステアするだけ。
 …なのだが。
 ドライジンとドライベルモットの比率やら作り方やら何やら様々な要素が、まぁたくさんある訳で。
 そもそもこのマテーニ、一説には268もレシピがあるとか。
 そんなマテーニを選ぶ自体、ある意味無謀な選択である。
 けれど、屋敷の主人は…たくさんレシピがあると言う事は、きっと自分に合う物が作れる筈だとも判断し。
 ふと思い立ってドライジンとドライベルモット…昔は使われていたと言うスイートベルモットの瓶まで取り出し、ひとりで色々試してみたりしている。
 以前、お気に入りのお店で供された味を思い出し、レシピを想像しながら。



 屋敷の主人は感覚は鋭い。
 ので、味からある程度のレシピの想像は付く。
 が、如何せん…作る側となるとさっぱり…と言っても間違いないかもしれない訳で。
 紅茶くらいならばある程度手馴れている…とは言えても、それ以外はまた別で。
 …財閥総帥などと言う立場からして、余程の…例えば、料理を作る事それ自体を趣味としてでもいない限り、まぁ仕方の無い事でもあると思う。
 つまりは、味はわかっても同じ物を作れるかと言うと確りきっぱり別の話である。
 特に今回は、それを思い知らされている訳で。

 …普段飲むカクテルの味からは程遠く何か足りないと言うか…余計な物が多いでしょうか?
 考えつつ、味わってみている。
 既に何杯作ったかわからないくらい。



 そしてまた、小さなカクテルグラスを飲み干して。
 屋敷の主人は静かに小首を傾げている。
 …その瞳に、微かに靄がかっていたのは気のせいだったか。
 考えるように、その瞳がカクテルグラスを見つめている。

 …オリーブの問題だったりしますかね?
 それとも、場所の雰囲気も?



 夜もそろそろ更けて来て。
 屋敷の主人は今度はドライジンとドライベルモットの瓶を何となく眺めている。

 やはり何かが…違うのでしょうかねぇ。
 …今度マスターに詳しいレシピを伺ってみましょうか。
 何処かふわふわしている気がする頭で、屋敷の主人はそう考える。
 取り敢えず、今作ったマテーニのグラスをまた干している。
 別に、不味い、と言う訳ではない。
 先程よりは明らかに好みの味に近付けている気がする。
 ただそれでも…何かが。



 …屋敷の主人はまた、新たな瓶を取り上げ、ミキシンググラスにドライジンを入れている。
 もう何度目になるだろう。
 分量を少し変える。好みの味に僅か近付いては大きく遠退き、ちょうど良い具合がいまいちわからない。ステアの仕方にも問題があるのか。混ぜ具合にもよるのかもしれない。道具にもよるのだろうか。氷の量?
 …それと。
 作る人の思いと言いますか。そんなものもあるのかも。

 さて。

 思ったよりも、とても難しく。
 屋敷の主人は溜息を吐いた。
 …その息は何処か熱を帯びている。



 …そんな感じで何度か試行錯誤を重ね。
 暫し後。

 屋敷の主人が、ゆっくりと、瓶をカウンターに置いた、直後の事。
 指先が瓶から離れて、カウンターテーブルにするりと落ちる。
 肘を突いている逆の手は、気だるげに額に持って来られていて。
 その腕からも力が抜ける。
 …崩れるように、こてん、と倒れ込んだ。
 緩やかな長い銀糸が、テーブルの上に広がって。

 そのまま安らかな根息が聞こえて来た。

 …どうやら、珍しく…酔って寝てしまったよう。
 普段、酔う事などは滅多に無いのに。
 自分の屋敷、そんな思いもあって気が緩んだのかもしれない。



 …ところで。
 お好みのお味のマテーニを、見付ける事は…そして、その手で作る事は叶ったのでしょうか?
 ともあれ、風邪など召さぬよう、どうぞお気を付けて。

【了】