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編集長は踊る
●あなた踊りませんか
「わぁ……」
その光景を目の当たりにして、所用で月刊アトラス編集部を訪れていたシュライン・エマは一瞬唖然となった。
目の前には編集長、碇麗香の姿がある。足元を見れば履いているのは紅いハイヒール――編集部員である三下忠雄が靴屋のくじ引きで引き当てた物だ。ついさっきまでは、そうだと思われていた。
が、靴屋から先程電話があり、三下がハイヒールを忘れていったという。では、麗香が今履いているこれは何なのか。疑問が浮かんだ矢先、その紅いハイヒールを履いた麗香が突然踊り出したのである。驚かない方が不思議だろう。
しかし麗香の表情は決して楽し気ではない。むしろ困惑の色がありありと浮かんでいた。
「ちょ……ちょっと誰か……!」
周囲で呆然と見ている者たちに助けを求める麗香。ここに至って、何やら異変が起こっているとその場に居た全員が把握したのである。
「大丈夫ですかっ、編集長!」
「おいっ、とりあえず編集長を押さえ付けるぞっ!」
わらわらと麗香に群がる編集部員たち。けれども麗香のステップは、押さえ付けようとする者たちを弾き飛ばしつつ続けられる。
(……何だか凄いことに)
シュラインは麗香を押さえ付けようとする者たちの輪に加わらず、まず様子を窺っていた。耳には誰かがつけていたテレビからの声――音楽が聞こえてくる。
「あ」
その時、不意にシュラインは気付いた。流れてくる音楽のテンポと、麗香のステップが同期していることに。こうなると話は早かった。
「テレビ消して!」
即座に指示を出すシュライン。テレビの近くに居た編集部員が慌ててテレビを消した。その途端、麗香のステップもぴたっと止まった。
たまらないのは、麗香を押さえ付けようとしていた編集部員たちである。麗香の動きが突然止まったものだから、勢い余ってそのまま麗香にのしかかるような状態になり――。
「あっ、あーっ、あーーーっ!!」
編集部内に、麗香の悲鳴とどたどたと大勢の者たちが床に転がる音が響いたのである……。
●童話は結構残酷です
「ダメ。脱げないわ」
ソファーに座った麗香は、必死に紅いハイヒールを脱ごうと試みた。だが紅いハイヒールはまるで瞬間接着剤でぴたっとくっつけたがごとく、麗香の足から外れようとしない。
「ねえ、麗香さん。これ……あれじゃない?」
思案顔のシュラインが、紅いハイヒールに手を触れながら言った。
「あれって何?」
「『紅い靴』。ほら、童話であるでしょ」
「……履いたら最後、死ぬまで踊り続けるってあれ?」
眉をひそめ、麗香が聞き返した。こくんと頷くシュライン。しばし沈黙が続いた後、麗香が口を開いた。
「私の記憶が間違ってなかったならなんだけど」
「ええ」
「確かあの童話って……足を切り落としてたわよね」
「ええ。……でも、そんなこと出来ないものね」
「当たり前よ」
麗香がじろりとシュラインを睨んだ。
「切り落とされてたま……」
と麗香が言いかけた瞬間、編集部員の誰かの携帯電話が鳴った。歌声も流れてきたことからすると、今流行りの着うたとかいう奴である。
すると、だ。麗香は途端にソファーから立ち上がり、その着うたに合わせて踊り出したではないか。
「出て! 早く出て、切って!!」
着うたの聞こえる方に向かって叫ぶシュライン。その携帯の持ち主は、すぐさま電話に出た。麗香のステップがぴたっと止まった。
「他に携帯持ってる人、全員マナーモード!」
続けてシュラインが指示を与えると、携帯を持っている者たちは一斉に携帯を取り出し操作を始めたのだった。
(これはなかなか厄介だわ……)
一同の様子を見ながら、シュラインは小さく溜息を吐いた。
●踊りも色々ある訳で
編集部内にラジオからの声が流れてくる。流れているのはゆったりとしたクラシックだ。それに合わせ、麗香がステップを踏んでいる。けれども音楽が音楽ゆえに、麗香のステップもゆったりとしたものである。
「……ひとまずこれでよし、と」
麗香の様子を確認し、シュラインがつぶやいた。下手に音に反応されて編集部から出てゆかれても困るため、ラジオをかけることによってまずはこの場に足止めしておこうと考えたのだ。
その狙いは間違っていなかったようで、今の所は麗香が編集部を出てゆく様子は見られない。ちなみにかかっているのは、NHKのFMだ。民放だとCMでかかる曲がどうなるかまるで予想がつかないが、NHKだとCMを挟まない分だけまだ対処しやすいと思われた。
(三下くんが居れば、もうちょっと具体的に対処も出来ると思うんだけど)
そう、どう考えても麗香がこうなっている原因は三下にあるのだ。三下を捕まえれば色々と分かる面もあるのだろうが、この場に三下は居ない。編集部員が三下の携帯に電話をかけているが、電波の届かない所に居るのか一向に繋がらない。ゆえに、捕まらない。
「買ってきました!」
そこへ、何やら買い物へ出かけていた編集部員が戻ってきた。シュラインの所へ直行する編集部員。
「あの、言われた通りに買ってきましたけど……」
「うん、ありがと。これで合ってるわ」
編集部員が差し出した袋の中身を確認し、シュラインはそう言った。
「……やれることはやってみましょ」
シュラインは袋に手を入れると、中からカラースプレーを取り出した。色は水色だ。
その水色のカラースプレーを手に、つかつかと踊る麗香のそばへ向かうシュライン。
「ちょっと……何する気なのよ?」
カラースプレーに気付き、少し不安そうな表情を麗香が見せた。
「ええと……靴をおとなしめな色に変えてみたらどうかしらとー……」
「それって、足にもかかるじゃない」
「だと思って、一応水性のを買ってきてもらったんですけど」
「……今日履いてるストッキング、結構いい値段したのよ?」
「ごめんなさい、また買ってください……」
シュラインは麗香の肩をぽむと叩いて言った。いやはや、麗香にしてみたらえらい出費である。
「じゃあ」
シュラインは身を屈めると、ゆったりと踊る麗香の足を追いながらカラースプレーのノズルを押した。勢いよく水色のスプレーが噴射され、紅いハイヒールが瞬く間に水色に変わる……はずだった。
ところが、目の前の紅いハイヒールには一雫たりとも水色のスプレーが付着していない。水色になったのは、麗香の足とストッキングばかりなりである。
「…………」
思わずシュラインは目を背けた。
(……やっちゃった……)
ああ、麗香からの視線が痛いこと、痛いこと。少しの間、そちらを向くことが出来なかった。
「それでは続いて、毛色の変わった音楽をお届けいたします。懐かしいと思われる方も居られることでしょう。フォークダンスの定番局、オクラホマミキサーを……」
ラジオからは今まで流れていたクラシックも終わり、アナウンサーの落ち着いた喋り声が聞こえてくる。
(フォークダンス? オクラホマミキサー?)
シュラインの頭に、ふと疑問が浮かんだ。フォークダンスというものは、1人で踊れるものではない。では、オクラホマミキサーが流れてきたらどうなるのか。
その答えは、すぐに出てきた。
「あっ……!」
ラジオからオクラホマミキサーが流れてきた瞬間、麗香がぐいとシュラインの手をつかんだのである。そして、無理矢理シュラインにもパートナーとしてフォークダンスを踊らせようとしたのだ!
「まさか他人も巻き込むなんてね……」
「うう、盲点だったわ……」
手を繋いで踊りながら、口々に言う麗香とシュライン。けれども、被害はこれだけに留まらなかった。フォークダンスといえば、次々にパートナーが変わってゆくもの。それはつまり――この場に居る全員を巻き込むことを意味していたのだ。
気付けば編集部内の全員が、オクラホマミキサーを踊っていた……。
●疲労困憊の先に
決定打となる方法が見付からぬまま、もうすぐ麗香が踊るようになってから2時間が経とうとしていた。
「ほんと、どうしましょ……」
ぼそっとつぶやくシュラインに、疲労の色が見えていた。何せ先程のフォークダンスのように、パートナーが必要な曲が流れてくると巻き込まれてしまうのだ。シュライン自身も、何曲か踊らされるはめに陥っていたのである。
(ピンクレディーとかWinkとか……どういう選曲基準なのよ)
……まあ、どういう絵が展開されたかは想像してほしい。
「このまま死ぬまで踊り続けるのかしら……私」
疲れた声で言う麗香。数曲踊るはめになったシュラインでさえ疲労の色が見えているのだから、常に踊っている麗香の疲労度は推して知るべしである。
「えーと……何とかしますから」
「何とかなる……のぉっ!」
麗香がつるんと足を滑らせた。それと同時に、ずるんと紅いハイヒールが麗香の足から脱げた。麗香はといえば、そのまま後方へ倒れてしまった。
「麗香さんっ!?」
慌てて駆け寄るシュライン。編集部員たちもわらわらと集まってくる。麗香の足を見ると、両方とも紅いハイヒールが脱げ落ちていた。
「……外れたみたい、ね?」
シュラインはまじまじと紅いハイヒールを見た。何がどうなったかよく分からないが、とにかく危機は脱した模様である。
●顛末
さて、蛇足になるがこの事件の顛末を語っておこう。
麗香が履いた紅いハイヒール。実はこれ、三下が別件で追っていた怪奇事件の品物で、うっかり間違えて麗香に贈ってしまったのである。
三下が引き当てた紅いハイヒールは、無事に麗香の手元にやってきた。麗香の足にぴったりな、ごく普通の紅いハイヒールである。踊り出すようなことなど決してない。
で、問題の紅いハイヒールだが――三下が無理矢理履かせられてしまい、レポートを書くために実地調査を行うはめになったのだった。ちなみにレポートの内容は、それはさぞかしいい物に仕上がったそうだ。
かくしてこの事件は幕を閉じたのである。
【了】
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