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<東京怪談・PCゲームノベル>




 縄が、と、黒いハイネックを着込んだ女性が、その首に手を這わせ乍ら言った。
「…とあるお宮にお参りに行ったとき…何か、背中に張り付いたような気はしたんですけれど」
 伏せられた眼差しは怯えていた。
 仄暗い店だ。怪し気な骨董が処狭しと並んでいるわたくし屋の中で、どこからか能力者の斡旋をやっているところがある──そう尋ねて来たらしい女性の話を聞いている男は、ここの店の店主でもある狐洞キトラである。
 彼女の背をじっと見つめるものの、彼女の言うような怪し気な気配はない。
 だが──。
「夜を追うごとに、どんどん息苦しくなっているのが解るんです……赤ちゃんの泣き声も…どんどん大きくなっていて…」
 彼女が泣きそうになり乍ら晒した──頸を締め上げる縄の痕。そこからはじんじんと痺れのような気配が流れ出ていた。
 依れば、その神社は──水子の供養をする為の場所であるらしい。彼女もまた、その為にその宮を訪れたのだと云う。愛しい人との間に出来た子だったが、厳しい両親には結婚を反対され、さらに子供まで。
「…堕胎、ですか」
 容赦のない、しかし真実のための重要なヒントを探る為のキトラの言葉に、女性は静かに頷いた。
 お願いします、助けて下さい──。
 そう言う彼女に対してキトラは帽子越しに頭を掻くと、不意に店の扉へと視線を遣った。
 そして溜息が続く。
「その話、請け負いましょ。──で、丁度良かった、手伝ってほしい事があるんですけど、どうです?」
 扉を潜った瞬間に投げられる、有無を言わせない口調。
 こちらはただただ、目を瞬かせるしかなかったのだが。


 斎藤和臣は固まっていた。
「……いや、俺は茶ぁ飲みにきただけなんだけど…?」
 問いにも似た形でキトラにそう呼び掛けると、男はにこりと微笑みすら浮かべて和臣に向き直る。
「暇でしたからでしょう。丁度こちらは入り用なんですよ。報酬はある程度用意しますけど──」
「ああ、いや…別にいいんだ。黄涙くん触らせてもらった礼もあるし、キトラの言う通り暇だったし。俺でよけりゃ手伝うぜ?」
「おや。そりゃよかった」
 無理かなあと思ったんですが、と言いつつも表情を見せない辺り、当然こうなると予想していたのだろう。無理だとは微塵も思っていなかった筈である。
「さて、一人目確保ですね。それじゃあ、──えーと、……」
 女性に向き直ったキトラが暫く考えた後にぱちりと指を鳴らす。
「鳥居小路──綾乃さん、ですね」
「は…、はい。……あの、私、名前を言いましたかしら──?」
 綾乃と呼ばれた女は口元に手を当てて不安気な顔をする。異能者と云うものに馴れているわけではないのだろう。キトラのそれは名前を把握する際に使う何らかの能力であるらしかった。和臣自身も使われた事があった筈だが、目の前の動作を忘れたか、目を瞬かせるだけだ。
「こちら、斎藤和臣サンです。貴女の事を守ってくれますから、ご安心を」
 帽子の端を引き上げて口元に緩い笑みを浮かべるキトラに、綾乃は曖昧に視線を泳がせる。よろしくおねがいしますと細い声と共に頭を下げられ、慌てて和臣もそれに倣った。
「うーん…そうしますと、どうしますかねぇ……和臣サン一人じゃ荷が重そうだ」
「そんなに大変なのか? ええと…綾乃さんの…何だ? そういや、一体何が?」
「呪詛、ですね。何者かの怨念で、彼女サン今軽く死にそうなんですよ」
「じゅ…じゅそ? 呪いって事か?」
 顎を撫でながら言うキトラに、半信半疑に問いかける。自身とて普通とは云えない能力を携えているに拘らず、和臣はどうしても、呪いや不可思議なものに対して疑いの姿勢を崩す事をしていない。
「うーん…まあいいか。手伝うって言ったしな。俺に何か出来る事あったら言ってくれよ。キトラも、えーと、綾乃さんもさ」
 微笑んで握手を求めた和臣の顔を見、暫くの間綾乃は逡巡としていたが、やがて困ったような笑みを浮かべ、その手を取った。


 ──何や、けったいな電話やったなぁ…。
 首に触れる、カメラのストラップの感触に手を滑らせながら、及川瑞帆は考えていた。二時間程前に唐突に鳴った携帯電話からの、見知らぬ男の声についてである。
 とある女性が呪いに苦しんでいる。貴方の能力が必要になるかも知れない──ある神社へ向かって、写真を数枚撮って頂きたい。報酬は少ないが用意してある、頼みますよ、及川瑞帆サン──。
 粗方の処、そんな内容を一方的に話され、その電話はプツリと切れた。
「報酬の受け渡し所の名前…なんやったかなあ」
 わたくし屋──と、言っていたような気もする。どちらにせよ覚えのない名前だった。屋、と云うからには何かの店なのだろうかとも思う。
 そもそも自分自身、よくよく考えてみればその電話に従う理由はなかったのだが。
 瑞帆が見上げる石段は延々と続くかのように上へ伸びている。
「こんなキツい石段上るなんて…聞いてへんっちゅーの…」
 荒く息を吐いた彼は、半笑いのまま、申し訳程度に付いている手摺に僅かな体重を預ける。──と。
「すみません、そこの──」
「あ?」
 僅かに下の段からの呼び掛けに、瑞帆は目線を投げる。今まで上るのにそんなに集中していたのかと思う程の距離に、男が一人。
 長い黒髪を一束ねにしているその男は、青い視線で微かに困ったように瑞帆を見上げていた。
「もしや、及川…瑞帆さんでは?」
「はあ、何や…あんたも俺の事知っとるんか」
「いえ、その、……貴方も電話で呼び出された方ではありませんか? コドウキトラという──」
「電話で、っちゅうのは当たっとる。……コドウキトラ?」
 聞かん名や、と返す瑞帆に男は首を傾げた。
「少しばかりこう、人を小馬鹿にしたような声の」
「あー、なら同じかもしれん。呪いがどーたらこーたら言うてて、つい、な」
「私もです。何だか放っておけそうにない内容でしたので……」
 不意に男が思い出したように目線を一瞬だけ上へと投げ、それから瑞帆に向けて微笑みかけた。
「申し遅れましたが、私、シオンと申します。シオン・レ・ハイ。──お見知りおきを」
「ああ、俺は──もう知っとるみたいやけど、及川瑞帆っちゅう。よろしゅうな」
 目的が同じならば、この人の良さそうな男──シオンと行動を共にしても、さして問題は無さそうだ。元々人見知りしない瑞帆であるから、すらすらと並べられる会話の内に、二人は再び石段を上り始める。
「しかし、呪い──首に縄の巻き付いた、とコドウさんは仰ってましたが……私にはどうも、粗方の内容を聞くだけでは、臍帯が浮かんでしまうのですよね」
「臍帯…ああ、へその緒やろ? 俺もそれ考えたんよね。この神社、水子祀る場所らしいしなあ」
「そうなんですよね。──哀しい事ですけれど、親の都合で堕胎され、既に祀られていた子供達が──その女性に取り憑いて、恨みを晴らそうとしているのでは、と。……女性へ掛けられている呪いが完成しないのは……想われつつも堕ろされた子が、その方を守っているような。……そんな気がしてならないのです」
「凄いなあ。俺の考えと殆ど一緒やん」
 瑞帆がシオンの言葉に何度も相槌を打った。流石に喋り続けで息が切れたか、少しばかりの沈黙が続く。
 石段にシオンの硬質の靴が当たる度にかつかつと音が響いていた。


「あ。あそこが、家です」
「うッわ…綾乃さん、もしかして凄ぇ金持ち? ──っと、そこで止めて下さーい」
 タクシーで移動をしていた綾乃と和臣は、並んで座っている。綾乃の細い指先が窓外に見える大きな屋敷を示した。慌てて和臣が運転手に声を掛けると、都会らしい無愛想な返事が返った。
 タイヤが微かに擦れる音がし、車体がぐらりと揺れる。キトラから移動代にと渡された料金を運転手に手渡し、和臣は屋敷を見遣った。
「──ん? 誰か居るみたいだけど…知り合い?」
「いえ、見覚えの…ない方、ですけれど」
 門の前にうろうろとした人影がふたつ。
 口元に手を遣って考える綾乃を尻目に、行動力で生きているような和臣がずんずんと突き進んだ。
 鳥居小路──その姓が記された仰々しい札が下げられている門を見上げていた人間二人が、不意に和臣を振り返る。
「何や? あー…、あんたがもしかして斎藤和臣? キトラに云われて此処に来たんやない?」
「え、あんた達もキトラの知り合いなのか」
 独特のイントネーションで問いかける女性に応答すると、女性の横のサングラスを掛けた青年が振り向く。サングラス越しの視線が和臣と綾乃に向けられ、微かに下げられた。よくよく視ていないと解らないが──会釈、なのだろう。
「うちは和州狐呼。こっちの無愛想サングラスが幾島壮司や」
「…どうも」
 まあ名前しか知らんのやけどね、と、軽い調子で笑った狐呼は漸く綾乃を見遣った。
「はぁん…あんたが呪い掛けられてる張本人やね。安心しとき、うちらがどうにかしたるさかい」
「ええと……あの、」
「──俺達の事はあまり気にせずに居て下さい。俺達は知り合いから依頼を受けて、貴方の呪いを解きにきた人間の一人ってだけですから」
 すっかり困って言葉を見失ってしまった綾乃に、壮司が無愛想に声をかけた。綾乃は相変わらず胸に手を遣ったまま彼を見ていたが、やがて眉尻を下げたまま微笑んだ。
「…ありがとうございます」
「気にせんとき気にせんとき。あと二人くらい来るみたいやしねえ。キトラは何て言うとったっけ?」
「──及川瑞帆と、後は俺も知ってる…シオンって奴が来るみたいだな」
「知らんなー」
 首を傾げる狐呼に目を向けていた壮司が、ふいと視線を外し、門を見上げる。
「入りませんか。──此処は冷えます」
 ぼそりと告げられた言葉に、綾乃は手持ちのポーチから鍵を取り出した。鉄の鈍い冷たさが門の穴へと埋め込まれては、かちりと小さな音を起てる。軋むような昔からの音を態とらしく空気に染み渡らせた門は、気のせいではあるのだが、何処か満足気にも見えた。
 これは、何に続く扉だろうか。
 壮司は奥の屋敷を見据える。


 結局、五人の異能者達が集ったのはそれから一時間程経った頃だった。
「見ぃや。俺等はキトラとかいうのに頼まれて、お宮で調査やった。そこで写してみたらコレや」
 眉を寄せながら瑞帆が言った。
 四人が囲む卓上に乗せられている数枚の写真には、禍々しい呪いの本体が映り込んでいる。和臣は白地に表情を歪めて、本当なのかと写真の一枚に手を伸ばした。天井高くに取り付けられているシャンデリアに写真を翳す。
 四人、と云うのは、隣室へと休む為に引っ込んだ綾乃を気遣い付き添ったシオンを抜いての数である。綾乃からの情報も多少なり聞き出せるのではないか──そういった理由もあるのだが。
「しっかし…えげつない写真やね。縄ってコレの事かいな」
 肩を竦めた狐呼が、和臣が眺めている写真を隣から覗き込んだ。
 一見してみれば、ただの神社のそれである。が、地面に蔓延っている──縄。そしてそれは社の注連縄の上にすらまとわりついている。微かな白さを、所々褐色に汚しているそれは──。
「臍の緒やんねぇ。あー、ヤダヤダ。何や面倒な事になってきたわぁ」
 溜息。狐呼のその様子を見遣っていた壮司は、気にかかるのだろう、綾乃とシオンが消えていったドアの方向に目線をやる。
「しかし、……何故、彼女になんだ? 堕胎された水子が恨んでいるのは、何も彼女だけではないんじゃないのか」
「もしかすっと…だから、じゃねぇの?」
 呟きにも似た声に、和臣が遠慮がちに応えた。
 壮司が眉を寄せる。
「……『だから』?」
「なんつうのかなー…綾乃さんだけを恨んでるわけじゃねえってのは勿論だから、要するに、誰でも良かったんじゃね? タイミングみたいな…」
「まあ、可哀想やけどそんなもんやろなぁ。他にも何枚か写してみたんやけど──どこ行ってもこの状況。人気もゼロ、神主さえおらん。この状況じゃ、取り憑く人間選べっちゅー方が酷やったわ」
 その応答を聞いていた狐呼がつまらなそうに唇を尖らせる。
「呪いが来るのは夜なんやろ? せなら、女を囮にするのがええんとちゃう?」
「囮、って……彼女は一般人ですよ」
「結界作ればええんやない? まあ、能力者やないなら多少影響は受けるかもしれんけど、うちらが団子になって呪いのオオモト探しとっても、簡単に捕まるもんでもないしなあ」
 こっちに来るの待っとればええねんて──。軽い口調で続ける狐呼に、壮司は眉の皺を濃くしたまま黙した。出来るのならば、彼女は一切現場に立ち会わせるべきではない。自らの頸に絡み付いているのが臍帯であると知れば、一体どう思うのか──想像に易いのだから。先程の僅かな応答でも、彼女の気弱な優しさは見て取れた。
 あれは自分も、そして他人も、何かが傷つくのを最も畏れているタイプだ。
 それ故、今回の堕胎とて──。
「……俺の能力で出来るのは原因の調査だけだ。…少し様子を見てくる」
 壮司は、踵を返すと共に、黒のサングラスを少しだけずらした。


「それでは、貴方の恋人さんは……」
「はい。──これに負けず、と言ってくれました」
 優しい人なんです──と、心底からの微笑みを浮かべて綾乃が言う。それに相槌を打ったシオンにもまた、穏やかな笑みが浮かんでいる。
 よかった、と思う。
 尤も不安に思っていた、綾乃の恋人による呪詛、という可能性はほぼ消えたと言っていいだろう。直前まで堕胎を否定し、駆け落ちまで提案したらしいその男に、綾乃はあと一歩の勇気を絞り切れなかったと寂し気に言った。もし、それを私がしていたら、ひとつの命も守りきる事が出来ただろうに──と。
 しかし彼女にも、影ばかりが付きまとっているわけではなさそうだった。綾乃の恋人は、この一件を真摯に受け止め、駆け落ち等と逃げるような行為には走らず、もう一度この屋敷へと足を運ぶと約束したらしい。
「大丈夫。──全て、上手くいきますよ」
 シオンの青い瞳が細められ、綾乃もまた頷いた。指先が頸に触れる。シオンはその様子を微かに憂いを込めて見つめていた。
「……私は……直接的に、呪いに対してどうこうできるような能力は持っていません。ですが…綾乃さん。──心を、強く持って下さい。呪いと云うものは、人の弱い部分に滑り込むようなものだと、人伝に聞きました。……それ故、強き心には、決して敵わないものなのだと」
 蚊の鳴くような声ではいと応えた綾乃は、微笑んで瞳を伏せる。
 と、不意に扉が開くと共に──
「せやせや。この先に幸せ待っとるなら尚更や。あんた十分に我慢しとる、その見返りはでっかく来る筈や。な!」
 瑞帆が壮司の肩を抱き込みつつにかりと笑みを浮かべる。壮司の片方の金色の瞳がちらと嫌そうな色を浮かべた。
 黙したまま綾乃を見遣る壮司とは真逆に、瑞帆はとっとと彼の肩から腕を外すと、すいと綾乃へと歩み寄った。膝の上に大人しく重ねられていた手を握ると、瑞帆は顔面全てを使って笑う。
「安心せーな。呪いからは、俺等がバッチリ守ったるから。──ま、そっから先はあんたの彼氏の役目ってのが、ちと残念やけどね」
 綾乃の頬に一瞬赤みが差すのを見ると、瑞帆は再び笑ってその手を外した。軽快に廻る口から滑り出す言葉は、決して重みを感じさせず、しかし、優しさを含む。
 壮司はと云えば、その様子を呆れたように眺めつつも、女性の頸へと──左目を向けた。
 ──なるほど。確かに、ありゃ臍の緒なんだな。
 ──更に、こりゃあ…。
「…あんたは、」
「はい?」
「そいつの言う通り、安心した方がいい。……あんたを呪いから守るのは、何も俺達だけじゃない。──あんたが想った子が、もう既に、あんたを守ってるんだからな」
 壮司が再びサングラスを掛けながら言う。
 彼の瞳に見えた物は──頸に巻き付く白い紐とは別に、彼女の身体の中に確かに宿っている、温かな光だった。
 一瞬こそ言われた意味を理解出来ずに眉を寄せた綾乃であったが、気付けば、見る間に瞳の縁に涙が浮かんだ。口元を手で覆った彼女は微かに震えると、ゆるやかにひとつ、片方の手のひらで自らの腹を撫でた。


 狐呼はぼんやりと天井のシャンデリアを霊視している。
 時折、あー、だとかうー、だとか気のない呻きが漏れているのを、少しばかりの後ろから和臣が眺めていた。彼女の瞳には、天井を這い回る白い紐が見えているらしい。
 後ろの床に描かれた簡単な結界の中に、綾乃が律儀にも正座で構えている。
「──来んなぁ。でもまあ、能力ないヒトは下がっとってなー」
「俺も参加しよか?」
 ご自由に、と返す狐呼につれへんなあと瑞帆が笑う。
 確かに、その必要は無さそうだった。
 五人の異能者に、呪いの大元である筈の──赤子の霊魂達は戸惑っていた。能力を持たない綾乃なら、このまま呪詛を濃くしていけば、それこそ赤子の頸を捻る程度で、殺せたのは間違いなかったのだろうから。
 先程から、天井を埋め尽くす臍帯の数は増えていった。
 僅かに開けてある扉の隙間から。
 壁に掛けられている絵の裏側から。
 異能者達がふと歩き、微かに撓むフローリングの隙間から。
 ありとあらゆるところから、臍帯は滑り込むように、じわじわと天井を埋め尽くしていったのだった。
 なるほどと瑞帆は思う。
 己の勘が、この依頼を受けろと言ったのにも僅かな感謝をした。
「…気色悪い景色やわ」
 本音ではあるが、恐らくは──。否、間違いなく。今日に間に合わなかったとすれば、綾乃は命を落としていた事だろう。
 呪詛というものは、最初の一撃で相手を殺す事はほぼ不可能である。
 解りやすく云えば、丑の刻参りも、その代表と言えるだろう。
 先ずは片手。次はもう片手。足。次もまた一本の足、そうして腹、つまりは心臓を釘で打ち抜く──。
 尤も、その呪法は現代に伝わるまでに随分とねじ曲げられているものではある。文献上で初めて丑の刻参りが現登場するのは、屋台本平家物語の劔巻に登場する『宇治の橋姫』である上、その内容には釘というものが一切存在しない。
 兎角。
 確かに──一撃で殺す方法も、無いとも言えまい。
 だが、それには強大なリスクを伴う。つまりは、そのリスクを背負い込めるだけの器が無ければ、一撃の殺意は為されないと云う事である。──単純に言えば、の話ではあるが。
 それ故にである。
 今回の呪いの発信源は赤子の霊である。それも生まれる前に断たれた命であるから──じわじわと対象を殺していくしかなかったのにも頷けるだろう。必死に幾人もの霊が凝り固まったのだとしても──綾乃にとっては──良かった事に、その呪詛の念は彼女に届く事が無かったのである。
 尚かつ、彼女により呪詛が効きにくくなっていた理由は火を見るより明らかである。
 彼女が堕とした子供は、それでも、母体から受けた愛情を返そうとしたのだ。ともすれば恨みこそ抱いてもおかしくはない、その状況で。
 今、屋敷の天井を埋め尽くす白き紐から、ただただ愛しい母親を守っていたのである。
「……埒が空かんなぁ」
 特別な変化が何も無い事に、常の癖と化した面倒臭いと思う心境が増したらしい。狐呼が間延びした欠伸と共に天井を睨む。横に居た瑞帆に対してちらと目線だけをやると、ついと細い指先で天井を示す。
「燃やしてしまうのが早いやろか」
「んー…それやと、この呪い掛けてる方の霊が成仏出来ひんのやない?」
「……あんた面倒な事まで考えるんやねぇ」
 信じられないとでも言うように、漸く首とともに視線を寄越す。
 狐呼のその表情に苦笑を返しつつ、瑞帆はうむと唸った。
 と。
「──悪ぃ、忘れてた。…電話で言われてたんだった」
 壮司の声とともに、瑞帆へと何か筒のような物が投げられる。放られたそれを片手で受け取った瑞帆は、上から下からと、その物体をぐるぐると眺めた。『封』と書かれた札が貼ってある。それ以外はただの──恐らくは、竹筒である。それも大人の親指程度の太さだった。
「何やの?」
「狐洞さんからの頼まれ事だな。それの中に一本、さい、──いや、紐を入れていけばいいらしい。──本人曰く、ご祈祷お祓いはお任せあれ、らしいぞ」
 棒読みで告げた壮司を、結界の中から綾乃が見上げた。
 彼女とて、既に自分の頸に絡み付いているのは臍帯と気付いただろうに、敢えてそれを口にしない彼の優しさが嬉しかった。
「へぇ。あの男、祓い師なん?」
「いや、俺は知りませんが。そう言ってるんですから、任せてみればいいんじゃないですか」
 狐呼の問いに変わらずぶっきらぼうに応えた壮司はそのまま黙した。
 ふうんと言って、再び天井に視線が戻る。
「せなら、ちゃっちゃと片付けよか」
 印を結ぶ、揃えられた日本の指先に呼応するかのように、空気が静かに変わったのは、その直後の事であった。


 白む空を遠くに眺めながら、シオンは綾乃の髪を緩く梳いた。結界の中で倒れ込むように気を失った彼女の腹の中に、既にもう、気配はなかった。
 数人の異能者達は、うつらうつらと目を閉じかけている者もいる。
 天井の紐は、この世の炎ではない熱に焼かれて全て消えた。恨みと、哀しみの哮りを最期に響かせながら。
 どれだけ哀しかったのだろうか。
 シオンは考える。
 情だけを交わした末に宿した命が、その当人達によって無惨にも切り捨てられる。そんな無情に切り刻まれ、哀しくない訳が無いのだ。生まれるのなら、否、生まれずとも。──愛されたいに決まっている。
 だからもしかしたら、と思うのである。
 綾乃に取り憑いた彼等は、彼女と、その腹の中にいる子を酷く羨んだのではないかと。
 彼女を恨まず、護ろうとまでする子をも、自ら達の仲間にしてくれようとも、思ったのではないかと。
 窓外からは微かな鳥の鳴き声がする。
「…何を考えてるんですか」
「──燃え尽きた彼等とて、哀しかったのだろうな、と」
 不意の壮司の問いかけにも、シオンは訥々と応えた。
 舟を漕いでいる瑞帆の直ぐ側で規則的な寝息を起てる綾乃を見遣って、それから少し視線をずらして壮司は溜息を吐いた。狐呼がソファに寝そべって眠っている。
 ソファの下では、和臣が半目で眠気に耐えている様子だ。
 冷え始めた朝の空気は、透明なまま、異能者達の肌を滑っていった。


 後日。
 夫々の言伝の中間地点となった某骨董屋の店主経由で彼等の元に手紙が届く。
 細い文字で綴られるその内容には、感謝の言葉がつらつらと並べられていた。
 そうして最後に、
 ──結婚します。
 と、書かれていた。
 差出人の名前は上書きされていて明記されてはいなかったが、五人の異能者に内容が伝わるには何ら問題は無かった。
 ある者は、綾乃の写真を一枚だけでも撮っておけば良かったかと呻いていたし、
 ある者は、サングラス越しにひとつ微笑みを作るだけに止めておいたし、
 ある者は、ただ欠伸をして普段の生活に戻っていったし、
 ある者は、相変わらず暇を持て余しては骨董屋に出かけて茶を喉に通したし、
 またある者は、受け取った報酬で、兎の餌を買いに行った。
 日常のうちたった一コマ、それでも結果的に一人の──ともすれば二人の──人間の魂を救うに至った彼等の感慨はそれぞれであり、決して特別なものではない。
 彼等と、依頼の、言わば中心にいた女性との縁の紐はやがて途切れるだろう。
 成る程、それが都会の日常である。


 了


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【登場人物】
 - PC // 3068 // 及川・瑞帆 // 男性 // 25歳 // カメラマン兼料理人 //...
 - PC // 3356 // シオン・レ・ハイ // 男性 // 42歳 // びんぼーにん(食住)+α //...
 - PC // 3909 // 斎藤・和臣 // 男性 // 18歳 // 高校生・掃除人 //...
 - PC // 3950 // 幾島・壮司 // 男性 // 21歳 // 浪人生兼観定屋 //...
 - PC // 4128 // 和州・狐呼 // 女性 // 24歳 // 古本屋兼何でも屋 //...
 - NPC // 狐洞・キトラ // 骨董屋店主 //...